四級猫       .      .

猫の目観察レポート、地球にて。(社会的地位、犬より下 ゴキブリよりは上)

1202(水)でんでんむしバス盛岡駅発時刻表

2011年02月02日 | 資料


どこまで乗っても大人100円。盛岡駅を出て市内を20~30分?くらいかけて一周して駅に戻ってくる。市内一周するバスは他に、盛南ループ200(200円)というのもある。これは一周40分かかる。県立美術館に行けるが、たいがい駅から歩くので(15分)乗ったことない。



左周りに乗るほうが、市内に行くには便利。
岩手県交通・盛岡地区バス時刻表


1128(金)通常のダウンジャケットは水洗いできる

2011年01月28日 | 資料
http://blog.livedoor.jp/minamimitsu00/archives/1276811.html

・・・「ほとんどのダウンジャケットは洗える」

・・・ほとんどすべてのダウンジャケットはネットに入れて、洗濯機で水洗いできる。
・・・洗濯機で水洗いしたがいずれも大丈夫だった。

1、ダウンジャケットを洗濯ネットに入れる。
2、ダウンは水に浮くので、周りをバスタオルでぐるぐるに縛る。
3、洗濯機に放り込んで「手洗い」か「丁寧」かのモードを選ぶ。
4、常温の水を注水してそのままスタート。
5、脱水までしたら、部屋中か陰干し。
6、パンパンと叩いて形を整える。

ダウンジャケットの主な素材はナイロンである。このため水には強い
(レザーやフェイクレザー、ウールの場合は洗濯は避けた方が良い)

中の羽毛は脂分があり、水をはじく。このため水に濡れた程度では痛まない。

洗剤には脂分を溶かす成分が入っているから、洗剤は絶対に避けなければいけない。
お湯で洗濯することもいけない。お湯に羽毛の脂分が溶けてしまう。


9809雑誌「軍事研究」古い記事

2009年08月09日 | 資料


   日本が核武装するとしたらどういう形がいいかと
   5つの案をイロイロ思案したあげく・・・
   大陸の目標に対する核攻撃は・・・最悪の惨害を
   もたらし、その累が世界に及んで・・・要するに
   日本自前及び米国提供の別なく、核の傘は有害無
   益な存在である」と断ずるのだ。

   即時死傷者は控え目に見積もっても一〇〇〇万人
   を下らない」などの被害想定の叙述が続く。


9801雨にも負けず・・・のモデル

2009年08月01日 | 資料
斉藤宗次郎=宮沢賢治の『雨にも負けず風にも負けず』のモデル。

斉藤宗次郎は、岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市笹間)に禅宗の寺の三男として生まれ・・・
小学校の教師になり、花巻ではじめてのクリスチャンになり・・・

洗礼を受けた時から迫害を受けるようになり、石を投げられ、勘当され、教師を辞めさせられ・・・

迫害は、家族にまで及び・・・
近所で火事が起きたとき、嫌がらせで、放水され家を壊され・・・
何度もガラスを割られ・・・
9歳の愛子ちゃんが「ヤソの子供」と言われて蹴られ、亡くなった・・・

宗次郎は、土地の人々に神様の愛を持って仕えることを選び・・・
牛乳配達と新聞配達のため一日40キロの配達の道のりを走りながら迫害する人々にキリストを伝え・・・
10メートル走っては神に祈り、10メートル歩いては神に感謝をささげた・・・

子供に会うとアメ玉をやり、仕事の合間には病気の人のお見舞いをし、励まし、祈り・・・
雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人達のために祈り、働き続け・・・
「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通した・・・

彼は内村鑑三に招かれて、東京に引っ越すことになり・・・
花巻を離れる日、駅には、町長、町の有力者、教師、生徒、神主、僧侶、物乞いにいたるまで集まり、駅長は、停車時間を延長し・・・群衆の中に宮沢賢治もいた・・・

東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負いという宮沢賢治の詩にあることを普通にやっていた人でした・・・
(出典不明)
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「雨ニモマケズ」のモデル再評価の動き 岩波から自叙伝 2004年10月15日

「二荊自叙伝」の基になった宗次郎の日記。

 詩人で童話作家、宮沢賢治の代表作「雨ニモマケズ」のモデルではないかと言われるキリスト教伝道者、斎藤宗次郎(1877~1968)の自叙伝が岩波書店から出版される。宗次郎は新聞配達業に励みつつ、出会った人々の悩みに耳を傾け、地域の人たちから慕われた。日記には賢治との交流が克明に記録されている。

 宗次郎は岩手県花巻市に生まれ、地元の小学校教諭となった。無教会主義キリスト教者の内村鑑三に影響され、23歳でキリスト教に入信。が、小学校で聖書や鑑三の日露非戦論を教え、退職に追い込まれる。約20年間の新聞配達業の後、1926年に上京。鑑三の弟子として伝道を手伝い、その最期をみとった。

 自叙伝は「二荊(にけい)自叙伝」と題され、B4判原稿用紙約1万枚に及ぶ。装本されており、全40巻。「二荊」とは、荊(いばら)の冠をつけて十字架にかけられたキリストに続き、自分も苦難を引き受けるという意味だ。21歳から死の直前まで書いた膨大な日記を基にまとめた。

 今回、山折哲雄・国際日本文化研究センター所長と栗原敦・実践女子大教授が、自叙伝の1921年から26年までの記述を編集した。

 宗次郎は新聞配達を「天職」と感じていた。東京朝日や万(よろず)朝報など十数種類の新聞を配達し、「人々の心も察せられる。此世の状態を知り得らるる」と書く。朝3時に起き、雨の日も風の日も、6、7貫(1貫は3.75キロ)もある大風呂敷を背負い、駆け足で配達に回る。

 配達や集金の際には、病人を見舞い、道ばたで遊ぶ子供たちに菓子を分けた。相談にも誠実に応えた。当初はキリスト教信者だからと、石を投げられるなど迫害を受けたが、次第に人々の信頼を集めた。「花巻のトルストイ」と呼ぶ人もいた。配達業をやめて上京する時は、駅に名士や住民200人以上が見送りに駆けつけたという・・・

 今回出版される21年から26年までは、花巻農学校教諭だった賢治と親交を深めたころだ。

 山折所長は「宗次郎こそ『雨ニモマケズ』のモデルでは。日記は、鑑三や賢治研究の重要な資料で、時代を知る貴重な証言。再評価すべきだ」と話す。