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日・韓レーダー照射事件、打ち方止めーエ!

2019-02-24 | Weblog
 平成の本音―日・韓レーダー照射事件、打ち方止めーエ!
 韓国海軍の駆逐艦が日本の海上自衛隊哨戒機にレーダー照射した問題を巡り、韓国国防省と日本の防衛省との間で言い合いがエスカレートし、批判、非難の応酬となっている。
 この問題は、2018年12月20日、能登半島沖の日本の排他的経済水域内で発生したものであり、韓国海軍の駆逐艦が同海域の北朝鮮のものと言われている漁船の周辺を航行していたところを、日本の海上自衛隊哨戒機が哨戒した際、韓国海軍駆逐艦が日本の哨戒機に向けて火器照準用のレーダーを照射したものである。
 日本の排他的経済水域において韓国艦船と正体不明の漁船が航行していれば、日本の哨戒機がその周辺を飛行し、状況を確認するのは普通の行為であり、韓国艦船のレーダー照射行為は容認できないことは明らかだ。国際法上韓国艦船は日本の排他的経済水域を「無害航行」することは認められているが、日本の哨戒機へのレーダー照射は攻撃、敵対行為の準備段階であり、容認されない。
 このような行為は、不測の事態に発展する恐れがあるばかりか、批判、非難の応酬は日・韓いずれをも利するものではなく、双方ともに直ちに「打ち方止めーエ!」と言いたい。
基本的には隣国の友好国同士であると思われた日・韓で、どうしてあたかも敵対国同士のようなレーダー照射が行われ、非難合戦に発展したのだろうか。
 1、韓国国防省の面子をつぶした日本防衛省による動画公開
 この事件は、2018年12月20日に発生し、翌12月21日、岩屋防衛大臣が記者会見で事件内容を明らかにすると共に、「極めて危険な行為だ」と述べた。この日本側公表に対し、韓国国防省は‘火器管制レーダーの照射ではない’などとして否定したため、同月22日、日本防衛省は慎重かつ詳細な分析を行った結果として‘を火器管制レーダーによる照射’とし、韓国側に再発防止を強く求めて行く旨発表した。
韓国国防省は、この日本側説明を否定し、謝罪を求めるなどし、相互のメデイアを通じての言い合いがヒートアップした。この事態に対し、河野太郎外務大臣12月23日、批判を抑制し韓国側の対応を促すと共に、12月24日に外務省アジア大洋州局長をソウルに派遣し、韓国外交部に遺憾とともに、再発防止を強く求めるなど、事態の収拾に努めた。
 しかし韓国側は、日本側主張を否定し、日本側に謝罪を求めるなど、事態が収拾する見通しは見られなかった。この段階で日本防衛省は、12月28日、哨戒機P-1が撮影した事件当時の映像を公表した。
 この映像公開は、韓国側の主張を覆し、面目を潰した形となり、日本側への批判を強め、韓国側による編集映像の公開など、2019年新年から事態はメデイア・バトル化した。
 韓国国防省の一連の言動はいわば敵国への対応を思わせるが、日本防衛省による映像公開については、官邸の指示としても、面子を重んじる韓国側を刺激し、いたずらに批判、非難の応酬を長期化させたと見られる。日本の与党自民党、特に防衛、安全保障関係議員の中には、本件は不測の事態も招きかねない危険な行為であるので、‘抗議’すべしとの声が強く、日本側も映像公開に踏み切ったと見られるが、感情的な対立は安全を損なう恐れがある。
2、日・韓の国防・防衛当局間、首脳間の関係の希薄さ
 この事件を巡り日・韓間の批判・非難の応酬が長引き、メデイア・バトル化したのは、敵対国間であれば分るが、隣国同士の友好国間で継続したのは、第一義的には、日本の防衛庁と韓国国防省間の大臣同士のパイプの希薄さ、更に政府首脳間のパイプの希薄さからではないだろうか。
 何故、早い段階で防衛、国防大臣間で事態の収拾を図れなかったのか。何故、政府首脳間で事態の鎮静化を図れなかったのか。このような状況では、偶発的戦闘行為に発展するなど、不測の事態も避けられない恐れもある。日本の首脳が韓国首脳との緊密なパイプを持っていないことは日本の安全保障にとって非常に重大な問題であろう。
 韓国との関係は、現自民党政権の歴史認識の問題で悪化している。韓国首脳との関係だけではなく、韓国の一般国民などとの関係でも一部の抗日、反日勢力を中心として関係は改善していないと見られる。
 慰安婦問題では、2015年12月に韓国政府が元慰安婦支援のため設立する財団に日本政府が10億円を拠出し、両国が協力していくことで安倍政権と朴槿恵大統領(当時)との間で合意し、朴槿恵政権下で一部補償は実施されたものの、一部慰安婦は補償受け取りを拒否し、また慰安婦像の設置が行われたことなどを背景として、文在寅大統領はこの基金の解散を決定している。この合意は政府間合意であったため、政権が交代すれば解消することは可能ではあり、朴前政権を否定する文政権としては慰安婦問題でも異なる姿勢を示している。いわば安倍政権に対しちゃぶ台をひっくり返したようなものだ。
 また第2次世界大戦中の日本帝国時代に日本企業が朝鮮人を雇用していた徴用工問題では、韓国最高裁(大法院)がその一つである新日鉄住金(旧新日本製鉄)に補償義務があるとし、また応じない場合に同社の資産を相当分差し押さえる旨の判決を下した。これに対し、日本側は、日本の徴用工等への補償については1965年の日韓請求権協定で「解決済み」としてきたところであり、韓国政府に‘適切な措置’を講じるよう強く要請している。ところが、年初の記者会見において文大統領は、これは過去の不幸な時期に起こったことであり、‘日本側がこれを謙虚に受け止め、争点化すべきではない’などとし、安倍政権の対応に不快感を示した。確かに、韓国最高裁の‘個人の請求権は消滅しない’との判決はその通りであり、文政権としても判決自体には何もできないが、日・韓両国で請求権問題は決着しているので、韓国徴用工への補償は韓国政府がするべきなのであろう。他方、韓国最高裁の‘個人の請求権は消滅しない’との判決はその通りではあるが、日・韓で、請求権は放棄しているので、国際取り決め(協定)上、‘補償は韓国内の問題’、或いは、‘補償を日本側には求められない’との意見を付すべきであったのであろう。その意味で韓国側の判決は、両国間の取り決めを考慮しておらず、不十分なもの、或いは内向き過ぎると言えそうだ。
 いずれにしても、安倍首相や一部閣僚等の靖国神社参拝で象徴される歴史認識が、韓国の官民の不信を買い、2013年の安倍政権成立以来両国関係は円滑でないことは、日・韓双方の対外関係において大きなマイナスと言えよう。(2019.1.11.)
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韓米軍事同盟に日本は参加すべきではないー再掲

2019-02-24 | Weblog
 平成の本音―韓米軍事同盟に日本は参加すべきではないー再掲
 韓国の康京和(カン ギョンファ)外交部長官は2017年10月30日、議会での外交関係の国政監査において、対北朝鮮防衛強化のため配備された米国の迎撃ミサイルTHAADを巡り悪化している中国との関係について、中韓首脳会談開催への期待を表明しつつ、次の3つの立場を明らかにした。
・THAADの追加配備は行わない。
・米国のミサイル防衛(MD)システムに参加しない。
・韓日米安保協力は軍事同盟に発展しない。
 これはTHAADの配備を巡り悪化している中韓関係の‘復元’、正常化を狙った発言と見られており、‘三不’政策とも言われている。
 これに対し中国外務省は、同日午後に報道官が康長官の発言に関連して、「韓国側のこうした3つの立場を重視する」とし、韓国側がこれを実際に行動に移すことを願う旨述べた。しかし中国側が、韓国外交部長官の発言を‘約束’との表現を用いたため、韓国内でも議論となっている。
 中国側は、韓国におけるTHAAD配備と共に、米韓日の軍事同盟化を強く警戒していると見られ、中国が10月の全人代で習体制を固めて以降、日本との関係を改善する姿勢になっているのはこれを阻止するためとも思われる。
 韓国が、米韓日の軍事同盟を望んでいなければそれに参加する必要はない。日本側がそのような意向を表明したこともない。もっとも軍事同盟については、一方の同盟国への北朝鮮を含む第三国からの攻撃は日本への攻撃とみなされ、参戦しなくてはならなくなるので、日本の現行憲法ではそのような軍事同盟に参加することは困難であろう。従って韓国側から言われるまでもない。
 そもそも朝鮮戦争は1953年の休戦協定により軍事対決こそ回避されているが、米韓両国と北朝鮮は現在でも敵対関係にあり、北の核、ミサイル開発は基本的に米韓への対抗措置として進められているものである。日本は、朝鮮戦争の当事国でもない。また第二次世界大戦後、北朝鮮とは平和条約を締結していないが、2002年9月に小泉首相(当時)と金正日総書記(当時)とで調印された日朝ピョンヤン宣言において、拉致家族問題の他、日朝国交正常化交渉の開始などが盛り込まれており、この宣言は自・公連立政権において破棄はされていない。
従って政策論としても、朝鮮半島有事の場合には米軍への必要な後方支援は行うことになろうが、日本及び日本国民の安全のためにも、米韓との軍事同盟に参加しないことが賢明な選択肢と言えよう。
(2017.11.23.)
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皇位継承は新時代にふさわしい簡素で親しみやすく (その3)

2019-02-24 | Weblog
シリーズー皇位継承は新時代にふさわしい簡素で親しみやすく (その3)
 8月1日、政府は2019年に予定されている現天皇の退位と新天皇の即位を円滑に進めるため内閣府に皇位継承式典事務局を開設した。また憲法上の象徴となる上で最も重要な「即位礼正殿の儀」(即位の礼、2019年10月22日)に多くの王室、元首級を含む外国賓客が訪日することが予想されるため、外務省内に「即位の礼準備事務局」を発足させた。
 天皇陛下の交代が円滑に行われることを願っているが、同時に関連式典の在り方や天皇の公務の在り方、年号の使い方、更には京都御所の復活による東西日本のバランスある発展などについて、新しい時代、グローバル化する国際関係にふさわしい簡素で分かりやすいものにすることが 望ましい。
1、皇位継承は国民レベルの日常が過度に影響されない式典で (その1で掲載)
2、西暦年号使用の一般化                  (その1で掲載)
 3、天皇の「公務」の軽減によるご負担の軽減   (その 2で掲載)


 4、歴史に基づいた京都御所の復活と江戸城の再興による東西日本のバランスある発展
  新天皇ご一家は、現在お住いの東宮御所から‘皇居’に移られることで検討が進められているが(現天皇は退位後東宮御所へ)、歴史的に見てそこは江戸城であり、また現実に江戸城の可成りの部分がそのまま残っている。
 新たな時代を迎えるに当たり、次の理由で江戸城址を中心とした江戸の回復と天皇が京都御所に戻ることにより、歴史に基づいた東西バランスの回復、発展を図ることが望ましい。
 (1)江戸城を中心とする江戸の回復は最大の観光資源
 江戸城は、欧米列強が開国を狙う中、天皇を戴いた薩長土肥の尊王攘夷派が徳川幕府を倒し、勝海舟と西郷隆盛との協議の末、戦火を交えることなく江戸城を明け渡し、江戸を戦火から守ると共に、欧州列強の介入を招くことなく、1868年に明治維新を迎えた経緯がある。
 従って江戸城は、東京の前身である江戸と共に内戦で破壊されることなく引き継がれ、城内に‘皇居’が建設され、天皇が京都御所から移り住んだ。皇居のある江戸城は、第2次世界大戦においても米国による東京への絨毯爆撃の対象から除外され、焼失した大手門を除き、幸運にもその歴史的な姿が維持された。
 江戸城を中心とする江戸の人口は、幕府が発足した17世紀初頭には15万人程度と言われているが、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。
 特に、各藩の藩主を1年おきに江戸に出仕させる参勤交代が実施されるようになり、地方の大名が藩邸(各藩がそれぞれ嗜好を凝らし上屋敷、中屋敷、下屋敷で構成)を設けたのち、人口と共に江戸に地方の文化や富が持ち込まれ急速に人口が増加し、人口はロンドン(1801年約 86万人)、パリ(同約 54万人)と比較しても世界一の大都市であったと推定されている。文化的にも、地方の文化も持ち込まれ、多様性があり、また版画や日本画、歌舞伎など、欧州でも評価される高い文化が華を開いた。
その中心が江戸城であり、江戸文化は東京だけの歴史遺産ではなく、日本の、そして世界の文化遺産と言えるので、それを再評価し、可能な範囲で復元、保存して人々に開放することが望まれる。
 江戸城には、現在天守閣の他、幕府の中心となる本丸や二の丸があったが、いずれも焼失し、その代わりとして使われていた西の丸は、明治維新後宮殿として使われていたもののこれも焼失し、残っていない。
 出来れば江戸城のシンボルとなる天守閣だけでも復元したいものだ(注1)。現状でも江戸城址は、内郭(主要建物を含む内堀内)でも東西2.3km、南北1.8kmで、周囲約7.8kmに及ぶ広大なもので、主要な門や周囲の石垣や建築物は重厚で、正に日本最大の城址を思わせる。また明治維新に向けての内戦を回避し、また大手門以外は第2次世界大戦末期の爆撃からも逃れたため、城址内の植物や鳥、昆虫などは江戸時代以来の大変貴重な自然遺産だ。それを保全すると共に、江戸を象徴する江戸城址を保全し、文化遺産、自然遺産として公開することが望ましい。それは世界に誇れる貴重な観光資源ともなり、大きな経済効果も期待出来る。明治維新後、江戸城は天皇の御所として使用され、‘皇居’と呼ばれているが、それにより世界に誇れる大変貴重な歴史的な遺産が隠れてしまう結果となっている。(注2)
 江戸城については、城址だけではなく、徳川家の庭園(離宮)や増上寺、徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る上野東照宮など、徳川ゆかりのものや、各藩の藩邸跡や庭園など、多種多様の名所旧跡があり、これらを改めて整備し江戸城と結び付けると豊かな文化遺産として、日本人だけでなく世界に発信出来る。それは当時の地方の豊かさや文化の再発見でもある。
(2)歴史に沿って天皇は京都御所へ
 天皇は、もともと奈良や京都を中心として勢力を確立し、文化も伝統的に近畿地方にあり、関西、西日本発展の基礎となった。
 だが現在、京都には主人の居ない京都御所があり、歴史に沿わないと同時に、気の抜けた京都になっている。天皇が存在するのに何故京都御所が空なのか。
 京都御所を改修、増築し天皇にそこに入って頂いたらどうだろうか。京都、関西に命が戻り、活気が蘇ることが期待される。大きな経済効果も期待できる。
 公務等のため困難との意見もあろうが、交通や通信手段は飛躍的に向上しており、本質的な問題ではないであろう。天皇の機能や役割は憲法にきちんと位置付け、広く国民に理解されているので、京都御所に移られても何ら問題はないであろう。
 東京にお出ましにならなくてはならない時には、迎賓館赤坂離宮に必要な改修等を行い、ご使用頂けばよい。迎賓館は実際には年数回しか使われておらず、折角の施設も無駄になっている。
 明治時代は終わっており、新しい時代として、歴史に沿った対応をし、東西のバランスある発展を図るべき時であろう。

(注1) 天守閣は、1607年に建てられたが、火事で焼失し、その後2度修築されたものの1638年に再建されたものも、1657年に飛び火により焼失した。その後天守台だけは再建されたが、天守閣は再建されなかった。天守はほぼ同一規模で、5重6階(地上5階、地下1階)で高さは44.8m または 51m、天守台石垣は13.8mであり、地上58.6m以上あり、威光を放っていた。
(注2) 江戸城天守閣の復元については、千代田区やNPOグループが詳細な研究、企画を行っている。
また東京都の江戸東京博物館には、江戸城の模型や関係する貴重なものが展示されている。
(2018.8.11.)(Copy Rights Reserved.)
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皇位継承は新時代にふさわしい簡素で親しみやすく (その2)

2019-02-24 | Weblog
 シリーズー皇位継承は新時代にふさわしい簡素で親しみやすく (その2)
 8月1日、政府は2019年に予定されている現天皇の退位と新天皇の即位を円滑に進めるため内閣府に皇位継承式典事務局を開設した。また憲法上の象徴となる上で最も重要な「即位礼正殿の儀」(即位の礼、2019年10月22日)に多くの王室、元首級を含む外国賓客が訪日することが予想されるため、外務省内に「即位の礼準備事務局」を発足させた。
 天皇陛下の交代が円滑に行われることを願っているが、同時に関連式典の在り方や天皇の公務の在り方、年号の使い方、更には京都御所の復活による東西日本のバランスある発展などについて、新しい時代、グローバル化する国際関係にふさわしい簡素で分かりやすいものにすることが 望ましい。
 1、皇位継承は国民レベルの日常が過度に影響されない式典で (その1で掲載)
  2、西暦年号使用の一般化                  (その1で掲載)

 3、天皇の「公務」の軽減によるご負担の軽減 
 天皇のご公務の負担が今回の退位の大きな原因となっている。その軽減が望ましい。
憲法上は、天皇の国事行為として次の10項目を挙げている。
(1)憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
(2)国会を召集すること。
(3)衆議院を解散すること。
(4)国会議員の総選挙の施行を公示すること。
(5)国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証 すること。
(6)大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
(7)栄典を授与すること。
(8)批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
(9)外国の大使及び公使を接受すること。
(10) 儀式を行うこと。
 天皇の憲法上の「ご公務」はこの10項目に限定されるべきであろう。これだけでも大変な責任であり、激務と思われる。
 この中で具体的に内容が記されていない「儀式」を行うことについては、即位、大喪の礼などの各種儀礼を指すと考えられている。宮中で行われる各種の神道行事などの宗教性のある行事は公的な行事とはみなされないであろう。国の行事として政府が進める行事、例えば戦没者慰霊行事や国体開会式などへの参列は考えられるが、天皇が主催する「国事行為」としての公務とは言えないので、厳密にいえば「任意」の活動であり、憲法上の「ご公務」とは異なるので、この面での軽減は可能であるので、いわゆるご公務の軽減は可能のようだ。
 また外国の大使を接受することは憲法上のご公務であるが、外国の元首の訪日に際し行われる謁見、特に宮中での天皇主催の晩さん会、午餐会については、天皇は元首ではなく、あくまでも国民の統合の象徴であり、対外的に日本を代表するものではないので、憲法上の国事行為ではないと言えよう。王室等のある諸国からの国王、王女などの訪日に限定するなど、ご公務の軽減、簡略化が可能であろう。
 外国からの国・公賓の訪日は、天皇拝謁や晩さん会等との関係があるので、年4―5回程度に限られており、日本の外交の幅を制約しているとの指摘もある。多くの外国元首が訪日を希望しているが、5年から10年、又はそれ以上のウエイテイングとなっているのが現実のようだ。
               

 4、歴史に基づいた京都御所の復活と江戸城の再興による東西のバランスある発展(その3に掲載)
(2018.8.11.)
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皇位継承は新時代にふさわしい簡素で親しみやすく (その1)

2019-02-24 | Weblog
シリーズー皇位継承は新時代にふさわしい簡素で親しみやすく (その1)
 8月1日、政府は2019年に予定されている現天皇の退位と新天皇の即位を円滑に進めるため内閣府に皇位継承式典事務局を開設した。また憲法上の象徴となる上で最も重要な「即位礼正殿の儀」(即位の礼、2019年10月22日)に多くの王室、元首級を含む外国賓客が訪日することが予想されるため、外務省内に「即位の礼準備事務局」を発足させた。
 天皇陛下の交代が円滑に行われることを願っているが、同時に関連式典の在り方や天皇の公務の在り方、年号の使い方、更には京都御所の復活による東西日本のバランスある発展などについて、新しい時代、グローバル化する国際関係にふさわしい簡素で分かりやすいものにすることが望ましい。
 1、皇位継承は国民レベルの日常が過度に影響されない式典で
 現行天皇の退位、新天皇の即位は多くの国民にとって関心のあることではあるが、皇位継承自体は皇室典範に基づく宮中での皇族内の行事であると共に、神器の継承等など宗教行事が関係することから、皇室会議メンバー(三権の長が含まれる)の参加の下で、簡素に行われることが望まれる。国民に対してはメデイアを通じて知らせることで十分であろう。
 「即位礼正殿の儀」(即位の礼)については、憲法上新天皇が国民の統合の象徴となることから、その趣旨に沿った身近に感じられる式典とすることが望まれる。しかし「国家元首」ではなく、また「国家」統合の象徴でもないので、在京の諸大使の参列を中心とし、海外からの賓客については基本的には皇室と関係の深い王室や希望がある場合は政府要路等で十分であり、権威的で国民から遠くなるような式典とすべきではないのではないだろうか。
 昭和天皇の崩御に際しては、崩御前年の秋ごろに容体が悪化し、それを心配して「歌舞音曲は控える」という注意が国民レベルで守られ、「時節柄」という表現が流行し、年末でありながら飲食店やカラオケ店等の娯楽施設から客が遠のき、翌年1月に崩御されると喪に服するため「歌舞音曲は控える」ことが国民レベルで徹底され、繁華街から客が遠のき、タクシーの列が短くなるなど、「時節柄」が慣例化し、バブル経済崩壊に拍車を掛けるなど、国民生活に過度な影響を
与えた事例がある。このようなことを繰り返すべきではなかろう。
 また大喪の礼では、厳寒の中各国首脳等を長時間拘束したことが疑問視された。

 2、西暦年号使用の一般化
 運転免許証の有効期限の表記を現在の元号から西暦に変更されることになるらしい。2019年春以降にも実施される見通しだ。複雑な年号と西暦との換算に悩まされている国民にとっては、制度の簡素化の上で久々の朗報だ。
 保守的と見られている警察庁が8月2日、変更方針を明らかにしたもので歓迎したい。実際は3年の有効期限とすると、2019年の皇位継承により新天皇が即位するまで元号は明らかにされるまでは、有効期限を元号では記載できない時期があるからだろう。一方国税庁は、2019年10月からの消費税再々増税に関連し、アルコールなどを除く飲食料品や新聞については軽減税率が適用されるとしてパンフレットを事業主などに送付して来ている。再々増税を当然視しており、フライイングとも思われるが、これに関連して「平成35年10月から導入される適格請求書等保存方式」なるものをこまごまと説明している。平成35年10月?? 無いでしょうそんな年。更に平成38年など無い年号を記載しており、省庁での対応の混乱を示している。
公的機関への有効期限付きの各種の申請書や提出書類の日付から個人の履歴書などなどにも同様の問題が起こる。
 そもそも多くの国民は複数の年号を経るので元号表記は煩雑で、そのために費やす手間暇は可なりのもので、超高齢化の時代では更に煩雑な作業が必要となる。時間の喪失感は無視できないほどで、社会的な損失も大きい。
 日本にはこの種の伝統や慣習が多くある上、法律、規則で公的機関への提出文書を細部まで定めていることが多い。一方日本人は良く働き、残業も多く、夏季休暇が短い上休暇も返上して働くのに、労働生産性は欧米諸国が加盟するOECD 35カ国中20位(37年連続という醜態)、先進7カ国中では40日程度は夏季休暇を取るイタリア、フランスよりも低く最下位だ。
 要するに日本人は労働時間が長いのに反して賃金、役員報酬がおしなべて低いということに尽きる。では何故そんなに労働時間が長いのか。その大きな理由の一つが、元号の換算や箸の上げ下げまで規定する規則ずくめの制度にある。米国はじめ多くの国が、日本は市場参入が難かしい、投資し難い、非関税障壁があるのではないかなど、市場の開放性に疑問に思っている。確かに日本人でありながら新規に何かをしようとすると制度や申請書類などが細かく複雑で大変だ。行政書士や代行業が流行るのもうなずける。古い慣習や制度を、新規の法律、制度の導入時や20年毎など一定期間で廃止することを義務付けるなど、簡素化して行かないと、労働生産性も上がらないし、市場参入などへの阻害要因がアルバム式に増えることになる。
 古い制度や規則を時代の変化に伴い漸次廃止していく意識と努力が必要だ。元号はその一つで、西暦年号の使用を一般化すべきだ。元号の使用(その場合必ず西暦年を併記)は、宮中行事などを中心とすることで伝統はで十分維持できる。

 3、天皇の「公務」の軽減によるご負担の軽減                (その2)

 4、歴史に基づいた京都御所の復活と江戸城の再興による東西のバランスある発展(その3)
(2018.8.11.)
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大嘗祭は宗教行事であり政府による国家行事とすべきでない(改定版)

2019-02-24 | Weblog
 平成の本音―大嘗祭は宗教行事であり政府による国家行事とすべきでない(改定版)
 新天皇が初めて行う新嘗祭(にいなめさい)を大嘗祭(だいじょうさい)と言うが、宮内庁は、大嘗祭を2019年11月14、15日に行う予定としている。
 1、大嘗祭は神道形式の天皇家の宗教行事
 この祀りごとは、天皇が五穀豊穣を祈るものであるが、新天皇が即位後初めて行う大嘗祭については、天皇の一世一代の‘秘儀’とされている。そのため、一般にはその内容の詳細は知られていないが、神話に則り、その年の新穀を天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)および天神地祇に供え、自らも食し、その天孫降臨と一体化する神道形式の宗教行事のようだ。つまり、天孫降臨した邇邇芸命(ニニギノミコト)、即ち天照大神の子孫に、新天皇がなる儀式と言われる。

 2、大嘗祭を国家行事とすることも、国家予算を使うことも適当ではない
  宮家がこの儀式を信じるか否かは自由であるが、宗教行事である大嘗祭を政府が国の行事として行うべきではなかろう。国は憲法上宗教行事を行うことは出来ない。また国家予算を使うべきでもない。
 宮内庁は、この大嘗祭を江戸城址(一部を皇居として使用)内の東御苑で行うとしている。平成天皇の大嘗祭もここで行われたが(1990年11月21日)、即位儀式に関連する政府支出が全体で約123億円にも達し、高額に過ぎるとの批判があったことなどを考慮し、今回は東御苑の一部のみを使用し、節約を図るとしている。しかし大嘗祭は宗教性が強いと言う以上に、神道行事そのものであり、天皇家の中にも‘公費を使用すべきでない’との意見がある。一方で大嘗祭を若干小規模として予算要求がなされているとの報道もある。
 その大半の予算が、東御苑に社殿、社屋を建設する費用である。行事は、その中で行事が行われるが、大嘗祭後取り壊されるものの、国家予算で神道の社殿、社屋を建設することは国家、政府が宗教行事を行うに等しく、容認されるものではない。

 3、大嘗祭を江戸城址内(東御苑)で行うことは歴史に沿わない
 そもそもこのような神道形式の宗教行事を江戸城址内で行うべきではない。
大嘗祭のために東御苑に社殿、社屋を建設し、その中で神道行事を行うことは歴史を歪め、踏みにじる行為と言えそうだ。明治維新後、旧帝国憲法の下では、天皇を擁する官軍が幕府軍に勝ったので、戦勝者である天皇派が江戸城址を占拠、使用することは容認されても、旧憲法は廃止となり、新憲法となっている今日、それが引き続き容認されるべきではなかろう。
新憲法では、天皇は軍の指揮権はもとより、統治権などは無い。その上国の征服者でも支配者でもない、‘国民統合の象徴’である天皇が、江戸城址を占有することは、‘反幕府’、幕府支配の抑止、封殺を意味し、尊皇派支配を意味するので、‘国民統合の象徴’としてはふさわしくない。現状では‘分断の象徴’、‘抑圧の象徴’と映ってしまう。

 4、「東御苑」を‘皇居東御苑’と称するのは歴史の冒涜
 江戸城址を‘皇居’と称するのも、歴史を閉じ込めるものではないだろうか。
特に江戸城天守閣跡や本丸などの江戸城の中心部の一角は「東御苑」として一般にも公開されているが(大手門、平川門、北桔橋門から一定日に入場可能)、ここが‘皇居東御苑’と呼称され、地図にもそのように表示されている。これまで気にとめていなかったが、戦後74年も経ち、新憲法の下で明治維新後擁立された‘日本帝国’は廃止され、民主的な日本国として歩んで来た現在も、江戸城址の中心部が‘皇居東御苑’と呼称されているのは驚きだ。世界にも誇れる江戸城、江戸文化を考えると、歴史の冒涜であり、不適切と言えそうだ。
 その上、東御苑を含め宮内庁が所管しているのも時代錯誤と映る。「江戸城址」
として文部科学省の所管とし、貴重な文化遺産として保存し、歴史研究等に門戸を開放すべきではなかろうか。いずれにしても江戸城址は、世界にも誇れる貴重な国民の文化遺産であり、そうあるべきであろう。
 一行政機関である宮内庁が江戸城址内にあることも、あたかも他の行政機関とは異なる国民から遠い存在との印象を与えると共に、国民を江戸城址から遠ざける結果となっており、明治維新、日本帝国時代ならともかく、今や好ましくない。
 最近外国人の観光者が著しく増えており、‘皇居’が外国人観光者の東京における人気の場所の一つになっている。その理由を外国人観光客にインタビューすると、「侍が好きだから」、「古くからの石垣に興味がある」など、武士や城に関連するところとしており、城址として認識されている。外国人観光客は江戸城址に関心があるようだ。その場所を‘皇居’という名称で‘江戸城址’という歴史的史跡を覆い隠す結果となっており、日本人のみならず外国観光客に対しても日本の歴史や貴重な文化遺産を正しく伝えていないことになりそうだ。
 明治以来の3代に亘る尊皇派支配は終わり、天皇は国民統合の象徴となっているので、天皇は京都御所に戻り、江戸城址は‘江戸城址’として国民及び世界からの観光客に開放すべきではないだろうか。因みに、京都御所は東西700m、南北に1.3kmの広大な敷地を擁し、現在参観を除けば、活用されていない。
 なお敢えて付言すれば、飛鳥、奈良時代を含め、明治天皇以前の天皇陵については研究目的の発掘、調査を原則許可し、歴史研究に資すべきであろう。
 いずれにしても天皇家の宗教行事である大嘗祭は、古来からの歴史に従って京都御所で行うことが適当であろう。もし京都で行うことが嫌であれば、伊勢神宮や明治神宮、昭和天皇の御陵地などで行うことも出来るだろう。
 また大嘗祭は、少しづつ形を変えながら古来より行われている貴重な歴史的な行事であり、無形文化と言えるので、衣装や装飾品、建物などを含め大切に保存すると共に、公開することが望まれる。ましてや国家予算で行われる行事であれば、全体を原則公開とすべきであろう(改定2019.1.26.)
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‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!!

2019-02-24 | Weblog
シリーズ平成の本音―‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!!
 政府は2019年4月30日の現天皇の退位、5月1日の新天皇の即位を経て、同年10月22日に新天皇の「即位礼」を実施する方針を決定し、準備が進められている。
 即位の礼についても、詳細は明らかにされていないが、式典に使用される「高御座(たかみくら)」が保管されている京都御所で解体させたうえ東京に輸送された。それだけに掛かる費用が、総重量8トンの解体・輸送経費などで9億円と言われているが、平成天皇同様、新天皇の即位の礼が東京で行われ、江戸城址内にある‘皇居’に住まわれ続けるのであろうか。
 即位の礼は、伝統に基づき、明治天皇はもとより、大正天皇、昭和天皇も京都御所で行われている。天皇は、明治維新後、江戸幕府が無血開城した江戸城内に‘皇居’を新設し、京都御所からそこに移り住まわれている。それは徳川将軍派の再起を封じ込める意味と米欧列強の介入を抑止する上で必要であったと思われる。第2次世界大戦後も、昭和天皇は江戸城址内の皇居に留まった。これは、米国を中心とする連合軍が進駐し、皇居のある江戸城跡内に連合指令本部が置かれることを防ぐためにも止むを得ない措置であったと考えられる。
 昭和天皇崩御後、平成天皇はそれを継承したが、現在は米軍の進駐はもとより考えられず、また国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に留まっている必要はなくなっているのではないだろうか。即位の礼が東京で行われたのは、平成天皇が歴史上唯一の例外となっている。
 むしろ新憲法の下の新時代においては、伝統に沿って天皇は京都御所に復帰され、江戸城址は国民に開放すべきであり、その理由は次の通りである。
 1、歴史上最も平安な現在、天皇が江戸城址に留まる必要はなくなった
 明治維新となり天皇は京都御所から江戸城内に移り住んだが、上記の通り、明治維新直後や戦後直後と異なり、今日国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に陣取っている必要はなくなっていると言えよう。
 新天皇は、歴史に則って京都御所に復帰することが望ましい。天皇が国民統合の象徴であることは認識されているので、京都におられても問題はない。それ以上に関西及び西日本の人々にとっては喜ばしく、誇りにもなることであろう。無論、京都御所には必要な改修等を行った上である。
 天皇のご公務については、憲法上国事行為として10項目掲載されているが、必要な時には東京等、必要な場所に赴くことは交通事情が飛躍的に向上している今日では問題ない。また東京に滞在し、或いは一定の期日東京での公務が必要な時は、赤坂の迎賓館(赤坂離宮)を所定の改築をし、そこで執務、宿泊されればよい。現在赤坂の迎賓館は、年数回しか使用されておらず、著しい無駄になっており、その活用を真剣に考える時期であろう。日本は、少子超高齢化の本格化を迎え、税負担人口が減少する一方、国民総所得の2倍に当たる1,000兆円を超える公的債務を抱え、これが年金支給額の実質削減と並んで国民の将来不安の大きな原因になっている。国家や地方公共団地が無駄な施設や土地を抱えている余裕はなく、無駄を無くしていくことが不可欠になっている。

 2、旧帝国憲法の下での’皇居’の存在は現行憲法の下では時代錯誤
 戦後日本においては、旧帝国憲法に代わり、新憲法が制定され、主権は国民にあり、いわば大政は国民に奉還されているので、国民の偉大な歴史的、文化的遺産である江戸城跡に‘皇居’を置いておく必要性はもはやなく、江戸城址を国民に奉還することが望ましい。それ以上に明治維新は過去のものとなり、天皇専制は終わり新憲法になっても江戸城址を‘皇居’により封じ込めて置くことは不適当とも言える。‘皇居’、‘皇居’と言われ、そのような先入観があるようだが、江戸城址なのである。
 そのようにすることが、日本の歴史に沿うことになると共に、東西の文化的、社会的なバランスが回復し、東西のバランスある発展が望めるのではなかろうか。

 3、日本や世界にとっての偉大な歴史遺産、江戸城址は国民に開放すべき
 江戸城を中心とする江戸の人口は、幕府が発足した17世紀初頭には15万人程度と言われているが、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。
人口はロンドン(1801年約 86万人)、パリ(同約 54万人)と比較しても世界一の大都市であったと推定されている。文化的にも、参勤交代により地方の文化も持ち込まれ、多様性があり、また版画や日本画、歌舞伎、相撲そして魚市場など、欧州でも評価される高い文化が華を開いた。
 その中心が江戸城であり、江戸文化は東京だけの歴史、文化遺産ではなく、日本の、そして世界の文化遺産と言えるので、それを再評価し、人々に開放し、可能な範囲で復元、保存して行くことが望まれる。江戸城址は世界有数の観光資源となるであろう。またそれに関連する城外の江戸時代の遺跡を加えると更に豊かな歴史文化遺産となろう。

 4、首都圏直下地震等の大規模災害等に備え、天皇の京都御所復帰が望ましい
 首都圏直下地震等の大規模災害の発生は現実のものとなりつつあり、各種の、緊急対策が検討されているが、それでも自然災害や何らかの不測の事態が想定の範囲を超える可能性も念頭に入れて置く必要があろう。そのような首都圏緊急事態への対応の一環として、伝統に則り天皇の居所を京都御所に戻しておくことが望ましい。そのような緊急事態の際、立法、行政、司法の政府機能が打撃を受けるが、象徴たる天皇をも巻き込むことを避けるため、皇居の京都御所復帰を真剣に検討すべきであろう。天皇が京都御所に復帰される場合の対応については、上記1.の通りであり、十分対応可能であると共に、江戸城址の国民への開放や赤坂御所の有効活用などの可能性が広がり、有益であろう。
東京への一極集中を是正し、地方都市の活性化を図るため、従来型の地方への助成金などでは限界的な効果しか期待できず、もっと抜本的なシステムの転換を図らなければ達成できないことは明らかだ。戦後の歴代政権の施策では地方の活性化を実現出来なかったばかりか、逆に東京への集中を招き、地方の人口減や限界集落の増加が加速していることからも明がだ。抜本的な転換が望まれる。
(2018.10.15.)(Copy Rights Reserved.)
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‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!!

2019-02-24 | Weblog
シリーズ平成の本音―‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!!
 政府は2019年4月30日の現天皇の退位、5月1日の新天皇の即位を経て、同年10月22日に新天皇の「即位礼」を実施する方針を決定し、準備が進められている。
 即位の礼についても、詳細は明らかにされていないが、式典に使用される「高御座(たかみくら)」が保管されている京都御所で解体させたうえ東京に輸送された。それだけに掛かる費用が、総重量8トンの解体・輸送経費などで9億円と言われているが、平成天皇同様、新天皇の即位の礼が東京で行われ、江戸城址内にある‘皇居’に住まわれ続けるのであろうか。
 即位の礼は、伝統に基づき、明治天皇はもとより、大正天皇、昭和天皇も京都御所で行われている。天皇は、明治維新後、江戸幕府が無血開城した江戸城内に‘皇居’を新設し、京都御所からそこに移り住まわれている。それは徳川将軍派の再起を封じ込める意味と米欧列強の介入を抑止する上で必要であったと思われる。第2次世界大戦後も、昭和天皇は江戸城址内の皇居に留まった。これは、米国を中心とする連合軍が進駐し、皇居のある江戸城跡内に連合指令本部が置かれることを防ぐためにも止むを得ない措置であったと考えられる。
 昭和天皇崩御後、平成天皇はそれを継承したが、現在は米軍の進駐はもとより考えられず、また国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に留まっている必要はなくなっているのではないだろうか。即位の礼が東京で行われたのは、平成天皇が歴史上唯一の例外となっている。
 むしろ新憲法の下の新時代においては、伝統に沿って天皇は京都御所に復帰され、江戸城址は国民に開放すべきであり、その理由は次の通りである。
 1、歴史上最も平安な現在、天皇が江戸城址に留まる必要はなくなった
 明治維新となり天皇は京都御所から江戸城内に移り住んだが、上記の通り、明治維新直後や戦後直後と異なり、今日国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に陣取っている必要はなくなっていると言えよう。
 新天皇は、歴史に則って京都御所に復帰することが望ましい。天皇が国民統合の象徴であることは認識されているので、京都におられても問題はない。それ以上に関西及び西日本の人々にとっては喜ばしく、誇りにもなることであろう。無論、京都御所には必要な改修等を行った上である。
 天皇のご公務については、憲法上国事行為として10項目掲載されているが、必要な時には東京等、必要な場所に赴くことは交通事情が飛躍的に向上している今日では問題ない。また東京に滞在し、或いは一定の期日東京での公務が必要な時は、赤坂の迎賓館(赤坂離宮)を所定の改築をし、そこで執務、宿泊されればよい。現在赤坂の迎賓館は、年数回しか使用されておらず、著しい無駄になっており、その活用を真剣に考える時期であろう。日本は、少子超高齢化の本格化を迎え、税負担人口が減少する一方、国民総所得の2倍に当たる1,000兆円を超える公的債務を抱え、これが年金支給額の実質削減と並んで国民の将来不安の大きな原因になっている。国家や地方公共団地が無駄な施設や土地を抱えている余裕はなく、無駄を無くしていくことが不可欠になっている。

 2、旧帝国憲法の下での’皇居’の存在は現行憲法の下では時代錯誤
 戦後日本においては、旧帝国憲法に代わり、新憲法が制定され、主権は国民にあり、いわば大政は国民に奉還されているので、国民の偉大な歴史的、文化的遺産である江戸城跡に‘皇居’を置いておく必要性はもはやなく、江戸城址を国民に奉還することが望ましい。それ以上に明治維新は過去のものとなり、天皇専制は終わり新憲法になっても江戸城址を‘皇居’により封じ込めて置くことは不適当とも言える。‘皇居’、‘皇居’と言われ、そのような先入観があるようだが、江戸城址なのである。
 そのようにすることが、日本の歴史に沿うことになると共に、東西の文化的、社会的なバランスが回復し、東西のバランスある発展が望めるのではなかろうか。

 3、日本や世界にとっての偉大な歴史遺産、江戸城址は国民に開放すべき
 江戸城を中心とする江戸の人口は、幕府が発足した17世紀初頭には15万人程度と言われているが、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。
人口はロンドン(1801年約 86万人)、パリ(同約 54万人)と比較しても世界一の大都市であったと推定されている。文化的にも、参勤交代により地方の文化も持ち込まれ、多様性があり、また版画や日本画、歌舞伎、相撲そして魚市場など、欧州でも評価される高い文化が華を開いた。
 その中心が江戸城であり、江戸文化は東京だけの歴史、文化遺産ではなく、日本の、そして世界の文化遺産と言えるので、それを再評価し、人々に開放し、可能な範囲で復元、保存して行くことが望まれる。江戸城址は世界有数の観光資源となるであろう。またそれに関連する城外の江戸時代の遺跡を加えると更に豊かな歴史文化遺産となろう。

 4、首都圏直下地震等の大規模災害等に備え、天皇の京都御所復帰が望ましい
 首都圏直下地震等の大規模災害の発生は現実のものとなりつつあり、各種の、緊急対策が検討されているが、それでも自然災害や何らかの不測の事態が想定の範囲を超える可能性も念頭に入れて置く必要があろう。そのような首都圏緊急事態への対応の一環として、伝統に則り天皇の居所を京都御所に戻しておくことが望ましい。そのような緊急事態の際、立法、行政、司法の政府機能が打撃を受けるが、象徴たる天皇をも巻き込むことを避けるため、皇居の京都御所復帰を真剣に検討すべきであろう。天皇が京都御所に復帰される場合の対応については、上記1.の通りであり、十分対応可能であると共に、江戸城址の国民への開放や赤坂御所の有効活用などの可能性が広がり、有益であろう。
東京への一極集中を是正し、地方都市の活性化を図るため、従来型の地方への助成金などでは限界的な効果しか期待できず、もっと抜本的なシステムの転換を図らなければ達成できないことは明らかだ。戦後の歴代政権の施策では地方の活性化を実現出来なかったばかりか、逆に東京への集中を招き、地方の人口減や限界集落の増加が加速していることからも明がだ。抜本的な転換が望まれる。
(2018.10.15.)(Copy Rights Reserved.)
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