賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の中の災いの前に携挙されるとは何を指しているでしょうか

2020-06-09 23:34:23 | 信仰生活

   信仰ステーションの兄弟姉妹:

   私たちはいま終わりの日の最終段階にいますが、あらゆる種類の災害がますます大規模になっているという報道を目にしました。災いの前に自分が携挙されるかどうか、災いの前に自分が勝利者にされるかどうかは、私にとって鍵を握る問題です。何があろうとも主の御名を守り、主のために一生懸命働き、いかなる艱難に遭っても後戻りしない限り私たちは勝利者になれるというのが、これら二つの問題に対する私の意見です。そうすれば災いが訪れたとき、私たちは空中に引き上げられて主にお会いし、主のお約束を享受できるのです。しかし中には私の意見に疑問を投げかける人がいて、あんなことやこんなことをいまや成し遂げた人がいるとか、さらには、災いは大規模になりつつあって多種多様な災害がすでに降りかかっているけれど、いまだに誰一人として空中に携挙されるのを目撃されていない、などと言っています。携挙されるというのは、本当に空中へと携挙されることを意味しているのでしょうか。それに勝利者にされるというのは、これらのことを成し遂げるだけでいいほど単純なものなのでしょうか。私にはそれがまったくわからず、あなたの意見を伺いたいと思います。お返事お待ちしています。

   ショウギョウ

 

   ショウギョウ姉妹:

   自分が完全には理解していない問題について追求したり話し合ったりできることは、神様の御心にかなっています。主に感謝いたします。

   災いの前に携挙されるかどうか、災いの前に勝利者にされるかどうかは、私たちが天国に入れるかどうかに直接関係しています。しかし、最後に勝利者につくられ、天国へ携挙されることを望むなら、まずは携挙されることが一体どういうことなのか、勝利者につくられるとはどういうことなのかを理解しなくてはなりません。それを話し合うため、この二つの問題を以下のように分けました。神様が私たちを導いてくださいますように。

1.「災いの前に携挙される」ことは何を意味するのか

   災いの前に携挙されることが何を意味するのかを理解したければ、まずは携挙されることが何を意味するのかを知らなければなりません。携挙されるというのは、主がお戻りになるとき、私たちを空中に引き上げて主に会わせてくださることだと考える人がいます。それは(テサロニケ人への第一の手紙第4章17節)でパウロがこう述べたからです。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」しかしこれは主が意図なされたことでしょうか。この言葉はパウロ自身が言ったに過ぎず、主イエスがそうおっしゃったのでもなければ、聖霊がそのような証しをしたわけでもないので、主の意図を表わしていることはありえません。私たち全員が知っているとおり、はじめに神様は土を使って地上に人類をお作りになり、ご自身が地上にお作りになったすべてのものを管理させるとともに、ご自身を崇拝して讃えるようお命じになりました。さらに神様ははるか昔、自分は地上に神の国を築いて人間とともに地上にとどまり、世の国々はすべてキリストによって統治される国になるとはっきり告げられました。それは黙示録で次のように預言されているとおりです。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして…」(ヨハネの黙示録21:3)「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(ヨハネの黙示録11:15)したがって主はお戻りになるとき、人々を空中に引き上げて主に会わせてくださるのではなく、地上に御国をお築きになるのです。神様が私たちに用意してくださった終着点は地上にあるからです。さらに、もし私たちが空中に引き上げられたとしても、そこで生き延びることはできないはずです。ゆえに、携挙されるとは天に携挙されることだという考えは、真理とも神様の働きの事実とも合致していません。それは私たちの観念と想像の産物に過ぎず、行きすぎた願望なのです。

   では、携挙されるとは何を意味するのでしょうか。ここで神様の御言葉の一節を読みましょう。そうすれば理解できます。それは次の一節です。「引き上げられる」とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。「引き上げられる」とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に携挙されるだろう。」

   この一節から、引き上げられるとは低い場所から高い場所へと引き上げられることを意味するのではなく、むしろ神様によって予め定められ、選ばれた人を指していることがはっきりとわかります。予め定められるとは、時代に先立ち救いを獲得するよう神様によって予定された人を指し、選ばれるとは、神様の足跡に従い、神様の御前に出てその新しい働きを受け入れられるよう予定されている人を指しています。それが引き上げられることの意味です。私たちがよく知っているとおり、律法の時代の末期、主イエスは新段階の働きをなさるべく来られました。当時、ペテロ、ヨハネ、マタイ、ヤコブなどはみな主イエスの宣べ伝える説教を聞いたので、律法を捨てて主に従い、かくして神様の御前に引き上げられました。同じく主イエスは、自分は終わりの日に戻り、人間のあいだに来て彼らを救うべく言葉を話し働きを行なうとおっしゃいました。それは主イエスがこうおっしゃったとおりです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:12~13)「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書12:48)「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(ヨハネの黙示録20:12)以上の御言葉から、主イエスは終わりの日にお戻りになるとき、私たちにおっしゃるべきことがまだたくさんあり、ご自身の御言葉を表現して裁きの働きをなさることがはっきりわかります。私たちは神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れることでのみ、本当に神様の御前へと携挙されることができるのです。

   したがって、その言葉が暗示するとおり、災いの前に携挙されるとは、大いなる災いの前に神様が人の姿をとって再びこの世界へ来られ、行なうべき働きをなさること、そしてそのときに主のお戻りを喜んでお迎えすることでのみ、私たちは災いの前に携挙されるということを意味しています。

   ここまで、災いの前に携挙されることが何を意味するのかを話し合いました。次は災いの前に勝利者にされることが何を意味するのかを話し合いましょう。

2.「災いの前に勝利者にされる」とは何を意味するのか

   災いの前に勝利者にされることが何を意味するのかを理解する前に、まずは勝利者とは何かを理解する必要があります。それは文字どおり、勝利する人たちの集団です。神様を信じる人全員が知っているとおり、サタンは神様の敵であり、ゆえに私たちは勝利しなければなりませんが、そのことは間違いなく、私たちがサタンに勝利しなければならないことを意味しています。したがって、勝利者とはサタンに勝利する人たちの集団を指しています。しかしサタンに勝利するとは何を意味するのでしょうか。私たちの祖先アダムとエバがサタンに誘惑されて以来、人類はずっと罪の中で生き、傲慢、うぬぼれ、利己心、卑劣、不正、欺瞞といったありとあらゆる堕落した性質で満たされてきました。私たち一人ひとりは残らずそれらに束縛され、そのような害毒に頼って生きていると言えます。したがって、サタンに勝利するとはサタンの束縛や足かせを振り払い、私たちをむしばむサタン的な害毒を完全に取り除き、もはやそれらによって生きることがなく、その代わりに神様の御言葉を聞いてそれによって生きることができるという意味です。そのようにして私たちは勝利者と呼ばれることができ、私たちの罪が真に清められるとともに、光の中で生きて神様のお恵みにふさわしくなれるのです。それは黙示録に記されているとおりです。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(ヨハネの黙示録7:14)「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(ヨハネの黙示録22:14)「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない」(ヨハネの黙示録3:12)「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(ヨハネの黙示録21:7)「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」(ヨハネの黙示録14:4~5)また神様の御言葉は次のように述べられています。「災害の前に完全にされる者たちは神に従順である。彼らはキリストに拠り頼んで生活し、キリストを証しし、キリストを崇める。彼らは勝利した男児たちであり、キリストの良き兵士たちである。」

   これらの御言葉から、勝利者とは大いなる艱難を乗り越える人だということがわかります。そのような人たちは神様の御言葉の裁きを経験し、自分の堕落した性質がすっかり清められ、神様への服従という現実を自分のものにしており、神様の国に入って神様のお約束を享受します。言い換えると、勝利者になることは主への信仰において苦しんだり、代償を払ったり、主の御名を守ったりできることでも、艱難が生じたときに後戻りしないことでもありません。そうではなく、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れ、自分の罪を清めていただくことを意味しているのです。しかし私たちの現在の汚れと堕落のうち、どのくらいが清められたでしょう。私たちはいまだに傲慢、うぬぼれ、利己心、卑劣、不正、欺瞞といった、自分の堕落した性質をまったく取り除いていません。神様が祝福してくださるときは神様に服従できますが、好ましくないことが起きると思わず神様を責めかねません。自分よりも見事に説教を行なえる人を見ると、その人に対する嫉妬と憎悪が自分の中に生じます。自分の利益に関する出来事があると、不正に走り正直でなくなることがあります。これらはいくつかの例に過ぎません。したがって、災いの前に携挙され、勝利者にされることを望むなら、災いが訪れる前に神様による終わりの日の働きを受け入れ、神様の御言葉の裁きと刑罰を経験し、サタンの堕落した性質を残らず振り払い、神様の御言葉によって生き、キリストを讃え、万事においてキリストの証しをし、神様に従い神様を崇拝しなければなりません。そうして初めて、神様によって勝利者にされたと考えられるとともに、神様のお約束を受け継いで神様の国に入る資格を得るのです。

   ショウギョウ姉妹、「災いの前に携挙される」「災いの前に勝利者にされる」とはどういう意味かについて、ここまで交わって、あなたは少し理解できたでしょう。しかし、本当に災いの前に神様によって勝利者にされたいなら、より多くの真理を理解することが必要です。例えば、いったいどのように主イエスの再来を迎えれば、災いの前に携挙されるか、どのように神様の終わりの働きを経験すれば、神様によって勝利者にされるかなどです。もしあなたはさらに尋ね求めて理解したいなら、私たちに連絡して一緒に探求し交流することができ、或いは私たちとオンラインで交流することもできます。

   信仰ステーション


キリスト教が2000以上の教派に分裂していることは何を表しているのでしょうか

2020-06-08 00:30:55 | 信仰生活

  信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、こんにちは

   全世界で、イエス様の信者たちは多くの教派に分かれてしまっています。中国本土だけでも、信仰義認派、カリスマ派、呼喊派、大賛美派、三班僕人派、真イエス教会等が存在しています。私にはこれが理解できません。私たちは皆、主イエス様を信仰し、同じ聖書を読んでいるのに、どうしてこれほど多くの教派が現れるのでしょうか?このような形で主を信仰していて、私たちは主に良しとされることができるのでしょうか?

   リー・メン

 

   リー・メン姉妹、こんにちは

   あなたの疑問は実に現実的な問題に関連するものです。ほとんどの兄弟姉妹もこれには困惑しています。真理のこの一面について、まずは様々な教派がどのようにして誕生するのかについて話したいと思います。

   異なる教派は聖書における人々の偏った理解および彼らの傲慢な本性が原因で誕生しています。

   キリスト教は主イエス様の働きにより生まれ、元々は主御自身が導き牧養されていたということは、私たち主の信者全員が知っています。当時の信者は正しい道からそれることがなかったため、分裂は起っていませんでした。しかし、主イエス様が天に上られ、主の弟子と使徒たちが息絶えた後、異なる教派が少しずつ出現するようになったのです。どうしてこれらの教派が形成されたのでしょうか?神の御言葉を見て、これを理解していきましょう。神はこう仰いました。「人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。」

   神の御言葉より、異なる教派が形成される主な理由は主を信仰する人々が聖書に関して各々の偏った理解を持っているからだということが分かります。主イエス様は十字架に磔にされる働きを成就された後に去っていかれ、その後に主イエス様の信者たちが主の福音を伝道し始めたということは私たち全員が知っています。しかし、神の信者たちは聖書の教えに関する純粋な理解を持っていないため、その多くが聖書に関する各々の偏った理解を教会を設立するための教義とし、それを固持してしまっているのです。例えば、ある信者たちは、「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10:10)、という言葉を受けて信仰義認派を築きました。他には主イエス様の、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)、という御言葉に執着し、「悔改め派」が主の御心に最も則したものだと思い込んでいる信者たちもいます。各教派それぞれが聖書に関して偏った理解を持っています。さらに、人々は傲慢さ、うぬぼれ、独善性、自尊といったサタンの性質を持っています。彼らは自分たちに才能と博識があり、自分たちの持つ聖書の理解のみが純粋なもので、それだけが正しいと思っています。従って、彼らは他人の意見を強く拒み、または非難し、聖書の教えを解説して自己顕示するのです。彼らは人々を自分たちの周りに引き寄せて、独自の教派を立ち上げます。教派はこのようにして誕生します。2000年にも渡り、クリスチャンは異なる教義を持っていることが原因で、絶えず討論を行い、新教派が形成されてきました。彼らはお互いを攻撃し、軽蔑し、議論し、そして除外するために決して一つに団結することができない。このようにして1つの教会が2000以上の教派に分裂していったのです。これより、異なる教派の設立は人間が引き起こしているということが分かります。これは主イエス様が要求されていることでなければ、全く神の御心に沿ってもいないのです。

   宗教団体で神を信仰する人々は人々によって罠にかけられ、人々を崇拝し、人々に従い、真理を理解することや、神を知ることは決してありません。

   異なる教派が形成される原因を考えると、宗教指導者たちは誰もが神に仕えるために主の教えに従う代わりに、聖書に関する各々の理解を頼りに働き、説教していることが分かります。ならば、彼らの働きの本質は一体どのようなものなのでしょう?このような教派に属して神を信仰したら、どのような結果が伴うのでしょうか?神はこう仰っています。「たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。」

   神の御言葉から、宗教指導者たちと牧師たちは皆、神学的知識と教義に頼って働きと説教を行っているということが分かります。彼らは神への信仰において信者たちが持つ多種多様で不適切な考えや、信者たちの堕落を解決してくれることはありません。例えば、異なる教派間における攻撃や口論が起こる中で、牧師たちは皆自分たちの意見が正しく、他の教派の意見は間違っていると強く主張します。彼らは決して自分たちの逸脱や誤りを顧みることはなく、自分たちが傲慢な性質を表していることすら分かっていません。そして、彼らは信者たちが神を知ることを手伝うために神の御心を伝えることも全くありません。代わりに、彼らはいつも現実的な問題を避け、ただ単に中身のない理論を語っているだけなのです。彼らの交わりは罪の束縛を取り除くこととは全く無関係で、彼らはただ自分たちの才能、そして自分たちがどれだけ恵まれているか、さらには各々の神学的知識と理論を誇示したいだけなのです。信者は長い間牧師たちの言うことを聞いていると、必然的に彼らに影響されてしまいます。彼らは牧師たちの才能と牧師たちが非常に恵まれていることに憧れを持ち、牧師たちが雄弁で会話が上手なことに感銘を受け、自分たちも牧師たちのように豊かな聖書の知識を修得し、巧みに会話ができ、福音を伝え説教できさえすれば、他人の羨望と称賛の的になれるのになと思ってしまうのです。この結果、彼らは神の御言葉を実践することには注意を払わなくなり、神の御旨を見出そうともしなくなり、ただ単に儀式と規則に従うだけになってしまうのです。このように、宗教団体の信者たちは、律法の時代末期に神殿の中で神を信仰していた人たちと同じように、聖霊の導きを受けることができないのです。これ故に、彼らは何年神を信仰しても、真理を理解することも、神を知ることもできず、彼らの性質が変わることもないのです。従って、宗教の中で神を信仰するという本質は人間の指導者たちを崇拝しているに過ぎず、真に神に従っているということではないのです。

   宗教から離れ、神の働きについていき、神の御前に立ち返りましょう。

   聖書には次の節が記録されています。「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき…」(イザヤ書2:2)

   神はこう仰っています。「あらゆる宗教、あらゆる宗派の人々全てを、唯一の神の支配の下に集める……あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって……万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。」

   神の御言葉より、終わりの日の末期には、全ての宗教が1つとなり、全人類が神の家に立ち返るということが分かります。終わりの日に、神は人類を救う一段階の働きを実行する必要があり、それによって神の顕現を心から切望する人々全てが神の御声を聞き、それぞれの教派を去り、神の御前に立ち返れるようになるのです。この働きは神御自身以外の者が行うことはできません。神は私たちを創造し、導き、さらには栄光に輝く終着点へと連れていくことがおできになり、これは神の権威の象徴であると同時に神の唯一無二な性質の象徴でもあり、いかなる教派の指導者や聖職者でも代わって行うことはできません。世界には2000を超える教派が存在していますが、その全てが人間によって設立されています。神の羊たちはついに教派から歩み去り、創造主の支配下に戻り、そうすることで全ての教派が1つとなります。これが、終わりの日に神が達成することを意図される働きです。牧師と長老たちがどれだけ高い地位にあったとしても、彼らは皆、サタンに堕落させられた人間なのです。彼らは自分を救うことすらできないのに、他人を救えるはずがありません。万物を支配される唯一の真の神のみが私たちをサタンの被害から救い、神の御前に導くことがおできになります。今は終わりの日が到来し、イエス様がお戻りになられたと、多くの人々が証ししています。私たちは観念を捨て、宗教を去り、終わりの日の神の働きと御言葉を探さなくてはなりません。これは、賢明な人がする選択です。

   以上が僅かですが私たちの見解です。少しでもお役に立てば幸いです。もし他にも質問がございましたら、またお気軽にお知らせください。

   敬具

   信仰ステーションより


クリスチャンとして、正常な教会生活は極めて重要である

2020-06-07 22:45:36 | 信仰生活

   こんにちは、信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、

   私は日中の仕事でとても疲れてしまい、夜はよく眠れません。結果的に、予定の時間に集会に出ようという気が起きなくなっています。束縛されたくありません。私に霊的な必要があった時に、兄弟姉妹を探しておしゃべりすればそれでいいのではないか、と思っています。この問題の原因は何なのでしょう。どのように解決すべきですか?

   アンジーン

   こんにちは、アンジーン姉妹、

   予定の時間に集会に出席する気が起きず、霊的な必要を感じた時だけ、積極的に兄弟姉妹を求めておしゃべりをすればよいのではないか、ということでした。そのように考えるのは、神を真に信じるとはどういうことか、集会の重要性とは何かを理解していないからです。真理のこの側面は、神様から称賛されるような信仰を持つことができるかどうかに直接関係しているため、非常に重要です。この点について、私がどのように理解しているかを少しお話します。お役に立てれば幸いです。

 

 

神様を真に信じるとはどのような意味か

   最初に神様が人間を創造された理由は、人間が地上で神様を称え、礼拝するためであったことを私たちは皆知っています。主イエスは言われました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイにによる福音書22:37-38)主の信じる者として、信仰と神様への礼拝、そして神様と正常な関係を持つことを最優先にすべきです。集会、祈り、真理を語り合うこと、賛美歌を歌うこと、そして神様を讃えることが、神様との正常な関係を確立する方法です。クリスチャンとして、最低これらを必ずやるべきです。神様の言葉はこう言っています。「『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より)「神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が称賛しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。……こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる精神的な支えのように扱っている……神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。」(「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)ここから分かるのは、もし、私たちの神様への信仰が単に口頭で認め、心の中で信じることのみから成っていて、真理を追い求めず、神様の言葉を経験したり実践したりせず、信仰を精神的な支えや趣味としてとらえているのであれば、真に神様を信じているとは言えません。神様はこの手の信仰を称賛しません。神様の真の信者たちは、頻繁に神様の御前に出て、よく神様に祈り、よく神様の言葉を読み、集会に何度も出席し、神様の言葉から来る真理に対する理解を深めるべきです。同時に、神様の言葉を実際の生活に適用させ、経験し実践しなければなりません。信者たちは毎日起こることは神様によって支配され、定められていると信じています。これが特に当てはまるのは、彼らが自分の考えとは異なる何かに遭遇した時、そしてそのことが自身の堕落した性質を明らかにしている時です。彼らは神様の御前に出て、神様の言葉に従って自分自身と向き合えます。彼らは神様が定めた環境の中で学ぶべき課題、実践に移すべき真理を求めることができます。その後、彼らは神様の要求に従って実際にそれを実行し、サタン的な堕落した性質を投げ捨て、正常な人間性を生き、最後には、神様に対する真の認識、神様への従順、神様への愛を達成するのです。この方法によって神様の働きと言葉を体験する時にのみ、神様を真に信じるということが成り立ちます。このようなやり方で神様を信じて初めて、私たちは神様の承認を得られます。反対に、私たちの信仰に神様との正常な関係、集会への定期的な参加、祈り、真理を語り合うこと、そして、神様の言葉を実践に移すことが含まれていないならば、もし、空き時間だけの信仰であるならば、もし、数年間神様を信じても、堕落した性質がまったく変わらず、神様を真に理解しないならば、未信者の信仰と変わりがありません。神様はそういった信仰を信仰とは認めません。もし私たちの信仰がこのようなものであるなら、最後まで信じたとしても、神様の承認と救いは得られないでしょう。

教会生活は不可欠です

   予定の時間に集会に出席する気が起きないなら、教会生活の重要性を理解していないと言えます。実は、教会生活は神の言葉を語り合い、真理において理解を深めて成長する生活であり、それはまた聖霊の働きを体験し、神様の愛を享受する生活でもあります。真理を理解し、真理において成長し、神様の救いを得ることは、聖霊の働きなくしてはまず達成できない成果です。互いに仕え、施し合い、本分を尽くして神様に対して証しとなる教会生活を通してのみ、容易に聖霊の働きと神様の清めと救いを得られるのです。言い換えれば、信仰の面で神様の承認を獲得することと、神様の救いを達成することは、正常な教会生活と密接に関係しているのです。聖書は言っています。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブライ人への手紙10:25)主イエスは言われました。「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:19-20)ここから分かるのは、教会生活を生きることは、クリスチャンである私たちに対する神様の要求のひとつであるという事実です。私たちの素質には限りがあり、真理を受け取る器官も備わっていませんから、神様の言葉の真理と奥義を理解するのは非常に困難です。文字面ばかり追っていても、神様の意図と人間に対する要求をほとんど理解していないでしょう。しかし、教会生活に参加し続け、兄弟姉妹と一緒に祈り、神様の言葉を読み、理解したことや経験を語り合うなら、聖霊による啓きと照らしを得ることができます。私たちはさらにたくさんの光と報いを得て、神様の意図と要望をはっきりと理解していくでしょう。実践の道ももっと明らかになるはずです。特に、神様の言葉を理解しなかったり、さまざまな困難に直面したりした時、兄弟姉妹が一致して神様を求め、祈るならば、私たちを通して聖霊が働かれ、真理を理解している兄弟姉妹を通して私たちを潤し、導いて下さいます。そうすれば、神様の言葉の隠された意味を理解することができ、真理を知る私たちの問題や困難は全て解決します。教会生活で多くの問題を解決すればするほど、もっとたくさんの真理を理解し、得ることができます。そうすることで、私たちは二度と混乱したり問題を抱えて生きることはなくなります。私たちの人生は楽になり、解放されます。神様の意図と要求に従って、遭遇する状況にも取り組んでいくことができます。次第に神様の言葉が、状況の対処に使える原則や指針になります。聖霊の導きの下で神様を信じる正しい道に踏み出せるのです。

   教会生活に参加しないならば、時々自分だけで祈ったり、神様の言葉を読んだりしている状況ならば、聖霊の働きを得ることは非常に限られてしまいます。聖霊の働きなしでは、真理を理解できず、真理の現実に入って行くこともできないでしょう。困難や問題にぶつかった時は、神様の意図を理解しないがゆえに、対処法も真理の実践方法も分からないという事態が頻繁に起こります。自分自身の観念や想像に頼って物事を行うなら、神様の意図を妨害するばかりでなく、神様の性質に背くことになってしまいます。神様による救いはもちろん、聖霊の臨在も失うのです。神様の言葉はこう言っています。「あなたは、自分の霊的生活が正常ではない場合、神の現在における業を理解できず、そうした業が自分の観念と全く相容れないものであると常に感じ、神に進んで付き従っていても、内部の推進力が欠如している。したがって、現在において神がどのような業を行っていても、人間は協力する必要がある。人間が協力しなかった場合、聖霊はその業を行うことが出来ない。また人間に協力精神が無ければ、聖霊の業を得ることがほとんど出来ない。……人間が神に協力せず、より成長することを求めなければ、神は人間が従前持っていたものを奪うであろう。人間は内心常に楽な方に貪欲で、既に用意されているものを楽しむことを好む。人間は全く代償を払うことなく、神の約束を得ることを望む。こうしたことは、人類の突飛な考えである。代償を払わずにいのちを得るなどと言うが、それほど容易なことが一体あるだろうか。ある者が神を信じ、いのちにおける成長と性質の変化を求めているのであれば、その者は代償を払い、神が行う業が何かを問わず、常に神に付き従う状態に達する必要がある。それが、人間がすべき事である。その全てに規則として従っていたとしても、それを頑なに遵守せねばならず、いかに試練が大きくても、神との正常な関係を手放してはならない。あなたは祈りを捧げ、教会生活を維持し、兄弟姉妹と共に居ることが出来る必要がある。あなたは、神が自分を試すときでもなお、真理を求める必要がある。これが霊的生活のための最低限度である。」(「あなたは神への忠誠を保たなければならない」より)神様の言葉から、私たちにとって正常な霊的生活が非常に重要であることが分かります。祈り、神様の言葉を読み、集会に出席することのすべてが霊的生活を構成しています。これらを守れなければ、聖霊の働きを得られないでしょう。私たちの心が神様に従いたいと願っても、信仰を持つことはできません。ですから、仕事がどれほど忙しくても、肉体的に疲れていても、神様との正常な交わりを失ってはいけないのです。最低でも、正常な霊的生活を維持する必要があります。神様の御前で生活し、問題に遭遇した時は真理を求め、実践しなければなりません。そうすることによってのみ、私たちの霊的ないのちは確固たるものになります。そうして初めて、問題に遭遇した場合に取り得る道が与えられるのです。

神様の御前に生き、神様の保護を受ける

   主イエスは言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11:30)主は私たちが楽に、自由に生きることを望んでおられます。主は私たちがこの世のことにまみれて苦しむ姿を見たくないのです。ならば、仕事で疲れすぎているために集会に出席する気が起きないのはなぜでしょうか。実は、そのような考えはサタンから来ています。その考えの中にはサタンの悪の陰謀が含まれています。神様は言われています。「神が人間に対して行いたいことはサタンが破壊しようとすることであり、サタンが破壊したいことは人間を通してすべて表れる。……サタンによる人類の破壊も明確に示される――彼らはますます堕落させられ、その状態はだんだん落ち込んでいく。あまりにも悲惨になると、サタンに捕らえられることもある。」(「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十五章」より)サタンは神の敵です。あらゆる面で神に敵対し、頻繁に私たちの弱点を狙い、攻撃してきます。サタンに堕落させられた私たちの内側はサタンの毒に満ちています。私たちは富を愛し、栄誉や地位、肉の楽しみを愛します。富や栄誉のためであればどんな努力もし、それを手に入れるためならどんな代価も払います。ですからサタンはそのような堕落した私たちの性質を利用して肉欲に溺れさせ、神様との正常な関係性を阻害し、私たちを神様から離れさせ、神様を裏切らせ、最後に私たちを呑み込むという目的を達成します。もし私たちがいつも肉の欲望を満足させ、神様に頻繁に近づかないならば、いとも簡単にサタンの罠にはまってしまい、この世の邪悪な波に流されて、遂には神様の思いに背いて神様に嫌われるようなことまでするようになってしまうでしょう。集会は私たちが神様に近づく機会です。神様と私たちの距離を縮めてくれて、神様の前で生きるようにしてくれて、神様の検証を受け入れ、神様の配慮と守りを受けるようにしてくれます。神様との関係が正常になれば、霊的にも鋭くなり、神様が好まれる物事と嫌われる物事が見分けられるようになります。何か問題に直面しても、神様の側に立つ事ができ、肉の好みに従って神様に反することや拒絶することはありません。結果的に私たちは更に神様からの祝福を受けることができます。ですから、私たちが神様に認めて頂いて救いを得る上で、教会生活はとても重要です。信仰が弱く、状態が正常でない時は、もっと頻繁に神の御前に出て、神に祈り、神に頼らなければなりません。教会生活から離れないことです。同時に、神を満足させるという決意を神の御前固めるべきです。このように神と協力する時、サタンの陰謀は私たちに何ら影響を及ぼさず、サタンは慌てふためいて消え失せます。神との関係性がいったん正常になれば、集会への出席を束縛だとは感じなくなります。反対に、集会に出席することは、神と親しくなり、神の愛を味わう方法だと思うようになるでしょう。

   神の導きに感謝します!アンジーン姉妹、ここで今日の私たちの交わりを終わりにします。今日お伝えした内容が役に立つことを願っています。分からない点があれば、それについて一緒に話し合いましょう。

   信仰ステーション

   編集者から:今日の「ディボーションでの交わり」を読んで、神様を心から信じるということ、そして教会生活の意味がわかりました。また、定期的に集会に出席することが、神様を信じて救われるという極めて重要な点に直接関連していることから、とても大切だということが分かりました。引き続き、私たちの福音映画『神への信仰』も是非ご覧になってください。神様に称賛されるような信仰を一緒に求めていきましょう。


傲慢な性質を変える方法があります

2020-06-06 23:49:17 | 天の国の福音

   私の致命的な欠点は傲慢であることです。常に、自分のほうが他人よりも秀でていると考え、傲慢な性質が頻繁に現れることがありました。特に、私が記事を修正している時や、パートナーと働きについて伝えている時、自分の意見に常に固執し、他者の意見を謙虚に聞き入れることはありませんでした。パートナーと調和的に協力できないことで、働きにおいてよく問題が起きていました。兄弟姉妹は、何度も私にこの問題について指摘し、神が人間の傲慢な性質を暴くことについての文章を何度も読みました。それでも、自分自身の本性と本質について真に理解することはなく、傲慢さを発揮できる場所に来ると、いつでも自分を自制できなくなっていました。その後、自分でもほとほと嫌になりましたが、既にしてしまったことは取り返しがつかず、わたしにできることは、これについて理解しようと努力し続けることだけでした。そして、傲慢な性質が繰り返し露呈されていました。私は本当に恥ずかしく、また、絶望的な気持ちになりました。

   ある時、私は強い信仰心でお勤めしていると、神の次のような言葉を見つけました:「自分の本性の問題を解決するには、どうすればよいだろうか。まず、自分の本性を知り、また神の言葉と旨を知る必要がある。そうした後に、誤った行動を最大限に回避し、真理に則した行動のみを執るようにするには、どうすればよいだろうか。変化させることを望むならば、このことを熟考する必要がある。あなたがたの欠陥のある本性に関しては、その本性がどのような堕落により構成されているか、その本性がどのような作用を及ぼし得るか、それを律するためには、どのような方策を適用し、実施できるか、といった問題が極めて重要である。…林則徐は短気であった。林則徐は、自分の弱みの故に、自室に次のようなモットーを記した。『己の気性を律せよ。』これは人間の手段であるが、実に有効的である。人間には、人それぞれ、従うべき独自の原則がある。それ故あなたも、自分の本性に関して、原則を定めるべきである。これらの原則は必須であり、原則を持たないことは問題外である。これもまた、神を信じるためのあなたのモットーとし、行動規範とすべきである。」(『キリストの言葉の記録』の「本性の問題解消と真理の実践」より)神の言葉は、私が取ることができる道を瞬時に与えてくれました。次のように理解したのです。反抗的な性質を変えるには、神が人間の腐敗した本質を暴くことについての言葉を頻繁に飲食しつつ、自身の反抗的な本質を意識的に自制し、真理を実践するために自分自身を捨てられるよう、自分の本性を自制するというモットーにフォーカスする必要があります。そのため、傲慢な本性、独り善がり、パートナーの意見を聞き入れたがらないなど、私の腐敗した側面に応じて、私は次のようなモットーを打ち立てました。「少しばかりの悪臭を除いて、糞には傲慢になれる根拠がない。」パートナーの質問に答える時は、必ず、最初にこのモットーで自戒し、私の本質は糞のようなものであり、全身は悪臭に満たされていることをしっかりと思い出すようにしました。また、私の傲慢さとエゴにより、これまであまりにも多くの問題を働きの中で引き起こしてきたこと、そして、私には傲慢になる根拠が無いことを思い出すようにしました。これにより、私が常に100%正しいという考えに固執することはなくなり、同時に、神を求める心をもたらし、自分自身を謙虚にし、他者の意見に進んで耳を傾けられるようになりました。今でも他人の意見に反論したくなる時がありますが、モットーを思い出し、意識的に自分自身を捨て、調和的に協力することの真理を実践しています。

   しばらくして、私は驚くべきことを発見しました。私が自分自身を謙虚に自制することで、パートナーの話から聖霊の啓示を受け、光に照らされるようになり、真理を受け取るという全く考えてもみなかった側面を目の当たりにしたのです。同時に、他者の長所についても発見し、私に足りないところを補うために、彼らの長所を進んで引き出すようになりました。また、全てにおいて私のほうが他人よりも優れているとは考えなくなり、私の思い上がった頭を垂れるようになりました。自分自身の本心を表すことは、前ほど辛いものではなくなり、私は心から、自分自身を謙虚に自制し、パートナーの意見を謙虚に聞き入れることは、私の人生を前進させるのに有益であるだけではなく、各自の足りないところを補い合い、一丸となって作業することで結果が良くなるため、これはかなり良いものであると感じるようになりました。

   この経験を通して、モットーを打ち立てることで私の腐敗した性質が露呈されるのを意識的に自制することができるようになり、罪を軽減するだけではなく、さらに真理を理解する機会が与えられるようになり、私は真理を実践することの良さを実感しました。同時に、これまで私が露呈してきた傲慢な本性がいかに醜く、不快なものであったかを自覚しました。これらのことに気付かさせてくださり、神様、本当にありがとうございます。これから、私は自身の腐敗したさまざまな側面に対してモットーを打ち立て、真理を実践できるよう自制していきます。また、私の本性の本質について理解できるよう神の言葉を何度も読み返し、私自身を心から嫌になり、できるだけ早く腐敗したところを取り除き、神に満足していただけるようにしていきます。


聖書の言葉-何事も思い煩ってはならない・ピリピ人への手紙4:6

2020-06-05 23:39:12 | 聖書の言葉

  聖書の言葉

   何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

ピリピ人への手紙4:6

   この聖句から私たちは祈りの重要性を理解しました。私たちは神様の前に来て求めて祈る時に、純真で率直で感謝の気持ちを持って神様に本音を言うべき、間違った動機を持って神様に求めてはならず、故意にひびきの良い言葉を言って神様に取り入り、神様を欺けてはなりません。それでは、本当の祈りとは何でしょうか。神様の言葉はこう言われています。「真に祈るとは何を意味するであろうか。それはあなたの心の中にある言葉を神に話すことであり、神の意志を把握し、神の言葉に基づいて神と交わることを意味する。またそれは殊更に神を身近に感じ、神が自分の目の前にいて、あなたには何か神に言いたいことがあると感じることである。またそれは、自分の心の中に光が射すのを著しく感じ、神が殊更に愛しいと感じることである。あなたは著しく霊の動きを感じるだろう。するとあなたの兄弟姉妹は、あなたの話を聞いて喜びに満たされるだろう。彼らは、あなたが話す言葉が、彼らの心の内の言葉であり、彼らが言いたいと願っていた言葉だと感じるだろう。あなたが言うことが、彼らが言いたいことを代表していると感じるだろう。真に祈るとは、このことを意味する。真に祈った後、あなたは心の中に安らぎを感じ、喜びに満たされるであろう。神を愛する強さが向上し、あなたは全生涯で、神を愛する事以上に価値があり大切なことは無いと感じるであろう。そして、これら全ては、あなたの祈りが効果的であったことを証明するであろう。あなたは、このように祈ったことがあるだろうか。」

 

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