賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主イエスのご身分が洗礼者ヨハネのそれと違っていたのはなぜか

2020-06-10 12:46:00 | 信仰生活

  信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

   こんにちは!お訊きしたいことが一つあります。主イエスと洗礼者ヨハネはともに約束によって生まれ、主イエスはおいでになったときに天国の福音を宣べ伝えられましたが、ヨハネも多くの働きを行ない、「悔い改めよ、天国は近づいた」という福音を広めました。しかしヨハネの身分が主イエスのご身分と同じでないのはなぜでしょう。お返事をお待ちしています。

   敬具

   張宇

 

 

   こんにちは張宇さん

   私も最初は、主イエスと洗礼者ヨハネの身分がなぜ違っているのかわかりませんでした。その後集会のとき、ある福音のウェブサイトでその問題に関する交わりを探し求めるのを、同労者の一人が手伝ってくれました。兄弟姉妹とのその交わりを通じ、私はいくらかの認識を得ました。それをいまあなたと分かち合いたいと思います。

   主イエスのご身分がヨハネの身分となぜ同じでないのかについては、聖書に答えを見つける必要があります。まずはヨハネの生誕にまつわる状況を見てみましょう。ヨハネの母エリサベツは子を身ごもることができず、夫ザカリヤとともに何年も前からすでに老いていたので、ザカリヤは神様に祈りました。すると天使が彼にこう告げました。「……あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」(ルカによる福音書1:13)「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(ルカによる福音書1:17)これらの聖句から、ヨハネが生まれる前に天使が彼の身分を明かし、エリヤの霊と力とをもって主に先立って行くと述べたことがわかります。エリヤは旧約聖書の律法の時代の預言者であり、ヨハネは実はエリヤの生まれ変わりだったのです。そのことは聖書で確認できます。「見よ、ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」(マラキ書4:5)「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイによる福音書17:10-13)

   ヨハネが生まれる前、天使はこう言いました。「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き……整えられた民を主に備えるであろう」(ルカによる福音書1:17)ヨハネが生まれたあと、ザカリヤは聖霊で満たされてヨハネにこう預言します。「幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、」(ルカによる福音書1:76)また『マルコによる福音書』第1章3節にはこう記されています。「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」これらの聖句から、ヨハネの使命は主の働きのために道を備えることであり、彼の身分が預言者のそれだったことがわかります。成長したヨハネは自分の本分と使命を履行し始めました。また聖霊の啓きのおかげで、自分が主イエスのために道を備える者だということも知りました。その一例が次の聖句です。「このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。彼は宣べ伝えて言った、『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう』」(マルコによる福音書1:6-8)これらの聖句から、ヨハネは天国の福音を宣べ伝えたものの、彼の身分は普通の人間のそれであり、主のために道を備えた預言者に過ぎないことがわかります。ヨハネは主イエスが恵みの時代の働きをよりよく実行なさることができるように、主イエスの働きを人々のあいだに広めたのです。

   これでヨハネの身分ははっきりしました。次は主イエスのご身分に目を向けましょう。『ルカによる福音書』第1章30節から35節にはこう記されています。「すると御使が言った、『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう』。そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』」またイザヤもこう預言しました。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ書9:6)イエスが地上へおいでになる以前、そのご身分は神様の子、すなわち神様ご自身のそれだと、天使がすでに言っていたのです。そして預言者イザヤもイエスのご身分は神様だと預言しました。

   ここで他の聖句を読みましょう。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(マタイによる福音書3:16-17)「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である』」(マタイによる福音書16:15-17)これらの聖句から、イエスがご自身の職分をお始めになるべく洗礼を受けられたとき、イエスは神様の愛する御子であると聖霊が直接証しをしたことと、イエスが自分は誰かとペテロにお訊きになったとき、ペテロは聖霊に啓かれ、イエスこそ生ける神の子キリストであると答えたことがわかります。またイエスはこうもおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)以上の聖句から、イエスのご身分はキリストであり神様であることがはっきりわかります。

   これらの聖句から、主イエスと洗礼者ヨハネはともに約束によって生まれたものの、二人の身分には決定的な違いがあったことがわかります。主イエスが肉となられた神様でありキリストである一方、ヨハネは神様によって用いられる人、預言者に過ぎませんでした。

   加えて主イエスとヨハネの働きの本質からも、両者の身分の違いがわかります。神様の御言葉はこうおっしゃっています。「ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。」

   神様の御言葉のこの部分を最後まで読むと、外見で判断すれば主イエスとヨハネはともに普通の正常な人であり、したがって二人の身分を区別するのは容易でないものの、二人の行なった働きを通じて二人の身分を区別し確かめられることが理解できます。当時、ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣べ伝え、多くの人が彼に従いました。しかし彼は悔い改めの具体的な道を語ることができず、主イエスのために道を備え、人々が神様の働きと歩調を合わせられるように天国の福音を彼らに伝えただけでした。ヨハネが広めた福音を聞いたあと、人々は悔い改めることしか知らず、実践すべき道は知らなかったので、いまだ律法に制約されたままでした。ヨハネは人間であり、真理を有しておらずそれを表することもできなかったので、人々に道や真理やいのちをもたらすことはできませんでした。それに比べると、主イエスもご自身の職分を果たし始めるとき、悔い改めの道をお広めになりました。外見から判断すれば主イエスは普通の正常な人間ですが、神性の実質を有しておられました。主イエスは新しい時代を導いて古い時代を終わらせることができ、また人々のために真理を表わして実践すべき道を指し示すこともおできになりました。一例を挙げると、自分に対して罪を犯した兄弟を何度赦すべきかとペテロが尋ねたとき、主イエスは七たびを七十倍するまで赦すよう彼におっしゃいました(マタイによる福音書18:21-22を参照のこと)。またイエスは、天国に入るための条件は父の御心を行なうことだと私たちにおっしゃっています(マタイによる福音書7:21-23を参照のこと)。他にもまだありますが、主イエスが表現されたこれらの御言葉によって、私たちは神様の御心をはっきり理解するとともに、実践の道を知るようになります。さらに重要なこととして、主イエスは十字架につけられて人のために罪の捧げ物としてお仕えになり、それによって人を罪から救えるように肉となられました。人は自分の罪を赦されて初めて、神様に祈り神様の救いを得る機会を持つのです。主イエスがそのようになさっていなければ、人は律法によって罰せられ、律法の下で死刑に処されていたでしょう。人類を贖う働きは主イエスだけがおできになったのであって、ヨハネや他の誰かがそのような働きを行なうことはできませんでした。

   よって以上二つの側面から、主イエスとヨハネの身分がなぜ違っているのかがわかります。

   以上の交わりと理解があなたのお役に立つことを願っています。

   信仰ステーション