賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

二つの石の運命

2020-05-16 22:16:36 | デボーション

   わたしはこういう物語を読んだことがあります。ある山には、二つの石が並び立っていました。ある日、一つ目の石は二つ目の石に「わたしは外の世界に行っていろいろと経験し、見聞を広めたいんだ」と言いました。二つ目の石はこれを聞いて、「ここの安逸な生活をあきらめない方がいいじゃないか」と勧めました。

 

   しかし、一つ目の石はすでに、離れることを決めました。それで、彼は川の流れに沿って走り始めました。彼は途中で多くの苦難を経験しましたが、自分の選択を後悔しませんでした。

 

   二つ目の石は彼が多くの挫折や不幸に遭ったのを見て、彼に早くあきらめるように勧めました。だが、一つ目の石は決意を変えず、依然として自分の理想を堅持していました。

 

   長年たった後、幾多の試練に耐えてきた一つ目の石は世界の珍品、奇石になり、博物館に収蔵されていて、人々の称賛の的となりました。

 

   二つ目の石も一つ目の石に倣いたいが、途中の苦難をこわがるため、あきらめました。その後、彼は人に打ち砕かれて、家を建てるのに使われました。




   同じく石ではあるが、違う運命があります。一つの石は安逸に日を送るが、もう一つの石は険しい苦難の道を選び、苦難をなめ尽くして世界の珍品、奇石になり、多くの人に賛美され、称賛されました。明らかに、一つ目の石の選択は成功しました。二つ目の石は苦難をこわがるため、一時的な享受、安逸を選びました。最終的に、彼は人に打ち砕かれました。明らかに、二つ目の石の選択は失敗しました。

 

   この物語にはわたしは考えさせられました。神を信じる過程の中で、リスチャンとしてのわたしたちもこの二つの石と同じように選択に直面しなければなりませんか。もし一つ目の石のようになりたくて、真理を追い求め、神を認識する道を歩むなら、わたしたちはいくらかの苦しみを受け、名利や地位や金銭や世的な享受や世にある前途などを捨てなければならず、また、さまざまな環境によってもたらされる苦難、例えば世の人の迫害、誹謗、あざ笑い、侮辱などを経験しなければなりません。精錬された愛こそ強いです。人は精錬されてこそ、きよくなることができます。これらの苦難、試練を経験せず、安逸をむさぼるなら、絶対に真理を得られず、また神に良しとされることができません。これらの苦難、試練は、神が人を完全にするのに絶対に必要なものです。神に重用された人はみな多くの苦難を受けました。神に祝福された人も苦難、試練の中で神のために証しをしました。ペテロはわずか七年の間に数百回の試練を受けました。そのため、神に完全にされました。この数百回の試練の中で、ペテロは多くの苦しみを受けました。その結果、彼は神を認識する人になりました。これで分かるように、苦難、試練はわたしたちの命における富であり、わたしたちに命、希望、祝福をもたらすことができます。それは聖書に書かれているとおりです。「……。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(申8:17)。

 

   ヨブのことを例にあげましょう。ヨブは非常に大きな苦難、試練を受けた後、神に祝福されました。彼は満山の牛や羊、巨万の財産を失い、全身に重い皮膚病ができ、また彼の三人の友達と妻に誹謗されました。彼はこんなに多くの苦しみを受けたが、神に従順で、神を怨まず、神のために証しをしました。こうして、サタンは恥を受け、失敗しました。ヨブは以前神のことをうわさで聞いていましたが、このような苦難を受けた後、神の存在を感じ、しかも神に良しとされ、倍にして祝福されました。ヨブが神を信じる上で歩む道は、わたしたちが見習うべきです。神を信じる上でこのような道を歩むなら、多くの苦しみを受けなければならないが、神を満足させ、造物主の称賛と祝福を得ることができます。それは最も価値のあること、最も意義のあることです。一つ目の石の場合もそうでした。彼は苦難をなめ尽くし、幾多の試練を経た後、世界の珍品になり、多くの人に賛美され、称賛され、成功の喜びを味わいました。

 

   神を認識するという目的を達成しようと追い求める一部の兄弟姉妹は、肉体の享受を捨てて、神のために費やします。彼らは入獄しても気にせず、どんな苦しみを受けても、どんな苦難をなめても、神を離れません。彼らはさまざまな苦難や試練を受けたことによって、神を愛する人、神と心を一つにする人になり、真の人らしさを持つようになりました。これは次のような聖書の言葉を成就しました。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリ二4:17-18)。

 

   もし、わたしたちが二つ目の石のようになりたくて、真理を追い求めず、現状に満足し、肉体を思いやり、安逸をむさぼり、肉体が享受できるだけで満足し、集会に参加したり、祈ったり、神の言葉を読んだりするだけで満足し、時をつぶしたり、心の空白を埋めたり、家庭の平安を得るために神を信じていて、神を認識し、神を満足させることを追い求めず、神の道を行わないとすれば、わたしたちは神に良しとされることができず、きっと安逸のゆえに自分の命を失います。失敗への道を歩むなら、祝福を得ようという人の夢は二つ目の石のように粉々に砕かれます。神を信じるすべての人は、神が準備してくださる良い最終的な落ち着き先を得ようとします。だが、人が成功するどうかは、人の歩む道にかかっています。


「船」という字の由来と奥義

2020-05-14 22:04:14 | デボーション

   わたしたちが知っているように、「船」は現代で航海し、遠出するのに欠かせない一種の乗り物であり、科学研究を行なったり、戦ったりするための一種の武器でもあります。ところが、「船」という字の由来と「船」という字の奥義を知っている人は少ないです。実は、「船」という字の構造には意味があるのです。どの字の背後にも一つの物語があります。今日、わたしたちは一緒に「船」という字の由来と奥義を探究しましょう。

 

一、皆さんは世界の初めての船がだれによって造られたのかを知っていますか

   多数の人はこの問題が分からないかもしれません。だが、クリスチャンのわたしたちは自信を持ってこの問題に答えることができます。「世界の初めての船はノアによって造られたのです。聖書の創世記第6章14節では、『あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい』と、神はノアに命じられたからです」と。実は、ノアがあの時造った初めての船は箱舟と呼ばれます。それはゴフェルの木で造られたのです。




二、皆さんは、ノアが箱舟を造った目的と意義が何かを知っていますか

   多くの人はこう言うでしょう。「船を造るのは、人の便利を図ったり、交通機関として貨物を運送したり、海で旅客を運んだりするためであり、また各国間の軍備拡張競争のためだ」と。しかし、クリスチャンのわたしたちはこのことで異なる観点があります。わたしたちが知っているように、あの時ノアが箱舟を造ったのはこれらのためではなく、神の命令に従い、大洪水に襲われるのを避けるためでした。四千年も前に、人類はかなり堕落していて邪悪で、この地は不法と殺戮に満ちていました。人々は世界の邪悪な潮流に従い、酒食遊楽にふけて、無為な日々を送り、悪事の限りを尽くし、そのため神の怒りに触れました。神は極みまで堕落したこの人類をもう見たくなくなって、洪水によってこの汚れた古い世界を滅ぼそうと計画しました。そのため、義人ノアを召して箱舟を造らせました。神はそうすることによって人を救われるのでした。しかし、当時ノア以外にいかなる人も神が洪水によってこの世を滅ぼすことを信じず、ノア一人だけが神の言葉に聞き従い、息子たちと一緒に箱舟を造りました。大洪水が起こった時、ノアの一家八人だけが箱舟に入って神の救いを得ました。これは、神がノアに箱舟を造ることを命じた目的と意義です。

 

三、皆さんは箱舟の大きさがどのくらいか、「船」という字の由来にどんな意義が含められるかを知っていますか

   箱舟の大きさがどのくらいかという問題には、多くの人はとっさには答えられないかもしれません。だが、クリスチャンのわたしたちはこの問題は難しくないと思います。聖書の創世記第6章15-16節はすでにわたしたちにこう告げているからです。「次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい」。これは、神が造るよう命じた箱舟のサイズと構造でした。

   ノアは神の召しを聞いた後、箱舟を造り始め、しかも当時の人々に福音を宣べ伝えました。百年あまり後に、箱舟が造り上げられました。にもかかわらず、神が洪水によってこの世を滅ぼすことを信じる人は一人もいませんでした。最終的に、ノアの一家八人、そして生き残るように定められた地上の鳥や獣などの生き物は箱舟に入りました。箱舟の門が閉められた後、神は洪水を地に下されました。雨は四十日四十夜降り続きました。とうとう、いちばん高い山でさえ、水をかぶってしまい、水面から三メートルも下に沈みました。地上のすべての生き物とその時代の邪悪で堕落した人類はこのようにして滅ぼされました。洪水がこの世を滅ぼした時、ノア夫婦、および彼らの三人の息子、三人の嫁、すなわちノアの一家八人は箱舟に入り、神に救われて生き残りました。こうして、「船」という字は次のように形成されました。舟+八+口=船。これは「船」という字の由来です。

   これで分かるように、箱舟は神の救いを予表しています。ノア一家は神を信じ、神に従ったため、箱舟に入り、あの時の洪水の中で生き残った唯一の人類になりました。それに引き換え、神が洪水によってこの世を滅ぼすことを信じず、また箱舟に入れなかった人たち、すなわち神の救いを得ていなかった人たちは滅ぼされました。

   「船」という字は、かつて人類が罪悪のゆえに、洪水をもって神によって滅ぼされたことを、常にわたしたちに思い出させます。

   世の終わりの今日、わたしたち人類の堕落した程度は、ノアの時代の人類のそれをはるかに超えています。これはだれの目にも明らかな事実です。だから、主イエスは世の終わりに大きな苦難があると預言されました。それについて、彼はこう言われました、「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」(マタ24:21)。また、わたしたちが知っているように、月が四回血に変わるという預言はすでに実現しました。そのため、大きな災難がもうすぐわたしたちに臨みます。では、わたしたちがどのように追い求めれば、神の世の終わりの救いを得、世の終わりの箱舟に入ることができるでしょうか。

 

四、わたしたちは世の終わりの箱舟とは何かを知っていますか

   ヨハネの黙示録にはこう預言されています。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:7)。主イエスがこう言われました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。その中から分かりますが、神は世の終わりに再来される時、声を発し、言葉を言って、わたしたち人類に真理を与えられます。賢い乙女は神の声を聞いたら、神が世の終わりに発表される真理を受け入れ、それに従うことができます。こうして、神の御座の前に携え上げられて、神と共に宴席に着くことになります。そうなれば、「世の終わりの箱舟」に入りました。だから、世の終わりの「箱舟」に入りたいなら、わたしたちは聖霊の声、言葉を探し、世の終わりのキリストの発表される真理を命として受け入れなければならず、ノアの一家八人のように神の言葉を聞き、神に従い、神を畏れ、悪を避けなければなりません。そうすれば、大災難の中で神に守られて生き残ることができます。


神の働きの三段階の相互関係

2020-05-13 21:34:46 | 天の国の福音

   ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

 

   六千年の経営(救いの)計画は働きの上で三段階に分けられている。どの段階も一つだけで三つの時代の働きを表すことはできず、全体の一部だけを表すことができる。ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神はただ人間に律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことを言うのは誤りであろう。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。よって、もし神が律法の時代だけの働きをしたのなら、人は神のことを「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣を着て、神殿に入らなければならない」と定義して、そこに閉じ込めてしまうだろう。もし恵みの時代の働きが決して実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神は憐み深く愛する神でもあることを人間は知らなかっただろう。もし律法の時代の働きがなされず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことができることしか人間は知らなかっただろう。神は聖なる汚れのない存在であり、神は自身を人間のために犠牲にし十字架にかけられることが出来ることしか知らなかっただろう。人はこのことしか知らず、他のことは何も理解しなかっただろう。だから、それぞれの時代は神の性質の一部だけを現すのである。神の性質のどの側面が律法の時代に、また恵みの時代に、また今の時代に表わされているかに関しては、これら三時代を一つの全体として統合して初めて、神の性質の全体を表すことができる。人がこれら三段階すべてを知って初めて、それを完全に理解することができる。この三段階の一つも排除することはできない。あなたはこれら三段階の働きを知って初めて、神の性質をその全体性において見ることができる。律法の時代における神の働きの完成は、神がただ律法の下の神であることを証明するのではなく、神の贖いの働きの完成は、神が永遠に人類を贖うことを示しているのでもない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代は終わったが、神は十字架にしか属さず、十字架だけが神の救いを象徴すると言うことはできない。もしそうするならば、神を定義していることになる。現在の段階では、神はおもに言葉の働きをしているが、神は人に対して憐れみ深くあったことなどなく、神がもたらしたものは刑罰と裁きでしかないなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを表し、人類の中で救いの全ての働きを完結するためになされる。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてに終結をもたらす。人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされなければならない。人が奥義をその深みまで知り尽くし、心の中で完全にはっきりと理解できるようにである。その時初めて人はそれぞれの種類によって区分される。六千年の経営(救いの)計画が完成して初めて、人は神の性質の全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営(救い)はその時に終わっているからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   

   現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」より

 

   働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営(救い)も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。…三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

 

   神の経営全体は、三段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求が為される。さらに、様々な時代が経過し進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求はより高くなる。このようにして、この神の経営の働きは、人間が「言葉は肉として現れる」という事実を目の当たりにするまで、段階ごとに進んで絶頂に達する。また、そのようにして人間に対する要求と、人間が証しすることへの要求はさらに高度化する。真に神と協力することが可能であればあるほど、一層人間は神に栄光を帰す。人間の協力とは、人間が行うよう要求される証しであり、人間が行う証しは、人間による実践である。ゆえに、神の働きが然るべき成果を得られるかどうか、真の証が存在し得るかどうかは、人間による協力と証と密接に結びついている。働きが終わる時、つまり神の経営が全て終わりに達する時、人間はより高い証しをするよう要求されるであろう。そして神の働きが終局に達する時、人間の実践と霊的成長は頂点に達するだろう。過去において、人間は律法と戒めに従うことを要求され、忍耐強く謙遜であることを要求された。現在、人間は神の采配の全てに従い、神への至高の愛を備えることを要求されており、最終的には患難のただ中でも神を愛することが要求されている。これら三つの段階こそが、神が自身の経営全体にわたって、段階ごとに人間に要求することである。神の働きの各段階は、その前の段階よりも一層深くなり、各段階における人間に対する要求は、その前の段階よりも一層深遠であり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神によって要求される基準に常に近づいてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求がさらに高くなってゆくからであり、その時初めて、神の働きが完了し、全人類がサタンの影響から救われるまで、人類は次第にサタンの影響から離れてゆく。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

 

   三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より


再臨のメシアが現れた。私たちはどのように探すべきか

2020-05-12 11:46:05 | キリストの再臨

   【編集者メモ】ここ数年、災害がますます多くなり、聖書の中の主の再来に関する預言は既に実現され、なぜ私たちはなかなか主が雲に乗って降臨されるのを見ていないのか。主は戻られたのか。主の再来はいったいどのように人間に現れ、私たちはどのようにして主を迎えることができるのか。この文章を読んで理解しましょう。

   ここ数年、地震、飢饉、疫病などの災害がますます多くなり、聖書の中の主の再来に関する預言は既に実現され、真心で主の出現を切望する多くの兄弟姉妹は、主が戻られたかもしれないと感じています。しかし、なぜ今、私たちはまだ主を迎えていないのか。主はいったいどこにおられるのか。私たちはどのように主の出現を探し求めるべきか。この話題に言及したら、ある人は、今主はまだ戻られていないので、探し求める必要がない、なぜなら聖書にはこう書かれています。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)主が戻られる時に雲に乗って降臨され、気勢がすさまじく、今これらの光景はまだ現れていないので、主がまだ戻られていないことを証明していると思っています。

 

 

   今二つの違う考えがあります。では、主はいったい戻られたのか。主が再来の時にどのように人間に現れるのか。私たちは主が雲に乗って来られるのを待って、神様の出現を見て主を迎えることを保証できるのか。これ らの問題に対して、私たちは一緒に交流しましょう。

 

主が雲に乗って降臨されるのを座して待つことで、神様の出現を見ることができるのか

   多くの兄弟姉妹は聖句「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝1:11)に基づいて、主イエスが復活されて天に上った時に雲の乗って去り、主が再来される時にも、復活された霊体で雲に乗って来られ、主が雲に乗って降臨される光景を見ていない限り、主がまだ来られていないことを意味すると思っています。しかし、私たちのこのような理解の仕方は完全に神様の心にかなうと保証できますか。ヤーウェ神は言われました。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっているとヤーウェ神は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:8~9)神様の知恵は天より高く、私たち被造物である人間はどうして神様の働きを推し測ることができようか。終わりの日に主はいったいどのように現れて働かれるかについて、私たち人間はこれを決めつけるべきではありません。当時聖書にメシアが来ると預言され、結局主イエスが来られたように、これは私たち人間が想像できるものでしょうか。当時のパリサイ人は傲慢で高ぶり、自分の観念と想像に固執したため、神様に抵抗する人になりました。主イエスの言葉と働きにはどれほどの権利や力をもっていても、彼らはひたすらに観念と想像に基づいて神様の働きを決めつけ、メシアが来られて権力を担うので、きっと王の宮殿に生まれ、そして外見が威風堂々としていると思っていました。そのため、彼らは主イエスが普通のユダヤ人であり、名前もメシアと呼ばず、王の宮殿に生まれなかったことを見たとき、主の働きを拒絶して受け入れなかっただけでなく、ひいてはローマ政府と共謀して主イエスを十字架に釘付けにしてしまい、最後に神様の懲罰を受けたのです。しかし、パリサイ人はどのように主を罪に定めても、主に抵抗しても、主イエスが現れて働かれたことは事実であり、そして全人類を贖う働きを完成させたのです。ゆえに、神様の出現と働きであるかどうかは、人間が認めるかどうかによって決まるのではなく、神様の働きの事実に基づくのです。今、災害が頻発しており、イスラエルが戻り、四つの血の月は既に現れ、これはまさに主の再来の預言を実現しています。もし、主は既に戻って来られたら、私たちはまだ消極的に主が雲に乗って降臨されることを待っていて、パリサイ人が主イエスに抵抗したことと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。神様が言われた通りです。「あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。」

   実は、終わりの日に主はいったいどのように来られるかについて、聖書には雲に乗って降臨される預言以外に、密かに降臨される預言もあります。例えば、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(ヨハネの黙示録3:3)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)これらの聖句は「夜中に叫ぶ声がした」「盗人のよう」と言及し、これは主が再来される時にこっそりと来られ、密かに人の間に降臨され、言葉で私たちに戸を叩くことを示しています。もし、終わりの日に主が雲に乗って降臨され私たちに現れるなら、これらの預言はまたどのように実現されるのか。もし、主が雲に乗って降臨されるなら、まだ人に戸を叩く必要があるのか。もし、主が雲に乗って主を信じるすべての人に現れるなら、すべての人があえて抵抗できず、みな主の御前にひれ伏すのですが、聖書に預言された主が再来される時に、毒麦と麦、ヤギと羊、愚かな乙女と賢い乙女を分ける働きをどのように成就されるのか。そのため、私たちは一節また二節の預言に基づいて、主の再来は白い雲に乗って私たちに現れると決めつけてはいけません。このようにして容易に神様の意図を誤解してしまうのです。

 

神様の出現をどのように探し求めるか

   つい先ほど、私たちは聖書の預言に基づいて、主の再来のもう一つの方法は密かに降臨されることに言及しました。では、私たちは神様の出現をどのように探し求めるべきでしょうか。主イエスは言われました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)また『ヨハネの黙示録』の多くの箇所に預言されています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録第2、3章)主の言葉とヨハネの黙示録の預言から分かるのは、主の現れを探し求めることにおいて、消極的に主が雲に乗って降臨されるのを待ってはいけません。神様の声を聞くことを学び、諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるべきです。神様はどう言われるかを一緒に読んでみましょう。「神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。……

   ……神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。」

   神様の言葉から私たちが分かるのは、神様の現れをその目で見たいと思うなら、神様の足跡をたどりたいと願うなら、神様の語られた言葉を探し求めるべきです。以前、私たちは神様の現れを目で見るのは、主が霊体で白い雲に乗って突然私たちに現れることを指していると思っていました。実際のところ、神様が人間に姿を現すことは何かのしるしではなく、短期間で人間に現れることでもありません。神様が自ら人間の間に降臨されて人類を救う働きをなさり、古い時代を終わらせ、人間に真理を与えられ、人間を新しい時代へと導かれるのです。そのため、私たちは神様の語られた新しい言葉を見つけたら、神様の声を聞き、神様の出現を目で見ているのです。主イエスが現れて働きをなさった時のように、律法の時代を終わらせ、新しい時代を開かれ、悔い改めの道を語られ、人間に罪を告白し、悔い改め、寛容や忍耐、敵を愛するなどを教えてくださり、また天国の奥義、天国に入る条件を明らかにされるなどです。例えば、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)これらの言葉は私たちがどのように天国に入るかにかかわるのです。聞いたら、とても奥深く、権威と力があり、人間には話すことができないと感じ、受肉された神様が地上で語られた言葉です。それらの主イエスの説教を聞いて、神様の声であることが分かり、主イエスの働きを受け入れる人は、神様の出現を目にし、神様の足跡をたどっているのです。しかし、それらの律法に固執し、ただメシアの到来だけを待つ人は、主イエスの語られた言葉を聞いても、主イエスの行われた奇跡は人間にはできないことを目にしても、神様の出現だと認めません。かえって、主イエスが神様を汚し、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出していると裁き、罪に定めました。これらの人は神様の声を聞き分けないので、愚かな乙女であり、神様に露わにされ排除される対象です。したがって、私たちは主の現れを迎えるには、神様の声に注意を払って慎重に聞くことが肝心です。主イエスは既にご自身が再来される時にまた真理を語られると預言されました。例えば、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12~13)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)またヨハネによる福音書17章17節にこう書かれています。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」ペテロの第一の手紙4章17節にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」これらの聖句から分かるのは、主が再来される時に、私たちの霊的背丈によって、恵みの時代より多く、より高い真理を語られ、つまり「御霊が諸教会に言うこと」を語れて、そして神様の家から始まる裁きの働きをなさり、神様の語られる真理を用いて私たちの堕落した性質を清め、私たちが罪の束縛から解放され、清められて天国に入ることができるようになります。そのため、私たちは主の現れを迎えることにおいて、当面の急務は諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるべきです。

 

神様は既に現れて働かれ、あなたは神様の声がわかったのか

   では、私たちはどこで諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるのか。実際のところ、主は既に戻られ、終わりの日のキリスト全能神であり、既に受肉されて人の子として中国で現れて働かれ、人類を清め、救うすべての真理を語られ、神様の家から始まる裁きの働きをなさり、恵みの時代を終わらせ、神の国の時代を開かれました。今、全能神の神の国の福音は既に西方に広がり、全能神の言葉は20カ国あまりの言葉に翻訳され、インターネットに載せ、全人類が尋ね求め、考察するのに提供しています。これはまさに聖書の預言「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書24:27)の実現です。終わりの日に、全能神が神様の六千年の経営(救い)の働きの奥義を明らかにされ、私たち人類が神様に抵抗する罪を犯す根源を露わにされ、また私たちに清められ、救われる道を指し示してくださり、これらの真理は真の光であり、東から西にひらめき渡るのです。一緒にいくつかの全能神の言葉を読み、これらの言葉は真理であるかどうか、神様の声であるかどうかを見てみましょう。

   全能神は言われます。「わたしの何年もの働きのあいだ、人間は多くを受け、多くをあきらめてきたが、それでも人間は真にわたしを信じていないとわたしは言う。なぜなら、人間はわたしが神であること口先では認めはするものの、わたしが話す真理には異議を唱え、わたしが彼らに要求する真理の実践を行なうことなど尚更ないからである。つまり、人間は神の存在だけを認め、真理の存在は認めない。神の存在だけを認め、いのちの存在は認めない。神の名だけを認め、神の本質は認めない。その熱心さゆえに、人間はわたしにとって嫌悪するべきものとなった。人間はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を使うだけで、わたしを真の心をもって礼拝する者はいないからである。あなたがたの言葉には、蛇の誘惑がある。さらに、それは極端なまでに不遜で、まさに大天使の宣言そのものである。その上に、あなたがたの行いは不名誉なほどにボロのように破れている。あなたがたの過度の欲望や貪欲なもくろみは聞くに堪えない。あなたがたは皆、わたしの家の蛾、嫌悪をもって捨て去られる対象になった。あなたがたの誰も真理を愛する人ではなく、むしろ祝福を欲し、天に昇ることを欲し、キリストが地上でその力を振るう荘厳な光景を見ることを欲する人だからである。しかし、そこまで深く堕落し、神が何であるかを全く知らないあなたがたのような人が、どうして神に従うに値することがあり得るのかを考えたことがあるのか。どうして天に昇れるというのだろうか。壮麗さにおいて前例のないその荘厳さを見るのに、どうして値することがあり得るというのか。」

   「神に対するあなたの信仰の目的は、あなた方自身の目標を達成するために神を使うことである。これは神の性質に背いたことを表すさらなる事実ではないか。あなた方は天の神の存在は信じ、地上の神の存在を否定するが、私はあなた方の見方を認めない。私は地に足を着け地上の神に仕える人だけを賞賛し、地上のキリストを認めようとしない人は決して賞賛しない。そのような人は、どれほど天の神に忠実であろうとも、最後は悪人を罰する私の手から逃れられない。このような人は悪人である。彼らは神に敵対し、キリストに喜んで従ったことのない邪悪な者たちである。無論、キリストを知らない者、さらにはキリストを認めない者もみなこれに含まれる。」

   「わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。」

   全能神のこれらの人を裁き、露わにされる言葉を読んで、真の心と霊がある兄弟姉妹は、皆神様の言葉の権威と力を感じ、神様の義なる性質の現れを目にすると思います。全能神の言葉は私たちの真理を憎み、貪欲、偽り、横柄で傲慢などの堕落した性質、また信仰において誤った観点を明らかにされます。以前私たちは自分が苦労して働き、すべてを捨て苦しみを受けることができ、神様を愛する人であると思っていました。神様の言葉の裁きを受け入れることを通して、私たちは自分の性質は極めて傲慢であり、神様の出現と働きが私たちの観念と一致しないとき、あえて観念と想像によって神様の働きを決めつけてしまうのです。同時に、私たちの神様への信仰が極めて不純であり、真理を得て、神様の愛に報いるために神様を信じるのではなく、祝福を得て災害から逃れて天国に入るためであることに気づきました。私たちは神様のために自らを費やしますが、私たちは神様への本当の従順、本当の愛がありません。神様が祝福してくださる時、私たちは進んで神様のために自らを費やします。しかし、患難や試練に臨む時、私たちは自分を制御できずに神様に不平を言い、ひいては神様を疑い、否認します。これらの言葉の裁きがなければ、私たちは自己を少しも知らず、自分を称賛さえし、自分が既に神様を愛し、神様に従順な人であり、主が再来される時に直接引き上げられて天国に入れると思っています。しかし、神様の言葉の裁きを受け入れてから、私たちは神様がとても聖くて義なるお方であり、神様を信じることにおいて、罪から抜け出すために真理を追求せず、祝福と恵みを得るために神様を信じるのは、神様を利用し、神様の性質を犯すことであるのを感じました。再び自分が神様に従順な人だと大言せず、自分が深く堕落している人であることを感じ、速やかに真理を追求し、肉に背き、堕落した性質から抜け出すべきです。同時に私たちは、終わりの日のキリストが語られた真理をもって人を裁く真摯な意図を理解し、神様の人を裁く言葉は厳しいですが、皆より私たちが自分を反省し、真の悔い改めと変化に達するため、神様の義なる性質は神様の私たちへの憐れみが含まれておられます。私たちが神様の裁きと刑罰を経験しなかったら、永遠に自分がどれほどサタンに深く堕落させられたかを見極めることができず、永遠に神様の義、威厳、背くことの許されない性質を認識できず、神様への敬う心を生み出すこともできず、永遠に罪の束縛から抜け出し、真の神様に順従な人になることもできません。もし、神様が受肉されて言葉を語られなかったら、誰かの言葉が背くことの許されない聖く義なる神様の性質を表すことができるのか。誰かが言葉を語って私たちの堕落した本質を裁き、明らかにすることができるのか。終わりの日に全能神が人を裁き、人を清めるすべての真理を語られ、神様ご自身の身分と地位が完全に明らかにされ、人類に対して裁き、罪に定めることであり、清め、救いでもあります。終わりの日に、神様は災害の前に言葉によって神様の出現を切望する人々を探し求めるのです。ノアの時代のように、神様は災害が降りかかる前に、人を救うためにノアに福音を伝えるように命じられ、福音を受け入れ、神様の言葉を信じる人々は生き残り、ノアの八人家族が神様の言葉に聞き従い、順従に箱舟に入り、最後に生き残りました。しかし、それらの事実を見ていない、信じない人々は洪水に滅ぼされました。終わりの日に、終わりの日のキリストの言葉の裁きを受け入れる人々は、清められ変化され、災害の前に神様に勝利者にされ、神様に次の時代へと導かれて、神様の祝福と約束を受け継ぐことができます。神様が勝利者の群れを作られた後、神様は大きな災害を注ぎ、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、雲に乗って公然と人間に現れ、それらの主が雲に乗って降臨されることだけを待ち、神様の密かにされている働きを拒絶する人々は、災害の中に落ち、懲罰を受け、歯ぎしりして泣き、これはまさに聖書の預言「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)を成就されています。

   それでは、私たちはどのように神様の終わりの日の働きを扱うならば神様の心に適うのでしょうか。全能神は言われます。「イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、のんきであってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。」全能神の言葉には神様の私たちへの期待が含まれ、神様は私たちが神様の終わりの日の働きに直面するときに、まず観念や想像によって決めつけずに、一人の謙虚で真理を尋ね求める人になり、神様の語られた真理を聞き、神様の声であるかどうかを尋ね求めることを求められています。こうして私たちは主の現れを迎えることができます。そうでなければ、この数年間私たちは神様を信じてきて、主の迎える機会を逃れてしまい、後悔しても後の祭りになるしかありません。


真の教会と偽の教会を識別する二つの道は、あなたが真の教会を見つけるように導く

2020-05-11 11:15:45 | 真のキリストと偽キリスト

   【編集者メモ】今、災害が至るところに起こり、聖書の中にフィラデルフィアの教会だけが災いの前に携挙されると預言されています。携挙される教会こそ真の教会です。では、私たちは真の教会と偽の教会をどのように区別するのか。どのように真の教会を見つけるのか。この文章はあなたを連れて一緒に探究しましょう。

 

   主イエスはかつてご自身が戻られる時のしるし、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7~8)を預言されました。今、災害がますます大きくなり、飢饉、地震が既に起こり、疫病、火災、洪水も続々降りかかっています。例えば、2019年12月に、中国武漢で発生した新型コロナウイルス肺炎は、人を驚かすほど迅速に広がり、僅かな2ヶ月間全世界に蔓延しました。オーストラリアでの森林火災は半年近く燃え続け、数億匹の動物が焼死、その後70万匹のコウモリがオーストラリアの各都市に侵入しました。東アフリカで25年ぶりの最も深刻な蝗害に遭遇し、数千万人が糧食の危機に直面しました。今年1月7日に、プエルトリコで102年以来最も強い地震に襲われ、全国三分の二の地域が停電の状態になりました。1月28日に、北アメリカのカリブ諸島で7.7震度の地震が起こりましたなど。これらは皆、主の再来の預言が既に実現されたことを示しています。多くのクリスチャンは皆、主が既に戻られたはずだと思っています。

 

 

   私たちは知っている通り、主が再来される時、聖書の中にフィラデルフィアの教会だけが災いの前に携挙され、ラオデキヤ教会が主に捨てられる教会だと預言されています。言い換えれば、私たちは災いの前で携挙されたいなら、神様の心に適う教会を見つけるべきです。多くの人は牧師の説教は光がなく、信者の信仰心が冷え、飲食と快楽を論じ合い、世界の流れに従うことを見て、教会堂が偽の教会であるなら、主が再来される時に捨てられるのを心配しています。しかし、ある人は教会堂が人気かつ盛んであり、聖書の知識の競争活動、聖餐、パンをさく会を開き、いろいろな祝日の祝いで雰囲気がとても活気があり、偽の教会であるはずがないと思っています。それでは、私たちは真の教会と偽の教会をどのように区別するのか。どのようにして真の教会を見つけるのか。次はこれらの話題について交わります。

 

真の教会と偽の教会への区別一:教会には聖霊の働きがあるかどうか、信者は真理を追い求めるかどうか

   聖書にはこう言われています。「今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある。」(歴代志下7:16)また主イエスは言われました。「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:19~20)ここから分かるのは、真の教会は聖霊の働きがある教会であり、真心で神様を信じ、真理を追い求める人によって構成され、ある程度は真理を慕い求める人です。彼らはあらゆることに置いて神様の意図を尋ね求めることを重視し、神様の言葉を実践して経験し、神様の心を満足させることを追い求め、そのため、必ず常に聖霊の働きを得られるリーダーであり、集会や交わりは聖霊の啓示と照らしがあり、いのちが絶えず成長し、そして誤った時、神様の叱責と鍛錬が伴い、神様への敬う心を持っています。当時の神殿のように、ヤーウェ神の栄光に満ちているから、人々は敢えて勝手気ままに悪事を働かず、ヤーウェ神に対して敬う心を持ち、神殿の中で規律正しく神様を礼拝し、誰もが敢えて律法に背くことができませんでした。このような教会の中で集会をすれば、人々の信仰心といのちが成長を続けるのです。偽教会では必ず聖霊の働きがなく、牧師の説教は昔のことを蒸し返して、新しい光がなく、信者は真の注ぎと供給を得られないので、皆弱くなって消極的になり、信仰心が冷え、集まってもどのように神様の言葉を実践するかを交わらず、皆が真理と関係ないことを論じ合い、名目だけの信仰であり、このような教会は神様の承認を全く得られないのです。

   今多くの教会堂に、牧師や長老たちが説教するものは皆が聖書の知識、霊的理論で、信者の実際の困難を全く解決できません。集会をする人がますます少なくなり、信者はお金を稼ぐことに忙しく、官能的快楽を渇望するが、重大な危険や事故に臨む時に教会堂へ行き始め、実は真心で真理を尋ね求めるのではなく、多くの人は皆恵みや平安を得るためです。また多くの信者は集会をして真理を交わる時に元気がなく、教会で様々な会食や活動を開催すると元気になり、彼らほとんどの人は、ただにぎやかにするだけであり、或いは人脈を広げ、人間関係を築き、商品を売りさばくためなどです。皆さんは一緒にいて食べるものや着るものを比べ、霊的いのちのことを交わらず、少しも神様を敬う心がなく、このような教会はいくら人が多くても、外見は賑やかであっても、停滞して変化のない場所であり、神様の祝福と導きがなく、偽の教会なのです。律法の時代の末期の神殿のように、牛や羊、鳩などを商売する場所になり、もはや神様を礼拝する場所ではなく、神様に嫌われ捨てられる強盗の巣になり、主イエスが彼らを叱られた通りです。「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった。」(マルコによる福音書11:17)そのため、真の教会と偽の教会を見分けるには、この教会は聖書の働きがあるかどうか、教会は真理を愛する人と真理を追い求める人によって構成されたかどうか、皆さんは神様を礼拝することや神様の心を満足させることを追い求めるかどうかを見極めるべきです。真心で神様を信じ、神様の言葉を実践する人によって構成される教会こそ真の教会であり、神様に承認されるのです。もし、一群の真理に興味のない人が集まったら、いくら人数が多くても、外見の勢いが強くても、偽の教会に属し、早かれ遅かれ神様に見捨てられるのです。神様がヨハネを啓示されラオデキヤの教会への手紙「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」(ヨハネの黙示録3:15~16)のようです。

 

真の教会と偽の教会への区別二:教会は真理が支配するものなのか、それとも偽牧者が支配するものなのか

   真の教会と偽の教会への区別にはとても肝心なことであり、それは教会は真理が支配するものなのか、それとも偽牧者が支配するものなのかということです。教会は神様の働きによって生まれ、もちろん神様が支配するものであり、真理が支配するものです。もし、教会のリーダーが真理を追い求める人であるなら、彼は神様の心に配慮し、あらゆることにおいて神様を高く掲げ、神様を証しし、神様の言葉を実践、経験するように信者を導き、人々を神様の前へ導き、そして、信者が心の中で神様を最も大いなるものとして崇め、あらゆることにおいて神様の意図を尋ね求め、神様の言葉によって実践し、絶対に盲目でリーダーを崇めることがないなら、このような教会は神様の言葉が支配するものであり、真理が支配するものです。かえって、もしこの教会のリーダーは真心で神様に仕える人でないなら、彼らは自分の地位、職業を奉仕しているのです。名誉と富を奪い合い、嫉妬し合い、教会の中で常に他人を見上げるように自分を高め、自分の威望を打ち立て、誰かが捧げた金額が多いなら、誰かにへつらい、重用し、かえって、それらの本当に真理を交わって光があり、正直にリーダーに意見を出す人は抑制され、排斥され、正常に教会で自分の役割を果たすことができず、多くの信者は識別力に欠け、盲目にリーダーを崇め見上げ、外見から見て神様を信じ、神様に従い、実質的には牧師や長老を信じています。このような教会は偽牧者に制御されるのであり、偽の教会です。まさに次の言葉の通りです。「会内で真理を実践する者は見捨てられ、その者は潜在能力を発揮できない一方、教会を妨害し、死を広める者は、教会内で放縦に行動する。さらに、殆どの人々がこうした者に従う。こうした教会は、明らかにサタンの支配下にあり、そこでは悪魔が教会の王である。教会の人々が立ち上がってこうした悪魔の頭を追放しなかった場合、教会の人々もまた、遅かれ早かれ破滅するであろう。今後は、こうした教会への対策を実施する必要がある。多少の真理を実践できる者が追求していない場合、その教会は追放されるであろう。」(『真理を実践しない者に対する警告』より)

   今多くの牧師や長老たちは、人々が主の御言葉を実践、経験するように導かず、信者のいのちへ入ることにおける問題を解決できず、聖霊の働きがある人を教会に導かせず、かえって地位を維持するため、一部の聖書の知識、霊的理論を話して自分を顕示し、人々に彼を崇めさせ、あるいは一部の世界の重大ニュースや健康知識を話して、信者を引きつけ、あるいは聖書の中の人の言葉を解説することを重視し、人々を導いて宗教的儀式を守ります。ある牧師や長老は外見で敬虔に見えるが、裏で捧げものを盗み、淫乱をします。またある牧師や長老は信者を取り入り、教会の勢いを拡大するため、会食や活動を開催し、マーケティングを行い、工場を設立するなど、信者を世俗の道へ導き、教会堂は混乱し悪に満ちているようになります。このような教会堂は不信者の世界との違いがなく、聖書の中に言われたバビロンと同じであり、もはや神様の性質に侵害して聖霊に見捨てられ、その後も神様に呪われ、まさに聖書に書かれた通りです。「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』。」(ヨハネの黙示録18:2~3)ここから分かるのは、一つの教会のリーダーが正しい人であるかどうかはとても重要です。もし一つの教会は偽牧者に制御されるなら、聖霊はそこで働かれるはずがなく、彼らが信者を導くのは、盲人が盲人を手引きするであり、最終的に穴に落ち込むのです。