賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

どのように男女関係の誘惑に勝利したか(第二部)

2020-03-26 23:22:43 | 信仰生活

   ワン・ウェイの件でサタンの誘惑に陥ることのなかったジンルは、二度とワン・ウェイに会ってはならないということも分かっていたが、あの晩の出来事と自分に対するワン・ウェイの熱い告白は、映画の一場面のように繰り返しジンルの心に甦ってきた……

   そしてワン・ウェイから再び電話があると、ジンルの心は僅かに揺れた。「もう二度と二人では会わないわ。でも今まで通り、友達ではいられる。自分が節度を持ってしっかりしていれば、大丈夫なのよ。」そう考えて、ワン・ウェイからの電話に出て、しばらくおしゃべりをした。そんな事をしているうちに、ジンルはワン・ウェイがまた電話をしてくるだろうかと考えるようになり、それを楽しみにするようになっていった。ワン・ウェイが電話してくる度に、自然な対応をしようとジンルは自分を落ち着かせた……そんなことが続くうちに、ワン・ウェイからの電話は以前より頻繁になった。ジンルはワン・ウェイとの会話が終わって電話を切った後、いつも心が穏やかでなくなり、心が痛み、自分のしていることが神の心に沿わないのではないかと感じた。ジンルの心の痛みと不安は、正に神がジンルに対してあの時の教えを思い起こさせ、非難しているのだと気づいた。ジンルはすぐに神の前に出て祈った。「ああ神様!私はワン・ウェイとこのようなことを続けるべきではないと分かっています。でも自分の気持ちがコントロールできません。罪に向かっている自分をどうすることもできません。ああ神様!このようなことを続けてあなたを悲しませたくありません。ああ神様!どうか私を助けてください!」

   その後ジンルはいくつか神の言葉を読み、自分を苦しみから解放する言葉を見つけた。「あなたたちはみな、罪と放蕩の場所で生活している。あなたたちは皆みだらで罪深い人々だ。今日、あなたたちは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことは、刑罰と裁きとを受け、こんなにも深い救い、つまり、神の最大の愛を受けているのだ。……あなたたちは、どうやって生活し、どのように生きていくのかを知らず、また、あなたたちは、このみだらで罪深い場所に住み、みだらで汚れた悪魔であるが、神は、あなたたちがいっそう堕落してゆくのを望まない。また神は、あなたたちがこのような汚れた場所で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびない。あるいは、あなたたちがハデスに落ちてゆくままにすることなど望まない。神はただあなたたちの群れを獲得し、完全に救いたいと願っている。……」(「征服の働きの内幕(4)」より)。 説教と交わりの中で次のように書かれていた。「情欲に溺れた人たちが最終的にどうなるか、あなた方はもう知っていますね。大抵の場合、どうなるでしょうか。呪いを受けるでしょうか。何か良いものは生まれるでしょうか。そこに一生平安はないのです。情欲がもたらすものは混乱とトラブル、それは耐え難い苦しみです。向こう見ずに結婚相手を求めたり異常な求め方をしたりする者に幸せな結末があるでしょうか。良い結果が出ることなどなく、結局は呪いを受けるのです。軽々しく扱うことではありません。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教』(VII)から「どのような人が神に完全にされるか」より) 「あなたがある特定の異性にみだらな思いを抱いた場合、その問題にどう対処するでしょうか。考えてみてください。あなたは最低限、結婚というものを尊重しなければなりません。もし相手に夫や妻がある場合、相手の結婚生活を尊重しなければなりません。相手の結婚生活の妨げになってはなりません。相手を尊重するということは、自分自身を尊重するということで、他の人たちを尊重することができないのであれば、自分自身も尊重できないのです。他の人たちを尊重するならば、自分自身も尊重するのです。もしあなたが結婚を尊重しないならば、あなたは人間性に欠けていることになります。もしあなたが結婚を尊重することができるならば、そして、他の人を愛し尊重することができるならば、その相手を傷つけることはしません。もし誰かがあなたに言い寄っても拒否することができるならば、あなたは適切に対処しているのです。そのような誘惑に負けないようにするには何が必要でしょうか。それは真理であり、あなたが真理を持ち合わせているならば、そのようなことをはっきりと知ることができます。この問題の本質をはっきりと理解して初めて、あなたは、自分の行動がどう相手を傷つけるか、相手の心がどう痛手を負うか、相手の人格をどこまで傷つけたかを知ることができ、そうして初めて、そのような行動を避けることができるのです。そのようなみだらな考えや思いが浮かんでも、あなたはいつでもそれを拒否することができ、そのようなものに興味を持つこともなくなり、注意を向けることもなくなります。あなたの心はそのようなものに揺れることはなくなるからです。(『いのちに入ることに関する交わりと説教』(VI)から「現在の教会に広がる三つの問題の解決に焦点を置く」より)

   神の言葉と交わりの言葉を熟慮する中で、ジンルは、自分がサタンの狡猾な策略と本質、そして情欲にまかせるままにした場合にもたらされる害と結果を見抜くことが出来なかったために、抜け出せない感情の渦の中に落ちてしまったのだと知った。

   そのことを思い返してみて初めて、ジンルは「愛は素晴らしい」「愛し合っていれば最後には結婚する」、「永遠を求めるより今を幸せに生きろ」、「愛することは罪ではない」といった考えを洗脳させていたのはサタンであり、サタンが、美しい愛を夢見るようにさせ、道徳や良心に制限されずにワン・ウェイのことばかり考えて連絡を取り合うようにさせて引き込まれていき、罪の中を生きて自分のしていることが過ちだと思わずに罪の喜びを求めるようにさせたのだと気づいた。

   ジンルは自分の周りで不倫問題を抱えている何人もの人々、そして愛人を抱えている何人もの男性のことを考えた。一時の欲を満足させても、結局家族の争いや結婚生活の破滅を招き、時には三角関係が原因で殺人にまで発展するのだ。昨今の動きが広がっているが、大学で、公共の集会や情報公開の場で、メディアを通じて急速に広がっている。有名人や知識人が一夜だけの関係を持ったために非難され、信用を失い、みだらな関係の代名詞のようになってしまった人もいる。特に中国政府の当局者の多くは妻と愛人がいて、その多くは政治的に対立する者たちが不倫問題を利用して陰謀を企て、それによって重罪人として投獄されたりもしている。ジンルは、不倫関係に陥る人達はただ自分の情欲を満たすためだけにそのようなことをしていることをはっきりと理解していて、それは否定的なことであり、邪悪なことであり、人を泥沼に陥らせるだけのものだと分かっていた。賭け事で損をするともう一度やりたくなってしまう人たちが、最後には家族を経済的崩壊へと陥らせ、家族がばらばらになってしまうのと同じように、情欲に溺れる人々は一度そのような関係を持つと、同じことを繰り返すようになり、遂には姦淫の罪から抜け出せなくなるのだ。そのようにして最終的に彼らは自分たちの体を破壊し、将来どこまでもその問題を引きずり、生きる気力を失って自ら命を絶つ人さえいる。それだから、ジンルは情欲に任せていることは良くないと感じた。罪深いことで、天からの罰と怒りを招くことだと思った。そして人を破滅の道に引き込むことであると。そしてジンルは、サタン的哲学と理論は全て妄想であり偽りであり、真実ではなく、人を騙し、サタンが人を堕落させる道具であり、不倫に関わる男女の間に本当の愛はないことを理解した。もし本当の愛があるならば、その人には人間性があり、相手を敬い、結婚というものを敬い、相手を傷つけることは一切しない。不倫をする人間はみな互いの情欲をもてあそび、相手を利用しているのだ。ジンルがそれを理解した時、神の前に出て、こう祈った。「ああ神様!サタンの毒に侵されて生きる結果がどのようなものかやっと理解できました。これ以上サタンの毒に侵されて肉の欲の中に生きたくありません。ワン・ウェイと連絡を取り合いながら生活することは誠実さも品格もないものです。私はこんなことを続けることであなたの名前を辱めることなどしたくありませんし、クリスチャンとしての証しを失いたくありません。私に神様を畏れる心を与え、真理の原則を貫いて肉を捨て、危険を知った時にはそれを避け、神様の栄光のために真の人間の姿を生きる者とさせてください。」

   ある日ジンルがスクーターで教会へ向かっていると、ちょうどワン・ウェイが車で通りかかった。ワン・ウェイはジンルを呼んだ。ジンルは答えたかったが、その瞬間に神様からの言葉と神の前での自分の祈りを思い出した。ジンルはこのままの状態を続けることはできないと分かっていたので、車の中のワン・ウェイを見ただけで何も言わなかった。ジンルはスクーターを止めることなく走らせていくと、ワン・ウェイが着いてきて、クラクションを鳴らした。心の中でジンルは神に祈り、サタンの策略から自分を守り、クリスチャンとしての証しになるようにと祈った。すると、ジンルの心は静まった。ジンルはワン・ウェイに言葉を返すこともしなかった。どうしたらワン・ウェイから逃げられるか、それだけを考えた。分かれ道に来たとき、ジンルはワン・ウェイが一方へ曲がるのを見て、急いで反対方向に向かってスクーターを走らせた……

   ジンルはその後何度もワン・ウェイと路上で出会ったが、ワン・ウェイに対する態度を変えることはなかった。すると神はジンルに道を開いてくださった。ワン・ウェイに会う時はいつでも、ワン・ウェイが誰か知り合いにばったり会ったり、渋滞だったりして、ジンルに近づくことはできなくなった。ジンルはその後ワン・ウェイと接点を持たずに済むようになった。ジンルはケータイ番号を変え、二人はその後会うことも話すこともなくなった。

   このような経験を思い起こし、ジンルは次の事を本当に理解するに至った。この誘惑だらけの世界では、日々サタンからのさまざまな誘惑に直面する。真理を持たない私たちはそのような誘惑を見分けることができず、サタンの毒によって生きてしまい、邪悪な世の流れに流されるままになり、罪に陥って抜け出せず、サタンに騙され傷つけられてしまう。サタンの様々な誘惑と巧みな策略を見抜きたいと思えば、神様の前に出て神様の言葉を身に付け、より多くの真理を理解し、肯定的な事と否定的な事の違いが分かるようにし、サタンの巧みな策略を完全に理解し、誰に会っても、どのような物事に直面しても、神様の言葉にしたがって物事を見、神様の言葉と一致して物事を行い、行動に原則が伴うようにする他に道はなく、そのようにして初めて、サタンの誘惑に陥らなくなる。神様の次の言葉にある通りだ。「人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な薬であり、糧であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。」(「真理を理解したらそれを実行せよ」より)

   ジンルは胸が一杯になって大きく呼吸し、そして思った。「神様が御言葉をもって私を救い、助けてくださらなかったならば、私はとっくに人間のあるべき姿を失って堕落し、誠実さも品位もないまま、不倫関係に陥るような酷いことをしていたわ。家庭のある人と関係を持ち、愛人になっていたんだわ。家庭を崩壊させた者のレッテルを貼られ、堕落した人生を生き、良心の呵責に苦しみながら残りの人生を生きることになっていたんだわ。」ジンルは心から神に感謝し、讃美した。ジンルは以前のような平穏な生活を取り戻し、教会で喜びを持って自分の本分を尽くし、神の言葉による裁きと清めを受け入れ、真の幸福の道をしっかりと歩んでいる。全ての栄光は神にあれ!


神の権威により、第四の日に人類の季節、日、年が造られた

2020-03-25 00:39:10 | 聖書の奥義を開く

  創造主は、最初の3日間、言葉により神の計画を実現しながら過ごした。この3日間において、神は多忙にしている様子も、疲弊している様子も無く、逆に神はこの3日間を満喫し、世界の劇的な変化を実現していた。神の前には全く新しい世界があり、神の心に秘められていた美しいイメージは、遂に神の言葉となって明らかとなった。新たな物の出現はいずれも、赤ん坊の生誕のようであり、創造主は、心にあったイメージが実際に生を受けるのを喜んだ。この時、神の心には僅かな満足感があったが、神の計画は始まったばかりであった。その翌日は一瞬にして訪れるが、その日の創造主の計画は、どのようなものであっただろうか。神はどのような言葉を述べたであろうか。また神は、どのようにして権威を行使したであろうか。それと同時に、この世に新たに登場した物は、何であっただろうか。創造主の案内に従い、神による万物創造の第四の日を検討するが、その日もまた新たな始まりの日であった。創造主にとっては、その日も素晴らしい日であり、現代の人類にとって最も重要な日となったことは当然である。その日もまた、計り知れない価値のある日となった。その日は、どのように素晴らしく、どのような重要性があり、その日の計り知れない価値の理由は何であっただろうか。まず、創造主の言葉について検討する。

   「神はまた言われた、『天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ』。」(創世記1:14-15)これは、乾いた地とそこに生きる植物を創造主が造った時に被造物によって示された権威と同じ権威の行使である。神にとって、こうした業は同様に容易であった。なぜなら、神にはそうした力があるから、すなわち神は、自身の言葉通りを実行し、神の言葉は実現されるからである。神は、天のおおぞらに光があるよう命じ、それらの明かりは天と地を照らすだけでなく、昼と夜、四季、年月を示す標識としても機能した。こうして、神が言葉を述べると、神が望んでいた取り計らいは、すべて神の意図と神が指定した方法に従って実現された。

 

 

   天の光は、空にあって光を放つ物体であり、それは空と地上、そして海を照らすことができた。こうした光は、神が命じた速度と周期で回転し、様々な時間帯にわたり地上を照らし、この周期により地上の西と東に昼と夜が造り出された。また、こうした光は昼と夜を示す標識であるのみならず、その周期により、祭日など、人間にとって重要な日も示された。またこの光は、神が定めた春夏秋冬の四季に付随して補足するものとしても最適であった。またそれと同時に、これらの光は、人間の二十四節気についても、調和して定期的かつ正確な表示として機能した。神により創造された、光による年月日の周期は、人間が農業を開始するまで理解されなかったが、実際には、現在において人間が理解している年月日の周期は神による万物創造の第四の日という、遠い昔に造られたものであり、春夏秋冬の季節の周期的な移り変わりも、はるか昔、万物の創造の第四の日に始まった。神が造った光により、人間は定期的かつ正確、明確に昼夜を区別し、日数を数え、1ヵ月という期間や1年という期間の長さを計測することができるようになった。(満月の日が1ヵ月の終わりの日であり、それにより人間は光が新たな周期に入ったことを知ることができた。半月の日は1ヵ月の半分が経過したことを示し、それにより人間は新たな節気の始まりを知らされ、ひとつの節気には何日含まれているか、ひとつの季節には何節気あるか、1年間には季節がいくつあるかなどを知ることが可能となり、それら全てが定期的に表示された。)そうしたわけで、これらの光の周期により、人間は年月日の状況を簡単に把握することができた。この時点以降、人間や万物は、光の周期により生み出される昼夜や四季の定期的な遷移のなかで、無意識に生活していた。これが、第四の日に創造主が光を造ったことの重要性である。創造主の業の目的と重要性が神の権威や力と不可分であったのは、従前と同様である。そうしたわけで、神により造られた光と、程なくしてその光が人間にもたらした価値もまた、創造主の権威の行使における完璧な施しであった。

   人間が出現する以前の新たな世界において、やがて創造主が造る新たな生き物のために、創造主は「夕と朝」、「大空」、「海と陸」、「様々な草木」、「光、季節、日、年」を造った。創造主の権威と力は、創造主が造った新しい物それぞれにおいて現れており、神の言葉とその実現は、寸分違わず、また少しも時間がずれることなく、完全に同期して発生した。こうした新たな物の出現と誕生は、創造主の権威と力を証明するものであった。神は、神の言葉通りを実行し、神の言葉は実現され、実現された物事は永遠に継続する。この事実は、過去にも現在も全く変わることが無く、また今後も永遠に変わることは無い。あなた方がこれらの聖句を改めて読む時、これらの聖句は新鮮に感じられるだろうか。あなた方にとって新しい内容や新発見はあったであろうか。もしそうしたことがあったとすれば、それは創造主の業があなた方の心を刺激し、神の権威と力に関する認識の方向性を示し、創造主に関する認識の扉を開いて、主の業と権威により、これらの言葉に命が与えられたからである。そうしたわけで、これらの聖句では、人間が創造主の権威について、実際の鮮烈な表現を確認し、創造主の至高の存在を実際に目の当たりにし、また創造主の権威と力の非凡さを見た。

   創造主の権威と力は次々と奇跡を起こし、神は人間の注意を喚起し、そうした神の権威行使により生まれる驚愕すべき業に対し、人間は目を見張らずにはいられない。神の驚異的な力は、次々と喜びをもたらし、人間は目眩がするほどの喜びに圧倒され、感嘆して息をのみ、畏敬の念を抱いて歓喜する。さらに、人間は明らかに感動し、畏敬、崇敬、愛慕の念を抱くようになる。創造主の権威と業は、人間の魂にも大きな影響力があり、人間の魂を清め、そしてなによりも人間の魂を満たすものである。神の考えや神の言葉、そして神の権威の明示のひとつひとつが、あらゆる物事から傑出したものであり、創造された人間が深い理解と認識を得る価値のある優れた業である。神の言葉により生み出された生物の数を数えると、人間の魂は神の力の謎へと惹かれ、第五の日の、創造主による万物創造における次なる業を知りたいと自然に思うようになる。

 

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第三の日、神の言葉により地と海が生まれ、神の権威により、世界が生物で満たされた

2020-03-24 11:57:41 | 聖書の奥義を開く

   次に、創世記1:9~11の最初の節を検討する。「神はまた言われた、『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ』。」神が「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」という短い言葉を述べた後、どのような変化が生じたであろうか。また光と天以外に、この空間に何が存在したであろうか。聖句には、「神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。」とある。つまり、この空間に大地と海が造られ、大地と海が分けられた。神が命令すると、これらの物が新たに出現し、「そのようになった。」のである。聖句では、神がこうした業で多忙であったと述べられているであろうか。聖句では、神が物理的な作業をしている部分が描写されているであろうか。それでは、神はこれらの業をどのように行なったのであろうか。神はどのようにして、これらの新たな物が造られるようにしたのであろうか。自明ながら、神は言葉のみで、これらの全ての創造を完了した。

 

 

   上記の3つの聖句では、3つの大きな出来事が発生したことが分かる。その3つの大きな出来事は、神の言葉により発生させられ、神の言葉により順番に神の前で現実となったものである。したがって、「神が言葉を述べた場合、その言葉は現実となる。神が命令した場合、それは確実なものとなる」というのは、無意味な言葉ではないことが分かる。神に考えが生まれた瞬間、神の本質は確認される。神がそれを言葉で述べると、その瞬間に神の本質が完全に反映される。

   次に、この聖句の最終文を検討する。「神はまた言われた、『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』。そのようになった。」神が思惟し、言葉として述べる間に、こうした様々な繊細な生き物が造り出されて、一瞬にして土から芽生え、次々とこの世の中に出現し、土を払う間もなく互いの誕生を喜び合い、生き生きと共生するようになったのである。こうした生き物は、創造主に命を与えられたことを感謝し、自分達が万物に属しており、創造主の権威を示すためにそれぞれの命を捧げることを世界に告げた。神の言葉が発せられると、土から出て青々とした様々な植物で地が満たされ、人間はそれを享受することが可能であった。また山々や平野は木々で満たされた。全く生命の存在しなかった不毛の地は、急速に草木で満ち溢れた。草と土の香りが空気に満ち、様々な植物が回り行く風を呼吸し、成長を始めた。同時に、神の言葉とそれに続く神の考えにより、全ての植物は、成長し、花を咲かせ、実を結んで繁殖するという永遠のライフサイクルを開始した。植物はそれぞれの生涯の道に忠実に従い、他の物の中にあってそれぞれの役割を果たすようになった。植物は、すべて創造主の言葉により生まれ、生きていた。植物は創造主から尽きることの無い施しと育みを授かり、創造主の権威と力を示すため、地のあらゆる場所で、根強く生き延びてゆき、創造主から授かった命の力を伝え続ける。

   創造主の命や考え、権威は特別なものであり、したがって主の言葉が発せられると、最終的な結果は「そのようになった。」となる。明らかではあるが、神は、神の手により業を行う必要がない。神はその考えと言葉を用いるのみであるが、すべてがその通りに実現する。この日、神は水を一か所に集め、乾いた地を出現させ、その後地から草木を芽生えさせ、草は種を産み、木々は実を結んだ。また神は植物をその種類により分け、それぞれの種類について個別に種を持たせた。これらは、すべて神の考えと命令に従って実現されたことであり、この新世界に次々と植物が出現した。

   神が業を始める以前、神の心には達成すべき目的のイメージがあり、そうしたイメージを実現しようとした時は、そうしたイメージについて神が言葉を述べる時でもあり、その時、神の権威と力により、万物が変化し始める。神がそれをどのように行なったか、どのように権威を行使したかを問わず、神の計画に従い、言葉により全てが順番に実現され、言葉と権威により、天と地で変化が順番に発生する。こうした変化は、創造主の権威と創造主の命の非凡さと偉大さを示すものである。神の考えは単純な想念でも、空虚な像でもなく、生命力と特別なエネルギーを持つ権威であり、万物の変化、復活、再生、滅びを引き起こす力である。このため、万物は、神の考えにより機能すると同時に、神の発する言葉により実現される。

   万物が登場する前から、遠い過去において、神の心には完成された計画が存在していたため、新たな世界は、既に実現されていたのだ。第3の日には、地にあらゆる植物が出現したが、神は、この世界の創造を停止させる理由が無かった。すなわち神は言葉を述べ続けて新たな物の創造を続ける意向であった。神は、言葉や命令を述べ、権威を行使し、力を示し、主が創造する意向の万物と人間の計画のために、すべての準備を行っていたのである。

 

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自分の唯一の主として神を受け入れることが、救いを得る第一歩である

2020-03-23 23:20:58 | 聖書の奥義を開く

 

   神の権威に関する真理は、全ての者が真剣に取り扱い、心で経験して理解すべき真理である。なぜなら、こうした真理は全ての者の人生、過去、現在、そして未来と関係があり、また人生において全ての人間が通らなければならない重要な節目、人間の神による統治に関する認識、そして神の権威に対して取るべき姿勢と関係があり、必然的に全ての者の終着点と関係があるからである。したがって、こうした物事を知り、理解するには、一生涯の努力が必要となる。神の権威を深刻に捉え、神による統治を受け入れた時、人間は、神の権威は実在することに次第に気付き、理解する。しかし、神の権威を認めず、神による統治を受け入れなかったならば、何年生きていようとも、神による統治に関する認識は少しも得る事が出来ないであろう。神の権威を真に知り、理解しなかった場合、終着点に到達した時に、それまで何十年神を信じていようとも、人生において見せるべきものが全く無く、神による人間の運命の統治に関する認識は必然的に皆無となる。それは非常に悲しいことではなかろうか。したがって、人生の道をどの程度進んで来たか、現在何歳であるか、残りの旅路がどの程度あるかを問わず、まず神の権威を認め、それを深刻に捉え、神が自分の唯一の主であるという事実を受け入れる必要がある。神による人間の運命の統治に関する明瞭かつ正確な認識と理解を得ることは、全ての者にとって必須の経験であり、人生を知り真理を得る鍵となるものであり、また全ての者が直面する、避けることの出来ない、神を知る上での生活と基本的な経験である。この目標を達成する近道を通りたいと思う者がいるかもしれないので、その者に言っておくが、それは不可能である。あなたがたの中に、神による統治から逃れたい者がいるかも知れないが、それはなおさら不可能である。神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主である。したがって、人間にとって自分の運命を決定し、支配することは不可能である。その者の能力が如何に優れていても、その者は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、予定したり、制御したり変更することは出来ない。人間のすべてを支配するのは、唯一の神自身のみである。なぜなら、人間の運命に対する統治を担う唯一の権威があるのは神のみであり、したがって創造主は人間の唯一の主だからである。神の権威は、人間だけでなく、人間には見えない創造物以外の生き物や、惑星、宇宙の統治も担う。これは異論の余地の無い、実在する事実であり、人間や物が変えられない物事である。もし、物事の現在の状態に不満であり、自分には何らかの特別な技能や能力があると考え、運が良ければ現状を変えたり現状から逃れられたりすると考えている者がいたり、人間の力で自分の運命を変えたい、他人よりも卓越し、名声と富を得ようとしている者がいたとすれば、その者に言っておくが、その者は自分で物事を困難にし、問題を買って出て、墓穴を掘っているのだ。遅かれ早かれ、その者は自分が選択を誤っていること、無駄な努力をしていることに気付くであろう。あなたの運命に立ち向かう志と願望、大それた行動は、あなたを取り返しのつかない状態へと続く道へと導き、そのために辛い代償を払うこととなるであろう。今はその結果の重大性が分からないかも知れないが、神が人間の運命の主であるという真理を一層深く経験し、認識するにつれ、わたしが言うこととその真意が徐々に分かるであろう。あなたに真の心と霊があるか、あなたが真理を愛する者であるかは、神による統治と真理に対して、あなたがどのような姿勢を取るかにより決まる。そして必然的に、その姿勢により、あなたが神の権威を真に知り、理解しているかが決まる。人生において神による統治と采配を感じたことが無く、ましてや神の権威を認め、受け入れたことなど無いのであれば、あなたは全く無価値であり、あなたが選んだ道と選択肢が原因となって、神が嫌い捨てる対象となることは間違い無い。しかし、神の業により、神からの試練と神による統治を受け入れ、神の権威に服従し、徐々に神の言葉に関する真の体験を得る者は、神の権威に関する真の認識と神による統治に関する真の理解を得て、真に創造主に従う者となるであろう。真に救われるのは、そのような者だけである。そうした者は、神による統治を知り、それを受け入れたため、そうした者の神による人間の運命の統治の認識と、その統治への服従は真正かつ正確である。そうした者が死に直面した場合、そうした者は、ヨブのように死を恐れない精神を得て、個人的な選択や願望無く神の采配と計画に従うことが出来るであろう。真に創造された人間として、創造主の許へと還ることができるのは、そうした者だけである。


第二の日、神は権威により水と天、そして人間が生活する上で最も基本的な空間を造った

2020-03-22 13:15:21 | 聖書の奥義を開く

   次に、2番目の聖句を検討する。「神はまた言われた、『水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ』。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。そのようになった。」(創世記1:6-7)神が「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」と述べた後、どのような変化が起きたであろうか。聖句には、「神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。」とある。神が言葉を述べてこの業を行なった結果は、どのようなものであっただろうか。その答えとして、この聖句の最後の部分に「そのようになった。」とある。

   これら2つの短い文では、壮大な出来事が記録され、素晴らしい場面が描写されている。その場面とは、神が水を支配し、人間が存在することのできる空間を創造するという、途方も無く大規模な業の様子である。

 

   

   この場面では、水と天が一瞬にして神の前に出現し、それが神の言葉の権威により分けられ、神が述べた通りに上下に分けられた。つまり、神が創造した天が水の上一面を覆っていたのみならず、その上にある水を支えていた。ここで人間は、創造主が水を移動させ、水に命令し、天を造る壮麗な光景と神の権威の力を、息を呑み、茫然と見ていることしかできなかったであろう。神は、自身の言葉と力、そして権威により、驚異的な業を、再度成し遂げたのである。これは創造主の権威の力ではなかろうか。ここでは、聖句により神が行なった業を説明する。神は言葉を述べ、その言葉により、水の中に天が創造された。同時に、この空間において壮大な変化が発生したが、それは普通の感覚での変化ではなく、何ものでも無い物が何かしらの物に変化するという、ある種の代替のようなものであった。それは創造主の考えから起こり、創造主の言葉により何ものでも無い物が何かしらの物へと変化した。さらに、その後は創造主の心により創造物が存在し続け、創造主の心に従って移動し、変化し、更新された。この聖句では、創造主による創造の2番目の業について説明されている。この聖句は、創造主の権威と力を表現するものであり、また創造主による誰も実行したことのない業を説明したものである。この日は、創造主が世界を創造してから2日目であり、この日も神にとって素晴らしい日となった。神は光の中を歩み、天を創造し、水を造って支配した。この日もまた、神の業、権威、そして力が駆使された。

   神が言葉を述べる以前に、水の間に空は存在したか、というと、無論そのようなことは無い。それでは、神が「水の間におおぞらがあって」と述べた後は、どうであろうか。神が意図した物が現れた。つまり、神が「水と水を分けよ」と述べると、水の中に大空が出現し、水が二つに分かれた。こうして、神の権威と力により、神の言葉に従って新たに創造された2つの物が出現した。これらの新たな2つの物の出現について、どう感じるであろうか。創造主の力の偉大さを感じるであろうか。創造主が持つ独自の尋常ではない力を感じるであろうか。こうした力の強さは、神の権威に起因し、神の権威は神自身の表出であり、また神自身独自の特徴でもある。

   この聖句から、神の独自性に関する深遠な感覚があなた方に与えられたであろうか。しかし、これだけでは甚だ不十分である。創造主の権威と力は、この説明を遙かに超えるものである。神の独自性は、単に被造物には無い本質が神にあることのみではなく、神の権威と力は尋常ではなく、無限であり、全てのものに優り、越えるものであることにも由来し、そして何よりも、神の権威と、神の中にある物事や神の存在は、命を造り、奇跡を起こし、壮大かつ並外れた瞬間を引き起こし、それとともに神が創造した命を支配し、神が起こした奇跡や造った一分一秒のすべてを支配することが可能であることに由来するものである。

 

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