賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神が隠されていてもヨブの信仰は揺るがない

2020-03-06 00:11:32 | 聖書の奥義を開く

ヨブは神のことを聞いて知っていた

   (ヨブ記9:11)「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない。」

   (ヨブ記23:8-9)「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。」

   (ヨブ記42:2-6)「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。

 

 

神がヨブに自身を現さなくてもヨブは神の主権を信じた

   この言葉が言わんとすることは何か。ここにはある事実が含まれることに気が付いた者はいるだろうか。まず、ヨブはどのようにして神がいることを知ったのか。そして彼はどのようにして天と地とあらゆるものは神によって支配されていると知ったのか。ふたつの聖句にその答えを見つけることができる。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ記42:5-6)。この言葉から、ヨブが直接神を見たというより、言い伝えから神を知っていたということが分かるが、そのヨブが神の道を歩み始める中で、神が自分の人生の中において実際に存在し、すべての中に存在することを確信するようになる。ここには否定できないひとつの事実があるが、それは何であろうか。神を畏れ悪を避ける道を進んでいたヨブだが、神を見たことは一度もなかった。この点で、ヨブも今日の人間も同じではないだろうか。ヨブは神を見たことがなかったということは、ヨブは神について聞いてはいたが、神がどこにいるのか、どのような存在か、何をしているのかといった主観的要因に関しては知らなかったのである。客観的には、ヨブは神に従い、神はヨブに現れたこともなく語ったこともない。これは事実ではないか。神がヨブに語ることも何らかの命令を下すこともなかったが、ヨブは神の存在を知っており、すべてのものとヨブが耳にした言い伝えに神の主権を認識しており、その後に神を畏れ悪を避けるようになった。そのようにしてヨブは神に従うようになったのである。ヨブがどれほど神を畏れ悪を避けても、どれほど高潔でも、神がヨブに現れることはなかった。次の箇所を読むと、ヨブは「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない」(ヨブ記9:11)と言った。つまり、ヨブは神が近くにいるのを感じたかもしれないし、そう感じなかったかもしれないが、とにかくヨブは神を見たことはないということである。神が自分の前を通り、或いは行動し、人を導くのを想像したことはあったが、実際にそれを見たことはない。神は人間が予想しない時に来る。神がいつ来るのか、どのに来るのか、人には分からない。人には神が見えないからである。そのような訳で、神は人からは隠されているのである。

神が隠されていてもヨブの信仰は揺るがない

   次の聖句でヨブはこう言っている。「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない」(ヨブ記23:8-9)。ヨブの経験の中で神がずっと隠されていたことがこの記述から分かる。神は公然とヨブの前に現れることもなく、ヨブに言葉を語ることもなかったが、ヨブは神の存在を確信していた。目には見えなくても、神は自分の前を歩いていたり、傍らで行動していたりし、自分のすぐ側で支配していると信じていた。ヨブは神を見たことはなかったけれども心から信じ続けることができた。これは他の誰にもできなかったことである。なぜ他の人たちにはそれができなかったのだろうか。神はヨブに語ることも現れることもなかったのだから、ヨブが本当に信じていたのでなければ、耐え続けることも、神を畏れ悪を避ける道に固く立ち続けることもできなかったであろう。そうではないだろうか。ここに書かれているヨブの言葉を読んでどう感じるだろうか。ヨブの神に対する完全さと正しさと義が真実で、神を過大評価しているからだとは思わないだろうか。神はヨブに対して他の人々と同じように扱い、ヨブに現れたり語ったりすることはなかったが、それでもヨブは神に高潔であり続け、神の主権を信じつづけ、更には神を怒らせたかもしれないという恐れから全焼のいけにえを頻繁に捧げて祈ったのである。神を見ないままに神を畏れたヨブに、ヨブがいかに善なるものを愛したか、いかにその信仰が堅く本物であったかが分かる。神が自分から隠されているからといってヨブは神の存在を否定することはなく、神を見たことがないからと言って神への信仰を失ったり神に背いたりすることはなかった。それどころか、すべてを支配するという神の隠れた働きに神の存在を認識し、神の主権と力を感じたのである。神が隠されているからと正しさを捨てることもなく、神が一度も現れたことがないからと神を畏れ悪を避ける道から外れることもなかった。ヨブは神が公然と現れてその存在を証明して欲しいと願ったことはなかった。すべてのものにおける神の主権を知っており、他の人々にはない祝福と恵みを自分が受け取っていると信じていたからである。神はヨブに隠されたままであったが、だからと言ってヨブの神への信仰が揺るいだことは一度もなかった。そのような訳で、ヨブは他の人々が得たことのない報い、つまり神からの承認と神からの祝福を得たのである。

 

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夫の裏切りの苦痛から、神様は彼女を救われた

2020-03-06 00:04:42 | 信仰生活

   光陰矢のごとしです。泓(ホン)児(アル)はあどけない少女から優美な若い女性に成長し、恋愛に興味が芽生え、やがて目覚めます。富や地位はどうでもよかったのです。彼女が求めていたのは、どんな嵐を乗り切るときも慈しみと愛があり、困ったときには助け合い、ともに歳を重ねていくような関係だけでした。時が来るのを彼女は静かに待っていました…

   彼は突然泓(ホン)児(アル)の世界に現れました。彼女は彼の端正な顔立ちと澄み切った瞳に胸がときめき、彼もまた彼女に特別な感情を抱いたのでした。そのときから、彼女の穏やかで刺激のない日々は陽光で満ちあふれました。やがて二人の距離は縮まり、彼の優しさと思いやりは、泓(ホン)児(アル)にとって外見の良さよりもいっそう愛しいものでした。

   「この人こそ人生を委ねて一緒に歳を重ねたいと思っていた人だわ」と彼女は確信します。また、彼も「一生幸せにするよ」と誓ってくれました。しかし、彼女の両親は彼の家庭が貧しいことに不満を漏らし、彼女に「別れてほしい」と言います。泓(ホン)児(アル)はそれをまったく意に介さずただひたすら「心から愛し合っているし、絶対に一生連れ添えるわ」という気持ちで、両親の反対もむなしく、二人で遠くに引っ越しました。

   やがて子宝に恵まれ、愛らしくぽっちゃりした息子が不自由なく暮らせるように夫婦は疲れを覚えることなく働きました。泓(ホン)児(アル)にとって大変で疲れることでしたが、愛する人と協力して一生懸命働き、家庭を育むことはとても甘美な喜びでした。

   彼女の誕生日には特別に、彼は半月分の給料をかけて、ラジオで彼女のために「風雨に耐えて」というラブソングをかけさせ、曲が始まるなり、泓児(ホンアル)は感極まって涙を流します。その曲の中に、1つになった2人の心の声が聞こえたのです。

   末永く結ばれ、お互いを大切に思い、愛し合っている夫婦よりも尊いものなどあるでしょうか?彼女が求めていたのは莫大な富ではなく、このように仲のいい夫婦生活でした。円満な家庭があれば十分だったのです。

   月日がたち、瞬く間に20年が過ぎました。一人息子はすっかり成長し、2人はかなりの規模の家業を始めるために二人三脚で一生懸命働きました。しかしある時点で、泓(ホン)児(アル)は夫の帰宅が次第に減り、「接待がある」という言い訳が増えたことに気づきました。かつて温かく幸せだった家庭がだんだん冷えていくようで、泓(ホン)児(アル)は気を揉んでいました。会社の建築を準備をしていたときは夫自ら対処しなければならないことがたくさんあり、当時は目が回る忙しさだったけど、いつもできる限り早く家に帰ってくれていた。今は会社の経営がどの面でも軌道に乗って、前ほど忙しくないはずなのに、どうして前よりも家に帰ってこなくなったのかしら」。

   彼女は不安で落ち着きません。顧客の趣向は当然理解していました、「フットマッサージや、サウナ、カラオケ、ナイトクラブとか色んな娯楽のワンストップサービスが業界の暗黙のルールになっているし、色んな娯楽の場に行って一夜限りの関係を持ったり、浮気をしたりすることは男の人の間では流行っている。夫は来る日も来る日も客を接待し、このような誘惑だらけの娯楽施設に出入りしているということは、まさか…?いえ、そんなはずはないわ!」

   この20年間、彼女と夫はどんな嵐も乗り越えて手に手を取って歩んできました。その間に起きたことはどんなにささいなでも夫婦の愛の証だったのです。これほどしっかりした愛の土台がどうしてちょっとした誘惑で崩れるのでしょう。「私たちの愛ならどのような試練も耐えられるはずよ」、泓(ホン)児(アル)は自分を慰めるためにそう考えましたが、現実と直面してみるとそれでも気が気ではありませんでした。

   現実は、泓(ホン)児(アル)が「きっとそうよ」と思った通りにはなってくれなかったのです。夫は高額な使途不明金が続き、家に帰らないことがさらに頻繁になり、言い訳も非常にあいまいになります。こうしたことが重なって打撃を受けた彼女はますます不安で心が押しつぶされそうでした。

   夫の普段と違う行動から、「多分浮気ね」と感じていましたが、その現実を受け入れて認めようとはしませんでした。「一生幸せにするよ」と誓い、20年間もともに嵐を乗り越えてきた夫が、突然自分を裏切るなど認める勇気がなかったのです。「死が二人を分かつまで」という誓いは気休めの嘘にすぎなかったのでしょうか。

   現実が現実だけにこれ以上自分自身を偽ることができなくなった泓児(ホンアル)は夫を尾行し始めます。ある日、尾行するうちに高級住宅街にたどり着き、そこには彼が別の女性と建てた家があることを知りました。その女性が小さな子供を腕に抱いてあやしているのを見た瞬間、凄まじいショックを受け、自分の目を疑います。「夫が他の女性とホテルに出入りしたり、親密な関係ぐらいにはなったりしているかもね」という疑いは何度か抱きましたが、まさか別の家庭を築き、別の女性との間に子供をつくっているとは夢にも思いませんでした。その厳しい事実を前に、それまで彼女の中にあったわずかばかりの慰めも砕け散り、崩れ去りました。瞬く間に、2人の誓いも20数年にわたる支え合いも跡形もなくバラバラに崩れ落ちたのです。なんて薄情な人なのでしょうか。一生幸せにするという約束を忘れることなどできるのでしょうか「風雨に耐えて」の歌で表した気持ちを忘れてしまったのでしょうか。妻が夫のためにすべてを投げ出したたことも、夫婦で様々なことを乗り越えてきたことを忘れてしまったのでしょうか。どうして忘れることなどできるのか。どうして妻にそのような仕打ちをするのでしょう。20年間育んだ愛が、見知らぬ人の誘惑に負けるなどありえるでしょうか。

   その瞬間、泓児(ホンアル)は怒りと悲しみに心をかき乱されて震え、不意に涙がこぼれました。そしてかすれた声で夫に「本気で私と息子を捨てて、この女を選ぶっていうの」と叫びます。

   夫の顔に罪悪感が浮かび、「すまないことをした。家族は今でも大切だよ」と答えてくれることを彼女は期待しましたが、夫は涙を流して問いかける妻を前にしてもすっかり黙り込んでいました。夫の態度を見て、泓児(ホンアル)は打ちひしがれました。どうしてこれほど薄情に裏切ることができるのか、見当もつきません。心の中の憤りを抑えきれず、夫の顔を強く平手打ちしました。

   泓(ホン)児(アル)はその場を去った記憶がありませんでした。すべてが吸い取られてしまったような感じです。黄昏が濃くなる中、海岸に立ちつくす彼女のそばに見られたのは、夕日とその色あせた残光だけでした。

   苦痛の波が、絶え間なく心にこみ上げてきました。共に過ごした20年の場面が次々と目に浮かびます。彼のために家族の反対を押し切り、毅然として2人で遠くに移り住みました。ともに必死で働き、金に不自由することがあってもお互いの気持ちがそげるは少しもありませんでした。手に手を取って酸いも甘いも噛み分け、雨にも風にもめげずここまで来たのです。

   暮らしが豊かになり、子供が成長したというのに、夫は幸せな家庭を捨てて別の女と巣を作るなどということができたのです。泓(ホン)児(アル)は夫の不貞を憎み、薄情さを憎みましたが、「せっかく一生懸命働いて築いた幸せな家庭が消えてしまうなんて」と思うととても諦めきれず、「取り戻すためにできることなら何でもするわ」と思います。どんな幸福も託していた夫であるだけに、戻ってきてくれさえすれば、過去の過ちは赦せたのです。

   帰宅すると、泓(ホン)児(アル)は夫婦仲を救うための計画を立て始めますが、ある友人から、「男は生活のために仕事に行く所で、冷たい表情に嫌というほど出会う」ので、「家に帰ってくる旦那に必要なのは、家庭の温かさ」でそれさえあれば幸せを感じられるという助言を聞きました。また、「男の心をつかむには先ず胃袋から」だと友人は言います。

   泓(ホン)児(アル)は、夫の好物がギョーザであると知っていたので、毎日手間暇かけて何種類ものギョーザを手作りし、さりげなく夫のことを調べる方法を色々考えました。息子を使って帰宅してもらう理由も思いつけるだけ思いつきましたが、どんなにうまいことを言ってもいつも気乗りしないようでした。泓(ホン)児(アル)は「私が年を取って見た目も悪くなったから気持ちが冷めたのかしら」と考え、若く見せることに多大な精力を費やすようになります。夫の心を取り戻すために様々な方法を考えましたが、すべて無駄でした。その時期は本当に大変で疲れ果て、ひどい無力感を覚えていました。

   毎日、涙を流しながら顔を洗い、夜もよく眠れませんでした。壊れた家庭を修復しようとどれほど多くのことを試したかわかりません。万策が尽きた彼女にできたことは、夫が改心してくれるのを苦しみながら待つことだけでした。

   泓(ホン)児(アル)はそのまま3年待ち、その長い日々の間幾度となく自問しました、「20数年もの愛情が、こんなにあっさりなくなってしまうなんて。こんなに苦労してるのにどうして幸せで完璧な家庭を取り戻せないの」

   何度も問いましたが、答えは見つかりません。来る日も来る日も待ちましたが、何も変わりませんでした。それは間違いなく彼女たちの夫婦生活に対する「死刑宣告」でした。悲嘆にくれた泓児(ホンアル)には、そんなショックに耐える気力もありませんでした。もううんざりしており、前進する勇気も精力もなくなった彼女は40錠のジアゼパムを一気に飲みました…

   翌日目が覚めると、病院にいました。息子と夫もいました。悔し涙がとめどなく流れ、心はボロボロで、泣きたいだけ泣きました。このような状況で家族が揃うとは何とも皮肉ですが、彼女にはどうしようもありません。空を見上げてため息をつきました、「夫婦がともに辛いことを乗り越えられるのに、豊かさに負けてしまう理由なんて誰にわかるかしら。20数年愛がこんなにもろいなんて。」

   それから間もなく、息子の姑が神の終わりの日の福音を泓(ホン)児(アル)に伝え、「あなたを救い、苦しみを全部取ってくださるのは神だけよ」と言い添えました。これは、人が神によって創造されたためです。人類は、始めは神の配慮と保護のもとにとても幸せに暮らしましたが、サタンによって堕落させられたために神から離れてしまい、神の存在を否定し、サタンの害毒の中で暮らすようになったのです。人の不満と苦痛は大きくなるばかりです。神御自身が受肉されたのは、真理を表し人類を救い、サタンの手から奪い返すためなのです。

   人は神の御前に立ち、神の御言葉を読み、そこから真理を理解することで初めて、社会にはびこる諸悪の根源を見抜き、サタンの害毒から離れて、神の配慮と保護のもとに暮らすことができます。息子の姑は神の御言葉の一節を読みました。「全能者は、深い悲しみの中にあるこのような人々に慈しみを抱く。同時に、神は何の自覚もしていないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、神は人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならないからである。神は探したいと、あなたの心や霊を探したいと、願っている。神は、あなたに食べ物や水をもってきたい、あなたを目覚めさせたいと思っている――そうしてもはやあなたが渇きを感じないように、もはや空腹でなくなるように。あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。全能者は苦しげに切望している、そして答えのない応答を待っている。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)

   今まで聞いたこともなかったこれらの言葉に耳を傾けた泓(ホン)児(アル)は大変心を打たれ、暖流が心の中で沸き上がって心身が温まるような気分でした。ここ数年、彼女には、心の深い悲しみを分かってくれる人も、苦しみの重荷をともに背負ってくれる人もいませんでした。また、理解して慰めることができる人もいなかったのです。寂しく眠れない夜を何度となく過ごし、明け方まで一人静かに涙を流していました。心の傷が影のように付きまとい、決して忘れることも、振り払うこともできず、「もうずっとこのまま孤独で辛い人生しかないのね」と思っていました。

   しかしその日、その一節が心の扉を叩き、「私が辛くて苦しんで涙を流しているとき、神はそれを御存じでいつもそばにいて、私が気を持ち直すのを待ってくださっている」と悟ったのです。神の親心ある言葉を聞いて、泓児(ホンアル)は涙が止まらず、「神がそばにいてくださる。一人じゃないんだ」と感じました。

   彼女はそれまで神について聞いたことはなく、何も知りませんでしたが、神はいつもそばで見守ってくださっていたのです。間一髪の時に彼女を救い、自殺を決意した彼女の生命を守られただけでなく、人生にすっかり絶望していた彼女に、息子の姑を通して神の声を聴かせてくださいました。

   御自身の言葉を用いて泓児(ホンアル)の心を動かし、温もりを与え、希望をもたらし、絶望と苦痛の人生を好転させてくださったのです。その瞬間、泓児(ホンアル)は神の愛と救いを感じ、傷ついた心が癒されました。心の拠り所を得たのです。

   その後、泓児(ホンアル)は全能神教会に通い、神の御言葉を読み、真理について交わり、兄弟姉妹とともに神を称えて讃美歌を歌うようになりました。彼らが皆親切で、誠実さをもって人に接しているのを彼女は目の当たりにしました。彼らは自分たちの暴かれた堕落について単純明快かつ率直に打ち明け、神の御言葉に従って堕落を分析し、神が好む正直者を目指すことができていました。

   誰も他人を嘲ったりせず、皆互いに助け合い、糧を与え合いました。誰もが幸せそうな、あふれんばかりの笑顔を見せていました。泓児(ホンアル)はこの誠実でうれしい雰囲気が自分にも移っていると感じ、その大家族の中で、今まで経験したことのないような安らぎと自由を得ました。

   久しぶりの温かさと、我が家に帰って来たような気持ちを再発見したのです。苦痛は日ごとに和らぎ、徐々に笑顔が出てきました。長いこと困惑してきた事柄に対する答えを神の御言葉の中に見出し、自分の苦しみの根源がわかるようになりました。神の御言葉には次のようなものがあります。「実は、神の様々な創造物の中で、人間は最も賤しい。人間は万物の長でありながら、そのなかでサタンの策略に影響されるのも、サタンの限りない墮落の道に陥るのも人間だけである。人間はかつて自らを支配したことがない。殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より)「こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に堕落させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)「あなたがたは皆、「裏切り」という言葉を知っている。なぜなら、ほとんどの者たちが、これまでに何かしら他人を裏切ることをしたからである。例えば、夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切る。息子が父を裏切り、娘が母を裏切る。奴隷が主人を裏切り、友達同士が互いに裏切り合う。親戚同士が裏切り合い、売り主が買い主を裏切る等である。こうした例には、すべて裏切りの本質が含まれている。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)「人間の本性とは、その者のいのちであり、それは、生き残るために人間が依存する原則であり、人間はそれを変えることが出來ない。ちょうど裏切りの本性のように――もしあなたが、何か親戚や友人を裏切ることが出来るのであれば、それは裏切りがあなたのいのちの一部であり、あなたの生来の本性であることを証明している。このことは誰も否定出来ないことである。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)

   神の御言葉を通して、泓児(ホンアル)は「人間の苦しみは全部サタンによる堕落に端を発しているのね。人々は皆いわば大だるの中で暮らし、邪悪に染まっているのだわ」と理解しました。私たちはサタンの悪しきささやきを浴びています。例えば、「屋敷をしっかり保ちながら自分はその傍らで楽しめ」、「人生は短い。楽しめるうちに楽しめ」、「人生は短いのだから今を楽しめ」、「男は10人中9人は女と馬鹿騒ぎし、残りの1人はただの馬鹿だ」といった格言があります。

   これらは、男性が他の女性と浮気をして、愛人を囲うことは容認できることであり、地位の印であると説いてします。さらに、誘惑が多い娯楽の場は大通りから小さな路地まで至るところにあり、人々が悪しき肉体的快楽にふけるのにとても便利です。多くの人々は恥ずかしげもなく一夜限りの関係を持ち、浮気に興じます。彼らはあまりにも邪悪で堕落しており、あまりにも下劣なため人間らしさを欠いています。

  真理を理解していなければ、人は善悪も美醜も見分けることができず、ポジティブな事柄とネガティブな事柄の区別もできません。そのような人は、物の見方がねじれ、悪事を公正かつ立派な事とみなします。人間が備えるべき人間性も理性も、倫理観も、尊厳も手放し、肉欲を満たすためだけに誓いを破り、配偶者を裏切ります。サタンの支配下で生き、すっかり肉欲に溺れ、悦楽を追求し、自身の見苦しい欲望を満たしているのです。泓児(ホンアル)はこの邪悪な社会について一考しました。夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切ることはよくあることです。悪しき風潮で腐敗し、真理を欠く人はこのような行為に何の抵抗もありません。知らず知らずのうちに邪悪な考えの影響を受け、つかの間の肉体的欲求を満たすためだけに責任も道徳も正義も良心も無視します。配偶者を見捨て、家族に途方もない心の傷を与えます。それで一生苦しむ人もいるでしょう。泓児(ホンアル)は夫もこのような邪悪なサタン的風潮の被害者であったのだと悟り、夫がかつてとても思いやりと愛情をかけてくれた時のことや、2人とも自分たちのためだけに物質的な富を求めたりはしなかったことを思い出しました。ただ互いへの愛と慈しみ、幸福と円満さだけを求めていたのです。

   しかし裕福になった途端、夫は頻繁に顧客を接待し、あちこちで娯楽の場を飛び回るようになりました。悪しき風潮の魅惑に勝てず、放蕩生活を送るようになったのです。肉欲を満たすことだけを考えて、不倫をし、見苦しい欲望のままに生きま、妻の気持ちも、ましてや家族のことも全く考えていません。こうして家庭が壊れ、2人は離別してしまったのです。

   20数年も分かち合ってきた愛も、悪しき風潮の前では、実にもろく見えました。わずかな衝撃にも耐えられなかったのです。それはすべて、サタンが人間を堕落させた結果ではないでしょうか。

   泓児(ホンアル)は、サタンによってひどく害されたことを自覚しました。彼女がいつも求めていた夫婦生活は、円満で愛し合い、「死が二人を分かつまで」ともに歳を重ねるというもので、そのような夫婦生活だけが、人生の幸福だと考えていたのです。

   夫が道を誤った後、彼女は壊された愛を取り戻すために百方手を尽くし、望みが叶わないと苦痛のもやの中に暮らし、抜け出すこともできず、死んで楽になろうとさえしました。それはすべてサタンが人間に吹き込んだ間違った考えや物の見方に過ぎず、彼女をもてあそび、害するものではなかったでしょうか。

   泓(ホン)児(アル)は神の御言葉を読んで初めて、「人間は皆自分勝手で、、自分の都合のために、自分の主義に従って行動するんだわ」と理解しました。2人の人間の間に真実の愛はありません。ロマンティックな愛など存在しないのです。しかしサタンは人が悪を崇め、何よりもロマンティックな愛を追求し、完全な幻想の中に生きるように、あらゆる馬鹿げた観念を利用して堕落させ、そそのかします。人はますます堕落し、下劣になり、神からどんどん離れます。

   そのことから泓児は、「人は真理がなければ善悪や美醜を見分けることができず、ポジティブな事柄についても判断できない」ことを実感しました。これではただサタンにもてあそばれ、害され、終いには飲みこまれてしまいます。神の救いのおかげで、泓(ホン)児(アル)はサタンによる人間の堕落の実態を知り、苦しみの根源がわかるようになりました。神の御言葉のおかげでずいぶんと心が明るくなり、とても気持ちが安らぎました。

   それから泓(ホン)児(アル)はこの神の御言葉の次の節を読みました。「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人生を送ることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは、被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しません。これが人間にとっての神の本質の重要性です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)

   泓(ホン)児(アル)は神の御言葉から、「神だけが人をサタンの堕落から救うことができる人は神の御言葉を通して真理を理解することで初めて、人間を堕落させるサタンの戦術や方法を見極められる」と理解しました。それだけが、サタンの策略を見抜き、害を逃れ、自由に生きる道なのです。彼女は「何年も間違った考えに支配されていたのね。結婚して幸せになろうなんて幻想に過ぎなかったんだわ」と嘆き、ため息をつきました。思えば、夫もサタンによって堕落させられた人であり、ネガティブな悪事ばかり追求してきました。そのため彼女には苦しみと傷しかもたらせず、何の幸福ももたらせなかったのです。

   人に対する神の愛だけが無私無欲であり、神だけがサタンの支配から人を救いたいと心から願ってくださるのです。人を清め、変えるために神はあらゆる真理を表し、あらゆる環境を采配されます。それはすべて人がサタンの悪影響から逃れるように導き、幸福な人生をもたらすためです。しかし堕落した人類というものは、自分の個人的な興味を引くものに出会うとすぐに裏切るのです。神のみがいつでもどこでも人のそばにおられ、あらゆる逆境を切り抜けられるように助けてくださいます。神のみが本当に頼れる存在であり、神の家だけが人の心と霊にとって本当の避難場所なのです。

   以前の泓(ホン)児(アル)はサタンから生じた悪しき風潮を理解しておらず、ただ夫へ憤りを抱きながら、幸福も喜びもない暮らしをしていました。サタンに縛られて害され、惨めな日々を過ごした苦痛は言い表せないほどでした。今では苦しみの根源がわかったため、夫が憎くなくなったのです。

   肩の荷が下りたようで、かつてなかったような霊の安らぎと安心と自由を感じました。真理の理解を通してあらゆる人や出来事や物事を見分けるという経験を得て、ついに苦しみとサタンの害悪という責め苦を逃れることができたのです。

   神の御言葉の啓きと導きを得た泓(ホン)児(アル)は、以前のようにふさぎ込まなくなります。夫が夫婦愛を裏切ったことの執着を手放し、安らぎを得たのです。ついにもやに覆われた日々に別れを告げました。彼女を知っている人たちは、「人が変わったね。もっと頭がさえて快活になってる」と口をそろえて言います。神の御言葉のおかげでこのように変わることができたため彼女は神への感謝の気持ちでいっぱいでした。

   そして数年が経ちました。泓(ホン)児(アル)は神の御言葉を常に読み、教会生活を送り、兄弟姉妹と神の御言葉について交わり、創造物の一つとして本分を尽くすことに全力を注ぎ、とても充実した日々を過ごしています。真理をある程度理解し、「人が地上で生きるのは配偶者や子供のためだけではなく、創造物としてしかるべき本分を尽くすためであり、そのように生きることで初めて神に喜んで頂ける」とはっきり認識しました。ついに人生の正しい道を見つけたのです。それは神に従い、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、神の働きを経験し、真理を理解して得るように励むことです。神を畏れ悪を避けることであり、神に従って神を崇拝する者になることです。これが最も有意義で幸せな人生なのです。

   泓(ホン)児(アル)の願いは、神の導きと指導の下でこのような人生の道を歩み、真理といのちを得て、サタンの害から完全に逃れ、意義のある人生を送ること、即ち、真理の現実を生きて神に栄光を帰すことなのです。