ヤーウェ神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。」
アモス書8:11
感得:この聖句は人が霊的飢え渇き、否定的となり弱くなっている状態の中で生き、教会の荒廃の根源の原因になることを言いました。重要なことは、人が神様の言葉と働きを尋ね求めず、さらに神様の言葉を聞かず、神様の言葉の供給を失い、飢饉の中に陥ったのです。当時律法の時代の末期の神殿が荒れ果てる時の光景みたいです。なぜなら、神様がすでに神殿から離れ、つまり主イエスが神殿の外で言葉を語り贖いの働きをなさい、神様の新しい働きが展開したら、聖霊は神殿の中で働かず、主イエスの働きを維持するのです。それら主イエスに付き従う人々は、いのちの生ける水の供給を得られ、霊に満たされ、聖霊の働きの平安と喜びを享受することができました。しかも、それは先祖代々神殿の中で神様に仕えた祭司、律法学者、パリサイ人、またそれらのユダヤ人は、彼らはただ律法に固執し、主イエスの言葉と働きを拒否し、いのちの供給を得られず、聖霊の働きを失って、飢饉の中に生き、神殿は強盗の巣になったのです。彼らは主イエスに従わないだけではなく、主イエスの働きに抵抗し、罪に定め、主イエスを冒涜し、最終的にローマ政府と結託して、贖いの働きをなさる主イエスを生きたまま十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯し、神様に呪われてしまったのです。
今の宗教界を見てみましょう。ある牧師と長老、説教者は集会の時に、聖書の知識、神学理論を少し解説して、自己顕示し、自分を証し、人々に自分を崇拝させます。しかし、主の道を守らず、主の御言葉を言い伝えず、少しも主を証し、崇めることがなく、兄弟姉妹が聖書の働きと言葉を尋ね求めることをも導かないため、兄弟姉妹がいのちの生ける水の供給を得られなくなり、皆否定的となり弱くなっている状態の中に生き、信仰と愛が冷め、多くの人は世界の邪悪な流れに従い、金銭や名利、肉の享受を追い求め、罪のはかない歓楽にふけ、罪の中に生きていて抜け出すことができず、罪の深い淵に落ち、当時の神殿の荒廃の光景が再現しています。私たちは思わずこう考えます。今主の再来の預言はすでに実現され、主の再来を迎える肝心な時ですが、私たちは聖霊の働きを失って主の臨在がなくなり、これは本当に容易に主に見捨てられるでしょう。それでは、私たちはどのようにして主の足跡に付き従い、聖霊の働きを得られ、いのちの生ける水の供給を得ることができるのでしょうか。主イエスの言葉を思い出しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14:6)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)主の言葉から私たちは、キリストは真理、道、いのちであり、神様の羊は神様の声を聞くことがわかりました。私たちは神様の足跡に付き従い、神様の出現を迎えたいなら、パリサイ人の信仰を失敗した教訓をくみ取り、終わりの日の主の再来の言葉と働きに対して、私たちは神様を畏れ敬う心を持って尋ね求め考察し、神様の声を心に留めれば、主の再来を迎える機会を得られ、いのちの生ける水の供給と注ぎを得られるのです。まさに神様が言われた通りです。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」
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