ある日、わたしは次のような寓話を読みました。ある農夫は自分の小麦はいかなる劣悪な環境を経験せず、風は穏やか日はうららかの中で成長するように願っています。彼の願いどおりにかない、収穫の季節になり、麦の殻には実がありません。実は、小麦が豊作になるには、天地も凍る冬と吹きすさぶ寒風の洗礼、および劣悪な環境の試練を経験しなければ、小麦の粒が十分充実しません。
小麦の成長の過程はわたしに人の成長を連想させます。成長するためには、人も度重なる困難や苦労によって鍛えられなければなりません。さもなければ、人の命は温室育ちの花と同じように、一撃にも耐えられず、さまざまな厳しい環境と残酷な現実に適応できません。聖書にこう書いてあります。「愚か者は無為のうちに滅びる」(箴1:32)。人が自分の命を成熟させたいなら、挫折、苦難を経験しなければなりません。遭遇する困難が多くなれば、問題を解決する過程の中で人はますます気丈になり、人の意志、根気はますます強くなり、人の物事を見る能力、人の問題に対応する能力もますます高くなり、しかも人はますます成熟し、ますます粘り強くなります。だから、苦難、試練こそがわたしたちの成長に有益です。何もかもうまくいけば、かえって悪いことになります。
クリスチャンにとって、苦難、精錬を経験することは神から与えられる最も大きな祝福です。なぜなら、クリスチャンが命を得たいなら、苦難、試練を経験しなければならないからです。聖書にこう書いてあります。「多くの者は清められ、白くされ、練られる……」(ダニ12:10)。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ヤコ1:2-4)。聖書には、同じような聖句が多くあります。これらの聖句はわたしたちに、人は苦難、精錬によってこそ神に完全にされることができるということを告げています。例えば、歴代の、神の心にかなう古い聖なる預言者たちは苦難を経験した後、神の使用にいっそう適し、しかも神に祝福されました。アブラハムはイサクをささげました。実際の事が臨んで、精錬を受ける時、アブラハムは神を満足させるために自分の最も愛する独り子をささげることができました。だからこそ、彼は神の祝福を得、彼の子孫も天の星、海辺の砂のように多いです。モーセが荒野での四十年の苦難を経験してはじめて、彼の中の血気は取り除かれました。それゆえに、彼は神に従うことができ、神の使用に適し、しかもイスラエル人をエジプトから導き出すという重任を担いました。
主イエスはこう言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マコ8:34)。数千年来、神を信じるという道は、苦難に満ちた曲がりくねっているでこぼこ道です。苦難は神がわたしたちに与えられる最もよい祝福だ、苦難、試練を経験してこそ、命の性情は変わることができる、命の性情が変わってこそ、神の嗣業を受け継ぐ資格を持ち、神の約束を得ることができる、と、わたしたちは本当に感じました。