賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

山上での説教・主イエスの喩え・戒律

2020-03-02 22:33:36 | 聖書の奥義を開く

   1.山上での説教

   1)八福の教え(マタイによる福音書 5:3-12)

   2)塩と光(マタイによる福音書 5:13-16)

   3)律法(マタイによる福音書 5:17-20)

   4)怒り(マタイによる福音書 5:21-26)

   5)姦淫(マタイによる福音書 5:27-30)

   6)夫婦の離縁(マタイによる福音書 5:31-32)

   7)誓い(マタイによる福音書 5:33-37)

   8)目には目を(マタイによる福音書 5:38-42)

   9)敵を愛す(マタイによる福音書 5:43-48)

   10)施しに関する指示(マタイによる福音書 6:1-4)

   11)祈り(マタイによる福音書 6:5-8)

   2.主イエスの喩え

   1)種まきの喩え (マタイによる福音書 13:1-9)

   2)毒麦の喩え (マタイによる福音書 13:24-30)

   3)からし種の喩え (マタイによる福音書 13:31-32)

   4)パン種 (マタイによる福音書 13:33)

   5)毒麦の喩えの説明 (マタイによる福音書 13:36-43)

   6)宝の喩え (マタイによる福音書 13:44)

   7)真珠の喩え (マタイによる福音書 13:45-46)

   8)網の喩え (マタイによる福音書 13:47-50)

   3.戒律

   イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37-39)

   ここではまず、「山上での説教」の各部分について検討する。これらの部分が関連する事柄は何であろうか。これらは、律法の時代の規律と比べて、格段に向上され、より具体的で人間生活に近いものである、と確信を持って言える。現代の言葉で話をすると、人々の実際の行動に一層関連性が高くなる。

 

 

   次に挙げる事項について、その具体的な内容を検討する。八福の教えは、どう解釈すべきか。律法について知るべきことは何か。怒りは、どのように定義すべきか。姦淫する者を、どのように扱うべきか。夫婦の離縁について述べられていることは何か、夫婦の離縁に関する規則には、どのようなものがあるか、夫婦の離縁が出来る者、出来ない者は、それぞれ誰か。誓い、目には目を、敵を愛する、施しに関する指示などは、それぞれどのようなものか。これらは、すべて人間の神に対する信仰の実践、神に付き従うことにおける全ての側面に関連するものである。これらの行動の一部は、現在にも当てはめることができるが、現在における人間に対する条件よりも、基本的である。これらは、神への信仰のなかで、人間が直面する極めて基本的な真理である。主イエスが業を始めた時から、神はすでに人間のいのちの性質に対する業を開始していたが、それは律法に基づくものであった。これらの事項に関する規則や言葉は、真理と関連性があるだろうか?無論大いに関連性がある。従前の規律、原則、そして恵みの時代の説教は、すべて神の性質と、神の中にある物事、神の存在、そして真理と関連するものである。神が表出される事柄が何であろうと、また神がそれをどのように表出しようと、どのような言語を使われようと、その基礎、その起源、そしてその出発点は、すべて神の性質と神の中にある物事、神の存在の原則に基づいている。この原則から外れることは一切ない。したがって、現在では、こうした言葉が多少浅薄とも思えるが、それが真理でないとは言えない。なぜなら、これらの事柄は、恵みの時代において神の旨を満たし、人間のいのちの性質の変化を実現する上で、人間に不可欠なものだからである。この説教のなかで、真理から外れたものがあると言えるかというと、決して言えない。これらの事項は、神の人間に対する要求であるので、いずれも真理である。これらの事項はすべて、行動のしかたについて神から与えられた原理とその範囲であり、神の性質を示すものである。しかし人間は、その時点におけるいのちの成長の度合いに基づいて、これらの事項を認めて理解することしかできなかった。人間の罪は未だに解決されていないため、主イエスはこれらの言葉を与え、こうした単純な教えをその範囲内で活用して、当時の人々に対し、どのような行動を、どのように行うべきであるか、どのような原理に基づいてどのような範囲で行動すべきか、どのように神を信じ、どのようにして神の要求を満たすべきかを伝えることしか出来なかった。これらの事項は、すべて当時の人間の霊的背丈に基づいて決定された。律法に従って生活していた人間にとって、これらの教えを受け容れることは容易ではなかったので、主イエスの教えは、その範囲内である必要があった。

   次に、「主イエスの喩え」に含まれる事柄を検討する。

   まず1つ目は、種まきの喩えである。これは極めて興味深い喩えである。種まきは、人間の生活の中で一般的な事柄である。2つ目は、毒麦の喩えである。穀物を栽培したことのある者と大人は、毒麦とは何か理解できるであろう。3つ目は、からし種の喩えである。からしとは何かについては、皆知っているであろう。知らない場合は、聖書を読めば分かる。4つ目の、パン種の喩えに関しては、大部分の者が、パン種は発酵に用いられるものであることを知っている。パン種は人間が日常生活で用いるものである。それ以降の6番目の宝の喩え、7番目の真珠の喩え、8番目の網の喩えは、すべて人間の生活から採り上げられたもの、つまりこれらの喩えは、すべて実生活に由来するものである。これらの喩えは、全体としてどのような考えを示すものであろうか。これらの喩えは、神が普通の人間となり、人間と共に生活し、通常の生活で用いられる言葉を使用し、人間の言葉を用いて人間と意思疎通し、人間に必要な物事を授けている、という考えを示している。神が受肉して人間の中で長期にわたって生活したとき、人間の様々な生活様式を経験し、目の当たりにした後、そうした経験は、神が、神の神性の言葉を人性の言葉へと変換する際の参考となった。無論、神が生活の中で見聞きした事柄により、人の子の人間としての経験は豊富なものとなった。神が一部の真理や、神の旨を人間に理解させることを望んだ時、神は上記と類似の喩えを用いて、神の旨や神の人間に対する要求について人間に伝えることが出来た。これらの喩えは、すべて人間生活と関連しており、人間生活に無関係の喩えは一切ない。主イエスが人間とともに生活した時、イエスは農民が作物の手入れをしているのを見、毒麦とは何か、パン種とは何かを知っていた。またイエスは人間が宝を好む事を知っていたので、宝と真珠の喩えを用いた。さらにイエスは漁師が網を投げるのを頻繁に見るなどしていた。その他の喩えについても同様である。主イエスは、こうした人間生活における活動を見、またそうした生活を経験していた。イエスは通常の人間と全く同様に、人間が食べる1日3回の食事など、日々繰り返される活動を経験していた。イエスは一般的な人間生活を自ら経験し、その他の者の生活を見た。イエスがこうした事柄を目の当たりにし、自ら経験したときに考えたのは、どうすれば良い生活を送れるか、どうすれば一層自由で快適な生活が送れるか、といったことではない。神が実際の人間生活を経験した時、主イエスは、サタンの腐敗に支配されサタンの領域で生活し、罪の中で生きる人々の困難、悲惨さ、そして悲しさを目の当たりにした。イエスが自ら人間生活を経験している時に、イエスは腐敗の中で生きる人々がいかに無力であるかを経験し、また罪の中で生き、サタンや悪による拷問のなかで迷う人々の悲劇を見て、経験した。主イエスがこれらの事を見た時、主はこれらの事柄を神性で見たであろうか、それとも人性で見たであろうか。神の人性は実際に存在し、それは極めて鮮明であった。神はこれらの事を経験し、見ることが可能であり、無論神の真髄と神性によってもまたそうした事柄を見た。つまり、キリスト自身、人間であった主イエスがそれを見、見た事柄のすべてが、神が肉にあって行った業の重要性と必要性を自身に強く感じさせた。イエス自身は、受肉して行う事柄に対する責任が極めて重大であることや、神が直面する痛みがいかに残忍であるかを知っていたものの、罪の中にある哀れな人々を見、そうした人々の悲惨な生活や、律法に基づく力ない奮闘努力を見た時、神は一層深い悲しみを感じ、人間を罪から救うことに対する切望が強くなっていった。イエスが直面する困難がどのようなものであれ、また神が感じる痛みがどのようなものであれ、罪の中で生きる人間を贖い出そうという神の決意は次第に強固なものとなっていった。この過程において、主イエスは、自身が行う必要のある業と、自身に託された物事を、一層明確に理解した、と言えるであろう。またイエスは、自身が行う業を完遂させたいという希望を徐々に強めていった。人間のあらゆる罪を負い、人間を贖い、そうすることで人間が罪の中で生きることがなくなり、罪のためのいけにえにより自身が人間の罪を忘れることができるように、そしてそれにより人類の救いの業を一層進展させたいという思いを、徐々に強めていった。主イエスは、心のなかで、自らを人類に進んで捧げ、自らを進んで犠牲にした、と言えるであろう。またイエスは進んで罪のためのいけにえとなり、十字架にはり付けになり、この業を完遂することを望んでいた。イエスが人間生活の悲惨な状態を見た時、一分一秒も遅れることなく、早急に自身の使命を成し遂げることを、一層強く求めた。神がこうした喫緊の必要性を認識した時、神は自身の受ける痛みがどれほど酷いものか、どれほどの恥辱に耐えなければならないかなどとは考えていなかった。イエスの心にあったのは、自らを捧げ、罪のためのいけにえとして十字架にはり付けられる限りにおいて、神の旨が実行されて新たな業を始めることが出来る、罪の中にある人間生活、罪の中に存在する人間の状態が全く別のものに一変する、という確信のみであった。イエスの確信と、実行を決意した業は、人間の救いに関連するものであり、イエスの唯一の目的は、神の旨を遂行して業の次の段階を開始出来るようにすることであった。この時主イエスの心にあったのは、そのようなことであった。

 

 

   受肉して生活していた神は、通常の人間の人性を持ち、通常の人間と同じ感情と理性を持っていた。神は幸福とは何か、痛みとは何かを知っていたので、神がそういう生活を営んでいる人間を見た時、人間に教義を与えたり、施したり教えたりするだけでは、人間を罪から抜け出させることは出来ず、また人間を戒律に従わせるだけでは、人間の贖罪は不可能であり、人類の自由と、人類に対する神の赦しは、自身が人類の罪を負い、罪深い肉の似姿となるという代償と引き換えにしか得ることが出来ない、ということを、強く感じた。そうしたわけで、罪の中にある人間の生活を主イエスが経験し、目の当たりにした後、イエスの心には、人類を罪の中で苛まれる生活から抜け出ることが出来るようにするという強い願望が生まれた。この願望により、出来るだけ早く人類の罪を負って十字架にはり付けられる必要がある、というイエスの感情が強くなっていった。イエスが人間と共に生活し、罪の中にある人間の生活の悲惨さを見聞きし、感じた時の主イエスの思いは、こうしたことであった。受肉した神には、人間に対してこのような旨を持ち、神はこの種の性質を表出して示すことが出来たが、こうしたことは、普通の人間にも出来るであろうか。普通の人間がこうした環境で生活した時に見る物事は、何であろうか。人間は何を考えるだろうか。普通の人間がこうした事柄に直面した場合、問題を高い視点から検討するか、というと、そのようなことは決してない。受肉した神の外観は人間と全く同じであり、人間の知識を学び、人間の言葉で話し、時には人間と同じ方法や表現で考えを表現されるものの、人間に対する見方や物事の真髄に対する考え方は、イエスと腐敗した人間では、決して同じということはない。イエスの視点と、イエスの立場の高さは、腐敗した人間が得ることの出来ないものである。なぜなら、神は真理であり、肉となった身体にも神の真髄が存在し、イエスの考えや、その人性で表出される考えもまた真理であるからである。腐敗した人間にとって、イエスが肉にあって表出する事柄は、すべて真理と生命の提供である。これらのものは、ひとりだけではなく、人間全体に与えられているものである。腐敗した人間にとって、心の中で自分に関連する人々の数は僅かであり、心にかけて気遣う他の人の数は僅かである。大災害が発生したとき、人間が最初に心配するのは自分の子供、配偶者、両親のことであり、比較的博愛的な者でも、せいぜい親戚や親友だけであり、それ以外の者のことは決して心配しない。人間は、つまるところ人間であって、人間の目線の高さからしか物を見ることが出来ない。しかし、受肉した神は、腐敗した人間とは全く異なる。受肉した神の身体がいかに普通で慎み深いものだったとしても、あるいはいかに多くの人間に見下されたとしても、人間に対するイエスの旨と態度は人間が抱くことの出来ないものであり、だれも真似することの出来ないものである。イエスは、常に神性の視点で、創造主の立場から人間を見る。イエスは神の真髄と心によって人間を見る。イエスが通常の人間の立場で、腐敗した人間の目線で人間を見ることは決して出来ない。人間が人類について考える時、人間は人間の視点で見て、人間の知恵や規則、理論を基準として用いる。これは人間が人間の目で見ることが出来る物事の範囲内であり、腐敗した人間が成し得る範囲内である。神が人類について考える時、神は神の視点で見、神の真髄と神の持っているものとその存在を用いて人間を見る。この範囲には、人々が見ることの出来ないものも含まれているという点が、受肉した神と腐敗した人間では全く異なる。この相違は人間と神の異なる真髄により決定され、人間と神の身分や立場、そして物を見る視点を決定するのは、この真髄の相違である。あなたがたには、主イエスの中に、神の表出と顕現が見えるであろうか。主イエスが行なった業と言葉はイエスの公生涯と神の経営の業に関連するものであり、それはすべて神の真髄の表出と顕現であると言えるであろう。イエスには人性の発現があったが、イエスの神性の真髄と神性の顕現を否定することは出来ない。人性の発現は、真の人間の発現であろうか。イエスの人性の発現は、本質的に、腐敗した人間の発現とは全く異なる。主イエスは受肉した神であり、仮にイエスが本当に腐敗した普通の人間であったとしたら、罪の中にある人間の生活を神性の見地から見ることが出来たかといえば、そのようなことは絶対に出来なかったであろう。これが人の子と通常の人間の差である。

   神が受肉して人間の中で生活した時、神がその身体で経験した苦難には、どのようなものがあるであろうか。それを真に理解する者が居るであろうか。一部の人々は、神は大いに苦しみ、イエスは神であるにもかかわらず、人々は神の真髄を理解せず、イエスを人間として扱い、それが原因でイエスは感情を害し、不当な扱いを受けていると感じた、神の苦難は甚大であった、と言う。また別の人々は、神は汚れも罪もなかったが、人間と同様に苦しみ、人間と同様に迫害、中傷、侮蔑に苛まれ、また自身に付き従う者の誤解や反抗にも苛まれた。その苦難は計り知れない、と言う。あなたがたは、神を真に理解していないと考えられる。実際には、人々の言う苦難は、神の真の苦難とはみなされない。なぜなら、それよりも大きな苦難があったからである。それでは、神自身の真の苦難とは何であろうか。受肉した神の真の苦難とは何であろうか。神にとって、人間が自身を理解しないことは苦難とはみなされず、また、人々が神に関して何らかの誤解を抱いたり、神と考えなかったりすることも、苦難とはみなされない。しかし、人々は往々にして、神は極めて大きな不当性に苛まれたに違いない、また受肉した神は神性を人間に示して人々に神の偉大さを見せることが出来ず、神は普通の人間に身をやつしていたので、神は苦しい思いをしたに違いない、と感じる。人々は、神の苦難について自分たちが理解できることを心で感じ、様々な形で神に共感し、しばしば苦難を称賛さえする。実際には、神の苦難に関する人々の認識と、神が実際に感じたこととの間には、相違点と隔たりがある。神の霊であるか受肉した神であるかを問わず、神にとって、そうした苦難は真の苦難ではなかった、これが真実である。それでは、神の実際の苦難は何であろうか。ここでは、受肉した神の観点からのみ、神の苦難について議論する。

   神が受肉し、普通の人間になり、人間の中で人々と共に生活していた時、神は人間の生活における方法や律法、哲学を理解できなかったであろうか。こうした生活における方法や律法は、神にとってどう感じたであろうか。神は心の中で強い嫌悪感を抱いたであろうか。神が強い嫌悪感を抱いたのは何故だろうか。人間の生活における様式や律法とは何であろうか。それらはどのような原則に基づくものであろうか。それらは何に基づくものであろうか。人間の生活における様式や律法等は、すべてサタンの理論、知識、哲学に基づいている。この種の律法に基づいて生きる人間には人間性も真理もない。こうした人間は全員真理に逆らい、神を敵対視している。神の真髄について検討すると、神の真髄は、サタンの理論、知識、そして哲学とは正反対であることが分かる。神の真髄は正義、真理、聖さその他の肯定的な事柄の真実で満たされている。こうした真髄を持ちつつ、人間の中に生きていた神の心は何を感じたであろうか。それは苦痛ばかりではなかろうか。神の心は苦痛を感じ、その痛みに気付いて理解する人間は誰も居ない。神が直面し、見聞きし、経験する全ての物事が、人間の腐敗、邪悪、そして真理に対する反逆と反抗である。人間に由来する全ての物事が、神の苦難の原因である。つまり、神の真髄は腐敗した人間とは異なるため、人間の腐敗が神の最大の苦難の原因となる。神が受肉した時、神は、神と共通の言葉を持つ人間を見つけられることが出来るであろうか。人間の中に、そうした者を見つけることは出来ない。こうした意思疎通や対話を行うことの出来る者を見つけることは出来ないのであれば、神はどのような気持ちであろうか。人々が語り合う物事、好む物事、追求する物事、望む物事は、すべて罪と関連し、邪悪の傾向がある。神がこうした物事に直面するのであれば、それは神の心にとって刃のようではなかろうか。こうした物事に直面して神の心は喜んだであろうか。神は慰めを見つけることが出来たであろうか。神と共に生活していた者たちは、反逆と邪悪に満ちていたのであるから、その心が苦しまずにいられようか。この苦難は、いかに甚大だったであろうか。また誰がそれを懸念したであろうか。誰が注意を払ったであろうか。そして誰がそれを理解できたであろうか。人々が神の心を理解する術は全くない。神の苦難は人間がとりわけ理解不可能な事柄であり、人間の冷淡さと愚鈍さにより、神の苦難は一層深まる。

   キリストの窮状に頻繁に共感する人々が居るが、それは「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない。」と述べる聖句があるからである。人々がこれを聞いた時、人々はそれに共感し、それは神が堪え忍んだ大いなる苦難であり、キリストが堪え忍んだ大いなる苦難であると考える。しかるに、それを事実という観点から見た場合、実際にそうした状況であろうか。神は、そうした問題が苦難であるとは考えない。神が肉の問題の不当なことに対して悲しんだことも、人間に対して神に対する何らかの代償を要求したこともない。しかし、腐敗した生活や腐敗した人間の邪悪、人間がサタンに支配されていること、サタンの捕らわれの身となり逃れることができないこと、罪の中で生きる人々が真理とは何かを知らないことなど、人間の全てを神が目の当たりにする時、神はこうした罪のすべてに耐えることが出来ない。人間に対する神の強い嫌悪感は日ごとに増していくが、神はそれに耐えねばならない。これが神の甚大な苦難である。神は自身に従う者に対して心の声や感情すらすべて表出することが出来ず、神に従う者のなかに、神の苦難を完全に理解できる者は居ない。誰ひとりとして、神の心を理解し、慰めようとすることさえしない。神の心は、毎日、毎年、そして幾度となく、この苦難に堪え忍ぶ。このことから何が分かるであろうか。神は、神が授けた物事に対する見返りを人間に要求してはいないが、神の本質が原因となり、神は人間の邪悪、腐敗、罪を見過ごすことが全く出来ず、強い嫌悪と憎しみを感じるので、神の心と身体は終わることのない苦難を受ける。あなたがたは、このことが理解できるであろうか。あなたがたの中に真に神を理解できる者は居ないので、おそらく誰も理解できないであろう。時が経つにつれ、あなたがたは徐々にこのことを経験することができる。


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