賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神の愛は善いこと、悪いことの両方で見ることができます

2020-10-19 23:04:42 | 信仰生活

神の愛は善いこと、悪いことの両方で見ることができます

    私たちは誰もが前漢の劉安が執筆した思想書「淮南子、人間訓」について良く知っています。これ故に、私たちは損は得を伴い、得は損を伴うということを頻繁に口にします。これがそのストーリーの1つです:戦国時代の間、サイ・ウェンは多くの馬を育てました。彼が馬を失った時、彼の隣人たちは彼を慰めに行きました。彼はそれを悲しんでいなかったどころか、それは良いことかも知れないと隣人たちに言いました。予想外にも、行方不明になっていた馬が帰ってきただけでなく、乗馬用の馬までついてきたのです。これを知ったサイ・ウェンの隣人たちは彼を祝福しました。彼はそれにあまり満足しておらず、それどころか、これは必ずしも良いことではないと言ったのです。案の定、彼の息子が乗馬中に足の骨を骨折してしまいました。彼の隣人たちは彼を慰めに行きましたが、彼はとても落ち着いており、これは悪いことではないかもしれないと言ったのです。彼の隣人たちは彼のことが本当に理解できず、彼は悲しさのあまり頭が混乱しているのではないかと思いました。しかし、最終的には、胡の人々が侵略してきたため、若者全員が戦場に連れていかれ、その大多数が死んでしまいました。しかし、サイ・ウェンの息子は足を骨折していたため、戦争に行かずに済み、いのち拾いをしたのです。

    このショートストーリーを読んだ後、私は餌入れからクライマックス、そしてその反対を行ったり来たりしながらローラーコースターに乗っているような気分になり、とても驚きました。私がサイ・ウェンのストーリーから学んだことは:「私たちが善い、または悪いと捉えるものは実は全てが完璧なのです。さらに大切なのは、私たちがそれをどのように捉え、それとどのように向き合うかということなのです。私たちは頻繁に「善い」出来事に大喜びし、「悪い」出来事に心を痛めますが、結局、私たちは物事は私たちが捉えているほど単純ではなく、それらには主の御知恵が込められていることを知ります。これは私たちが頭の中で想像できることではありません」、ということです。

    まるで聖書に書かれているヨセフのストーリーのようです:彼は父親から特別扱いされていました。彼の兄弟たちはこれにひどく嫉妬しましたため、彼らはヨセフをイシュマエルの子孫に売り飛ばし、最終的に、彼はファラオ​の​役人、かつ護衛​の​長であるポテパルというエジプト人に奴隷として売られてしまいました。ポテパルの自宅で、ヨセフは全てにおいて神を頼りにし、誠実に、そして責任をもって働いたため、ポテパルの信用を得ました。そしてポテパルはヨセフに家の中にある物全てを担当させたのです。素晴らしい働きをしていたヨセフはポテパルの妻の目に留まり、彼女はヨセフを誘惑して彼の関心を引こうと試みました。しかし神を敬けんする心の持ち主であるヨセフはポテパルの妻を拒みました。この結果、彼は彼女から冤罪を被り牢屋に入れられてしまいました。ヨセフは牢屋の中でファラオの献酌人とパン焼き人に出会い、彼らの夢を神から授かった智恵で解釈して彼らから感謝されました。後に、彼はファラオの夢を解釈するように推薦されました。ファラオの信頼を得た彼はエジプト全土を管理する主席大臣に任命されたのです。当時、全ての国々では7年の大飢饉に苦しんでいました。ヨセフは予め備蓄をしていたため、彼の家族は運よく大飢饉を生き延びたのでした。

    神の御業は本当に素晴らしく賢明であられます。ヨセフは父親の一番のお気に入りでなかったら、兄弟たちから嫉妬されてエジプトに売り飛ばされることはなかったかもしれません。エジプトに売り飛ばされていなかったら、ポテパルの召使になることも、ポテパルの家の管理を担うことも、ましてポテパルの妻から誘惑され、濡れ衣を着せられて牢屋に入れられることもなかったでしょう。彼は牢屋に入れられていなかったら、献酌人とパン焼き人に出会うことはなかったでしょう。彼はファラオのために夢の解釈をしていなかったら、エジプトの主席大臣になることはなかったでしょう。エジプトの主席大臣になっていなかったら、彼は自分の家族が7年の大飢饉を生き延びる手助けをすることはできなかったでしょう。「悪い」と思われたことが「善い」ことになりました。ですが、「善い」と思われたことも、時には「悪い」ことになっています。実に、神の御旨は常に人に向けられており、神の偉大な愛は全ての背後に込められているのです。これについてヤーウェ神はこう仰りました:「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書 55:8-9)

    私は主を初めて信仰し始めた頃、いつも歯痛がしていたのですが、祈りを捧げても改善しなかったのを覚えています。次第に、私は主への信仰を失っていき、聖句を読んだり祈りを捧げるのが嫌になっていきました。兄弟姉妹たちのサポートを受け、私は自分の主への信仰はかなり弱いことが分かり、主の御力は最も偉大であられることも理解しました:主は盲人たちが見えるようにされ、足の不自由な人たちが歩けるようにされ、5つのパンと2匹の魚で5千人の人々を養われ、死者を蘇らせる等なされました。後に、私は主の御啓示により、自分は自慢して自己顕示することが大好きな人であったことを知りました。私が主の前で悔い改め、罪を告白した後、歯痛は改善し、それ以降、歯痛は決して起こりませんでした。歯痛がして痛い思いをするのは悪いことのように思えましたが、私の霊的ないのちが育まれ、私の信仰は強くなりました。これは善いことではないでしょうか?

    従って、私たちは自分の観念と合致しない出来事に遭遇することがあれば、それを自分たちの目に映ったまま判断かつ検討して肉の欲求を満たせなかったからと言って主を非難するなど、自分の自然な姿勢を露わにしてはならないのです。しかし、むしろ私たちは、主は過ちを犯すことも、無作為に物事をなさることもなく、主が私たちのためにしてくださったこと全てには主の善良な御旨が込められていると信じるべきなのです。私たちは主の御旨を理解できなくでも、待って、求めて、従うということを学ぶべきであり、それが最も合理的かつ懸命な選択肢なのです。私はこうすることによって主の素晴らしい御業を見ることができると信じています!

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キリスト教讃美歌「神の愛は私の心を溶かした」


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