賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神は人間のために用意した様々な植物性の食料

2020-03-10 00:41:39 | 聖書の奥義を開く

   ここまでは、全体的な環境、すなわち神が世界を創造した後に人間のために用意した、人間の生存に必要とされる条件について話をした。5つの物事について話をしたが、この5つの物事が、全体的な環境である。次に話す内容は、肉にある人間全員の生活と密接に関連する事柄である。それは、肉にある人間の生活に一層よく当てはまり、則した必要条件である。それは、食料である。神は人間を創り、適切な生活環境に置いた。その後、人間には食料と飲料が必要であった。人間には、そうした必要性があるので、神はそれに必要なものを用意した。したがって、神の働きの各段階と神の行なうひとつひとつの業は、空虚な言葉ではなく、実際に行われたものであることが分かる。食料は人間の日常生活において不可欠であろうか。(不可欠である。)食料は空気よりも重要であろうか。(それらは等しく重要である。)それらは等しく重要である。両者は人間の生存と人間生活の維持継続に不可欠な条件と物事である。空気と水のどちらの方が重要であろうか。気温と食料のどちらの方が重要であろうか。それらはすべて等しく重要である。人間はそのいずれも欠くことが出来ないので、人間は選択できない。これは現実的な問題であり、人間が選択できるものではない。あなたは知らないが、神は知っている。あなたがそれらの物事を見た時、あなたは「食べ物無しでは死んでしまう」と感じるだろう。しかし、あなたが造られた直後にそのような状況の中に置かれた場合、あなたは食べ物が必要だということを知っているであろうか。あなたは知らないだろうが、神は知っている。あなたが空腹になり、そして木が実を付け、地面に穀粒があるのを見た時、はじめてあなたは「そうだ、食べ物が必要だ。」と意識する。あなたの喉が渇き、水を飲みたいと思った時、はじめて「水が欲しい。水はどこにあるだろうか。」と意識する。あなたは目の前に泉があるのを見つけ、それを飲む。そして「これはとても美味しい飲み物だ。これは何だろう。」とつぶやく。それが水であり、水は神が人間のために用意したものである。食料については、1日3食摂るか、2食にするか、あるいは4食以上にするかは問題ではなく、要するに、食料は人間の日常生活に不可欠なものである、ということである。食料は人体の正常な生存を維持するために必要なもののひとつである。それでは、食料は主として何に由来するであろうか。第一に、食料は土に由来する。土は神が人間のために最初に用意したものであった。土は、木や草だけでなく、様々な植物の生存に適している。神は人間のために様々な穀粒の種と食料、そして栽培に適した土を用意し、よって人間に食料を与えた。そうした食料には、何があるだろうか。あなたがたは、これについて明確に理解している必要がある。第一に、様々な穀粒がある。穀粒には何があるだろうか。小麦、粟、キビ、米など、殻のついているものである。禾穀類にも、様々な種類がある。禾穀類には、大麦、小麦、オート麦、蕎麦など、南部地方から北部地方まで様々な種類がある。様々な地域での栽培に適した、様々な種類が存在する。また、米にも様々な種類がある。南部には南部特有の様々な種類の米があり、穀粒が長く、粘り気が強すぎず、南部出身の人々に適している。南部は気候が比較的温暖なので、インディカ米などといった種類の米を食べる必要がある。米は粘り気が強いと食べ難く、食欲を失うので、粘り気は強すぎてはならない。北部の人々が食べる米は、比較的粘り気が強い。北部は気候が常に寒冷なので、粘り気の強い米を食べる必要がある。それに加えて、様々な種類の豆がある。豆は地上で成育する。また、ジャガイモ、サツマイモ、タロイモなど、土中で成育する豆もある。これらが、様々な穀類と人間の日常の食料や飲料として必要なものである。人間は様々な穀類を用いて麺、蒸しパン、米、ビーフンなどを作る。また、人間はジャガイモを食べ、ジャガイモやサツマイモを使って主食を作る。南部の人々が食べることが多いタロイモも主食とすることができる。神は、こうした様々な種類の穀類を人間に対して豊富に与えた。それほど多くの種類が存在するのは何故であろうか。そこから神の意図を見出すことができる。理由のひとつとして、東西南北で異なる土壌と気候に適合するため、ということがある。またもうひとつの理由として、これらの穀類に含まれる様々な成分が、人体の様々な成分と一致する、ということがある。人間が自分の身体に必要とされる様々な栄養素を維持するためには、こうした様々な穀類を食べることによるほか無い。北部の食料と南部の食料は異なるものの、両者には相違点よりも共通点の方が多い。これらの食料は、人体の通常の必要性をすべて満たし、人体の正常な生存を維持することが可能である。このように、各地において豊富な種類が生産されている理由は、人体の必要がこれらの食料で供給されているからである。人間は、人体の正常な生存を維持し、通常の人間生活を実現するために、土中から発育した様々な食料により共有されるものを必要とする。この点は理解できるであろうか。(理解できる。)ジャガイモは北部で生長する。北部のジャガイモは極めて高品質である。人々が食べる穀類が無い場合、ジャガイモはそうした人々の主食となり得るので、そうした人々は1日3食を維持できる。ジャガイモもまた、食料として供給することが出来る。サツマイモは、品質がジャガイモに劣るが、それでも人間はサツマイモを食料として1日3食を維持することができる。穀類が食べられない状態の時、人間はサツマイモで空腹を満たすことができる。タロイモもサツマイモと同様にして利用できる。つまり、神は人間に対して大いに配慮していた。神が人間に与えた様々な食料は、単調ではなく、極めて幅広い。シリアルを食べたければ、シリアルを食べることができる。「麺類が嫌いだから米を食べたい」と言う者が居るかも知れないが、そうした者は米を食べることができる。米には穀粒が長い米、短い米など様々な種類があり、それら全てが人間の味覚を満たせるであろう。したがって、こうした穀類を食べる場合、その者の食べ物に対する好き嫌いやこだわりが極端に激しく無ければ、人間は栄養不足にならず、老いるまで健康に生活出来ることが保証されている。それが、神が人間に食料を与えた時の当初の心であった。人体にはこうした食料が不可欠である。これは現実ではないだろうか。(現実である。)人類は、こうした現実の問題を解決出来ないが、神は既にその問題について十分に検討し、対策を完了している。遠い昔に、神は人間のための物事を用意し、それを豊富に用意した。これは事実である。

 

 

   神が人間に与えたのは穀類だけではなく、野菜もある。米を食べ、食事が米だけの場合、栄養が不足するおそれがある。そこで、野菜を炒めて小皿の料理を2種類ほど作ったり、野菜を組み合わせてサラダを作って付け合わせにしたりすれば、野菜に含まれるビタミン類や複数の微量元素その他の栄養素により、人体に必要とされる物を自然に補給することができる。人間は、主な食事以外に、果物を食べることも出来るだろう。時折、人間が追加の水分やその他の栄養素、異なる味を必要とする場合も、野菜や果物を摂取することができる。野菜や果物も、北部、南部、東部、西部で土や気候が異なるので様々な種類のものがある。南部の気候は暑すぎるので、果物や野菜の大部分は清涼な種類のもので、食べた時に人体の熱を冷ますことができる。一方、北部では果物や野菜の種類が比較的少ないが、それでも北部地方の人々が十分楽しめる種類が揃っている。そうではないだろうか。(その通りである。)しかし、近年における社会的発展やいわゆる社会的進化、東西南北の各地方を結ぶ交通機関や通信の改善により、北部の人々も、南部地方の果物や特産品、野菜を一年中食べることができる。これにより、人々は食欲や物欲を満たすことができるものの、人体には知らないうちに様々な危害が及ぶ。それは、神が人間のために用意した食料には、南部地方の人間に適した果実や野菜などの食料と、北部地方の人間に適した果実や野菜などの食料があるからである。つまり、ある者が南部地方で生まれた場合、その者には南部地方産の食料が極めて適している。神がこれらの野菜や果物などの食料を用意したのは、南部地方には特有の気候があるからである。北部には、北部地方の人々の身体に必要とされる食料がある。しかし人間は非常に食欲があるため、知らぬ間に社会的発展の波に呑まれ、そうした法則に反してしまう。人間は現在の生活が向上したと感じるものの、こうした社会的発展は潜在的な危害を一層多くの人体に加える。神はこうしたことが実現されるのを求めておらず、こうしたことは、神が食料、果物、野菜など万物を人間に与えた当初に意図していたものでは無い。これは、人間が自然の法則に反し、科学の進展を実現したことにより発生したものであり、神とは無関係である。

   神が人間に与えた物事は豊富であり、各地域に独自の特産物があった。たとえば、ナツメという名称で知られる紅棗が豊富な場所もあれば、クルミや落花生などのナッツ類が豊富な地域もある。こうした物質的な物は、人体が必要とする栄養素を供給する。しかし、神は季節や時期に従って物を供給し、かつ適切な時期に適切な分量を与える。人類は物理的な快楽を求め、貪欲であるため、神が人間を創った時からの人類の発展の正常な法則に反しやすくなっている。例としてサクランボを挙げるが、サクランボは皆知っているであろう。サクランボの旬はいつだろうか。(6月である。)サクランボは6月頃に収穫される。通常の条件下において、サクランボが出回らなくなるのはいつ頃であろうか。(8月である。)人々は、サクランボが出回り始める6月から8月の2ヵ月間のうちにサクランボを食べ始める。サクランボが新鮮な状態であるのは、2ヵ月間のみであるが、科学的手法により、人間はその期間を12ヵ月、あるいは来年のサクランボの旬の時期まで延長することが可能になった。これは、サクランボは年間を通して存在するということである。この現象は正常であろうか。(正常ではない。) それでは、サクランボを食べるのに最適な季節はいつであろうか。それは、6月から8月までの期間である。この期間以外は、サクランボを如何に新鮮な状態に保ったとしても、サクランボの味は同じではなく、人間の身体が必要とするものではない。期限日が過ぎた後は、どのような薬品を使用しても、自然に栽培された状態にすることは出来ない。さらに、薬品が人間に与える危害は、解消したり変化させたりすることは、誰も出来ないものである。この点は理解できるであろうか。現在の市場経済は、人間に何をもたらすであろうか。人々の生活は向上しているように思われ、どこへ行くにも交通の便は極めて良くなり、人々はあらゆる種類の果物を、四季を問わずに食べることができる。北部の人々は、バナナなどの食料や南部の特産品や果物を頻繁に食べることができる。しかし、こうした生活は、神が人間に与えることを望んだ生活ではない。こうした生活は、人類の科学的進歩により実現された。市場経済が人体に与える物事は、自然な発展の正常な法則に反している。市場経済がもたらしたのは、危害と災害であり、幸福ではない。この点は理解できるであろうか。(理解できる。)

   考えてみて欲しい。ブドウは市場で四季を通して売られているだろうか。(売られている。)通常ブドウが新鮮な状態であるのは、収穫後の極めて短い期間のみである。ブドウを翌年の6月まで取っておいた場合、それは依然としてブドウであると言えるだろうか。それは生ゴミであると言えるのではないか。そのブドウは、ブドウ元来の成分を既に失う一方、ブドウの薬品含有量が増えている。1年経過すると、ブドウは新鮮でないのみならず、栄養素も既に失っている。ブドウを食べるとき、人間は「本当に嬉しい。本当に満足だ。30年前、この季節にブドウが食べられただろうか。食べたくても食べられなかっただろう。なんと素晴らしい生活だろう。」などと感じるであろう。これは本当に幸福であろうか。興味があるのであれば、薬品で保存されたブドウを調べて構成成分と、その構成成分が人間に有益であるかどうかを確認すればよい。律法の時代を振り返ってみよう。イスラエルの人々がエジプトから出た時、神は道中でうずらとマナを与えた。神はイスラエルの人々がうずらとマナを保存することを許したであろうか。(許さなかった。) 一部の人々は偏狭で翌日に無くなることを心配し、多少残しておいた。「後で必要になった時のために残しておこう。」すると、どうなったであろうか。翌日には、それが腐っていた。神は、イスラエルの人々に、予備として残しておくことを許さなかった。なぜなら、神は既に、ある用意をしていたからであり、その用意によりイスラエルの人々は飢えないことが保証されていたからである。しかし、人々は確信が持てず、常に少しだけ残しておくことを望んだ。なぜなら、人々は「神の業は信頼できない。それは見ることも触ることも出来ない。今後のために少しだけ残しておいた方が良い。自分で何とかしなければ、誰も助けてくれないから、先を見越しておく必要がある。」と考えたからである。お分かりの通り、人間にはそうした確信も、神に対する真の信仰も無い。人間は常に将来のために少しだけ残し、神が人間のために用意した物事の根底にある配慮と思いを、決して理解できない。人間はそれを感じることが出来ず、神を疑い、「神の業は信頼できない。神が与えるか、与えるならそれは何時か、誰も知らない。私が空腹であるのに神がそれを与えなかったとしたら、私は飢えるのではないか。栄養が不足するのではないか。」などと言うのが常である。人間の確信が如何に少ないかが分かる。


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