……次に、もうひとつの側面、すなわち、神が万物を支配する、ある方法について話をする。その方法とは、神が万物を造った後に、万物の相互関係の釣り合いを取った方法である。これもまたかなり大きな事項である。万物の相互関係の釣り合いを取ることは、人間が行うことの出来ることであろうか。人間のみでは不可能である。人間はその調和を乱すことしか出来ない。人間は、万物の相互関係の釣り合いを取ることができない。なぜなら、人間にはそうした強大な権威や力が無いからである。そうした事が可能な力は、神自身だけに存在する。神がこうした業を行う目的は何であろうか。これもまた同様に、人間の生存と密接な関係がある。神が行うことを望む業は、すべて必要なものである。つまり、神が行う可能性も、行わない可能性もある業というものは無い。神が人間の生存を保護し、好ましい生存環境を人間に与えるためには、神が行う必要のある、不可欠かつ重要な業がある。
「神が万物の釣り合いを取る」という言葉の文字通りの意味からすると、この事項は極めて広範である。万物の釣り合いを取ることが、まさに神による万物の支配であることを理解するため、まずは、ある概念を説明する。「釣り合いを取る」という語は、何を意味するであろうか。まず、「釣り合いを取る」という語は、何かが釣り合っていない状態になることを阻止することを指す。天秤については、皆知っている。天秤で何かの重さを量る時は、それを天秤の一方に乗せ、他方におもりを乗せる。その物の重さは、最終的なおもりの量により決まる。これを釣り合いという。釣り合いを取るには、天秤の両方の重さを等しくする必要がある。神が造った万物には多数のものが含まれていた。神は固定されたもの、移動するもの、生きているもの、呼吸するもの、呼吸しないものを造った。神は極めて多くのものを造ったが、こうした万物すべての間に相互依存関係、互いに助け、制限し合う関係、相互に繋がりのある関係を成立させるのは、容易であろうか。こうした関係には、原理があることに間違い無い。こうした関係は極めて複雑だが、神にとっては困難ではない。しかし、人間にとって、こうした関係は極めて研究が困難である。釣り合いという言葉は、極めて単純に思われる。しかし、人間が釣り合いを研究したり、釣り合いを取ったりする必要があるとしたら、人間生物学者、天文学者、物理学者、化学者、さらには歴史家など、聡明な学術研究者が全員で取りかかるであろう。そうした研究の最終結果は、どうなるであろうか。その最終結果は、無である。なぜなら、神の万物創造は極めて驚異的であり、人間がその謎を解明することは決して無いからである。神があらゆる生き物を造った時、神は生き物同士の間の原理を定め、様々な生存方法による相互の制限、相補性、養育方法を定めた。こうした様々な方法は極めて複雑であり、単純でも一方向性のものでもない。人間が精神や知識、そして視認する現象により、神の万物支配の根底にある原理を確認ないし研究しようとすると、これらの事柄は解明が極めて困難である。解明することも、何らかの結論を得ることも、それと同様に極めて困難である。人間が成果を達成することは極めて困難であると言えるだろう。人間の精神と知識に依存して釣り合いを維持し、神が造った万物を統治するのは、極めて困難である。人間は、様々な生き物の生存に関する原理を知らないので、こうした釣り合いを保つ方法を知らない。したがって、人間があらゆる生き物を管理し、統治することになった場合、人間はその釣り合いを壊す可能性が極めて高いであろう。釣り合いが壊れるとすぐに、人間の生存環境が破壊され、破壊後はその人間の生存危機が発生するであろう。こうした状況により、大災害が発生するであろう。人間が大災害の中で生活した場合、人間の将来には、何が待ち構えているであろうか。それは想像や予期が困難な結果となるであろう。現在、世界が直面しているのは、まさにこうした危険である。
それでは、神はどのような方法で万物の間の釣り合いを取っているであろうか。まず、世界には、年間を通して氷雪で覆われている地域や、四季を通して春のような気候の地域がある。氷や雪は一切見当たらない。冬は無く、常に春のような状態である。これが1種類目の方法であり、比較的広範囲にわたる気候の観点から見たものである。2種類目の方法は、山を見た時に見受けられる、地面を覆い尽くして生い茂る様々な植物である。広大な森があり、森の中を歩くと陽の光が見えないほどである。その他の山では草も生えず、荒れた不毛の山々が延々と続く。外観は両者とも土が盛り上がっている山である。植物が生い茂る山々もあれば、草さえも無い山々もある。これが2種類目の方法である。3種類目の方法では、草が風に揺れる草地が見渡す限り続く場合がある。しかるに、見渡す限り砂漠が続く場合もある。生き物は一切見られず、ましてや水源など見当たらず、ただ砂漠を吹き渡る風の音だけである。4種類目の方法では、広大な水域である海で覆われている場所があるが、その一方で、泉を探すのも困難な場所もある。5種類目の方法では、霧雨が頻繁に降り、霧が多く湿度の高い場所がある一方で、強い日差しが照りつける日が極めて多く、一切雨が降らない場所もある。6種類目の方法では、空気が薄く呼吸が困難な高原となっている場所がある一方で、様々な渡り鳥の棲息地となる湿地と低地がある場所もある。これらは様々な気候の種類であるか、あるいは様々な地理的環境に対応する気候または環境である。つまり、神は、人間が生存する環境の空気、気温、湿度の釣り合いを取るため、比較的広域的な環境の側面、気候、地理的環境、土壌の構成要素、水源の量などから人間の基本的な生存環境の釣り合いを取るようにした。こうした対照的な種類の地理的環境があるので、人間には安定した空気が供給されており、四季を通して安定した気温、湿度が与えられている。これにより、人間は常にそうした生存環境で生活を継続することができる。このことは、比較的広範囲にわたる環境の観点から述べたものである。まず、比較的広範囲にわたる環境の釣り合いを取る必要がある。これは、神が望み、人間に必要とされる状態に釣り合いを取るため、様々な地理的場所と地理的方法、様々な気候の推移による相互抑止力により釣り合いが取られる。このことは、比較的広範囲にわたる環境の観点に基づく方法である。
植生などの詳細を見たとき、どうすればその釣り合いを取ることが出来るだろうか。つまり、植生は、どうすれば釣り合いの取れた生存環境のなかで生存を継続することが可能となるであろうか。それは、様々な植物の寿命、成長速度、繁殖速度を管理して生存環境を保護することにより実現される。例として草を挙げると、草には春の若芽、夏の花、秋の実がある。草の実が地に落ちると、その草は死ぬ。その翌年、その実の種が芽を出し、同じ律法にしたがって継続する。草の寿命は極めて短く、春から秋までであり、その後草は死ぬ。地に落ちた種それぞれから根と芽が出て花が咲き、実がなる。この過程が発生するのは、僅かに春から夏そして秋までの期間である。また様々な樹木にもそれぞれに寿命と発芽時期、結実時期がある。一部の樹木は、わずかに30年から50年で死ぬ。これらの樹木の寿命は30年から50年だが、その実が地に落ち、実から根と芽が出て、花を咲かせ、実がなり、それが30年から50年にわたって生きる。これがその樹木の反復周期である。そして高齢の樹木が死に、若い樹木は生長する。森では常に樹木が成長しているのを見受けるのは、このためである。しかし、樹木にもまた適切な生死の周期と過程がある。樹木によっては、1000年を超えて生きるものもあり、3000年もの間生きる樹木もある。樹木はこの種の植物である。植物の種類やその寿命の長さを問わず、一般的に、神は植物の寿命、植物の繁殖能力、繁殖速度、繁殖量、繁殖率を管理して植物の釣り合いを取る。こうすることにより、草から樹木まで、植物は継続して生存し、釣り合いの取れた生態環境のなかで成長可能となる。そうしたわけで、地球上の森を見たとき、樹木か草かを問わず、植物は固有の律法に従って継続的に繁殖と生長を続けている。植物に人間の支援は不要である。植物は人間の追加支援を一切必要としない。植物が独自の生存環境を維持出来るのは、ひとえにこうした釣り合いが取られているからである。それらの森林や草原が地上で生存出来るのは、ひとえにそうした植物に適した生存環境があるからである。植物の存在は、何世代にもわたる人間や、鳥、獣、昆虫、様々な微生物など、森や草原を棲息地とする様々な生き物を育む。
また神は、様々な動物の釣り合いも管理している。この釣り合いはどのように管理されているだろうか。動物も植物と同様であり、神は動物の繁殖能力、個体数、繁殖率、その動物が他の様々な動物に対して果たす役割により釣り合いを取り、個体数を決定している。たとえば、ライオンはシマウマを食べるが、ライオンの数がシマウマの数を超える場合、シマウマの運命はどうなるであろうか。シマウマは絶滅するであろう。また、仮にシマウマの繁殖量がライオンの繁殖量よりも遥かに少ない場合、シマウマとライオンはどのような運命を辿るであろうか。この場合のシマウマとライオンもまた絶滅するであろう。したがって、シマウマの数はライオンの数よりも遥かに多くなければならない。これは、シマウマがシマウマ自身のためだけでなく、ライオンのためにも存在するからである。それぞれのシマウマが全てのシマウマの一部であるが、それはライオンが食べる食料でもある、とも言えるであろう。ライオンの数がシマウマの数を超えることのないよう、ライオンの繁殖速度はシマウマの繁殖速度を超えることはない。このようにしてのみ、ライオンの食料源を保証することができる。ライオンはシマウマの天敵であるものの、ライオンとシマウマが同じ地域でのんびりと休息しているのを見かけることが、頻繁にある。ライオンがシマウマを狩り、食べることにより、シマウマの個体数が減ったり、シマウマが絶滅したりすることはなく、またライオンの個体数は、ライオンが持っている「王」たる地位のため、増えることは無い。この釣り合いは、遥か昔に神が定めたものである。つまり、神はあらゆる動物の間の釣り合いに関する律法を定めたので、動物は釣り合いを取ることが可能である。これは人間が理解可能な物事である。シマウマの天敵はライオンのみだろうか。ワニもまたシマウマを食べる。ワニがシマウマを食べているのを見た事があるだろうか。ワニがシマウマを食べている光景もまた残虐である。シマウマは極めて無力な動物の種であると考えられる。シマウマにはライオンのような獰猛さが無く、ライオンという手強い敵と対峙した時は、逃げることしか出来ない。シマウマは逆らうことすら出来ない。シマウマが逃げ切れなかった時、シマウマはライオンにより食べられるほかに道が無い。こうした状況は、動物界において頻繁に見受けられる。こうした状況を見たとき、あなたがたはどのような印象を受けるであろうか。あなたがたは、シマウマを哀れむであろうか。あなたがたは、ライオンに嫌悪を感じるであろうか。シマウマは、容姿が極めて美しい。しかし貪欲なライオンが常にシマウマを狙っている。そしてシマウマは遠くへ逃げないので愚かである。シマウマは、ライオンが木の陰に居て、何気ない素振りでシマウマを待ち伏せているのを見ている。ライオンが何時シマウマを食べるかは、誰にも分からない。シマウマは、心の中でこうした事を知っているであろうか。シマウマは知っているが、その場所を去ることは無い。それは驚異的なことである。その驚異には神の予定と支配が含まれている。あなたはシマウマを哀れむが、シマウマを救うことは出来ず、またライオンを嫌うが、ライオンを追い払うことが出来ない。シマウマは神がライオンのために用意した食料であるが、ライオンがシマウマをどのように食べても、シマウマは消滅することが無い。ライオンが産む子孫の数は極めて少なく、繁殖速度が遅いので、ライオンの数がシマウマの数を超えることは無い。ライオンが如何に大量に食べようと、ライオンの数がシマウマの数を超えることは無い。これは、一種の釣り合いである。
このような釣り合いを維持している神の目的は何であろうか。その目的は人間の生存環境や生存と関連している。シマウマやそれに類似する鹿などのライオンの獲物となる動物の繁殖速度が過度に遅く、ライオンの数が急増した場合、人間にはどのような危険が及ぶであろうか。まず、人間が飼育するニワトリ、アヒル、ガチョウ、犬などがライオンの獲物となるであろう。これはそうした動物が屋外で生活しており、まずライオンの獲物となるからである。そうした動物だけでライオンの食料として十分であろうか。豚を2頭飼っている家庭もある。もしライオンが山から下りて来て豚2頭を食べたとしたら、ライオンは食後にそこから去るであろうか。ライオンは「山には食べ物が無いから、ここに居よう。この家庭には豚が居る。豚は私が食べたが、人間がいるはずだ。次の食事のための獲物がまだないから、丁度よい。人間は家の中に閉じこもっているが、永遠にそうしていることことは出来ない。」と思うであろう。人間が家の外へ出るとすぐに、ライオンは人間をいとも簡単に食べるであろう。人間は抵抗できない。それは悲惨なことではないだろうか。ライオンがシマウマを食べるというのは正常な現象だが、ライオンが人間を食べると、それは悲劇となるであろう。神はこうした悲劇を予定しておらず、それは神の支配外であり、ましてや神が人間にもたらすものでは決してない。むしろ、それは人間が自ら招いたものである。そうしたわけで、神が考えるとおり、万物の釣り合いは、人間の生存に不可欠である。植物であるか動物であるかを問わず、万物の適切な釣り合いを崩してはならない。植物、動物、山、湖沼は、人間のために正常な生態環境をもたらす。人間の生存が安全であるのは、こうした釣り合いの取れた生態環境が人間に存在する場合のみである。草木の繁殖能力が芳しくなかったり、繁殖速度が極端に遅かったりしたら、土はどうなるであろうか。土は湿分を喪失するのではないだろうか。土から湿分が無くなると、問題となるだろうか。土が湿分と植生を喪失すると、浸食が急速に進み、土中に砂が発生する。その土は健全な状態で無くなり、砂が多くなり、土壌が悪化すると、人間の生存環境も破壊される。この環境破壊と同時に、災害が発生するであろう。こうした生態系の釣り合いや生態環境が存在しない場合、万物の釣り合いが崩れていることが原因となって、人間は頻繁に災害に見舞われるであろう。たとえば、環境の釣り合いが崩れた結果、特定の場所でカエルが増加し、カエルの生態系が破壊され、全てのカエルが集まり、個体数が激増して、都市部でもカエルが道路を横断したり大量のカエルが道路上に居るのが目撃されるような場合がある。大量のカエルが人間の生存環境を占領したとしたら、それは何と呼ばれるであろうか。それは災害と呼ばれる。それが災害と呼ばれるのは何故だろうか。カエルという小動物は、カエルの生存に適した場所に留まっている場合、人間の生存環境の釣り合いを維持するので、人間にとって有益である。カエルが災害となるとすぐに、人間生活の秩序に影響を与える。カエルがもたらすあらゆる物事や要素が、人間の生活の質に悪影響を及ぼすおそれがある。人間の身体の器官が攻撃されることすらある。これがその種の災害のひとつである。
それと別の、人間が頻繁に経験する災害として、イナゴの大量発生がある。これは災害ではなかろうか。これは恐るべき災害である。人間は飛行機や大砲、原子爆弾を造ることができるが、そうした人間の能力がどれほどのものかを問わず、イナゴが人間を侵略した時、人間にはどのような対策があるだろうか。人間はイナゴに対して大砲を使えるだろうか。イナゴをマシンガンで撃つことが出来るだろうか。それは出来ない。それではイナゴに殺虫剤を噴霧して駆除できるであろうか。それも容易ではない。それでは、そうした小さなイナゴは、何故侵略してくるのだろうか。それは穀物を食べるためである。イナゴが襲来した場所は、全て完全に穀物が消滅する。イナゴは穀物と穀粒のみを食べる。イナゴが通過すると、穀物は全て消滅する。イナゴが襲来すると、農民が生活の糧とし、1年分の穀物を、一瞬にしてイナゴが食べ尽くしてしまう。それでは、イナゴの襲来は人間にとって何であろうか。それは単なる不都合ではなく、災害である。
イナゴは災害のひとつであるが、ネズミはどうであろうか。ネズミの繁殖速度が速すぎる場合であって、ネズミを食べるフクロウや鷹が居ない場合、ネズミは想像以上に急速に繁殖する。ネズミが氾濫して対策が採られなかった場合、人間は適切な生活ができるか、というと、それは不可能である。それでは、人間にはどのような問題が発生するであろうか。(ペストが発生する。)ペストだけだろうか。ネズミはあらゆる物を食べ尽くす。ネズミは木でさえも食べる。家の内部に2匹のネズミが居た場合、その家の住人は全員困るであろう。ネズミは油を食べたり、穀物を食べたり、衣服をかじったりする。これがネズミが人間に及ぼす被害である。ほんの小さいネズミであるが、人間には対策となる手段が無い。ネズミは人間を脅かすことすらある。ネズミは時として食器棚に昇るが、そこにある食器はそれでも使えるだろうか。それらの食器は使えず、消毒も効果が無く、消毒しても安心できないので、仕方なくそれらの食器を捨てる。また、ネズミが食べない物についても、ネズミはそれをかじり、台無しにする。ネズミは衣服や靴、木、家具など、あらゆるものをかじる。ネズミの大群については言うまでも無いが、困惑を引き起こすには、たった2匹のネズミで十分である。ネズミが災害となると、その被害は想像を絶する。
それでは、蟻が災害となった場合は、どのようなものであろうか。蟻が人間におよぼす被害は無視できない。蟻が木を蝕んだ結果、家1軒が倒壊することも珍しくない。蟻の力は侮れない。そうしたわけで、シロアリやその卵が木造住宅で発見された場合、アメリカでは大問題となる。シロアリ駆除専門技術を持つ技術者が従事する専門企業を探す必要がある。シロアリを退治しなければ、その家は売却が困難になり、大問題となる。あなたがたは、馬を食べた蟻の大群の話を聞いたことがあるだろうか。蟻の大群が馬を襲い、残されたのは馬の骨だけであった。これは恐ろしいことである。それを見た馬の持ち主は、どこへ逃げただろうか。付近に湖があったので、その持ち主は湖へ向かって走り、泳いで湖の対岸へ渡った。この者はそうして一命を取り留めた。しかし、それを目撃した後、持ち主は、あれほど小さい蟻の想像を絶する威力を目撃したことを、一生涯忘れることができなかった。持ち主は危うく蟻に食べられそうになった。この者が馬を持っていなかったとしたら、蟻は間違い無くこの者を食べていたであろう。また蟻とこの者の間には水があったので、蟻は急いで水を渡ってこの者を食べることが出来なかった。もし水が無かったとしたら、この者は馬もろとも食べられていたであろう。蟻の威力を侮ってはならない。
また、様々な鳥が災害となった場合も、恐ろしいものとなる。つまり、それがどのような動物や生き物であったとしても、その釣り合いが崩れた場合、それは通常と異なる、異常な範囲に増殖し、繁殖し、棲息することになる。そうした状況は、人間に対して想像を絶する影響を及ぼすであろう。そうした事態は人間の生存や生活に影響するだけではなく、人間に災害をもたらし、人間が完全に絶滅することもあるであろう。
神が万物を造った時、神は様々な手段と方法により、万物の釣り合いを取るようにし、山や湖沼の存続条件、植物や様々な動物、鳥、昆虫の生活条件の釣り合いを取った。神の目的は、神が定めた律法に従って様々な生き物が生活し、繁殖できるようにすることであった。あらゆる生き物はこれらの律法に反することができず、またこれらの律法は破ることが出来ないものであった。人間が安全に生活し、何世代にもわたって繁殖可能であるのは、この種の基本的な環境の中のみであった。ある生き物が、神が定めた量や範囲、神が支配している増加率、頻度、数を超えている場合、人間の生存環境は様々な程度の被害を受けるであろう。それと同時に、人間の生存が危機に瀕することになるであろう。ある種の生き物の個体数が多すぎる場合、その生き物は人間の食料を奪い、人間の水源に損害を与え、人間の生活地域が破壊されるであろう。このように、人間の繁殖と生存状態は、即座に影響を受ける。たとえば、水は万物にとって極めて重要である。ネズミ、蟻、イナゴ、カエルなど動物の数が多すぎる状態であり、それらの動物が水を飲む必要がある場合、こうした動物が飲む水の量も増加する。動物が飲む水の量が増加すると、その固定された飲料水の水源と水域において、人間の飲料水と水源は減少し、水が不足するであろう。様々な動物の個体数が増加し、人間の飲料水が破壊された場合、汚染された場合、あるいは減少した場合、そうした過酷な生存環境では人間の存続は深刻な危機に陥る。適切な数を超える動物が1種類あるいは数種類存在する場合、人間の生存空間内の空気、気温、湿度、そして空気の構成成分ですら様々な程度で被害を受け、破壊されるであろう。同様にして、こうした状況下では、人間の生存と運命が、この種の環境の脅威を受けるであろう。したがって、人間がこうした釣り合いを失った場合、人間が呼吸する空気が損害を受け、飲む水が汚染され、必要とする気温も変化し、様々な程度の影響を受けるであろう。こうした事態が発生した場合、人類の土着の生存環境に甚大な影響と問題が発生する。このような、人間の基本的な生存環境が破壊された状況では、人類の運命と将来の見通しは、どのようなものになるであろうか。これは極めて深刻な問題である。
人間にとって万物がどのような存在であるか、神が造った物それぞれの役割、それが人間にどのような影響を及ぼし、どれほど大きな利益をもたらすかを神は知っているので、神の心では、こうした物事全てに計画があり、また神は神が造った万物のあらゆる側面を管理している。したがって、人間にとって、神が行う業は、全て極めて重要であり、全て必要なものであった。万物の生態的な現象や万物の自然の律法を見ると、神が造った物それぞれの必要性に疑念を抱かなくなるであろう。あなたは、神による万物に対する采配と、神が人間に施す様々な方法について、無礼な言葉を使って勝手な判断をすることが無くなるであろう。また万物に対して神が定めた、神の律法に関しても、勝手な結論を行わなくなるであろう。そうではないだろうか。
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