ある日の早朝、窓の外では鳥がさえずり鳴いていました。私は普段通りに起き上がって聖書の勉強をしました。「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。30心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』」(マルコによる福音書12:29-30) という主の言葉を読んだ時、神は三位一体であると、牧師と長老たちが集会でよく言っているのを思い出しました。そして、彼らはまた「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」(マタイによる福音書 28:19) という主イエスの言葉を引用して、ヤ―ウェ神が聖なる父、イエスが聖なる子、そしてさらには聖霊がいて、この3つの位格が1つになると、三位一体の真の神になると言っているのです。そして私は「神は唯一なる神であると主イエスは仰っていて、神は唯一なる存在であるはずなのに、3の位格からなっているとは一体どういうことかしら」と不思議に思いました。先ほどの節の中で、主イエスは「… 父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」と仰っているだけで、神が三位一体であるとは仰っていないのです。ならば、三位一体説とは一体何のことなのでしょう。私はとても困惑しました。
その後、私は小林姉妹のことを思いました。私は「彼女は他の地域の研修から戻られたばかりだし、長年に渡って説教師をされているわ。彼女なら私の困惑を解消できるかもしれない」と思いました。そしてすぐ、私は小林姉妹の家に行きました。そこで私はたまたま彼女の友人で、説教師でもある秋子と出会いました。そして私が三位一体説に関して困惑していることを彼女たちに伝えると、彼女たちは私と温かく交流してくれました。
秋子は優しい声で私にこう言いました。「惠美子姉妹、あなたが言われた疑問には私も長年頭を悩ませました。でもつい最近、ある書籍を読んでやっと答えが分かったんです。この書籍を一緒に読んでみましょう、そうすればあなたもこの疑問を理解できると思います。小林姉妹、読んでいただけますか?」
小林姉妹は言いました。「分かりました。私も最近この書籍の言葉を幾つか読みました。私は、これらの言葉はとても現実的で、権威と力に溢れていると同時に、その全てが真理であると感じました。これらの言葉はその疑問について明確に答えています。その言葉の節を幾つか読んで差し上げます。『すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。あなたが言うように、それが父、子、聖霊であるならば、三つの神ではないのか。聖霊は一つの事柄であり、子は別の事柄、さらに父も別の事柄である。彼らは本質の異なる、違った位格であるのだから、どうしてそれぞれが唯一神の一部分でありえようか。聖霊は霊である。これは人にとって理解しやすい。もしそうなら、父はさらにいっそう霊である。父は地上に降臨したことも、肉体になったこともない。父は人の心の中でヤーウェ神であり、確かに霊でもある。では父と聖霊の関係は何か。それは父と子の関係なのだろうか。それとも聖霊と父の霊の関係なのだろうか。各霊の本質は同じなのだろうか。それとも聖霊は父の道具なのだろうか。これはどうしたら説明できるのだろうか。それなら子と聖霊の関係は何なのだろうか。それは二つの霊の関係なのだろうか。それとも人と霊の関係なのだろうか。これらはすべて説明のできない事柄である。彼らがみな一つの霊ならば、三位格の話はありえない。彼らはただ一つの霊を所有しているからである。彼らがはっきり異なる位格であるならば、霊の力も異なるものになり、断じてただ一つの霊になることはできないだろう。父、子、聖霊のこの概念は非常に不合理である。』
「聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行なわれたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。」
小林姉妹がこの言葉を読み上げた後、秋子はこう言いました。「これらの言葉は聖なる父、聖なる子、そして聖霊から成る三位一体説は神を分割しており、それは虚偽であると言っています。神は唯一なる御方です。そして、神は唯一なる存在で、その本質は霊です。だからこそ、三位一体説は事実とは全く異なるものなんです。律法の時代に、ヤ―ウェ神はイスラエルの民に対して神は三位一体であるとは決して仰いませんでした。また、当時神の使いであったモーゼ、イザヤ、ダニエルといった預言者たちも神は聖なる父、聖なる子、そして聖霊から成っておられるとは言っていません。恵みの時代において、主イエスも神が三位一体であるとは一度も仰いませんでした。主の弟子と使徒たちが宣教と働きをしにあちこちを旅して回った時も、彼らは神が三位一体であるという証言はしていません。聖書には『主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる』(ゼカリヤ書 14:9) と書かれています。 そして、主イエスはこう仰いました。『第一のいましめはこれである、「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」』(マルコによる福音書 12:29)。神は比類なき御方であり、ヤ―ウェ神は霊であり、主イエスは神の霊が受肉されたお姿であると同時に神ご自身であり、主の本質もまた霊なのです。そして聖霊もやはり霊であります。従って、神は唯一なる真の神であり、個別の存在に分割することなど絶対に不可能なのです。神が三位一体であるという宗教界の考えを信じるとすれば、神がたくさん存在することになるので、神は唯一なる真の神ではないということになってしまいます。だからこそ、三位一体説は聖書に基づくものではないし、まして神の言葉に沿ったものではないのです。これは虚偽であって、完全に人間の観念と想像が作り出したものなのです」。
この書籍の言葉と秋子姉妹の話しを聞いた後、私はこれは筋が通っている、と感じました。しかし、依然として心の中に疑念を感じた私はこう質問しました。「秋子姉妹、神の言葉は三位一体説を実証していないと言われましたが、私はまだ理解できません。牧師や長老たちも三位一体について説明する時は神の言葉を引用しています。彼らはそれが聖書に記録されていて、主イエスが洗礼をお受けになった後には『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』という天からの声があったと言っています。彼らはまた、主イエスはよく天の神を父と呼び、主は『わたしが父におり、父がわたしにおられる』そして『わたしと父とは一つである』と仰ったと言っています。これらの節には父と子という考えがありますが、これは一体どういうことなのでしょうか」。
秋子はこれに優しく答えました。「実は、父と子という考えは主イエスが受肉されて、働きをするために地上に来られた時に初めて誕生したものです。惠美子姉妹、あなたは、主イエスが洗礼をお受けになった後に『これはわたしの愛する子、しの心にかなう者である』という天からの声があったと言われましたが、これは神が神ご自身の証言を、受肉された神の証言をする霊の観点からされていたのです。なぜなら、当時の人々は主イエスがキリストであることを知らなかったので、彼らは聖霊による証言を聞く必要があったのです。次に、ヨハネの福音書に書かれたピリポと主イエスの会話を見てみましょう。『ピリポはイエスに言った、‘主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します’イエスは彼に言われた、‘ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである’ 』(ヨハネによる福音書 14: 8-10)。主イエスのことをあまりよく知らなかったピリポは、主イエスは神の子であり、天には父なる神がいると思っていたのです。なので、彼は主に『父を見せてください』と言いました。その時、主は『わたしを見た者は、父を見たのである』そして『わたしが父におり、父がわたしにおられる』と言って彼の誤りを正されました。すなわち、父は子であり、子も父であり、父と子は元々1つであり、かつ1つの霊であるということです。主イエスは主と父は1つであり、1つの神であるということを私たちに明確に伝えるためにそう仰ったのです。主は神に父と子がいると仰っていたのではありません。実際、父と子という考えは、神の受肉によってのみ生まれてものでした。そして、この考えは主イエスが肉として働きをなさった時代にのみ適切なものだったのです。主イエスが去られた後はもう、父と子という考えはありませんでした」。
私はこれを聞いてどんどん理解していきました。私は興奮しながら言いました。「そうか!主イエスが来られた後に父と子という考えがあったのは事実だったんですね。神は『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と仰った時は、霊の観点から受肉した自分の証言をされていたということが分かりました。主イエスが『わたしが父におり、父がわたしにおられる』そして『わたしと父とは一つである。』と仰った時は、主とヤ―ウェ神は元々1つであって、1つの霊であって、神は唯一なる真の神であると仰っていたんですね。主に感謝します!これで私は三位一体説はまぎれもなく人の観念と想像であって、それは支持できるものではないと確信しました」。
私の言葉を聞いた小林姉妹は興奮してうなずきました。
その時、私の頭にまた他の疑問が浮かびました。私はこう聞きました。「秋子姉妹、小林姉妹、神が主イエスを愛する子とお呼びになった時、神は主イエスが受肉した神であることを霊の観点から証言されていたと言われましたが、それは理解できました。しかし、主イエスはゲッセマネの地にいた時、祈りを捧げる中で天の神を父という名でお呼びになりました。これはどのように理解すればよいのでしょう。お話しを聞かせてもらえませんか?」
小林姉妹は言いました。「そのの疑問に関してですが、この書籍の言葉がとても明確にしています。この言葉の節をいくつか読んでみましょう。『イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの「人の子」になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。「天にいますわれらの父よ……」イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたたちは天の神を父の名で呼んだので、このことはイエスが彼自身をあなたたちと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていることを示している。もしあなたたちが神を「父」と呼ぶならば、これはあなたたちが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑以前はイエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのはもっぱら彼の謙虚と従順さからであった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけることで、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっていることであり、彼が別の位格であるということではない。別個の位格の存在というのは間違った考えである。磔刑以前、イエスは肉体の限界に縛られた人の子であり、霊の権威を十分には所有していなかった。そのため、彼は被造物の視点からのみ父なる神の意志を求めることができた。ゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と三度祈ったときのように。十字架刑に処せられる前、彼はユダヤ人の王にすぎなかった。彼はキリストであり、人の子であり、栄光の体ではなかった。そのため、彼は被造物の観点から神を父と呼んだのである。さて、あなたは神を父と呼ぶ者はすべて子であると言うことはできない。もしそうなら、ひとたびイエスがあなたたちに主の祈りを教えたら、あなたたちは皆「子」になっていたのではないだろうか。まだ納得しないなら、教えて欲しい。あなたたちが父と呼ぶのはだれなのか。イエスに言及しているなら、あなたたちにとってイエスの父は誰なのか。イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない』。
すると、秋子がこう言いました。「これらの言葉の内容から、主イエスがゲッセマネの地で捧げた祈りの中で天の神を父と呼ばれた時、主は肉の観点、すなわち、創造物の観点からそう言われていたわけで、それはいわゆる主イエスの謙遜した従順な姿勢の表れであったことが分かります。しかし、多くの人々はこの真理を理解していないがために、主イエスが父なる神に祈りを捧げたからといって、それは主イエスが父なる神の子であり、天の神が聖なる父、そして地上のキリストが聖なる子、さらには神に父と子がいることを証明していると勘違いしているのです。これは全て人々の観念と想像なのです。神の本質は霊であり、霊には年の差というものがないため、神に父と子がいるはずがないのです。主イエスは受肉された神であり、主の本質は霊なのです。主が人間の観点から天の神を父と呼ばれたのは天なる父に対するキリストの従順な姿勢の表れです。従って、いつの時代においても、父と子と聖霊からなる三位一体の話しは存在しないのです」。
彼女たちの会話を聞き終えると、私は夢から目覚めたような気分になりました。私はまた、牧師と長老たちの広めた虚偽をむやみに聞いていた自分はとても無知であったとも感じました。この宗教指導者たちは本当に極めて悪質なのです。主イエスは彼らについて「彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」(マタイによる福音書 15:14) と仰っています。
それから、秋子姉妹は、私に書籍のこの節も読むようにと言われました。「神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に『唯一の聖霊、唯一の神のみがいる』と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたたちが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、宇宙中に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である」(「三位一体は存在するのか?」)。この言葉の内容を通じて、私は更に明確な理解に至りました。「神は霊であり、霊は唯一、そして神を個別の存在に分けることはできません。父と子と聖霊からなるという考えも全く存在しません。神の霊は限りなく広く、全宇宙を満たします。神の霊は、働きの必要性に応じるため、そして人類を救うためだけに、人間として受肉され、神の言葉を話し、神の働きをするために地上に来られたました。これこそが神の偉大な愛なのです」。