賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神の経営の中でのみ人は救われる

2020-09-28 23:46:25 | デボーション

   誰もが神による経営(救い)を未知のものだと感じる。なぜなら、神の経営は完全に人間と無関係だと人々は考えるからである。人々はこの経営は神だけの働き、神独自の用事だと考えるので、神の経営の働きに無関心である。こうして、人類の救いは漠然とした不明瞭なものとなり、今では空虚な言葉にすぎないものとなっている。人間は救われて美しい終着点に達するために神に付き従うのだが、神がどのように働きを行なうのかについて無関心である。人間は、神が何を行なおうとしているか、救われるために自分が果たすべき役割については考えていない。なんと悲しいことか。人間の救いは神の経営と不可分であり、まして、神の計画と切り離すことなどできない。それなのに、人間は神の経営について何も考えず、ますます神と離れて行く。そのため、ますます多くの人々が創造とは何か、神を信じるとはどういうことか、神をどう礼拝するか等、人間の救いに密接に関係のある事柄を知らずに神に付き従うようになっている。だからここでは神の経営の働きについて話し、信者の一人一人が神に付き従うこと、神を信じることの意義について明らかに知るようにしなければいけない。そうすれば、ただ祝福を得ようとして、あるいは災いを避けようとして、あるいは成功するために神に付き従うのではなく、歩むべき道をもっと正確に選べるようになる。

 


   神の経営は人間には深遠に思えるだろうが、人間に理解不可能なものではない。神の働きはすべて神の経営に連結しており、人間の救いの働きに関係しており、人類のいのち、生活、終着点に関わっているからである。神が人間の間で、そして人間に対して行なう働きは、まことに実際的で意義深いものだと言える。それは人間が目で見、経験できるものであり、抽象的なものではまったくない。神のする働きすべてを人間が受け入れることができないなら、この働きにどんな意味があるというのか。また、どうしてそうした経営が人間の救いにつながり得るのか。神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいるため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのである。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちのいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目的しかもっていない。その目的とは祝福を受けることである。このような人は、その目的に直接関係しない他の一切のことにわざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものの方向を変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力がそのような献身を続けさせるのだろうか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しする信仰心だろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人々がそれほどまでに神に捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。

   人類の神への信仰の最も悲しい点は、神の働きの只中に人間が自分なりの経営を行い、神の経営そのものには無関心なことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を礼拝することを求めると同時に、人間は自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎しみに満ちた哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、その経営を完成する者を神は必要としている。神に服従するために、神の経営の働きに身も心も捧げる人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は必要ではない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる心無い人々を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人々を、神は嫌う。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようとしていることにはまったく無関心だからである。そういう人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気をもんでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神がどのように人類を救うかとか、神の心についてはまるで関心がない人々は皆、神の経営(救い)の働きと無関係に好き勝手をしている。彼らの行動は、神によって記憶されず 、認められず、まして神に喜ばれることなどない。

   広大な宇宙に、どれほどの生ける物が、一つの不変の規則にしたがって生き、いのちの法則に何度も何度もしたがって、生き、再生しているのか。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲劇的な歴史を繰り返す。そこで、人類は自問せずにはいられない。なぜわたしたちは生きるのか。そして、なぜわたしたちは死ななければいけないのか。誰がこの世界を支配しているのか。そして、誰がこの人類を創ったのか。人類はほんとうに大自然の生み出したものなのか。人類はほんとうに自分の運命を支配しているのだろうか。…数千年にわたり、人類はこうした問を何度も何度も発している。残念ながら、人類がこうした問に頭を悩ませれば悩ませるほど、ますます科学への渇望が強くなった。科学は、ささやかな肉の欲求の充足と、つかの間の肉の楽しみを与えるが、人類を魂の奥底にある孤独や寂しさ、かろうじて隠している恐怖と無力感から解放することなど到底できない。人類は単に肉眼で見、脳で理解できる科学的知識を用いて心を麻痺させているが、これは 人類が奥義を探ることを止めることはできない。人類は、宇宙万物の支配者が誰であるかを知らないし、まして、人類の始まりも未来も知らない。人間はこの法則の中で、ただ生きている、否応なしに。誰一人、逃れることができないし、誰もこれを変えることはできない。あらゆる物事の間と天において、永遠から永遠にすべてを支配しているのは、ただお一方だけだからである。それは、かつて人間が見たことがないお方、人類が知ることもないお方、その存在を人類は信じたこともない。しかし、それは人類の祖先に息を吹き込み、人類にいのちを与えたお方である。人間の生存のために施し、養い、今日まで導いて来たお方である。さらに、人類が生き残るために依存する唯一のお方なのである。彼は万物を支配し、天の下のすべての生ける物を支配している。彼は四季を支配し、風と霜、雪、雨を呼ぶ。彼は人類に陽光を与え、夜の訪れをもたらす。天と地とを整え、人間に山々と湖、川、すべての生き物を与えたのは彼である。彼の業はあらゆるところにある。その力はいたるところにある。その知恵はいたるところにある。その権威はいたるところにある。その法則や規則の一つひとつは彼の業の具現であり、その一つひとつが彼の知恵と権威とを明らかにしている。誰が彼の支配を免れることができようか。また、誰が彼の采配から逃れることができようか。万物は彼の眼差しの下にあり、さらに、彼の支配の下で生きている。彼の業と力の前に人類は、彼が実際に存在し、万物を支配していると認めざるを得ない。神を除いては、他の何も宇宙を支配できず、まして、やむことなく人類に施すこともできない。神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命は神の定めるところであって、神が永遠にあらゆるものの支配権を持ち続けることに疑いはない。神の存在と権威とは、人間に認められ理解され得るかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関りなく、人類は近い将来、これらのことすべてをその目で見ることになる。そして、これは神が間もなく実現する事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人類は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じる時もまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配し、定めていることである。神の経営は常に前進しており、やむことがない。神は人類に自身の存在を知らせ、神の支配を信じさせ、神の業を見させ、神の国に戻らせる。これが神の計画であり、何千年にもわたって神が行なってきた働きなのである。

   神の経営(救い)の働きは天地創造の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神が万物を創造したのは、人間のためであると言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、ほんの数分や数秒、瞬時に行われるものではなく、一、二年で行なわれるものでもないので、神は人間が生きて行くために必要なもの、すなわち太陽や月、あらゆる種類の生き物や食物、生きるための環境などを数多く創る必要があった。これが神の経営の始まりであった。

   その後、神は人類をサタンに渡し、人類はサタンの領域で生きた。そして、これが徐々に神の最初の時代の働きへと至った。律法の時代の物語である…。数千年に及ぶ律法の時代、人類は律法の時代の導きに慣れ、軽く考えるようになり、徐々に神の保護から遠ざかった。そして、律法を守っていながら、同時に偶像をも拝み、邪悪なことを行った。彼らはヤーウェの守りなしに、ただ神殿の祭壇の前で暮らしているだけだった。実際、神の働きはずっと以前に彼らのもとを去っていた。イスラエル人はまだ律法に従い、ヤーウェの名を唱え、自分たちだけがヤーウェの民、ヤーウェの選民だと誇っていたものの、神の栄光は静かに彼らを捨て去った…。

   神がその働きをする時は、いつでも静かに一つの場所から去り、そのあいだに別の場所でそっと新たな働きをする。これは、鈍重な人間には信じられないことのように思われる。人々はいつも古いものを大事にし、新しい、馴染みのないものには敵意をもつか、厄介なものとみなす。そこで、神が行なう新しい働きは何であれ、最初から最後まで、人間はあらゆるものの中で最後にそれを知ることになる。

   いつもそうであるように、律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は新たな第二段階の働きを始めた。すなわち、人間として受肉し、十年、二十年間、信じる者たちの間で話し、働きを行った。しかし、例外なく誰もそれを知らなかった。ただ、ごく少数の人々だけが、イエスが十字架につけられ、よみがえった後、彼が受肉した神だと認めた。困ったことに、パウロという者が現れて、神に対して激しい敵意を抱いた。打ち倒され、使徒になった後でも、パウロの古い本性は変わらず、神に逆らう道を歩んだ。パウロは働きを為した間、多くの手紙を書いているが、不幸なことに、後の世代は彼の手紙を神の言葉として享受し、そのため新約聖書に収めてしまったほどで、神の話した言葉と混同された。これは聖書が登場して以来のまことに恥ずべきことである。そして、この誤りは人間の愚かさから起こったことではないのか。恵みの時代の神の働きの記録において、人間による手紙や霊的文書は、神の働きと言葉に取って代わるべきものでないということを知らなかったのだ。しかし、これは本題からずれているので、話しを戻そう。神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にはりつけになった後、人間を罪から取り戻す(つまり、サタンの手から人間を取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。そこで、サタンに捕らわれた後、人間は神の前で救いを受けることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは律法の時代から一歩進んだ神の経営であって、律法の時代よりもさらに深い段階のものであった。

   これが神による経営である。人類をサタンに引き渡し─神が何であるか、創造主が何であるか、神をどう礼拝するか、なぜ神に服従することが必要なのかを知らない人類を──サタンが堕落させるままにしたのである。神はそれから一歩一歩、人間が完全に神を礼拝しサタンを拒むまで、人間をサタンの手から取り戻す。これが神の経営である。これはみな神話的な物語のようで、わけがわからないように思われる。人々がこれを神話的な物語のように感じるのは、過去数千年の間にどれほど多くのことが人間に起こったかを知らないからであり、まして、この宇宙の広がりにおいてどれほど多くの物語が生まれたか、思いも及ばないからである。そのうえ、物質界の外に存在する、さらに驚くべき、はるかに恐ろしい世界があるのを意識することができず、人間の目では見ることができないでいるからである。これは人間には理解し難いことに思われるが、それは人間には神による人類の救いや神の経営の働きの意義が理解できず、また、人間が最終的にどのようになることを神が望んでいるかを知らないからである。そのような人類は、サタンに堕落させられる前のアダムとエバのようなものだろうか。いや、そうではない。神の経営は、神を礼拝し、神に従う一群の人々を得るためのものである。この人類はサタンにより堕落させられたが、もはやサタンを父とみなしておらず、サタンの醜い顔に気づいて拒み、神の裁きと刑罰を受けるため、神の前に来る。その人間は何が醜いか、それが聖いものとどう異なっているかを知っており、神の偉大さとサタンの邪悪さを認識している。このような人類は、もはやサタンのために働かず、サタンを崇めず、サタンを祭ることをしない。それは、その人たちが真に神のものとなった人々だからである。これが神による人類経営の意義である。神の今回の経営の働きのあいだに、人類はサタンによる堕落の対象であり、同時に、神による救いの対象であり、そして神とサタンが獲得しようと戦う産物でもある。神はその働きをすると同時に、徐々に人間をサタンの手から取り戻してきたので、人間は神に近づきつつある…。

   そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階であるが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。それは、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔が人間の前にさらに鮮明になってくるからである。人間の贖いの後、人間は正式に神の家に戻る。人間は、今は楽しむ時であると思ったのだが、誰も予測すらしなかった神による徹底的な攻撃にさらされている。すなわち、これは神の民が「楽しむ」べき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、「私は長い間迷っていたのを神が大金を払って買い戻した羊だ。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか」と考えざるを得ない。これは、私を笑い、さらし者にする神のやり方なのか。…長い年月の後、人間は、鍛錬と刑罰の試練を経験し、苦労が風貌に現れるようになった。人間は過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識のうちに人間の行ないの原理を理解し、人類を救う神の長年にわたる献身がわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、神に向けた不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日ごとに癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る…と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しい顔が依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ被造物である人類を気遣い、神の手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けず、もはやヤーウェの顔から目をそむけない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする──ああ!わが主、わが神!

  神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるか否かに関わらず、神はいまだに疲れを知らず成就しようとする働きを続けている。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けはすべての人が理解することができる。おそらく、今日、あなたは神が与える愛やいのちを一切感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を追究しようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたに顕れる日は必ず来る。神の経営の働きの目的は、サタンの支配下にある人類を取り戻すことであり、サタンに堕落させられ、神に敵対する人類を見捨てることではないからである。

2005年9月23日


精錬を経ることでのみ、人は真の愛をもつことができる

2020-09-26 23:54:09 | デボーション

   精錬の間、どのように人は神を愛するべきだろうか?精錬を経験してからは、精錬の間に人々は真に神を賞賛することができ、欠けているものがどれほどあるかを理解する。精錬が大きいほど肉を捨てることがより可能になり、精錬が大きいほど神に対する人々の愛はより大きくなる。これはあなた方が理解しなければならないことである。なぜ人々は精錬されなければならないのか?精錬によりどんな効果を達成することが目的なのか?人における神の精錬の働きの意義は何か?真に神を求めるなら、神の精錬をある程度経験した後で、精錬というものが大変にすばらしく、最も必要なことだと感じるだろう。精錬の間に人はどのように神を愛するべきか?神を愛する決意をして神の精錬を受け入れることによってである。精錬されている間、あなたは心の内に苦しみを抱く。それはあたかもナイフで心をえぐられるかのようであるが、それでもあなたは神を愛する心により神の意を満たそうとし、肉を労わろうとはしない。これが神への愛を実践することの意味である。内面で傷つき、苦しみはあるレベルに達しているが、あなたは依然喜んで神の前に来てこう祈る。「ああ神様!私はあなたから離れることはできません。私の中には暗闇がありますが、それでもあなたの意を満たしたいのです。あなたは私の心をご存知です。あなたの更なる愛を授かりたいのです。」これが精錬の間の実践である。神への愛を基礎として使えば、精錬によりあなたは更に神に近づき、神との親密さが増す。あなたは神を信じているのだから、神の前にあなたの心を差し出さねばならない。神の前であなたの心を捧げ、あなたの心を神に委ねるなら、精錬の間にあなたが神を否定することや神から離れることはできなくなるだろう。このようにして神とのあなたの関係はより親密により正常になり、神との交わりはより頻繁になるだろう。常にこのように実践すれば、あなたはさらに多くの時間を神の光の中で過ごし、神の言葉の導きの下でより多くの時間を過ごし、あなたの性質にもより多くの変化が起き、認識は日々増えるだろう。その日が来て神の試練が突然降りかかっても、あなたは神の側に立つことができるだけでなく、神への証も立てることができるだろう。その時、あなたはヨブやペテロのようであるだろう。神への証を立て、あなたは真に神を愛し、喜んで神のために命を投げだすだろう。あなたは神の証人であり、神に愛される者となろう。精錬を経た愛は強く、弱くはない。いつ、どのように神があなたを試練にあわせるかにかかわらず、あなたは自らの生死に悩むことなく、喜んで神のためにすべてを捨て、神のためにどんなことでも耐えることができる。かくして、あなたの愛は純粋になり、信仰は真となるだろう。そうして初めてあなたは真に神に愛される者となり、神により全き者となるのである。

 


   人々がサタンの影響を受けるようになれば、人々は自らの内に神への愛を持たず、以前のビジョン、愛と決心は消え去ってしまう。人々は神のために苦しみを受けなければならないとかつては感じていたのに、今は神のために苦しみを受けることは恥で、不平不満には事欠かない。これがサタンの働きである。それは人がサタンの領域に落ちたことを示している。もしこの状態に陥ったなら祈りなさい、そしてできるだけ早く他の道へ回りなさい。そうすれば、サタンの攻撃から守られるだろう。人がサタンの影響を最も受けやすくなるのは苦しい精錬の間である。そのような精錬の間にどのようにあなたは神を愛すれば良いのだろうか?強い意志を持ち、あなたの心を神の前に明け渡し、持てる時間全てを神に捧げるべきである。神がどのようにあなたを精錬しても、あなたは真理を実践して神の意を満たし、自ら神を求め、神との交わりを求めるべきである。このような時には、消極的になるほどより否定的になり、容易に後退してしまうだろう。自分に与えられている役割を果たすことが必要なときは、たとえうまくできないとしてもできる限りのことを行いなさい。神へのあなたの愛だけを使って行いなさい。あなたがうまく行ったとか失敗したなどと他人は言うだろうが、他人が何を言おうとあなたの動機は正しく、あなたは独善的ではない。あなたは神のために行動しているからである。他人があなたを誤解しても、あなたは神に祈り、このように言うことができる。「ああ神様!私は他人が私に寛容であることも私をよく扱うことも願いませんし、私を理解したり認めたりすることも願いません。あなたを愛することができ、心穏やかになり、私の良心が澄み切っていることだけを願います。他人が私を賞賛することや高く評価することを私は望みません。私は心からあなたの意を満たすことを求めるだけです。できる限りのことを行って私の役割を果たします。私は拙く、愚かで、力量もなく、盲目ですが、神は愛らしいと知っており、私が持つものすべてを喜んであなたに捧げます。」このように祈ればすぐに神へのあなたの愛が現れ、あなたの心はさらに安心する。これが神への愛を実践することの意味である。経験を重ねるにつれ、2回失敗しても1回成功し、5回失敗しても2回成功することがあるだろう。このように経験を重ね、失敗の中でのみ、あなたは神の愛らしさを理解し、あなたの内に欠けているものを発見するだろう。次にこのような状況に遭遇したら、自分自身に注意を払い、歩みを加減し、さらに頻繁に祈ることが必要である。あなたは徐々にそのような状況で勝利する力を得るだろう。そのような状況で勝利できれば、あなたの祈りには効果があったのである。今回勝利したのがわかれば、あなたは内に喜びを感じ、祈るときには神を感じることができ、聖霊の存在が去っていないことが分かるだろう。そうなって初めて、あなたの中で神がどのように働くのかわかるだろう。このように実践することは経験に至る道をあなたに与えるだろう。真理を実践しなければあなたの内には聖霊が存在しなくなるだろう。しかし実践すれば、あなたが内に傷ついても、その後は聖霊があなたと共にいて、祈りの際に神の存在を感じることができ、神の言葉を実践する力を持つだろう。そして、兄弟姉妹との交わりの際に、あなたの良心の重荷となるものはなくなり、平安を感じるだろう。そして、このようにして、あなたが行ってきたことを明らかにすることができるだろう。他人が言うことが何であろうとも、あなたは神との正常な関係を持つことができ、他人に制約されず、あらゆるものを超越するだろう。そしてその中で、神の言葉の実践が効果的であったことをあなたは実証するのであろう。

   神の精錬が大きいほど人々は神をさらに愛することができる。人々の心の苦しみは人々のいのちに有益であり、神の前でより平穏になり、神との関係がより近くなり、神の至高の愛と救いをよりよく理解できる。ペテロは何百回も精錬を経験し、ヨブはいくつかの試練を受けた。あなた方が神によって全き者になることを望むのであれば、あなた方も同じく何百回も精錬を経験しなければならない。この過程を通過してのみ、この過程に依拠することによってのみ、あなたは神の心を満たすことができ、神によって全き者になるのである。精錬は、神が人を完全にする最も良い手段である。精錬と厳しい試練だけが神への真の愛を人々の心にもたらす。苦難がなければ人々は神への真の愛に欠ける。もし人々が試練により試されず、真に精錬されなければ、人々の心は常に外側を漂い続けるだろう。ある程度まで精錬された後、あなたは自分の弱みと困難を理解し、どれほど欠けるところがあるか、遭遇する多くの問題をどれほど克服できないか、あなたの不従順がいかに大きなものかを知るようになるだろう。試練の間のみ人々は現実の状態を正しく知ることができるだろう。そして試練によって人々が全きものとなることがより可能になる。

   その生涯を通じ、ペテロは数百の精錬を経験し多くの苦難を受けた。この精錬は神に対するペテロの至高な愛の基礎となり、ペテロの一生で最も重要な経験となった。ペテロが神への至高の愛を持つことができたのは、ある意味では、神を愛する決意ゆえであった。しかし、より重要なのは、それはペテロが経験した精錬と苦しみゆえであった。この苦しみは神を愛する行路の指針となり、ペテロにとって最も記憶に残ったものとなった。神を愛する際に人々が精錬の苦しみを受けなければ、人々の愛は自然さと嗜好に満ちたものである。そのような愛はサタンの考えに満ちており、神の心を満たすことはまったくできない。神を愛する決心を持つことは真に神を愛することと同じではない。人々の思考には人間的な発想がないかのように、人々の思考はすべて神のためであるかのように、心の中で考えることがすべて神を愛するためであり、神の意を満たすためであるとしても、その人々の思考が神の前に出された時、そのような思考は神により賞賛も祝福もされない。人々が真理をすべて十分に知り、すべての真理を完全に理解しても、それが神を愛することの印であるとは言えず、すべての真理を十分に理解した人々が実際に神を愛しているとは言えない。多くの真理を理解したにもかかわらず、精錬を経験していない人々は、これらの真理を実践することができない。精錬の間においてのみ人々はこれらの真理の本当の意味を理解し、そうして初めてそのような真理の内的な意味を純粋に認識できる。その時、人々が再び試みると、真理を適切に実践することができ、神の心と調和することができる。その時、人々の人間的な考えは少なくなっており、人間としての自然性の程度は下がり、人間的な感情は消え去る。そのようになってのみ人々の実践は神への愛の真の表明となる。神への愛の真理の効果は話された認識や精神的な意思によって達成されるものではなく、単に理解することによっても達成することはできない。人々は代価を支払う必要があり、精錬されている間に多くの苦痛を受け、そうして初めて人々の愛は純粋になり、神自身の心を求めるものになる。人は神を愛せよという神の要求では、情熱や自然さによって人が神を愛することは求められない。神に奉仕するためにただ忠誠と真理を用いることで人は神を真に愛することができる。しかし人は自然性に生き、それゆえ真理と忠誠によって神に仕えることができない。人は神についてあまりにも情熱的であるか、あるいはあまりに冷たく無頓着であり、極端に神を愛するか、あるいは極端に神を憎む。自然性に住む人々は常にこの両極端の間に住み、常に真理がない状態に生き、自らは正しいと信じている。わたしはこの話を繰り返し取り上げたが、人々は真剣に受け入れることができず、その重要性を十分に知ることができず、それゆえ人々は自己欺瞞の信念に生き、そして真理ではない神への愛の錯覚に生きている。歴史を通じて、人類が発展して何世代かが過ぎ、人間に対する神の要求はますます高くなり、神に対して人が完全であることを神はますます求めるようになった。しかし、神に関する人の認識はますます曖昧かつ抽象的になり、それに伴って神に対する人の愛はますます不純になった。人の状態と人の行いのすべては神の心と調和しないものとなっている。これはサタンにより人がこれまで以上にひどく堕落したからである。これは神がますます、そしてさらに多くの救いの働きをすることを必要とする。人はますます神に厳しい要求を持ち、神に対する人の愛はますます小さくなっている。真理をなくし不従順に生き、そして人々は人間性のない生を生きる。人々は神への愛のかけらもないばかりか不従順と反抗に満ちている。人々は神への最大の愛を持ちあわせており、神に対してもはや寛容であることができないと思っているが、神はそのようには考えていない。人の神への愛がいかに汚れているのか神には十分に明らかであり、人の迎合ゆえに神が人に対する考えを変えたことはなく、献身の結果としての人間の善意に報いたこともない。人間とは異なり神は区別することができる。真に神を愛しているのは誰か、愛していないのは誰かを神は知っており、熱情により圧倒され人の一時的な衝動のために自身を失ったりせず、人の本質と行動に従って人を処遇する。結局のところ神は神であり、神には神の尊厳と洞察力がある。結局のところ人は人であり、真理と矛盾する人の愛により神が振り向くことはないであろう。逆に、神は人が行うすべてを適切に処遇する。

   人間の状態と神に対する態度に直面し、神は新しい働きを行い、神に対する認識と服従を人に得させ、愛と証しの両方をも得させた。従って、人は神による精錬、神の裁き、取り扱いや刈り込みを経験しなければならず、それなしでは人は神を知ることも決してなく、神を真に愛し、神への証を立てることもできない。神による人間の精錬は一方的な効果のためだけでなく多面的な効果のためである。決意と愛を完璧にするため、このような方法でのみ、真理を求めようとする人々の中で神が精錬の働きを行う。真理を求めようとする人々、そして神を慕う人々には、このような精錬より意味のあるもの、大きな援助となるものはない。つまるところ神は神であり、神の性質はそれほど容易に人により知られ理解されるものではない。一日の終わりに神が人と同じ性質を持つようなことはなく、したがって人が神の性質を知ることは容易ではない。真理は人が本質的に持っているものではなく、サタンによって堕落した人々が容易に理解するものではない。人には真理がなく、真理を実践する決意がなく、苦しみを受け、精錬されあるいは裁かれなければ、人の決意は決して完璧にならないだろう。すべての人々にとって精錬は耐えがたく、受け入れ難いものであるが、神が義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓きとより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬の間である。事実と真理の比較により、神は人自らについてのより大きな認識と真理を人に与え、神の心をより深く理解させ、そうしてより真理に近く純粋な神への愛を人に得させる。それらは精錬を実行する神の諸目的である。人の中で神が行う働きのすべてには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬は人々を神の前から取り除くことを意味するものではなく、地獄で人々を滅ぼすことも意味しない。それは精錬の間に人の性質を変え、動機や従来の見方を変え、神に対する人の愛を変え、人の一生を変えることを意味する。精錬は人の真の試練のひとつであり、真の鍛錬の一形態であり、精錬の間のみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる。


神を知らない人はすべて神に反対する

2020-09-20 21:43:09 | デボーション

   神の働きの目的と、人の中に達成されるべき成果、また、人に対する神の意志を把握すること。これこそが神に従う一人ひとりが達成しなければならないことである。今すべての人に欠けているのは、神の働きに関する認識である。人は、創世以来、神が人間において行う業、神のすべての働きおよび神の意志を正確には把握しておらず、理解もしていない。この理解不足は宗教界全体にみられるだけでなく、さらに神の信者全員に見られる。あなたが本当に神をよく見て、神の知恵を悟る日が来る時、またあなたが神のすべての業を見て、神が何であり何を持っているかを認識する時、そしてあなたが神の豊かさ、知恵、驚異、人における神のすべての働きをその目にする時、その時こそあなたは神への信仰をみごとに達成したといえるだろう。神はすべてを包みこんでおり、非常に豊かであると言われるとき、すべてを包みこんでいるということは何を意味するのか。また、豊かさとは何を意味するのか。このことを理解しなければ、あなたは神の信者とはみなされない。なぜわたしは、宗教界の人々は神の存在を信じず、悪を為す者たちで、悪魔と同じ種類に属すると言うのだろうか。彼らが悪を為す者たちだとわたしが言うのは、彼らが神の意志を理解せず、神の知恵が分からないからだ。神が、彼らに神の業を明らかにするようなことは決してない。彼らは神の行為が見えない盲人である。彼らは神に見捨てられた者たちで、彼らには神の配慮や守りはまったくなく、ましてや聖霊の働きを有することなどは絶対にない。神の働きを持たない人々は悪を為す者たちで、神に対立する者たちだ。わたしが言う、神に対立する者たちとは、神を知らない人々、神を口先だけで認めはするが、神のことを知っていない人々、神の後についていくが神に服従しない人々、神の恵みを享受するが、神の証し人として立つことのできない人々のことである。神の働きの目的と神の人の内における働きを理解しなければ、人は神の心と一致することはできないし、神の証し人として立つこともできない。人が神に逆らう理由は、一方では、人の堕落した性質に起因しており、もう一方では神を知らないこと、神の働きの原則や人に対する神の意志についての理解に欠けることが原因である。これらの二つの要因が人間の神への反抗の歴史を成している。信仰の初心者が神に反抗するのは、彼らの本性の中にそのような反感があるからである。一方、長年信仰を持つ者たちが神に反抗するのは、彼らの堕落した性質に加えて、神を知らないことから生じる結果である。神が肉となる前の時代では、人が神に反抗しているかどうかという基準は、天の神によって定められた法令をその人が守っているかどうかであった。たとえば、律法の時代においては、ヤーウェの律法を守らない者は誰でも神に反抗する者であった。ヤーウェへの貢ぎ物を盗む者、また、ヤーウェの心にかなった人々に敵対する者は誰でも神に反抗する者で、石打の刑に処される人々であった。自分の父や母を尊敬しない者、また、他人を殴ったり、罵倒したりする者は誰でも律法を守らない者とされた。そしてヤーウェの律法を守らない者たちはみな神に敵対する人々であった。恵みの時代になるとそうではなく、イエスに敵対する者が誰でも神に敵対する者であり、イエスが語った言葉に従わない者が誰でも神に敵対する者であった。この時代、神への反抗を規定することは一層明確に定義され、より現実的になった。神がまだ肉とならなかった時代では、人が神に反抗しているかどうかの基準は、人が、目で見ることのできない天の神を礼拝し、崇敬するかどうかに基づいていた。その頃、神への反抗の定義はあまり現実的ではなかった。当時、人は神を見ることができなかったし、神の姿も、神がどのように働き、話すかも知らなかったからである。人には神の観念はまったくなく、神は人の前に現れたことがなかったので、ぼんやりと神の存在を信じるだけであった。したがって、人が想像の中でどのように神の存在を信じようとも、神は人を罪に定めたり、人から多くを求めたりはしなかった。人は神を見ることがまったくできなかったからである。神が肉となり、人々の間で働くようになると、すべての人がその目で神を見、神の言葉を聞き、すべての人が肉にある神の業を見るのだ。その時、人のすべての観念は溶けて泡となる。神が肉として現れるのを見る人々についていえば、従順さを心に持つ者は皆罪に定められることがないが、意図的に神に敵対する者たちは神の敵とみなされる。このような人間は反キリストで、故意に神に対立する敵である。神に関する観念しか持っていないが、それでも喜んで神に従う人々は罪に定められることはない。神が人を罪に定めるのはその意図と行動に基づいてであって、その人の考えや意見を理由にすることは決してない。そのような根拠で罪に定められるのなら、神の怒りの手から逃れられる者は誰もいないだろう。肉となった神に意図的に敵対する者たちは不従順を理由に罰せられる。彼らの神に対する意図的な反抗は神に関する彼らの観念が原因であり、それは神の働きを混乱させる結果を生む。そのような人々は承知の上で神の働きに抵抗し、それを破壊する。彼らは単に神に関する観念を持っているだけでなく、神の働きを阻害する行動をとる。それ故このような人々は罪に定められることになる。神の働きを故意に阻害することに関わらない者たちは罪に定められることはない。何故なら彼らは進んで従うことができ、阻害や混乱は引き起こさないからである。そのような人々は罪に定められることはない。しかし、神の働きを長年経験しているのに、神について自分の観念をまだ心に抱いており、肉となった神の働きを知ることができないままでいるならば、また、長年の経験にも関わらず、神に関する多くの観念にすがり続け、なおも神を知ることができないならば、たとえ彼らが心に抱いている多くの観念によって何の問題も起こさず、そうした観念が表面に現れてこなくても、そのような人々は神の働きのためには何の役にも立たない。彼らは福音を述べ伝えることも神の証し人として立つこともできない。このような人々は役立たずの間抜けである。彼らは神を知らず、神に関する自分の観念を捨て去ることができないので、罪に定められる。また次のようにも言うことができる。信仰の初心者において未熟な者が神の観念を持ったり、神について何も知らなかったりすることは珍しいことではないが、長年信じていて、神の働きを充分に体験してきた人々がそのような観念を抱くことは異常であり、そのような人々が神について何の認識も持っていないなら、それはなおさら異常である。そのような人々が罪に定められるのはそうした異常な状態の結果である。そのような異常な人々は役立たずである。彼らは神にもっとも反抗する者たち、神の恵みを虚しく享受してきた者たちである。そのような人々はみな最終的には取り除かれてしまうことになる。

 

 

   神の働きの目的を理解しない者は誰でも神に敵対する人々であり、神の働きの目的が分かっているのに神を満足させようとしない人々はなおさら敵対する。荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。神の前で自分自身を称える人々はもっとも卑しい人間で、一方謙っている人々はもっとも高潔である。神の働きを自分たちは知っていると考え、目を神に注ぎながら、他の人々に神の働きを意気揚々と宣言する。これらの人々は最も無知な人々である。このような人々は神の証しのない人々で、傲慢でうぬぼれている。神についての実際の経験と実践的な認識があるにもかかわらず、自分には神についての認識がほとんどないと信じている人々は、神に最も愛されている人々である。本当に証しを持ち、本当に神によって完全にされるのは、このような人々である。神の意志を理解しない人々は神の敵対者である。神の意志を理解するが、真理を実行しない人々は神の敵対者である。神の言葉を飲食するが、なおも神の言葉の本質に逆らう人々は神の敵対者である。受肉した神の観念を持ち、故意に反抗する人々は神の敵対者である。神を裁く人々は神の敵対者である。神を知ることができず、神を証しすることができない者は誰でも神の敵対者である。それゆえ、わたしの忠告を聞きなさい。あなたがたが本当にこの道を歩む信念を持っているなら、その道をたどり続けなさい。神に敵対するのをやめることができないなら、手遅れにならないうちに立ち去るのが一番良い。そうでなければ、良くなるどころかかえって先が思いやられるだろう。なぜならあなたがたの本性はあまりにも堕落しているからである。あなたがたは、微塵ほどの忠誠心や服従心も、義や真理を渇望する心も持っていない。神に対する愛もほんの少しも持ち合わせていない。神を前にしたあなたがたの状態はまったくひどい有様である。あなたがたは守るべきものを守ることができず、言うべきことが言えない。実行すべきことが実行できず、果たすべき役割を果たすことができない。持つべき忠誠心、良心、服従心、あるいは決意を持っていない。耐えるべき苦しみに耐えておらず、持つべき信仰を持っていない。あなたがたはいかなる長所にも全く欠けている。あなたがたは生存していくための自尊心をもっているだろうか。あなたがたは目を閉じて永遠の眠りについた方がまだましだと、わたしは言わざるを得ない。そうすれば神はあなたがたのために心配したり、苦しみに耐えたりする必要はなくなる。あなたがたは神の存在を信じているが、神の意志を知らない。あなたがたは神の言葉を飲食するが、神の要求に応じることができない。あなたがたは神を信じているが、神を知らない。そして追い求める目的もなしに生きている。あなたがたは何の価値も目的も持っていない。あなたがたは人として生きているが、何の良心も、品位も、わずかな信頼性も持たない。どうしてあなたがたを人とみなすことができようか。あなたがたは神を信じているのに神をだます。そのうえ、あなたがたは神の金を奪い、神の捧げものから食べるが、結局、神の感情への配慮や神への良心はまったく示さない。最も些細な神の要求にさえ応じることができない。そんなあなたがたをどうして人とみなすことができようか。あなたがたが食する食べ物、呼吸する空気は神から来ており、あなたがたは神の恵みを享受しているのに、結局は、神についてほんの僅かの認識さえ持っていない。それどころか、あなたがたは神に敵対するろくでなしになってしまった。それでは、あなたがたは犬同然の獣ではないのだろうか。動物の中であなたがたよりたちの悪い動物はいるだろうか。

   高い説教壇に立ち、人を教えている牧師や長老たちは神の敵対者であり、サタンと同盟している。しかし、高い説教壇に立って、人を教えていないあなたがたは、神に対するいっそうひどい敵対者ではないだろうか。そのうえ、あなたがたはサタンと結託していないだろうか。神の働きの目的を理解しない者たちは神の心とどうしたら一致できるかわからない。神の働きの目的を理解している者たちに、そんなことがあり得ようか。神の働きは決して誤ることがない。むしろ、欠陥があるのは人間による追求の方である。故意に神に反抗するそのような堕落した者たちは牧師や長老よりも下劣で悪質ではないだろうか。神に敵対する者たちは大勢いるが、それらの多くの人々の間には神に対するさまざまな種類の反対が存在する。あらゆる種類の信者がいるように、神に反抗する者たちも様々であり、似通った者はいない。神の働きの目的をはっきり認識しない人々は一人として救われない。人が過去にどのように神に敵対していたかに関わらず、神の働きの目的を理解するようになり、神を満足させるために努力を尽くす時、その人の以前の罪は神によってきれいに拭い去られる。人が真理を探し求め、真理を実行する限り、神はその人がしてきたことには留意しない。むしろ、その人が真理を実行する故に神はその人を義と認める。これが神の義である。人が神を見る前、あるいは神の働きを経験する前なら、神に対してどのようにふるまうかに関わらず、神はそれに留意しない。しかし、人がいったん神を見て、神の働きを経験したのなら、人の行動や行為は神によって「年代記」に書き留められる。なぜなら人は神を見て、神の働きの中で生きているからである。

   人が神の持っているものや神であるものを見、神の至高の支配権を本当に見て、本当に神の働きを知るようになったら、さらにはその人のかつての性質が変化したら、人は神に敵対する反抗的な性質を完全に捨て去ったことになるだろう。どんな人間でも一度は神に敵対し、反抗したことがあると言える。しかし、あなたが肉となった神に従う心を持ち、その時以来忠誠心を持って神の心を満足させ、なすべき真理を実行し、なすべきように本分を遂行し、守るべき規則を守るならば、その時こそあなたは、自ら進んでその反抗心を捨て去り神を満足させる者、また神によって完全にされる者となる。自分の過ちを自覚することを拒み、悔い改めの心を持たなければ、また反抗的なやり方に固執し、神とともに働き、神を満足させる心を全く持たなければ、あなたのような頑固な愚か者はかならず罰せられ、神によって完成されることは決してない。そうならば、あなたは今日も明日も神の敵であり、またその次の日も神の敵であり続けるだろう。あなたは永久に神に敵対する者、神の敵である。そんなあなたを神が大目に見たりできようか。神に反抗するのは人間の本性であるが、人が自分の本性を変えることは、到底克服することのできない課題であるため、人は故意に神に反抗する「秘訣」を探し出すことはできない。もしそうだとしたら、あなたは、あなたの将来の罰がもっと厳しくならないうちに、また、あなたの肉の体が最終的に神によって滅ぼされる時までに、あなたの野蛮な性質が露わになりその抑制が効かなくならないように、早めに立ち去る方がよい。あなたは祝福されるために神を信じている。しかし、最終的に不幸だけがあなたに降りかかるのであれば、それは何の意味もないだろう。わたしはあなたがたに別の計画を立てるのが一番良いと忠告する。他にどんなことをしたとしても、神を信じることよりましだろう。この道でなくとも、きっと別の道があるはずではないのか。あなたがたは、真理を探し求めないまま今までと同じように生き続けるではないのか。なぜこのように神と対立して生きるのか。


神との正常な関係を築くことは極めて重要である

2020-09-15 23:15:00 | デボーション

   人間は、自らの心で神の霊に触れることにより、神を信じ、愛し、神を満足させ、それによって神の満足を獲得する。また、自らの心で神の言葉に接する時、彼らは神の霊によって動かされる。正常な霊的生活を実現し、神との正常な関係を確立することを望むのであれば、あなたはまず自らの心を神に捧げ、神の前で自分の心を静めなければならない。自らの心を全て神に注いだ後、初めて、人間は徐々に正常な霊的生活を得ることが出来る。人間が神への信仰の中で自らの心を神に捧げず、心が神の中にあらず、神の負担を自分自身のものとして扱わなかった場合、彼らが何をしても、それは神を欺くことである。そして、まさしくそれが宗教に熱心な人々の行動のすべてである。これでは神から称賛を受けることは出来ない。神はこのような人からは何も得る事が出来ない。こういう人は、神の家の装飾品のように場所を取るだけで何の役にも立たず、神の業の脇役以外に使い道がない。神はこのような者を用いない。このような人間の内では、聖霊の働く機会はない。しかしそれ以上に、このような人には完全にする価値が無い。こういう部類の人間はまさしく「生ける屍」であり、彼らには聖霊により用いられることの出来る要素が全く無い。彼らは、すべてサタンによって占有され、サタンにより極端に腐敗させられ、また、神によって排除される対象である。現在、聖霊は、人間の長所を活用することのみならず、人間の欠点を完全なものとし、変化させることによっても、人々を用いている。あなたの心を神に注ぎ、神の前に静めることが可能であれば、あなたには、聖霊により用いられ、聖霊の啓示と光を受ける可能性と資格があり、またそれ以上に、聖霊によって自分の欠点を補ってもらう機会があるであろう。自分の心を神に捧げる時、あなたは更に深く肯定的な側面に入ることができ、より高いレベルの洞察に達することができる。否定的な側面においては、自らの過ちや欠点が一層分かるようになり、神の意志を満足させることをもっと熱心に求めるようになり、受動的にではなく、活発に真理の道に入るであろう。それは、あなたが正しい人間であることを意味するであろう。あなたの心が神の前に静まっていることを条件として、あなたが聖霊から称賛を享受できるかどうか、また、神を喜ばせるかどうかということの鍵は、あなたが積極的に入ることが出来るかどうか、ということである。聖霊が人に明察を与え、人を用いる時、それは、その人を決して消極的にすることはなく、常にその人を積極的に前進させる。たとえその人に短所があっても、その人はその短所に従って生きることを回避し、自分のいのちの成長の遅延を阻み、また、神の心を満足させることを求め続けることができる。これが、あなたが聖霊の臨在を得たことを充分に証明する基準である。人が常に消極的であり、啓示を受けて自分自身を知った後も依然として消極的で受動的であり、立ち上がり神と調和して行動出来ないのであれば、この種の者はただ神の恵みを受けるが、聖霊はその人と共にいない。人が消極的である時、それは、その人の心は神へ向いておらず、その人の霊が神の霊によって動かされていないことを意味している。このことは、全ての者たちによって認識されるべきである。

 


   経験から分かることだが、最も重要な課題の一つは神の前で心を静めることである。それは、人々の霊的生活といのちの成長に関する課題である。唯一あなたの心が神の前に静まっている場合のみ、あなたの真理の追求とあなたの内の性質の変化が実を結ぶであろう。なぜなら、あなたは重荷を荷って神の前に来るからである。また、あなたは、絶えず自分に至らないことが多過ぎると感じ、知るべき真理があまりにもたくさんあり、経験すべき現実があまりにも多くあり、神の意志に全ての注意を集中させる必要があると感じているからである。また、これらのことが常にあなたの心を占めており、あたかもそれらがあなたを強く圧迫し、息ができなくなるかのようである。こうして、あなたは心に重荷を感じる(しかし、これは否定的な状態ではない)。神の言葉による啓示を受け、神の霊に動かされる資格があるのは、こうした人々のみである。彼らが神の啓示と光を受けられるのは、彼らの重荷の故である。また、彼らの心は重いからである。またそれは、彼らが払った代償と、神の前で受けた苦しみのためであると言える。というのは、神は誰も特別扱いしないからである。神は人々を常に公平に扱うが、人々に供給する際は無造作ではなく、人々に無条件で与えることはない。これは、神の義なる性質の一面である。実生活においては、まだ殆どの人々がこの領域に達していない。少なくとも、人々の心はまだ完全には神の方を向いていない。それゆえに、人々のいのちの性質には、まだそれほど大きな変化がない。それは、人々がまだ神の恵みの中だけに生きており、聖霊の働きを得ていないからである。神が人々を用いる際の条件は次のようである。人々の心が神に向いており、神の言葉の重荷を負い、神の言葉を慕う心を持ち、真理を求める決意を持っていることである。このような人々だけが、聖霊の働きを得て、頻繁に啓示と光を得ることが出来る。神が用いる人間は、礼儀正しく話し、不注意に語ることが無く、神の前で常に心を静めておくことが出来るが、外見から見ると不合理であり、他の人々と正常な関係を持っていないように見える。しかし、正にこういう人こそ聖霊に用いられるに充分なのである。神の言われるところの、この「不合理な」者は、他の人々と正常な関係を持っていないように見え、彼らには外面だけの愛や実践がない。しかし、霊的なことを分かち合っている時は、彼らは心を開き、神の前での実経験から得た啓示や光を、無私無欲で他の者たちに分け与えることが出来る。彼らはこのようにして神への愛を表し、神の心を満足させるのである。他の者たちがみな彼らを中傷し、嘲笑する時、彼らは外部の人々や出来事、物事により支配されるのを回避することができ、また、なおも神の前で静まっていることが出来る。このような人には、独自の洞察があるようだ。他の者たちがどうであれ、彼らの心は決して神を離れない。他の人たちがにぎやかに、また、おもしろそうにしゃべっている時でも、彼らの心は依然として神の前にあり、彼らは神の言葉について熟考したり、あるいは黙して心の中で神に祈り、神の意図を求めたりしている。彼らは、他の人々との正常な人間関係を維持することを決して主眼とすることが無い。このような人には全く人生哲学が無いように見受けられる。こういう人は、外見上は陽気で、愛想よくて、無邪気であるが、冷静な心も備えている。これが、神が用いる人の人間像である。人生哲学や「正常な理性」などは、このような種類の人間には伝わらない。このような人は、自らの心をすべて神の言葉に捧げており、その心には唯一神しか持っていないように見受けられる。このような種類の人こそ、神の言われるところの「理性の無い」人間であり、このような人こそが、まさに神により用いられる者である。神に用いられている人の印とは、いついかなる所においても、自らの心が常に神の前にあり、他人がいかに放埓であろうと、また彼らがどれほど欲情と肉に耽溺していようと、その人の心は、決して神を離れることが無く、群衆に流されることが無いということである。唯一このようなタイプの人のみが、神が用いるのに適し、まさに聖霊により完全にされる者である。このような境地に達することが出来なければ、あなたには、神のものとされ聖霊により完全にされる資格は無い。

   もしあなたが、神との正常な関係を持ちたいのであれば、自らの心を神に向けなければならない。そして、それを土台として、あなたは他の人々との正常な関係をも得るであろう。神との正常な関係を持たなければ、あなたが他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようとも、また、そのためにいかに励み、いかに多くの労力を費やしたとしても、それは依然として人間の人生哲学に属するものであろう。あなたは、人々が自分を賞讃するように、人間の観点と哲学により、人々の間で自らの地位を維持している。あなたは、神の言葉に従って人々との正常な関係を確立してはいない。もしあなたが、人々との関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持し、自らの心を進んで神に捧げ、神に従うことを学んだならば、全ての人々との関係も極めて自然に正常なものとなるであろう。このようにすれば、これらの人間関係は、肉の上にではなく、神の愛という土台の上に成り立つのである。そこには肉に基づく相互関係は、ほとんど存在しないが、霊においては、交わりと同時に、互いへの愛、慰め、補給がある。これら全ては、神を満足させる心を基礎として為されるのである。このような人間関係は人生哲学によって保たれているのではなく、神のために重荷を荷うことによって自然と形成される。これらの関係には、人間の努力は不要であり、それは神の言葉の原則により行われる。あなたには、神の心に対して思慮深くあろうとする意欲があるだろうか。あなたには、神の前で「理性の無い」者となる意欲があるだろうか。あなたは、自ら進んで心を完全に神に捧げ尽くし、人々の間で自分の地位を考慮しないだろうか。あなたが接した全ての人々のうち、あなたが一番良い関係を持っているのは、誰であろうか。また、あなたが最悪の関係を持っていたのは、誰であろうか。あなたの人々との関係は、正常であろうか。あなたは全ての人々を平等に扱うだろうか。あなたの人々との関係は、自分の人生哲学に従って保たれているであろうか、それとも神の愛という基盤の上に築かれているであろうか。人が神に自分の心を捧げなければ、その人の霊は鈍感になり、麻痺し、意識を失ってしまう。このような人は神の言葉を決して理解することが無く、決して神との正常な関係を持つことは無いだろう。この種の人は、自分の性質を決して変えないだろう。人の性質を変化させることとは、人が神に自らの心を完全に捧げる過程であり、また神の言葉から啓示と光を得る過程でもある。神の業は、人を積極的に入らせるだけでなく、人が自分の消極的側面を認識した後、その側面を取り除くことが出来るようにする。あなたが、自らの心を神に捧げることが出来るのであれば、自分の霊の中の微妙な動きの一つひとつを感じることが出来るようになり、神から受け取った一つひとつの啓示と光を知る事が出来るであろう。このことをしっかり保ちなさい。そうすれば、あなたは聖霊により完全にされる道へ、徐々に入るであろう。神の前であなたの心を静めることができればできるほど、あなたの霊は一層敏感で繊細になるであろう。そして、あなたの霊が聖霊の動きをもっと感知できるようになればなるほど、あなたの神との関係は一層正常なものとなるであろう。正常な人間関係は、自らの心を神に捧げることを基礎として成り立つのであって、人間の努力によって達成されるものではない。神なしでは、人々の間の関係は単なる肉の関係である。そうした関係は正常ではなく、情欲に耽溺することであり――それは神が嫌悪し、忌み嫌う関係である。たとえあなたが、自分は霊に動かされていると言っても、いつも自分が心を惹かれる人々や、自分が敬服する人々と交わりを持ちたがり、自分が心を惹かれない求道者が居て、その人に偏見を持ち、その人とは交わろうとしないなら、それは、あなたが感情的な人間であり、神との正常な関係を全く持っていないことを、もっぱら証明するだけである。あなたは、神を欺き、自らの醜さを隠そうとしているのである。たとえあなたがある程度の理解を分かち合うことが出来ても、正しくない意図を抱いているのであれば、あなたが為す全てのことは、ただ人間の基準によってのみ、良いと見なされるものである。神はあなたを褒めはしないであろう。あなたは神の重荷によってではなく、肉によって行動している。神の前で自らの心を静め、神を愛する全ての者たちと正しいやり取りをすることが出来るなら、その時初めてあなたは神により用いられるに相応しい者になるのである。このように、あなたが他人とどのように交わろうが、それは人生哲学によるのではなく、神の重荷のことを心に思い、神の前で生きることであろう。あなたがたのうち、そのような者は何人居るであろうか。あなたの他の人との関係は、本当に正常であろうか。あなたの人間関係はどんな基礎の上に築かれているのだろうか。あなたの中には、いくつ人生哲学があるのか。それらはすでに投げ捨てられただろうか。あなたの心を完全に神に向けることができないのであれば、あなたは神のものではなく、サタンから来た者であり、最終的にはサタンのもとへ戻されるであろう。あなたには神の民の一人となる価値が無い。これらのこと全てをあなたは慎重に考慮する必要がある。


ペテロはどのようにイエスを知るようになったか(オーディオブック)

2020-09-13 21:10:39 | デボーション

  ペテロがイエスと共に過ごした期間、彼はイエスの中に多くの愛すべき性質、模倣する価値のある多くの局面、そして彼に与えてくれた多くのものを見た。ペテロは多くの方法でイエスの中に神の存在を見、多くの愛すべき品格を見たけれど、最初はイエスを知らなかった。ペテロは20歳でイエスについて行き、6年間従い続けた。その間、ペテロは決してイエスを知ることがなかったが、純粋にイエスへの敬愛から喜んで従って行った。イエスが最初にガリラヤ湖の岸辺でペテロを呼び寄せたとき、イエスは「ヨナの子シモン。あなたはわたしについて来るか。」と尋ねた。ペテロは「私は天の父が遣わされたお方に従わなければなりません。私は聖霊に選ばれたお方を認めなければなりません。私はあなたについて行きます。」と言った。当時、ペテロはイエスという者を、預言者の中の大預言者、神の愛するひとり子のことを話に聞いていたので、ペテロは常にイエスを探そうと望んでいた。ペテロはイエスに会う機会を探っていた(その時このようにして聖霊に導かれたので)。ペテロはそれまで一度もイエスに会ったことはなく、イエスについてのうわさに聞いていただけだったけれど、彼の心の中ではイエスに対するあこがれと敬愛が次第に大きくなり、ペテロはいつかイエスに会いたいとしばしば切望するようになった。それではイエスはペテロをどのように呼んだのだろうか。イエスもまたペテロという男のことを話に聞いていたので、それは聖霊がイエスを導いたからではなかった。「ガリラヤ湖に行け。そこにはヨナの子、シモンと呼ばれる男がいる。」ヨナの子、シモンと呼ばれる人がいて、人々は彼の説教を聞き、彼も天の国の福音を宣べ伝えており、彼の話を聞いた人々は心を動かされて涙を流していたと誰かが言うのをイエスは聞いた。これを聞いて、イエスはその人について行き、ガリラヤ湖に向かった。その時ペテロはイエスの召命を受け入れ、イエスについて行った。

 


   ペテロがイエスに従っている間に、彼はイエスについて多くの意見を持ち、常に自からの見知からイエスを裁いた。ペテロはある程度は霊について理解していたけれども、あまり啓発されることもなかったので、彼は「天の父によって遣わされたお方に従わなければならない。聖霊によって選ばれたお方を認めなければならない」という言葉を発したのである。ペテロはイエスが行ったことを理解していなかったし、啓発も受けていたわけではなかった。しばらくイエスについて行って、ペテロはイエスが行うことや言うこと、またイエス自身に次第に興味を持った。ペテロはイエスが愛と尊敬を鼓舞していることを感じるようになり、イエスと係わりイエスのそばにいたいと思うようになった。イエスの言葉はペテロに与え、助けた。ペテロが長年イエスに従って、彼はイエスの生活について全て、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情などを観察し、心に留めた。ペテロはイエスが尋常の人のようではないことを深く理解した。イエスの人間としての外観は極めて普通であったけれど、イエスは人間に対する愛、哀れみ、寛容で満ちていた。イエスが行ったこと、言ったことの全てが人々の大きな助けとなり、ペテロはイエスのそばにいて今まで見たことも持ったこともないことを見たり学んだりした。イエスは外見が決して華やかでも、変わった人間性を持っていたわけでもないけれど、イエスにはまことに並はずれて普通にはない雰囲気があった。ペテロはそれを完全には説明できなかったけれども、イエスが他の誰とも違って行動していることは見ることができた。というのは、イエスは普通の人とははるかに違った行動をしたからである。ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格は普通の人とは違うことも認識した。イエスは常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、物事を控えめに表現することもなく、淡々と且つ称賛に値するような方法で生活を送った。イエスは会話においても、上品で、優雅で、率直で、朗らかでありながらも、穏やかで、働きを実行するときも決して威厳を失うことはなかった。ペテロはイエスがあるときは無口になったり、またあるときは話し続けたりするのを見た。イエスは時々鳩のように、いきいきと陽気になるほど幸福で、時々まるで風雨にさらされた母親のように、まったく口をきかないほど悲しい時もあった。時としてイエスは勇敢な兵士が敵を殺す任務に出て行くように、また時には吠え猛るライオンのように怒りで一杯になることもあった。イエスは時には笑い、時には祈り泣くこともあった。イエスがどのように行動したとしても、ペテロは限りのない愛と尊敬をイエスに持つようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを嘆きに落とし入れ、イエスの怒りはペテロを脅かした。その一方で、イエスの憐れみ、赦し、厳しさで、ペテロはイエスに対して真の畏敬と憧れを持つようになり、心底からイエスを愛するようになった。もちろん、これらの事全ては、ペテロが数年イエスのもとで生活して、次第に分かってきたことである。

   ペテロは生まれつき聡明で、特に思慮深かったが、イエスについて行くとき、かなりたくさん無知なことをした。ペテロは一番最初の頃、イエスについてある考えを持っていた。ペテロは「人々はあなたのことを預言者と言っていますが、あなたが8歳で物事を十分理解できたとき、あなたはご自身のことを神だと知っておられましたか。あなたは聖霊によって身ごもられたことを知っていましたか。」と尋ねた。イエスは「いいえ、知らなかった!あなたにはわたしがごく普通の人には見えないのか。わたしは他の人と同じだ。父が遣わすのは普通の人で、特別な人ではない。わたしがする働きはわたしの天の父を現わしているけれど、わたしのイメージ、人格、肉は天の父のただ一部でしかなく、わたしの天の父を完全に表すことはできない。わたしは霊から生まれたが、やはり普通の人で、わたしの父はわたしを特別な人としてではなく、普通の人として地上に送った。」ペテロはこれを聞いたときはじめて、イエスについて少し理解できたのである。そして、イエスの教え、イエスの指導、イエスの支え、などについて数えきれないほどのイエスの働きを経験してからはじめて、ペテロはさらに深い理解を得たのである。イエスは30歳の年に、ペテロに全人類の贖いのために、十字架につけられることになったとこれから起こる十字架の話をした。イエスはまた十字架に張り付けになった3日後に、人の子は復活し、復活してから40日間人々に現われるともペテロに言った。ペテロはこのような言葉を聞いて悲しかったが、イエスの言葉を常に心に留めた、イエスにもっと近くなった。

   しばらくして、ペテロはイエスが行った全てのことは、神が行ったことだと認識するようになり、イエスは特別に愛すべき者であると考えるようになった。このように理解できるようになってはじめて、聖霊が彼の内から啓いたのである。それから、イエスは弟子たちやイエスに従うその他の者たちに向かって言った。「ヨハネ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」ヨハネは「あなたはモーセです。」と答えた。それから、ルカに向かって「そしてルカ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」と聞いた。ルカは「あなたは最も偉大な預言者です。」と答えた。そしてひとりの姉妹に尋ねた。「あなたはわたしをだれだと言うのか。」姉妹は「あなたはとこしえからとこしえに多くの言葉を語る最も偉大な預言者です。誰の預言もあなたほど偉大な預言はなく、誰の知恵もあなたほど深くはありません。あなたは預言者です。」と言った。それからイエスはペテロの向かって「ペテロ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」と尋ねた。ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。あなたは天から来られ、地のものではありません。あなたは神の創造物と同じではありません。私たちは地上にいて、あなたは私たちとここにいますが、あなたは天のものです。あなたはこの世のものでも、地のものでもありません。」聖霊がペテロを導き示した経験を通して、彼はこの理解を持つことができるようになったのである。これを悟って、ペテロはイエスが行う全てのことを更に褒めたたえ、イエスのことを更に愛すべき者と思うようになり、イエスと離れたくないという思いを常に心に持つようになった。だから、イエスが十字架につけられ、蘇った後にイエスが初めてペテロに現れた時、ペテロはこの上もない幸せに泣いた。「主よ!あなたはよみがえられました!」それから、泣きながら、ペテロは大きな魚を釣り、それを料理し、イエスにふるまった。イエスは微笑んだが、語ることはなかった。ペテロはイエスが復活したことを知っていたけれど、彼はその奥義を理解していなかった。ペテロがイエスに魚を差し出したとき、イエスは拒絶することもなかったが、話すことも座って食べることもしなく、その代わり突然消えてしまった。これはペテロにとってあまりにも衝撃的なことだったが、復活したイエスと以前のイエスとは違うことをその時はじめて理解した。一旦これを理解すると、ペテロは嘆いたが、主が主の働きを完成したことを知って慰めもまた与えられた。ペテロはイエスが働きを完成したこと、イエスが人と共にいられる時が終わったこと、それからは人は自分たちの道を歩んでいかなくてはならないことを知った。イエスはかつてペテロに「あなたもわたしが飲んだ苦い杯(これはイエスが復活の後言ったことである)を飲まなければならない。あなたもわたしが歩いた道を歩み、わたしのために命を捧げなければならない。」と言った。今のように、当時は面と向かって会話はしなかったのだ。恵みの時代では、聖霊の働きは全く隠されており、ペテロは大きな困難で苦しみ、時には次のように叫ぶことさえあっただろう。「神様!私にはこのいのちしかありません。あなたにとってはあまり価値がないでしょうが、私はこのいのちをあなたに捧げたいのです。人間にはあなたを愛する価値はなく、人間の愛も心も価値がありませんが、あなたは人の心のもくろみを見ることができると私は信じています。たとえ人の肉体はあなたに受け入れられなくても、あなたに私の心を受けて欲しいのです。」このような祈りをして、ペテロが「私は神様に私の心を完全に捧げます。たとえ私は神様のために何もできなくても、私は忠実に神様の意を満たし、神様に自分自身を心から捧げます。私は神様が私の心を見てくださるに違いないと信じています。」と祈ったとき、特に励ましを受けた。ペテロは「私は人生に何も求めませんが、神様への私の愛の思いと私の心の願いが受け入れられるよう願っています。私は長い間、主イエスと共にいましたが、イエス様を愛したことはありませんでした。これこそ私の最も大きな負債です。私がたとえイエス様といても、私はイエス様を知りませんでしたし、イエス様の陰で不遜な言葉さえ語っていました。これらの事を考えると、私は主イエスにもっと恩義を感じます。」と言った。ペテロはいつもこのように祈った。彼は「私はちりよりも小さいものです。私は神様にこの忠実なる心を捧げる他には何もできません。」と言った。

   ペテロの体はほとんど完全に破壊されたが、イエスが彼の内に励ましを与えた時がペテロの体験の頂点だった。そして、イエスはペテロに一度姿を見せた。ペテロが非常に大きな苦しみに会い、心が打ち砕かれたとき、イエスはペテロに「あなたは地上でわたしと共にいたが、わたしも地上であなたと共にいた。わたしたちが天国で共に一緒になる前だけれども、それは結局霊の世界のことだ。今、わたしは霊の世界に戻っているが、あなたは地上にいる。というのはわたしは地のものではないので、あなたも地のものではないけれど、あなたは地上での役割を達成しなければならない。あなたはしもべであるので、一生懸命あなたの義務を果たさなければならない。」と指導した。ペテロは神のそばに戻ることができると聞いて、慰められた。ペテロは寝たきりになるほど苦しんでいた時、彼は「私はあまりにも堕落しており、神様に満足していただくことができない。」というほどまでに自責の念にかられていた。イエスは彼に現れ、「ペテロよ。あなたはわたしの前で決心したことを忘れてしまったのか。あなたはわたしが言ったことを本当に全て忘れてしまったのか。あなたがわたしに決意したことを忘れてしまったのか。」と言った。ペテロはその者がイエスであると分かると、床から起き上がった。イエスは彼を慰め、こう言った。「わたしは地のものではない。もうすでにあなたにそう言っておいただろう――あなたはこのことを理解しなければならないが、わたしがあなたに言ったもうひとつのことも忘れてしまったのか。『あなたも地のものではなく、世の者でもない。』ということだ。今、あなたにはしなければならないことがある。あなたはこのように嘆き、このように苦しんでいてはいけない。人間と神は同じ世界に住むことはできないけれど、わたしにはわたしの働きが、あなたにはあなたの働きがあり、いつかあなたの仕事が終わるとき、わたしたちは同じ境地に共にいて、わたしととこしえにいるようあなたを導くだろう。」と言った。ペテロはこの言葉を聞いて慰められ、再び確信を得た。彼はこの苦しみは耐えて体験しなければならないことを知っていた。それからのち霊感が与えられる。イエスはペテロに要所要所で特別に現れ、特別な導きや示し、指導を与え、彼の内に多くのことをした。そしてペテロは何を一番後悔したのだろうか。イエスはペテロに別の質問をした(それはこのようには聖書に記録されていないけれども)。ペテロが「あなたは生ける神の子です。」と言ってから間もないことで、それは「ペテロよ、あなたはかつてわたしを愛したことがあるのか。」という質問だった。ペテロはイエスが言ったことの意味が分かっていた。そして「主よ!私はかつて天の父を愛しましたが、私はあなたを愛したことはなかったことを認めます。」と答えた。するとイエスは、「人が天の父を愛さないなら、地上の子をどうして愛すことができるのだろうか。もし人が神によって遣わされた子を愛さないなら、彼らは天の父をどうして愛すことができるのだろうか。もし人が地上の子を本当に愛するなら、彼らは天の父も本当に愛しているのだ。」と言った。ペテロはこれらの言葉を聞いたとき、自分の欠陥を気づいた。彼はいつも「私はかつて天の父を愛したことはありますが、あなたを愛したことは一度もありませんでした。」と言って涙を流すほど後悔した。イエスが復活し、昇天してから、ペテロはさらにもっと自責の念にかられ、嘆いた。自分の昔の働きや現在の背丈を思い出して、彼は神の願いを満たしていなかったことや、神の基準に達していなかったことなど常に後悔と負債を感じて、しばしば祈りの中でイエスのもとへ行った。これらのことは彼の大きな重荷となった。ペテロは「いつか、私は私が持っているもの全てと私の全てをあなたに捧げます。私はあなたに価値あるものなんでも捧げます。」と言った。ペテロは「神様、私には一つの信仰と一つの愛しかありません。私の命には何の価値もありませんし、私の体にも何の価値もありません。私には一つの信仰と一つの愛しかないのです。私の気持ちの中ではあなたに信仰を持っており、心の中ではあなたに愛を持っています。この2つしかあなたに捧げる物はありません。他に何もありません。」と言った。イエスが十字架につけられる前に、ペテロに「わたしはこの世の者ではない。あなたもこの世のものではない。」と言ったので、ペテロはイエスの言葉で大いに励まされた。後に、ペテロが激しい痛みに見舞われたとき、イエスは「ペテロよ、あなたは忘れてしまったのか。わたしはこの世のものではない。わたしが早く離れたのはわたしの働きのためだけだ。あなたもこの世のものではない。忘れてしまったのか。あなたに2度言ったが、覚えていないのか。」とイエスは彼に思い出させた。ペテロはイエスの言葉を聞いて「私は忘れていません!」と言った。それからイエスは言った「あなたは天で一度わたしと幸せな時を過ごし、わたしのそばでしばらく過ごしていた。あなたはわたしがいなくて寂しく思っているが、わたしもあなたがいなくて寂しく思っている。わたしの目には被造物は述べる価値はないけれども、汚れのない愛おしい者を何故愛さずにはいられようか。あなたはわたしの約束を忘れてしまったのだろうか。あなたは地上でわたしが与えた任務を受け入れなければならない。わたしが託した仕事を果たさなければならない。いつかあなたをわたしのそばに確かに導くであろう。」これを聞いて、ペテロは増々励まされ、さらに大きな激励をもらった。それは彼が十字架につけられたとき、「神様!私はあなたをいくら愛しても十分ではありません。たとえあなたが私に死ねと言われても、やはり私は十分愛したとは言えません。あなたが私の魂をどこに送られても、あなたが約束を果たされても果たされなくても、あなたがその後何をなされても、私はあなたを愛し、信じます。」ということができた。彼がしっかり持っていたのは信仰と真の愛だった。

   ある夜、ペテロを含めて数人の弟子たちは釣り舟に乗っていた。彼らはイエスと一緒で、ペテロはイエスに「主よ!私は長い間お聞きしたいと思っていた質問があります。」と非常にあまい質問をした。イエスは「それなら聞きなさい!」と答えた。ペテロはそれから「律法の時代になされた働きはあなたがなされたことですか。」と尋ねた。イエスはまるで「この子は、なんと未熟なのだろう!」と言っているかのように、微笑んだ。イエスは目的を持って「それはわたしの働きではない。それはヤーウェとモーセがしていることだ。」と続けた。ペテロはこれを聞いて「ええっ!あなたがなさっているのではなかったのですか。」と叫んだ。ペテロはそういうと、イエスはそれ以上何も言わなかった。ペテロは「それをされたのはあなたではなかったのですね。だからあなたは律法を滅ぼしに来られたわけですね。それはあなたがなされたことではなかったのですから。」と独り言を言った。彼の心も「楽に」なった。その後、イエスはペテロはかなり未熟だと認識した。その時はまだ彼には物事を見抜く力がなかったので、イエスは他には何も言わなかったし、直接反論しようともしなかった。かつてイエスは会堂で説教をしていて、イエスの説教を聞こうとペテロも含めて多くの人たちがいた。イエスは「とこしえからとこしえに来る方は人類を罪から贖うために、恵みの時代に贖いの働きをするが、その者は人を罪から離れさせるにあたって、何の規律に縛られることもない。その者は律法から離れて、恵みの時代に入っている。その者は人類全てを贖わっている。律法の時代から恵みの時代に闊歩するが、誰もヤーウェから来たその者を知らない。モーセが行なった働きはヤーウェに贈られた。モーセはヤーウェが行った働きの故に、律法を作ったのだ。」と言った。これを言うと、イエスは「恵みの時代に恵みの時代の戒めを廃止する者たちは、大きな不幸に見舞われるだろう。彼らは神殿に立ち、神の崩壊を受けなければならず、火が彼らの上にふりかかるだろう。」と言った。ペテロはこれを聞き終わると、少し反応した。彼が経験している間、イエスはペテロを養い、支え、腹を割ってペテロと話し、それでぺテロはイエスのことをもう少し良く理解できるようになった。ペテロはその日イエスが説教したことを思い返し、釣り舟に乗っていた時にイエスに質問したこと、イエスの答え、そしてイエスが笑った様子を思い出し、そのときはじめて、ペテロは全てを理解した。その後、聖霊がペテロを啓発し、それによってのみ、ペテロはイエスが生ける神の子であることを理解した。ペテロの理解は聖霊の働きによるものだが、それには過程があった。それは質問したり、イエスが説教するのを聞いたり、イエスとの特別な交流やイエスの特別な養いを受け取るなどして、ペテロはイエスが生ける神の子であることを認識するようになった。それは一夜にして成し遂げられたことではなく、過程であって、これらは彼の後の体験に役立った。イエスは他の人たちには完全になるための働きはしなかったのに、なぜペテロだけに行ったのだろうか。それはペテロしかイエスが生ける神の子であることを知らず、他には誰も知らなかったからである。イエスについて行く間に、多くの弟子たちはたくさんの認識を得たが、彼らの認識はうわべだけのものであった。これこそペテロが完全にされる模範としてイエスに選ばれた理由である。イエスがその時ペテロに言ったことは、今日人々に言っていることで、彼らの知識や霊的成長もペテロのレベルに到達しなければならない。それは神が全ての人を完全にする条件と道に一致している。今日の人たちはなぜ真の信仰とまことの愛を持つことを要求されるのだろうか。ペテロが体験したことはあなたがたも体験しなければならないし、ペテロが自分の体験から得た実はまたあなたがたの中にも顕れなければならない。そして、ペテロがこうむった苦しみはあなたがたも確実に経験しなければならないのである。あなたがたが歩く道はペテロが歩いた同じ道である。あなたがたがこうむる苦しみはペテロがこうむった苦しみである。あなたがたが栄光を受けるとき、またあなたがたが実生活を生きるとき、あなたがたはペテロのイメージを生きているのである。道は同じで、これと一致することで、人は完全にされるのである。しかし、今日の人々の素質はペテロのそれと比較して少々欠けている。というのは時代が変わり、堕落の度合いも変わったからである。そしてまたユダヤは古代文化を伴った積年の王国だった。だから、あなたは自分自身の素質を改善する努力しなければならない。

   ペテロは非常に思慮深く、すること全てに鋭敏で、また非常に正直だった。彼は多くの挫折を体験した。ペテロは14歳で社会に出て、しばしばユダヤ会堂に出席する一方、学校にも行っていた。彼は非常に熱狂的で、いつも会合に喜んで出席した。そのとき、イエスはまだ正式には働きを始めておらず、恵みの時代の始まりに過ぎなかった。ペテロは14歳のとき、宗教関係者と接し始めた。18歳になる頃には、宗教エリートと接するようになるが、その後舞台裏で宗教的無秩序を目撃してから、彼らから離れていった。この人たちがどんなに悪賢くて、狡猾で、争いをもたらしたかを見て、彼は非常にうんざりしたのである(彼が完全にされるために、その時聖霊がこのように働いたのである。聖霊は特にペテロの心を動かし、彼の中で特別な働きをした)。そしてペテロは18歳のとき会堂を退会した。ペテロの両親は彼を迫害し、彼に信じさせなかった(彼らは悪魔に属し、信仰もなかった)。とうとう、ペテロは家を出て、意のままに旅をし、2年間魚を釣ったり、説教をしたりした。その間、かなりの人たちを導いた。今、ペテロがどんな道を歩んだのかあなたは明確に見ることができるはずである。もしこれがはっきり見えたら、今日なされている働きに確信を得ることができ、あなたは不満を言ったり、消極的になったり、何かを待ち焦がれたりすることもないだろう。あなたは当時のペテロの気持ちを経験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来も祝福も求めることはなかった。彼は利益、幸福、名声、世の富を求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけ求めた。それは神の愛に答え、彼にとって最も貴重なものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたを愛していましたが、本当には愛してはいませんでした。私はあなたを信じていると言いましたが、私は決して真の心であなたを愛してはいませんでした。私はあなたを見上げ、敬愛し、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでもなく、心からあなたに信仰を持っていたのでもありませんでした。」とイエスに祈った。彼は常に決意をするために祈り、絶えずイエスの言葉[a]によって励まされ、それらの言葉を動機へと変えたのである。いくつかの事を経験したのち、イエスはペテロがイエスをもっと慕うようにと、あえてペテロを試した。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。私には余りにたくさん欠けた所があり、あなたの愛に答えるに相応しいものではありません。私を早く取り除いてくれるよう切にお願いします。あなたはいつ私が必要でしょうか。あなたは私をいつ取り除いてくださるのでしょうか。私はいつもう一度あなたの御顔を拝することができるでしょうか。この体でこのまま生き、堕落し続けることを望んではいません。これ以上反抗することも望んではいません。できるだけ早く私が持っている全ての物をあなたに捧げる用意ができていますし、あなたをこれ以上悲しませたくありません。」とペテロは言った。ペテロはこのように祈ったが、その時はイエスが彼の中で何を完全にするのか、まだ分からなかった。彼が試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼に再び現れ「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全なものとし、わたしの働きの結晶として、あなたが一つの実になり、わたしが喜ぶものとなるためである。あなたは本当にわたしの証しとなることができるのか。わたしがあなたに願ったことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。あなたはわたしを愛したけれど、わたしを生き抜いたのか。わたしのために何をしてくれたか。あなたはわたしの愛にふさわしくないと思っているのが、わたしのために何をしてくれたのか。」と言った。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことが分かり、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それから、彼はもはや不平不満を言わず、その後の彼の祈りは更にもっと素晴らしくなった。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたから去りましたが、あなたも私から去られました。私たちはともに離れて過ごしたり、いっしょに過ごしたりしてきました。でも、あなたは他の何よりも私を愛してくださいました。私はあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたが私の中で行われた働き、私をいつも信じてくださったことなど私はいつも覚えており、決して忘れることはありません。あなたが私にしてくださった働きで持って、私は最善を尽くします。あなたは私ができることを御存知で、私の役目ももっとご存知です。あなたの願いは私の指令で、私はあなたに持っているもの全てを捧げます。私があなたにできることはあなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗したけれども、あなたはこのような罪を犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。あなたに私の全人生を捧げたいです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行うことを望むだけです。あなたの苦い杯から飲み、私はあなたの意のままです。」

   あなたがたは自分が歩く道について明確でなければならない。あなたがたがこれから歩く道について、神が完全にさせること、あなたが任されたことなどについても明確でなければならない。いつか、おそらくあなたがたが試されるとき、あなたがたがペテロの体験から霊感を得ることができるなら、あなたがたはペテロの道を歩こうとしていることを示している。ペテロは彼の真の信仰、愛、神への忠誠のために、神に褒められた、そしてそれは神が彼を完全にした彼の実直さ、彼の心の神へのあこがれであった。もしあなたが本当にペテロと同じ愛、信仰を持っているなら、イエスは必ずあなたを完全にしてくれるであろう。