会津若松市議会議員 渡部 みとむ オフィシャルHP

日々の活動報告と新しい情報を毎日更新中していましたが、
ただいまは休止しております。バージョンアップをお楽しみに!

市議会産業経済委員会と協議会が開催されましたφ(..)

2016年10月27日 | ブログ


【写真:ツタが真っ赤に染まってきた「展示室」の白壁】

今日9時50分に開会された産業経済委員会は、9月定例会からの継続審査になっていた請願第5号「小規模企業振興基本法の趣旨を生かした小規模企業に対する具体的施策の推進について」が、請願者の会津若松民主商工会(田勢元喜会長)から取下申出書が提出されたことにより、その取扱いについて協議されました。理由は内容の変更及び再検討ということで、出席委員全員が同意を与えることに賛成しました。(^.^)



【写真:11月1日発行の「広報議会」が控室に配布されていました】

続いて産業経済委員会協議会が開かれ、案件は(1)会津若松徳久工業団地の分譲開始について、(2)「ICTオフィス環境整備事業」の再検討についてです。(1)の分譲開始は、11月1日から始まることが報告されました。(2)については、6月定例会で提案された予算案を認めず、JT跡地の不動産鑑定料を減額する修正案が全会一致で可決されました。9月定例会では、同予算案が「観光駐車場」として取得する目的に変更され、審査の結果、所管する産業経済委員会(予算決算委員会第3分科会)では否決されたものの、最終本会議では賛成多数で可決しました。



【写真:今日の会議案内板と行政調査受入案内】

再構築の考え方は、比較候補地として、(1)JT跡地(宅地約9,500㎡)、(2)会津大学周辺農地(農地約10,000㎡)、(3)県立病院跡地(建物取壊中の宅地約27,000㎡)、(4)徳久工業団長(工業専用地域の宅地約51,000㎡)、(5)都市計画道路米代代替地(宅地約2,700㎡)、(6)まちなか市民広場(旧星賢跡地の宅地約3,000㎡)があげられています。(-。-)y-゜゜゜



【写真:私の一般質問の内容は18ページに掲載されています】

その比較検討の結果、JT跡地が最も優位性が高いものと判断したようです。また、事業財源(国庫補助金や交付金を含む)や事業スキーム、ホルダー企業「予定者」募集の考え方と今後のスケジュール(予定)についても説明がありました。特に、国の「地方創生拠点整備交付金」について現段階における情報では、地方公共団体(市)が所有する施設を前提としていることから、市は建物を共有等による所有権を有することが必要になります。つまり、市がホルダー企業により建設された施設の一部(持分)を購入し、共有等による所有権を取得したうえで、ホルダー企業に無償貸与するという手法で事業支援することになるのです。大変複雑な整備手法で、なかなか理解できません。



【写真:今日の産業経済委員会と協議会の資料一式です】

市の一般財源の持ち出しがどの程度になるのか。前議会の答弁では、土地の取得費が約6億円、建物補助に約10億円、完成後の3年間の家賃補助も発生しますから、トータル17億円前後が注ぎ込まれる計算でした。今回の試算では、JT跡地の取得費が不動産鑑定により約4億1千6百万円ということになり、国の新たな交付金「地方創生拠点整備交付金」の獲得ができれば10億円の2分の1にあたる5億円が負担減、また別枠の「地方創生関連交付金」がソフト事業を中心に、1事業あたり単年度、上限1億円(事業費ベースで2億円)を目安に交付されるものです。これは、ホルダー企業が実施する誘致活動等のソフト事業などに活用していく予定です。_(._.)_



【写真:今日は自宅で塩ラーメンを作ってみました】

自宅で昼食を済ませてから猪苗代に向かいました。国道49号線は、平日の道路工事で何カ所か片側交互通行になっています。ちょうど金橋・銀橋の周辺と西久保(温泉)の南側です。待たされることもしばしばで、たまに旧道を通って職場に向かったりします。戸の口から長浜に抜ける途中に「天鏡閣」がありますが、敷地内のモミジが黄色や赤に染まってきました。バルコニーの工事がなければ建物といっしょに写したいのですが、今日は「モミジ」の写真をアップします。



【写真:国指定重要文化財「天鏡閣」に通じる歩道】

職場に着くと、生前ご来館いただいたことを知っていた新聞社から問い合わせがあったようで、大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)されたとのこと。100歳で、皇位継承順位は第5位。戦時中は陸軍の軍人、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍されました。(._.)




【写真:昭和44年に来館された時の写真】
※ 県指定重要文化財「旧佐々木家住宅」の玄関前

殿下は、昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、先の大戦中の昭和18年、お印の「若杉」から「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として南京に赴かれました。昭和19年には大本営参謀となり、終戦時は陸軍少佐であられました。当館には昭和44年にお越しいただいています。



【写真:亡き父が旧佐々木家住宅内部を案内しています】

そこで、館に保管されている古い写真を探してみると、昭和44年に来館された時のものを発見しました。当時、教鞭を執っておられた「東京女子大学」の郷土調査団一行と共に郡山市湖南町の民俗調査が実施され、その前後に来館されました。郡山地方史研究会の皆さんとも交流がおありで、古代オリエント史の研究だけでなく、民俗にも大いに興味をお持ちだったようです。(T_T)/~~~

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿