今日は東京大空襲から60年です。各社社説に東京大空襲を掲げると思いきや毎日と日経は違いました。
日経は経済紙だからという言い訳があるのでしょうが今日の発展の基となった戦争中の大きな出来事を扱わないのでは公器とは言えません。それともアメリカに遠慮したんでしょうか?それでは金の亡者です。嘆かわしい。
毎日は先日の署名記事ではいいものを掲げましたが社説はなし。やはり雑多な毎日はこの問題について社説を書けないのかも知れません。これが毎日がサヨク一辺倒でないことを示すものならば、先日の記事と相俟って、まあよしとしましょう。
では残りの讀賣、アサヒ、産経ですが、今回は讀賣の社説が出色の出来、産経には少々失望、アサヒは言わずもがなの恩知らずぶりでした。以下感想。
【東京大空襲 明らかに『戦争犯罪』だった】《讀賣》
《讀賣》は、米軍の空襲を『戦争犯罪』と断じ、空襲の立案・責任者ルメイなどが自分のやったことが戦争に負けていれば『戦争犯罪』だったと述懐していたことを紹介した上で、『東京裁判』に対する根本的な疑問を投げかけます。そして、あろうことかルメイに戦後日本国が《勲一等旭日大綬章》を贈ったことを『東京裁判史観』による歪みの象徴とします。現在も日本人を呪縛し続ける『戦争犯罪』、それを根拠にした『東京裁判』の欺瞞を敗者の視点から検証する作業を地道に行おうという姿勢にわたしは共感します。
【東京大空襲 勝者の非人道性も検証を】《産経》
東京大空襲とともに旧ソ連による『非人道的行為』を取り上げ、欧州における勝者の『非人道性』に対する検証と関連付け、それが世界の大きな流れになっており、日本もそれを検証しようといった内容でした。
一読しての印象は焦点がボケているということでした。限られた字数に多くのことを盛り込み過ぎだと思います。そのせいか一般論に終始しているような印象を拭えず、なおかつ日本国民が受けた苦難に対する同情・共感の薄い文章になってしまっています。ルメイに日本国が《勲一等旭日大綬章》を贈ったことを単に【皮肉なめぐり合わせ】と書いているのはその象徴といっていいでしょう。《讀賣》が【東京裁判による歴史観の歪みの象徴】と書いていることと比較すればそれがよく分かります。
それと気になったのは、《産経》がどういう考えで『戦争犯罪』という用語を用いず『非人道的行為』という用語を使ったのかと言う点です。好意的に考えれば『東京裁判』(および『ニュンベルグ裁判』)に基づく『戦争犯罪』という概念を《産経》は認めないということなのかもしれません。すなわち『戦争犯罪』は敗者のみが負うという概念が定着している以上それを用いるのは議論が混乱するから、『戦争犯罪』の根拠になった『人道に対する罪』=『非人道的行為』という用語で真実に迫るということです。もしそうであるならば十分説得的なのですが、文章全体からそういう感覚が伝わって来ず、却ってアメリカに遠慮しているような印象を受けてしまうのは、わたしが穿ち過ぎなのでしょうか。
【東京大空襲――あれは「戦場」だった】《アサヒ》
不思議なことにアサヒにはアメリカの爆撃に対する否定的表現が一切出てきません。あるのはアサヒが戦時中に行ったことに対する責任逃れと、近時のイラクの犠牲者に対する同情・共感だけです。日本は空襲当時アジアに対する【加害者】だったから同じくアメリカの空襲で殺されても同情も共感もしないそうです。しかも【加害者】だったかどうかの客観的検証は一切拒否して支那人・朝鮮人の主観のみが正しいかのような態度をとり続けるわ、アメリカは嫌いなくせに戦時中のアメリカに文句を付けると自分らのよって立つ『東京裁判』の正当性が揺らぐから無視するというご都合主義です。こういう連中が信用できるわけがありません。【真摯】【無私】といった美徳の対極にいる連中です。そのご都合主義の結果多くの日本人が濡れ衣に苦しめられようが全然心が痛まないらしく今日も方々で日本の悪を絶叫しています。こういう人間を日本語では【恩知らず】とか【恥知らず】とか言います。覚えておきましょう。【人の祖国は国ではなく国語】だという言をいつか紹介しましたが、それによればアサヒ人は日本人ではありませんな。では何人か?
「あんたら一体何人?」と問いたい。問うたとこで「地球市民」とか言いそうで問う前から萎えてしまいそうです。地球市民とは、かくも非人間的なものなのか!俺は絶対地球市民などというものにはならんぞ!
日経は経済紙だからという言い訳があるのでしょうが今日の発展の基となった戦争中の大きな出来事を扱わないのでは公器とは言えません。それともアメリカに遠慮したんでしょうか?それでは金の亡者です。嘆かわしい。
毎日は先日の署名記事ではいいものを掲げましたが社説はなし。やはり雑多な毎日はこの問題について社説を書けないのかも知れません。これが毎日がサヨク一辺倒でないことを示すものならば、先日の記事と相俟って、まあよしとしましょう。
では残りの讀賣、アサヒ、産経ですが、今回は讀賣の社説が出色の出来、産経には少々失望、アサヒは言わずもがなの恩知らずぶりでした。以下感想。
【東京大空襲 明らかに『戦争犯罪』だった】《讀賣》
《讀賣》は、米軍の空襲を『戦争犯罪』と断じ、空襲の立案・責任者ルメイなどが自分のやったことが戦争に負けていれば『戦争犯罪』だったと述懐していたことを紹介した上で、『東京裁判』に対する根本的な疑問を投げかけます。そして、あろうことかルメイに戦後日本国が《勲一等旭日大綬章》を贈ったことを『東京裁判史観』による歪みの象徴とします。現在も日本人を呪縛し続ける『戦争犯罪』、それを根拠にした『東京裁判』の欺瞞を敗者の視点から検証する作業を地道に行おうという姿勢にわたしは共感します。
【東京大空襲 勝者の非人道性も検証を】《産経》
東京大空襲とともに旧ソ連による『非人道的行為』を取り上げ、欧州における勝者の『非人道性』に対する検証と関連付け、それが世界の大きな流れになっており、日本もそれを検証しようといった内容でした。
一読しての印象は焦点がボケているということでした。限られた字数に多くのことを盛り込み過ぎだと思います。そのせいか一般論に終始しているような印象を拭えず、なおかつ日本国民が受けた苦難に対する同情・共感の薄い文章になってしまっています。ルメイに日本国が《勲一等旭日大綬章》を贈ったことを単に【皮肉なめぐり合わせ】と書いているのはその象徴といっていいでしょう。《讀賣》が【東京裁判による歴史観の歪みの象徴】と書いていることと比較すればそれがよく分かります。
それと気になったのは、《産経》がどういう考えで『戦争犯罪』という用語を用いず『非人道的行為』という用語を使ったのかと言う点です。好意的に考えれば『東京裁判』(および『ニュンベルグ裁判』)に基づく『戦争犯罪』という概念を《産経》は認めないということなのかもしれません。すなわち『戦争犯罪』は敗者のみが負うという概念が定着している以上それを用いるのは議論が混乱するから、『戦争犯罪』の根拠になった『人道に対する罪』=『非人道的行為』という用語で真実に迫るということです。もしそうであるならば十分説得的なのですが、文章全体からそういう感覚が伝わって来ず、却ってアメリカに遠慮しているような印象を受けてしまうのは、わたしが穿ち過ぎなのでしょうか。
【東京大空襲――あれは「戦場」だった】《アサヒ》
不思議なことにアサヒにはアメリカの爆撃に対する否定的表現が一切出てきません。あるのはアサヒが戦時中に行ったことに対する責任逃れと、近時のイラクの犠牲者に対する同情・共感だけです。日本は空襲当時アジアに対する【加害者】だったから同じくアメリカの空襲で殺されても同情も共感もしないそうです。しかも【加害者】だったかどうかの客観的検証は一切拒否して支那人・朝鮮人の主観のみが正しいかのような態度をとり続けるわ、アメリカは嫌いなくせに戦時中のアメリカに文句を付けると自分らのよって立つ『東京裁判』の正当性が揺らぐから無視するというご都合主義です。こういう連中が信用できるわけがありません。【真摯】【無私】といった美徳の対極にいる連中です。そのご都合主義の結果多くの日本人が濡れ衣に苦しめられようが全然心が痛まないらしく今日も方々で日本の悪を絶叫しています。こういう人間を日本語では【恩知らず】とか【恥知らず】とか言います。覚えておきましょう。【人の祖国は国ではなく国語】だという言をいつか紹介しましたが、それによればアサヒ人は日本人ではありませんな。では何人か?
「あんたら一体何人?」と問いたい。問うたとこで「地球市民」とか言いそうで問う前から萎えてしまいそうです。地球市民とは、かくも非人間的なものなのか!俺は絶対地球市民などというものにはならんぞ!
塾の先生なんですね。わたしも大学時代、川崎・横浜で数年塾でアルバイトをしていたので少々親近感がわきました。
これからもよろしくお願いします。
TBさせていただきました(別記事にも2件ほど)。宜しくお願いいたします。
地球市民という造語は胡散臭いですね。
自国のことを誇れない人間がどうすれば他国を尊重したり、地球規模でものが考えれるのでしょうか。
←系の人にあんた一体何人?
って私が聞かれたら日本の九州男児じゃと堂々と言いたいです。
わしも中国男児じゃけん!