毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

目的と手段の転倒

2006-10-16 01:54:32 | 国際
中川昭一の「核武装検討発言」と「非核三原則堅持発言」が矛盾するという人は政策の目的と手段を転倒させているか単に感情的になっているかのいずれかで国内限りの問題ならともかくこのような人がしたり顔で対外関係を論じるのは甚だ迷惑であるばかりでなく有害なことです。

言うまでもなく中川発言は非核三原則堅持であって「絶対」堅持ではありません。日本国存立の危機に際しては核武装を否定しないということです。人を殺してはならないという原則は堅持するが自分や家族の命の危機に際しては人を殺すことを否定はしないというのに少し似ています。

もっとも両者は決定的に異なる命題です。人を殺してはならないという原則の絶対化は個人の領域の問題ですが非核三原則の絶対化は個人の問題にとどまらないからです。非核三原則「絶対」堅持を言う人は自分の頭上で核兵器が炸裂することを忍ぶだけではなく他の日本国民にもそれを忍べと説得しなければならないからです。非核三原則の絶対化は自分だけではなく他人にも無抵抗で死ぬ覚悟を要求する行為なのです。

そのような人間の生存本能を超越する覚悟を人に要求しているという自覚が非核三原則を絶対化する人々にあるのでしょうか。そのような自覚はないとしかわたしには思えません。現に非核三原則の絶対化をいう人は「もし核攻撃を受けたらどするのか」という問いに対して「死を容認せよ」と言わず「まず話し合いを」としか言いません。これは自分の主張のもたらす結果について真摯に向き合っていない証拠です。このような不誠実がはびこるのは個人的に不愉快ですがそれ以上に日本人の倫理観を毀損し甚だ有害です。

この不誠実のもとは何なのでしょうか。その原因は多々考えられますが手段を目的化したことがそのひとつではないでしょうか。非核三原則はあくまで「平和維持」という目的のための手段だったはずです。そうであれば「平和維持」という目的達成のためには場合によっては非核三原則を放棄ないし修正することもあり得るのは当然です。

非核三原則は「絶対」の「目的」ではあり得ずあくまで「相対的」な「手段」の問題だということをキッチリ押さえておくべきです。


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