件名: cicada ショーン・タンからのメッセージ
『セミ』は、オフィスで働く一匹の虫と、彼を愛さない人間たちをめぐるお話です。わずか32ページの、ごくシンプルな絵本です。奴隷のような会社員生活の、言葉にならない恐怖についての……いや、本当にそうでしょうか? 虫が何を考えているかは誰にもわかりません
『セミ』のアイデアが浮かんだのは、2005年ごろベルリンに行ったときでした もっとも、いつ、どこでかは、この際そう問題ではありません。私は見上げるようにそびえたつ灰色のオフィスビルを眺めていました。びっしりと並ぶ何百という灰色の窓の中で一つ、たった一つだけ、窓ぎわに誰かが真っ赤な花の鉢植えを出して日に当てているのが見えました。
そのとき友人に冗談めかしてこう言ったのを覚えています あの中ででっかい虫が働いているんじゃないかな、ハチかなんかがさ。それ以来、無機質なオフィス空間にまぎれこんだ場ちがいな生き物の姿を見るたび、その考えが浮かぶようになりました。
ぽつんと一つだけ置かれた鉢植えや、誰かが職場に連れてきた犬や猫、迷いこんだスズメ、そしてもちろん、窓ガラスに何度も体当たりして外に出ようともがく哀れな虫。
もう一つのインスピレーション源は、自宅の寝室の窓の外で鳴いているセミの声と、ときどき見つかるセミの脱け殻でした 妖精<ニンフ>が脱ぎ捨てたようなあの薄皮が、よく木の塀の高いところにしがみついたまま残っているのです(メルボルンでよく見るのは大きな薄みどり色のセミで、前に住んでいたパースでは見かけなかった種類す)以前、どこかでセミの一生についてのドキュメンタリー番組を観たことがありました。セミたちは17年もの年月を地中で過ごしたあと、いっせいに外に出てきて、数の力で天敵に対抗し、そしてはかなくも輝かしい数日間のうちに交尾し、生涯を終えるのです。まるで一生のハイライトをぎゅっと圧縮して最後の大舞台に注ぎこんだようでした。17年という長いサイクルは人間にはなじみのないものですが、それでも不思議とわれわれはそこに魅きつけられずにいられません。もしかしたら私たちは、限りある生や、忍耐や、もしかしたら愛のメタファーさえ、そこに隠されていると感じているのかもしれません。
いつもそうですが、この本も子供だけに限定しない(でも子供にも読める)絵本にしたいと思いました。描きながら思い浮かべていたのは、努力の報われない場所で仕事をしている知り合いや家族の顔でした。私の父もその一人でした。仕事人生では楽しいことばかりではなかった父は、リタイアするとさっさと庭の奥に引っこんで、以来オリーブからチェリモヤにいたるまで、じつにさまざまな作物を喜々として育てつづけています。
*日本のみなさんへ*
巻末の芭蕉の句については、付け加えるべきことは特にありません。ただ言えるのは、産業革命前の詩が、現代社会にまつわる自分のこの物語とふしぎとぴったり合うことに気づいた、ということです。セミについての俳句を知ったのは、ずいぶん前のことでしたが この句だったか、もしかしたらべつの句だったかもしれません 『セミ』を描き終えたあとはじめて、それをまた探し出すことを思いついたのです。
『セミ』の自分の文章も、こうして見るとちょっと俳句に似ています。もし動物が言葉を書いたりしゃべったりできたら、それは俳句に似た感じになるのではないでしょうか。もしかしたら人間にできるいちばん動物に近い表現形式、それが俳句なのかもしれません(すくなくとも私にはそう思えます)。
●巻末に日本語で芭蕉の句が記されている。
閑けさや 岩に滲み入る 蝉の声(松尾芭蕉)
自分は、では?これを英語でショーン・タンはどう感じているのだろうか?と逆に考えてみた。
すると意外なことが判明した。英訳ではこの山中の状況は束の間でも蝉の豪雨のような鳴き声が途切れた時の静寂を文字化している。岩が吸音材のように蝉の声を吸い込んだ、というシチュエーションだ。
だが我々日本人はどうだろうか?あくまでもこの句の中の世界は蝉の声で全山が満ちていると、解説されなくても感じているのではないか?轟音の中でこそ感じる、それ以外の音は何一つ無いこと、へのアンビバレンスな実感。これは我々日本人なら誰もがこの句をきっかけに自分の精神が山中に瞬間移動できる共有体験によるものだと思う。
以下は英訳俳句のサイトからの転載です。
その①
閑けさや 岩に滲み入る 蝉の声(松尾芭蕉)
What stillness! / The voices of the cicadas / Penetrate the rocks. Reginald Horace BlythAh, tranquility! / Penetrating the very rock, / a cicada's voice.Helen Craig Mccullough
ひっそりとしたしじまの中に、突然、ジーと蝉が鳴く。その鳴き声は岩にしみ入って、あたりには再び静かさがもどる。
「静けさや」という言葉に "stillness" や "tranquility" という言葉が使われていますがどちらにも感嘆符の!がつけられています。あまりの静寂に息を飲む様が想像されます。
How still it is here Stinging into the stones, The locust's trillドナルド・キーン
Ah, tranquility! Penetrating the very rock, a cicada's voiceヘレン・クレイグ・マックロウ
興味深いのは「滲み入る」という言葉 "penetrate" という言葉が使われていることです。
"penetrate" には「貫通する、突き抜ける」という意味と同時に「染み込む、浸透する」という柔らかな意味も含まれています。「貫通する」という意味しか知らなければ静かにフェードアウトする鳴き声のイメージを想像できませんが、「染み込む」という意味を知ることできちんと訳されていることがわかります。
その②
次の芭蕉の俳句の英訳はおかしいと聞きました。どこがちがうのでしょうか?
“How silent’ The cicada’s voice soaks into the rock.
蝉が鳴きやんだ瞬間の静かさではなく、蝉が鳴いている時の静かさ、というのが一般的ではないでしょうか。この句は人里離れた閑静な山寺、立石寺で読まれています。
「古池や 蛙飛び込む水の音」もそうですが、音がある故に認識される静かさを歌ったものと私は解釈しています。
「蝉の声」ですが、英語では、buzzing,droning,chirring 等が、虫の羽音になりますが、情緒に欠けます。ただ、Voice だと、口から発生される音、歌声、意見という意味なので、それはそれで、何となく句からそれるように思います。ここは、Sound ぐらいでいいのではないでしょうか。ちなみに、蝉は、複数いたの思うので、 Sound of cicadas といった感じ。
俳句の英語訳は、結構、5・7・5で取り組まれているようです。そうした意味でも、この訳は、秀作とは言えないでしょう。
蛇足ですが、初めの、How silent も、「閑さや」という風情よりも、「うわぁ、静かだねぇ。」と抑揚のある感動っぽくて、私は頂けないです。