minority resistance

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人権と経済

2011年10月04日 | そのた
人類の、少なくとも先進国では概ね基本的人権が認められているようだ。この「人権」を律儀に守ると必ず
「最低限の生活保証」というものが必要となってくる。なぜなら最低限の生活保証ができないとなると基本的
人権が守られなくなり矛盾が生じるからだ。

「最低限の生活」をどこで線引きするかはいろんな解釈が出てくるだろうが、日本では「最低限文化的な生活」
と規定されている。衣食住に加えて「文化的」であることも保証されるようだ。実際はどうかしらないが。
また「最低限文化的」というのもいろんな解釈ができるが、まあ図書館が利用できてテレビが見られる程度
なのではないかと推測できる。

さて、これら「最低限の生活保証」というのが法治国家であり先進国であり民主主義国である矜持となっている
ようだが、これに矛盾する経済システムが「資本主義」だ。資本主義が完全に弱肉強食だとは思わないし、
幅のあるものだと理解しているが、基本的には弱肉強食そのものが資本主義経済の基本である以上、論理的には
矛盾するものだ。一方、矛盾しない経済システムに「共産主義」がある。

このように考えると、「最低限の生活保証」を行う「基本的人権」を認める国が「資本主義」であること自体に
矛盾があり、その矛盾を抱える国がある時期に「共産主義」に移行するのは当然の話であり、マルクスの
言うとおり「共産主義は資本主義の熟成の先にあるもの」という理論が正しいような気がする。いわば資本主義
は共産主義を達成する地盤作りの為にある過渡期のようなものだ。


で、現在アメリカで起こっている市民デモだが、国民皆保険制度にすら「自由」を標榜して反対する国民が
貧富の差に文句を言ってるわけだ。元々ユダヤ人が開発した「他人の財産を勝手に運用して利ザヤを儲ける」
というシステムの権化である「自由の国アメリカ」が自己矛盾に行き当った歴史的転換点だ。これはアメリカ
が一番最初に「資本主義の熟成」に達したという事ではないのか。金融のあらゆる手口を行使して儲け、そして
その限界点に至ったわけだ。アメリカに残された課題は、「どうやって自由と共産主義を両立させるか」という
前人未到のフロンティアの開拓だ。失敗すればソビエトの二の舞が待っている。

一方日本では「自由主義」の一員でありながら「社会主義」の要素が強いという国の歩みを辿ってきた。日本は
ことごとくアメリカを追従してきたようにも取れるが、実際はこの点でアメリカを社会構造が根本から違って
いたわけだ。「自由主義の上での資本主義」と「社会主義の上での資本主義」では、以前は自由主義の方が
うまくいっていたのだが、近年では社会主義の方がうまく行っている。これは資本主義の熟成によって日米とも
「基本的人権」も同時に熟成した結果、最低限の文化的生活を守るために「共産主義化」してきたので、
より共産主義に親和性の高い「社会主義」のシステムが有利に働いているということではないかと考えられる。
現在の日本一人勝ち(一人負けという見方もできるが)の円高傾向も、この点を各国が評価した結果とも
説明できる。


上記を一言で表すなら「際限ない自由は我慢するのが賢い」という言葉で要約できそうだ。エネルギー問題、
環境問題も然り。資源が有限なら自由も有限という事だ。エコだ節電だ省エネだというのなら、自由も節約
したりリサイクルしたり新しい自由源の開発をしなければならない。そこに最初に気がつくのは、やはり
資本主義と個人主義と自由主義の大三元をテンパイし、湯水のようにエネルギーをツモりまくったアメリカだ
ということだろう。まあ当たりが来ればアガれるのだが、来なければそれまでだ。

元々「経済それ自体」は大事なことではない。目的と手段の価値が入れ替わって、世界中が勘違いして追い求めた
手段が資本主義であり、もっと大事なものは「目的」だった筈だ。では人類に共通する価値の「目的」とは
なんだったのか。


それを皆で考えるという「余裕」は、手段に翻弄されている間は見えないものだ。そしてそれはテクノロジー
の開発が進まないと見えてこない「文化」の先にあり、それが見えている国は日米の二国しかなく、より
「手段」に翻弄されてない国である「日本」で見えやすいものだ。

「日本」に特有であり、近年世界から注目されている「文化」といえば「アレ」なのだが、その「アレ」の
どの一面や部分が「目的」なのかは、まだほとんどの人が気がついてない。気がつくと「ああそういうことか」
という程度の事なのだが、なかなか「アレ」を理解するのは難しく容易い事ではない。

皆さんも「アレ」の「ドコ」が「目的」なのか、考えてみてはいかがだろうか。とりあえず秋から始まる新番組
でも見ながら。