今日は、「経験」について考えてみた。
客観的事実としての出来事は確かに存在する。しかしそれを体験した当事者の立場や思考、つまりは主観によって意味が「変換」されることはよく指摘される。
少し角度は違うが例えばいわゆる「歴史認識」。特に東アジア諸国とわが国のそれとには隔たりがあるのだが、本来事実はひとつだ。
個人レベルでもいわば過去の事実について書き換えがある。
小学生のとき私が経験した授業の一コマを同窓会で話題にしたとき、同級生は誰も覚えていなかったということがあった。
その経験とは、冬の晴れた日に雪が風に舞う中、先生が黒板に「風花(かざばな)」と書かれたことだ。
自分にとっては大きな経験であった。日本語の美しさにただ驚き、その後の興味・関心に影響を受けた。
さてしかし、この「経験」をしたのはクラスメイトの中で私だけのようだった。それでも私は確かに恩師の板書に感動したのだ。
当時のクラスメイト全員があの授業を、あの雪の舞い散る景色を「体験」した。けれどもそれに感動し「経験」として語るのは今のところ私だけだ。
反対に、かくいう私自身も忘れている小学生時代のエピソードがあった。
思えばこのようなことは日常にたくさん転がっている。
「体験」と「経験」。
このような角度から見ても、人の心理はほんとうに面白い。
キャリアカウンセリングとは、この「経験」を紡ぎ意味づけする過程なのかもしれない。とてつもないワクワクを感じる。
客観的事実としての出来事は確かに存在する。しかしそれを体験した当事者の立場や思考、つまりは主観によって意味が「変換」されることはよく指摘される。
少し角度は違うが例えばいわゆる「歴史認識」。特に東アジア諸国とわが国のそれとには隔たりがあるのだが、本来事実はひとつだ。
個人レベルでもいわば過去の事実について書き換えがある。
小学生のとき私が経験した授業の一コマを同窓会で話題にしたとき、同級生は誰も覚えていなかったということがあった。
その経験とは、冬の晴れた日に雪が風に舞う中、先生が黒板に「風花(かざばな)」と書かれたことだ。
自分にとっては大きな経験であった。日本語の美しさにただ驚き、その後の興味・関心に影響を受けた。
さてしかし、この「経験」をしたのはクラスメイトの中で私だけのようだった。それでも私は確かに恩師の板書に感動したのだ。
当時のクラスメイト全員があの授業を、あの雪の舞い散る景色を「体験」した。けれどもそれに感動し「経験」として語るのは今のところ私だけだ。
反対に、かくいう私自身も忘れている小学生時代のエピソードがあった。
思えばこのようなことは日常にたくさん転がっている。
「体験」と「経験」。
このような角度から見ても、人の心理はほんとうに面白い。
キャリアカウンセリングとは、この「経験」を紡ぎ意味づけする過程なのかもしれない。とてつもないワクワクを感じる。
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