
高遠藩内藤家、庭園あと(新宿御苑・玉藻池)
【1635年(寛永12年)】
家康が徳川幕府を開いて約30年の歳月が流れたころ、幕府と江戸の町は、新しい展開を見せ始めた。そのひとつが、参勤交代による江戸市中での武士階級の増加。しかも、江戸城の修復と大名屋敷や町家の建設、それらの生活を支えるための職人や商人が江戸に集まっており、人口増加に拍車がかかったわけである。で、食糧不足、新鮮な野菜が足りないのである。参勤交代時、大きな藩では5000~6000人の家臣が江戸屋敷に居住しており、ことは深刻? その当時、大名たちは1年おきに国許と江戸を往復していたが、江戸屋敷内に、前栽畑(せんざいばた)と呼ばれる菜園をつくり、地元から持ち込んだ野菜の栽培を行うようになったといわれる。さらに大名屋敷で栽培されていた野菜のうちの一部は、やがて近郊の農村でも作られ始めたのである。たとえば、高遠藩内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)で栽培されていた内藤トウガラシ(八房=やつぶさ)や、内藤(淀橋)カボチャ。あるいは築地・廻船問屋の山路治郎兵衛が、薩摩藩の江戸屋敷で栽培されていた孟宗筍を入手し、戸越の農民たちに栽培を奨励、特産品となった戸越の孟宗筍(品川区指定文化財史跡、資料)等があげられる。こういった大名屋敷での野菜栽培は、明暦3年(1657年)の大火以降、一段と活発になったといわれている。
家康が江戸に入府してから明暦の大火までの約70年の間に、140件もの火事が江戸に発生し、その発生元の60%以上は武家屋敷とされる(内閣府防災情報、1657明暦の江戸大火)。そこで、江戸市街地の60%が焼失した明暦の大火(振袖火事)の直後に、防火に重点をおいた江戸の都市改造が行われ、大名屋敷の江戸城周縁部移転と複数化(上・中・下)が実施されたと想定される。用途ごとの分散化である。また江戸の火事の件数は当時の3大都市である京都、大阪と比較して圧倒的に多く、江戸固有の気候が理由と考えられている。第1は、冬から春にかけての強い北風と、雨の少ない気候。第2に、春と秋に吹く強い南風。風と乾いた空気が原因なのである。いずれにしろ、藩主が住む本邸である上屋敷、隠居した藩主や嗣子の住居用の中屋敷、そして火事や災害時の避難場所、別邸、菜園、蔵屋敷として使用される下屋敷がつくられたのである。下屋敷はたいてい江戸郊外に下賜されたため、面積が広く、広大な庭園や菜園が、つくられたようである。ちなみに寛文10年(1670年)以来、約3万8千坪もの敷地を有していた岡山藩池田家の下屋敷では、大根、人参茄子などの蔬菜類、麦・蕎麦といった穀類が栽培され、藩主や家臣に届けられている。また、菜種や飼養も栽培されており、こちらの方は売却されることが多かったようである(「江戸大名下屋敷を考える」、文化2年の岡山藩大崎屋敷。原田佳伸)。ところで、江戸の伝統野菜を語る上で欠かすことのできない、練馬大根。尾張藩から五代将軍の綱吉に献上された宮重(みやしげ)大根が、名主の大木金兵衛により、沢庵用の練馬大根として栽培されたという伝承がある。収穫後の練馬大根をおいしく沢庵用に乾燥させるために、江戸近郊特有の冬の日差しと強いからっ風(北風)が、大いに役立ったといわれる(「江戸・東京ゆかりの野菜と花」JA東京中央会)。つまり、明暦の大火(振袖火事)の原因となった、あの北風が江戸名産の誕生に一役買っていた? 気候風土は、味に出るようである。

内藤トウガラシ(八房とうがらし)
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。