〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

正行寺「とうがらし地蔵」建立。唐辛子を供えるのは、「覚宝院」が自らの坐像を彫って安置した歴史に由来。

2010年04月21日 | 1700年~
         
                        正行寺、とうがらし地蔵
  【1702年(元禄15年)】
  内藤新宿を起点とした街道沿いの「とうがらし地蔵」ではなく、それと同じ時代に建立された「とうがらし地蔵」は他の街道筋でも見ることができる。江戸日本橋から中山道を1里、歴代将軍が東照宮への社参に利用した日光御成道(にっこうおなりみち)との分岐点となっている本郷追分に、正行寺(現・文京区)の「とうがらし地蔵」はある。寺の入口にあたる街道脇には立て札があり、「とうがらし地蔵」についての由来が書かれている。寺に伝わる元文3年(1738年)の文書によると、元禄15年(1702年)に僧の覚宝院(かくほういん)が、人びとの諸願成就を願うとともに咳の病を癒すため、自ら座禅姿の石像を刻み寺に安置したとされる。この座禅姿の覚宝院の石像が「とうがらし地蔵」と呼ばれるのは、「覚宝院」が「とうがらし酒」を好んだことに由来しており、人びとは唐辛子を供え諸願成就を願っていたとされる。覚宝院が「とうがらし酒」をこよなく愛し、また願かけに唐辛子が供え始められた元禄の頃は、数々の農業指導書が書かれた時代であり、唐辛子に関する情報も広く一般的になってきたと推察される。医師の人見必大による「本朝食鑑」や、江戸期の3大農学者のひとりである宮崎安貞が執筆した「農業全書」が出版されたのが元禄10年(1697年)、その数年後には貝原益軒が「菜譜」や「大和本草」の執筆を始めており、すぐれた農業指導書の登場により唐辛子の栽培は盛んになっていったと考えられる。それだけ身近な存在になった唐辛子は、地蔵に供える機会も増えるというものである。武蔵国村明細帳集成(天明8年/1788年)によると、正行寺の「とうがらし地蔵」のある本郷追分から日光御成道を4つ、岩槻宿の手前の大門宿の名産品として唐がらしが挙げられている。そうなると、甲州街道と同じように唐辛子が街道を行き来した? それは、内藤トウガラシ(八つ房)? それとも、日光唐辛子?思いをめぐらすと、話は尽きない。
  ところで覚宝院の座禅像に関しては、江戸中期の地誌として社寺・名所の来歴を記した「江戸砂子」(えどすなご)にひとつの記述が見られるという。曰く、「当寺境内に浅草寺久米平内(くめへいない)のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり」。江戸前期の剣の達人であった久米平内は、多くの人の命を奪った供養のために、自らが禅に打ち込む「仁王座禅」の姿を石に刻ませ、浅草寺に久米平内堂(くめのへいないどう)として祀ったとされる。これと同様の「仁王座禅」の相ということである。それぞれの石像に対する動機は違っても、禅に打ち込む真摯な思いは、平内も覚宝院も共通するものがあったのであろうか。また、正行寺の「とうがらし地蔵」の表情というか、顔つきが、内藤新宿から甲州街道を下った街道沿いに建立された「とうがらし地蔵」の表情と、かなり違いが見られる理由も、この辺にある? 八王子・禅東院の「とうがらし地蔵」、日野の「トンガラシ(ヤンメ)地蔵」、原小宮の「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」、そして正行寺の「とうがらし地蔵」、それぞれの表情には、それぞれの建立背景が秘められているように思われるのである。

              
                         正行寺、地蔵堂


        
                            正行寺


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