【1698年(元禄11年)】
宿場は、東西に9町余り(約1km)。東は四ツ谷大木戸を少し入ったあたりから、西は追分にかけて(新宿通り、四ツ谷4丁目~新宿3丁目付近)、内藤家の下屋敷と、旗本屋敷の一部を割いて開設。内藤家が返上した新しい宿場であることから、「内藤新宿」と名付けられたようでもある。宿場開設の理由としては、街道の起点である日本橋と、それまでの最初の宿場であった高井戸宿まで四里八丁(約17km)と長丁場であり、人馬ともに難渋したからといわれているが、詳細は不明である。 しかも当時は、葦や萱の生い茂る荒地であった場所がなぜ候補にされたのか、これも謎といわれている。また、宿場開設を申し出た江戸浅草の名主、喜兵衛(のちの高松喜六)と同士の町人たちは宿場の開設後ここに移り住み、高松喜六が代々名主をつとめる等、町政に貢献したのである(新編武蔵風土記稿、 太宗寺資料)。ところが、こうして開設されたにもかかわらず、僅か20年にして利用客の少ないことや風紀上の理由により廃駅となったり、安永元年の宿場再開後には大繁盛を見せるなど、内藤新宿はドラマチックな歴史を辿ってきた。その点では、江戸の都市化の歴史とも、リンクしているのである。甲州街道と脇往還である青梅街道、そして五日市街道の3本の街道で結ばれ、江戸市中と江戸以西(武蔵野~多摩~甲斐~信濃)をつなぐ交通の要所であり、経済・生活文化の中心としても重要な役割を果たしていたからである。江戸近郊の農村は、江戸の都市化と肥大化による野菜・穀物需要に応えるための農作物の供給や、江戸稼ぎによる現金収入を手にするために、いわゆる物流ターミナルとなっていた内藤新宿へ、足を運んでいたのである。また内藤新宿の都市化に伴って、内藤家下屋敷と内藤新宿周辺で栽培されていた「内藤トウガラシ」の生産地は徐々に街道を下って、近郊農村に広がって行ったといわれている(大竹道茂著「江戸東京野菜 物語編」農山漁村文化協会 2009年)。そうなると、街道を下って江戸近郊農村で生産された「内藤トウガラシ」は、街道を上って内藤新宿の問屋へ運ばれていた?
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。