【1638(寛永15)~1645(正保2)】
唐辛子の伝来時期には天文年間説、文禄・慶長の役説、そして慶長10年説の3つがあり、場所としては九州説と京都説の2つが有力といわれている。この時代、つまり鉄砲伝来から鎖国までの100年間は南蛮船の渡来が活発化していたうえ、朝鮮半島との交流も盛んだっただけに、ひとつの説に絞りがたいものがある。それにしても、伝来後はどのように伝播、つまり日本国内に広がって行ったのだろうか。寛永15年(1638)成立、正保2年(1645)刊の、一冊の書物がある。 江戸初期の俳人、松江重頼が手がけた俳諧作法書、「毛吹草」(けふきぐさ)である。 俳諧に使う言葉や資料が豊富に集められ、当時の外来新野菜についての記述が見られるのが特徴である。
さらに日本全国の名産品が国別に紹介されている点が、資料として貴重な存在である。この「毛吹草」の巻第四に、畿内・山城の古今名物として、唐菘(タウガラシ=トウガラシ)が挙げられている(松江重頼著・竹内若校訂。「毛吹草」岩波書店1976年)。この「毛吹草」が、編集・出版された寛永から正保に名産品とされていたことから逆算すると、唐辛子の日本伝来後、いち早く京都・伏見(畿内・山城)周辺で栽培が始まっていたと、推測されるのである(九州もしくは京都に伝来した唐辛子が、京都・伏見、つまり畿内・山城で栽培された)。
また江戸前期の歴史家、黒川道祐が編纂した山城国の地誌、「擁州府志」(ようしゅうふし)に、唐辛子が擁州(山城国)の稲荷付近で古くから作られる、とある(貞享元年、1684年)。これも、伏見系唐辛子のことと推察されるが、さらに元禄10年(1697年)、医師の人見必大が出版した「本朝食鑑」には、唐辛子の伝播についての貴重な記述が見られる。「生えやすい性質なので、家圃・田園に多く種える。
我が国で番椒を使うようになってから百年に過ぎない。煙草と相前後して、いずれも蕃人によって伝種され、海西(さいこく)から移栽し、今は全国にある・・・・・」(人見必大著・島田勇雄訳注。「本朝食鑑」、東洋文庫 昭和52年)。人見必大は江戸を拠点に活動し、30年以上の歳月を費やして完成させたわけであるが、元禄10年から100年前というと慶長年間あたり。「海西(さいこく)から移栽し・・・・」ということは、九州もしくは京都から江戸方面への伝播を想像させられるのである。それにしても、江戸名産「内藤蕃椒(とうがらし)」と、畿内・山城の古今名物「唐菘(トウガラシ)」。歴史を遡っていくと、唐辛子は、未知のドラマの連続である。
伏見甘長唐辛子
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。