goo blog サービス終了のお知らせ 

〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

人見必大、「本朝食鑑」出版。番椒(とうがらし)の効能、食べ方、種え方が語られた、歴史的食物事典?

2010年05月17日 | 1600年~
              
                     幻の内藤番椒(とうがらし)

  【1697年(元禄10年)】
  「本朝食鑑」の書き出し(凡例)は、次のようである。「この書の大意は、民の日常生活に用いる食物の好悪について弁別するものである」。幕府侍医を父に持ち、自らも医者である著者の人見必大(ひとみひつだい)の意図は、一般庶民が口にする食べ物について医学的見地から、その良し悪しを記述することにあったといわれる。当時、わが国の本草学(植物や鉱物を中心とする中国の薬物学)に多大な影響を及ぼしていた「本草綱目」(明の李時珍が執筆)の記述手法や分類を参考に、対象とした食べ物に対して自ら吟味し実験的検討を行った、実証的な食物事典である。項目的には、「釈明」といわれる名称・学名、「集解(しゅうげ)」とよばれる博物的記述をはじめ、ごく日常的な食べ物ごとに詳細な記述がなされている。その中で、「味菓類5種」の一品として、山椒(さんしょ)、胡椒(こしょう)に続いて、番椒(とうがらし)が挙げられている。つまり、人見必大(ひとみひつだい)の時代観察からすると、この辺の食材は、元禄の頃には一般庶民の食卓に日常的に上っていたと推測され、トウガラシについても同様と思われるのである。
  執筆に30年以上もの歳月を費やした人見必大のライフワークとされる、「本朝食鑑」(ほんちょうしょっかん)。漢文体で書かれた、この「本朝食鑑」の読み下し本(島田勇雄訳注、東洋文庫・株式会社平凡社、昭和52年発行、「本朝食鑑2」)に目を通すと、当時の番椒(とうがらし)の状況を彷彿させる記述(トウガラシの歴史、国内伝播、順応性、味覚、栽培状況など)が見られるのである。以下要点であるが、「味は甚だ辣く(からく)、気も甚だ烈しい。青い時でも、香辣で、食べられる。紅いのは、採って乾して使う。・・・莢(さや)の中に小さな白い子があり、2月にこれを種(う)えるが、生えやすい性質なので、家圃(かほ)、田園に多く種える。我が国で番椒(とうがらし)を使うようになってから、百年に過ぎない。煙草と相先後して、いずれも番人によって伝種され、海西(さいこく)から移栽し、今は全国にある」。
 生活拠点の江戸から時代の流れを見つめ、執筆を続けていた人見必大が記した、「生えやすい性質」、「百年」、「番人によって伝種」、「海西から移栽」あたりは、トウガラシの日本伝来・伝播を考える上で興味が尽きないものがある。またトウガラシに関して、食のあり方に加え、漢方薬としての健胃剤の薬効、消化不良、下痢、発熱悪寒、肺炎、あるいは鞋履傷瘡(ぞうりくつずれ)、筋肉痛・神経痛等への処方などが、本草学と医学の側面からその好悪が詳解されている。ところで、内藤トウガラシをはじめとする唐辛子の品種と特徴は? 食物事典の視点のため、「本朝食鑑」での言及はないが、同じ元禄10年に刊行された宮崎安貞の「農業全書」には、「天に向かうあり、大あり、少あり、長き、短き、丸き、角なるあり、其品さまざま、おほし・・・」と、その多品種に分化したトウガラシが語られている。ただ「八房とうがらし」などの名称までは不明。それでは、「内藤蕃椒(とうがらし)の存在は、幻だった?」 時を経て、文化・文政年間以降、「新編武蔵国風土記稿」、「武江産物志」、「守貞漫稿」それぞれに、江戸名産としての「内藤蕃椒(とうがらし)」をとり上げている。ドラマもあれば、謎もある。江戸の昔の長きに渡り、内藤蕃椒(とうがらし)が内藤新宿あたり(新宿御苑周辺)を、真っ赤に染めていたのである。


         
                    内藤とうがらしと花園神社の銘板



 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。






 




 

参勤交代によって始まった、大名屋敷の野菜栽培。江戸野菜の歴史と伝統は、ここから始まった?

2010年05月06日 | 1600年~
              
                高遠藩内藤家、庭園あと(新宿御苑・玉藻池)

  【1635年(寛永12年)】
  家康が徳川幕府を開いて約30年の歳月が流れたころ、幕府と江戸の町は、新しい展開を見せ始めた。そのひとつが、参勤交代による江戸市中での武士階級の増加。しかも、江戸城の修復と大名屋敷や町家の建設、それらの生活を支えるための職人や商人が江戸に集まっており、人口増加に拍車がかかったわけである。で、食糧不足、新鮮な野菜が足りないのである。参勤交代時、大きな藩では5000~6000人の家臣が江戸屋敷に居住しており、ことは深刻? その当時、大名たちは1年おきに国許と江戸を往復していたが、江戸屋敷内に、前栽畑(せんざいばた)と呼ばれる菜園をつくり、地元から持ち込んだ野菜の栽培を行うようになったといわれる。さらに大名屋敷で栽培されていた野菜のうちの一部は、やがて近郊の農村でも作られ始めたのである。たとえば、高遠藩内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)で栽培されていた内藤トウガラシ(八房=やつぶさ)や、内藤(淀橋)カボチャ。あるいは築地・廻船問屋の山路治郎兵衛が、薩摩藩の江戸屋敷で栽培されていた孟宗筍を入手し、戸越の農民たちに栽培を奨励、特産品となった戸越の孟宗筍(品川区指定文化財史跡、資料)等があげられる。こういった大名屋敷での野菜栽培は、明暦3年(1657年)の大火以降、一段と活発になったといわれている。
  家康が江戸に入府してから明暦の大火までの約70年の間に、140件もの火事が江戸に発生し、その発生元の60%以上は武家屋敷とされる(内閣府防災情報、1657明暦の江戸大火)。そこで、江戸市街地の60%が焼失した明暦の大火(振袖火事)の直後に、防火に重点をおいた江戸の都市改造が行われ、大名屋敷の江戸城周縁部移転と複数化(上・中・下)が実施されたと想定される。用途ごとの分散化である。また江戸の火事の件数は当時の3大都市である京都、大阪と比較して圧倒的に多く、江戸固有の気候が理由と考えられている。第1は、冬から春にかけての強い北風と、雨の少ない気候。第2に、春と秋に吹く強い南風。風と乾いた空気が原因なのである。いずれにしろ、藩主が住む本邸である上屋敷、隠居した藩主や嗣子の住居用の中屋敷、そして火事や災害時の避難場所、別邸、菜園、蔵屋敷として使用される下屋敷がつくられたのである。下屋敷はたいてい江戸郊外に下賜されたため、面積が広く、広大な庭園や菜園が、つくられたようである。ちなみに寛文10年(1670年)以来、約3万8千坪もの敷地を有していた岡山藩池田家の下屋敷では、大根、人参茄子などの蔬菜類、麦・蕎麦といった穀類が栽培され、藩主や家臣に届けられている。また、菜種や飼養も栽培されており、こちらの方は売却されることが多かったようである(「江戸大名下屋敷を考える」、文化2年の岡山藩大崎屋敷。原田佳伸)。ところで、江戸の伝統野菜を語る上で欠かすことのできない、練馬大根。尾張藩から五代将軍の綱吉に献上された宮重(みやしげ)大根が、名主の大木金兵衛により、沢庵用の練馬大根として栽培されたという伝承がある。収穫後の練馬大根をおいしく沢庵用に乾燥させるために、江戸近郊特有の冬の日差しと強いからっ風(北風)が、大いに役立ったといわれる(「江戸・東京ゆかりの野菜と花」JA東京中央会)。つまり、明暦の大火(振袖火事)の原因となった、あの北風が江戸名産の誕生に一役買っていた? 気候風土は、味に出るようである。

  
              
                     内藤トウガラシ(八房とうがらし)
  


 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。




 



 

宿場開設、幕府の許諾。「内藤新宿」誕生へ。その存在は、「内藤トウガラシ」の歴史に貢献?

2010年04月09日 | 1600年~
   

  【1698年(元禄11年)】
  宿場は、東西に9町余り(約1km)。東は四ツ谷大木戸を少し入ったあたりから、西は追分にかけて(新宿通り、四ツ谷4丁目~新宿3丁目付近)、内藤家の下屋敷と、旗本屋敷の一部を割いて開設。内藤家が返上した新しい宿場であることから、「内藤新宿」と名付けられたようでもある。宿場開設の理由としては、街道の起点である日本橋と、それまでの最初の宿場であった高井戸宿まで四里八丁(約17km)と長丁場であり、人馬ともに難渋したからといわれているが、詳細は不明である。 しかも当時は、葦や萱の生い茂る荒地であった場所がなぜ候補にされたのか、これも謎といわれている。また、宿場開設を申し出た江戸浅草の名主、喜兵衛(のちの高松喜六)と同士の町人たちは宿場の開設後ここに移り住み、高松喜六が代々名主をつとめる等、町政に貢献したのである(新編武蔵風土記稿、 太宗寺資料)。ところが、こうして開設されたにもかかわらず、僅か20年にして利用客の少ないことや風紀上の理由により廃駅となったり、安永元年の宿場再開後には大繁盛を見せるなど、内藤新宿はドラマチックな歴史を辿ってきた。その点では、江戸の都市化の歴史とも、リンクしているのである。甲州街道と脇往還である青梅街道、そして五日市街道の3本の街道で結ばれ、江戸市中と江戸以西(武蔵野~多摩~甲斐~信濃)をつなぐ交通の要所であり、経済・生活文化の中心としても重要な役割を果たしていたからである。江戸近郊の農村は、江戸の都市化と肥大化による野菜・穀物需要に応えるための農作物の供給や、江戸稼ぎによる現金収入を手にするために、いわゆる物流ターミナルとなっていた内藤新宿へ、足を運んでいたのである。また内藤新宿の都市化に伴って、内藤家下屋敷と内藤新宿周辺で栽培されていた「内藤トウガラシ」の生産地は徐々に街道を下って、近郊農村に広がって行ったといわれている(大竹道茂著「江戸東京野菜 物語編」農山漁村文化協会 2009年)。そうなると、街道を下って江戸近郊農村で生産された「内藤トウガラシ」は、街道を上って内藤新宿の問屋へ運ばれていた?

   


 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。






 




 

唐辛子の日本伝来から伝播。歴史を追うと、畿内・山城(伏見)あたりも早かった?

2010年04月07日 | 1600年~
   

  【1638(寛永15)~1645(正保2)】
 唐辛子の伝来時期には天文年間説、文禄・慶長の役説、そして慶長10年説の3つがあり、場所としては九州説と京都説の2つが有力といわれている。この時代、つまり鉄砲伝来から鎖国までの100年間は南蛮船の渡来が活発化していたうえ、朝鮮半島との交流も盛んだっただけに、ひとつの説に絞りがたいものがある。それにしても、伝来後はどのように伝播、つまり日本国内に広がって行ったのだろうか。寛永15年(1638)成立、正保2年(1645)刊の、一冊の書物がある。 江戸初期の俳人、松江重頼が手がけた俳諧作法書、「毛吹草」(けふきぐさ)である。 俳諧に使う言葉や資料が豊富に集められ、当時の外来新野菜についての記述が見られるのが特徴である。
 さらに日本全国の名産品が国別に紹介されている点が、資料として貴重な存在である。この「毛吹草」の巻第四に、畿内・山城の古今名物として、唐菘(タウガラシ=トウガラシ)が挙げられている(松江重頼著・竹内若校訂。「毛吹草」岩波書店1976年)。この「毛吹草」が、編集・出版された寛永から正保に名産品とされていたことから逆算すると、唐辛子の日本伝来後、いち早く京都・伏見(畿内・山城)周辺で栽培が始まっていたと、推測されるのである(九州もしくは京都に伝来した唐辛子が、京都・伏見、つまり畿内・山城で栽培された)。
  また江戸前期の歴史家、黒川道祐が編纂した山城国の地誌、「擁州府志」(ようしゅうふし)に、唐辛子が擁州(山城国)の稲荷付近で古くから作られる、とある(貞享元年、1684年)。これも、伏見系唐辛子のことと推察されるが、さらに元禄10年(1697年)、医師の人見必大が出版した「本朝食鑑」には、唐辛子の伝播についての貴重な記述が見られる。「生えやすい性質なので、家圃・田園に多く種える。
 我が国で番椒を使うようになってから百年に過ぎない。煙草と相前後して、いずれも蕃人によって伝種され、海西(さいこく)から移栽し、今は全国にある・・・・・」(人見必大著・島田勇雄訳注。「本朝食鑑」、東洋文庫 昭和52年)。人見必大は江戸を拠点に活動し、30年以上の歳月を費やして完成させたわけであるが、元禄10年から100年前というと慶長年間あたり。「海西(さいこく)から移栽し・・・・」ということは、九州もしくは京都から江戸方面への伝播を想像させられるのである。それにしても、江戸名産「内藤蕃椒(とうがらし)」と、畿内・山城の古今名物「唐菘(トウガラシ)」。歴史を遡っていくと、唐辛子は、未知のドラマの連続である。 

               伏見甘長唐辛子
               


 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。






  
 
 

八王子・禅東院、「とうがらし地蔵」建立(八日市宿開運地蔵尊)。甲州街道、八房とうがらし伝説。

2010年03月23日 | 1600年~
               

  【1671年(寛文11年)】
  甲州街道第6宿、日本橋から12里(約45km)の地に、甲州街道最大の宿場として栄えた八王子十五宿がある。その中心は「横山宿」と「八日市宿」の両宿で、街道沿いに本陣2軒と4軒の脇本陣が置かれていた。さらに、ここは幕府の西の守り、「八王子千人同心」の本拠地でもあり、横山宿は4の日、八日市宿は8の日に市が開かれるなど賑わいを見せていたという。この八日市宿に隣接する本宿に、応永7年(1400)の開創といわれる、禅東院がある。幕府編纂の地誌、新編武蔵国風土記稿によれば、「本宿は、元横山村の内なり。古く開けたる地なることは、横山村の條にも記せり。南は八日市なり、禅東院、宿の南にあり・・・」と。禅東院の「とうがらし地蔵」(八日市宿開運地蔵尊)が建立された当時、本宿は藪が多く作物が育ちにくかったが、周辺の農家で唐辛子が多く作られていたと言われる。住職によると唐辛子に関する伝承があり、江戸時代の飢饉の際に内藤新宿の「八つ房」という問屋に唐辛子を卸し、この地の人びとがたいへん救われたそうである。それにしても、「問屋の屋号と唐辛子の品種名が同じ八つ房」。江戸名産といわれた内藤トウガラシと同じ、八房(ヤツブサ)であろうか。その問屋のあった内藤新宿までは、片道10里である。この地の唐辛子が馬や大八車に乗せられ、内藤新宿と結ばれたわけで、甲州街道がドラマの舞台となったのである。その後、人びとは開運、子育て祈願、商売繁盛など、祈願のたびに地蔵に唐辛子を供え、やがて「とうがらし地蔵」と呼ばれるようになったと言われている。ところで、話題は現代に。明治30年の八王子大火による伽藍の消失、昭和20年の八王子大空襲を乗り越え、最近では数年前から復活した、10月24日の禅東院・「とうがらし地蔵祭り」や、8月24日の「地蔵盆」。江戸の昔の「とうがらし地蔵」に想いを寄せて、「八房(ヤツブサ)とうがらし」を供えてみたいものである。

                  

           

 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。