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TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 52

2014年12月29日 | 旅行
 ある日、アンタナナリブの日本大使館を訪ねた時、何人かの職員が慌ただしく出て行くのに遭遇した。これから空港に衆議院議員を迎えに行くのだそうだ。名前を伺ったが、聞いた事もない議員だった。マダガスカルは大変な親日国であるのに、日本政府はマダガスカルをそれほど重要な国とは見做していないようだ。それなのに、今回ばかりではなく、議員先生がよく訪れるらしい。どのような用件でお出でになるのかは知らぬが、観光であるなら非常に息抜きが出来る国である。国会議員と云うだけで大使館の職員に出迎えをさせたり、自分の使用人であるかのように扱うのはどうかと思う。職員は本来の業務を放り投げて議員先生のお守りをしなければならない。気の毒な話である。これはマダガスカルに限ったことではない。他の国々に於いても行われている事であるようだ。

 トマシナの道端で遊んでいた子供たちに「ニイハオ」と声をかけられたとマダガスカル編の41で述べた。その編では詳しく書かなかったが、子供たちは私に好意的な態度で「ニイハオ」と云ったのではなかった。私を中国人だと見誤った子供たちは侮蔑の意味を含めて「ニイハオ」と云ったのである。不法滞在の中国人の所業を親から聞いていたのであろう。
 中国人のグループが、マダガスカルで禁止されている地域から貴重な木材を不法に伐採し、中国に密輸している映像を最近に観た。日本近海でサンゴを密漁しているようなものだ。以前にも少し触れたが、1991年の段階で不法に滞在している中国人が約2万人いた。それが1995年には5万人にもなった。外務省の金庫から、未使用のパスポートが大量に盗まれたことから、加速度的に人数が増えたらしい。また、中国政府から公金を横領してマダガスカルに逃げてきたり、公務で出張してきた職員が中国に帰らず、そのままマダガスカルに居座ってしまうケースも増えてきた。マダガスカル人は非常に大人しく、断固とした処置を取れないことは承知している。それでも、私はその呆れるほどの寛容さに腹が立つ。

 選木が早く終り、早めにホテルに帰ってきたことがあった。シャワ-を浴びた後の体を拭いているときにドアーのノックの音がした。開けると見たことのないお嬢さんが立っていた。「あのー、あのー」と云ったきり用件をなかなか切り出さなかった。その時、階段を駆け上がってきたハウス・ボーイが私の所に来た。「すみません、つい油断しまして」と謝った。夜の姫君が出張販売にお出でになったようだ。アンタナナリブのコルベール・ホテルでは入口に門番を置き、この種の侵入者を防いでいるのだが、このような事がたまにあるらしい。
 私のマラリアを「風邪」であると診断した名医が旅行会社のツアーでイタリーに行った際に、二人組の姫君の出張販売に出くわしたそうだ。彼はその姫君たちを自室に入れた。そして姫君が帰った後に金目のものが全て無くなっていたことに気付いた。30万円ほどの現金、金側のローレックスの腕時計にクレジットカード。だが、その時の姫君は非常に良心的で、パスポートは残しておいてくれたと感謝していた。阿呆としか云いようがない。






 良く手入れされたネプチューン・ホテルの庭。その庭の管理責任者とも云うべき物静かなお譲さん。


 庭できれいに咲いた花はレストランを飾る。


 ネプチューン・ホテルのメインレストランのスタッフ。コルベール・ホテルと同様に細やかなサービスをしてくれていた。








 ネプチューン・ホテルの事務スタッフ。コルベール・ホテルと違い、此処の事務スタッフはフロアーマネージャーも含めて殆どがお嬢さんたちであった。このホテルでもかなりお世話になった。


 あの船が、私のパリサンダーを積んだ三井船舶の貨物船であろうか。もし、そうであるなら敬礼をして見送りたかった。




 上の写真の薬草をベド元法務大臣がわざわざコルベール・ホテルに届けて下さった。大変に恐縮すると「ついでですから」と人懐こい笑顔を見せてくれた。「これこそキャンサー(ガン)に効く薬草です」と、過日の思い違いを訂正しながら説明してくれた。頂いたフランスの薬学の機関の説明書は全てフランス語であったので全く読めず、内容も全く理解出来なかった。
 根のある植物は日本に持ち込めない。そのように云うと、「貴方が次回にマダガスカルにお出でになるまでに、これを乾燥させて漢方薬のようにしておきます」とおっしゃって下さった。


 長男の住むフランスにご夫婦で行くことになった。ジルス・ベドが所用で見送りに来れなかったので、私がジルスの次弟のルイス・ベドとアンタナナリブの空港に見送りに来た。


 長男を抱いているルイス・ベド君。手を引いているのが長女。此の時の彼女は元気そうに父親と一緒でご機嫌でいるが、ついこの間まで死ぬか生きるかの境目にいた。母親が不用意に出しっぱなしにしておいたマラリアの治療薬を飲んでしまったのである。マラリアに感染しでいないのに治療薬を飲んでしまったら大変なことになる。読者諸兄諸姉もご記憶ではないだろうか、ある大学教授がタイ旅行の際、予防薬を飲まずに、治療薬を飲んで死亡してしまったことがあった。無知としか云いようがない。ご存じと思うが、バンコク市内にいる分にはマラリアの心配はない。而し、バンコクを離れると、タイにはマラリアの汚染地域は多くある。

 まだまだ書き足りないことが山ほどあるが、「マダガスカル編」をこれで終りたい。最後までお付き合い頂いた読者諸兄諸姉に心から感謝申し上げたい。そして、豊かな地下資源と美しい自然を持ったマダガスカルが誰からも侵されない事を願っている。

 来年、2015年の1月5日には新しく「パプアニューギニア編」を綴りたい。正式な国名はPapua New Guynia(P.N.G.)だが、日本国内の通り名であるパプアニューギニアと呼ばせて頂く。

 皆様、是非とも良いお年をお迎え下さい。そして、またこのブログでお目にかかれれば此の上の幸せはありません。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 51

2014年12月22日 | 旅行
 マダガスカルのアンタナナリブにある大使館の中で、群を抜いて大きいのが中国大使館と崩壊前のソ連大使館である。同じ社会主義国同士と云うこともあり、両国は我が物顔にマダガスカルに君臨しているとの態度を示していた。だが、先にも述べたように、マダガスカルはマルクスを心から信じて社会主義国になったのではない。疲弊しきった経済を立て直すためだけに、第一次のラチラカ大統領が社会主義の形態をとっただけである。共産主義だのマルクスだのをひけらかす人間などマダガスカル国内には居るわけがない。
 私が初めてマダガスカルに行ったのは1991年の10月で、ソ連が崩壊したのはその年の12月25日だった。かなりの重大事件であった筈であったのに、そのことについての話を聞いたことがなかった。ソ連の崩壊後はご存じのようにロシアとなったが、同じ場所に国旗と看板を変えて「ロシア大使館」としてしばらくは存在した。だが、持ち堪えられないのではないかとの風評があった。広大な敷地に高い塀をめぐらした大使館は、塀に沿って車で走ってみたことがあったが、かなりの距離があったように記憶している。中国大使館もこれと同様であった。両国の大使館の存在価値はすごいが、凄いのは建物と敷地の話題ばかりで、両国を褒めるどころか、話題にもされていなかった。ただ、不法滞在の中国人の悪事に頭を痛めていたことは確かである。

 此の両国の大使館に比べたら、日本の大使館などは米粒みたいなものだ。両隣にある民家とさして変わらぬ広さである。ただ、日の丸だけは大きかった。この小さな大使館がモーリシャスやコモロ諸島をも兼轄し、領事館の任務もこなしているそうだ。
 だが、大使の公邸は日本の威信を示せる程の大きさだと聞いている。当然のこと、私は招待されたことは一度もないが、この大使公邸で外交目的のパーティーが開かれるようだ。大使館は「外交」を主目的としているが、領事館は自国民の保護をし、通商関係の援助を行い、日本国へのビザも発給している。マダガスカルに限らず、何処の国の日本領事館からも私は「保護」を受けたこともなく、「通商関係の援助」を受けたこともない。幸いなことに「保護」は特に必要なかったから良かったが、「通商関係の援助」は受けたかった。マダガスカルの大使館では領事館の業務も行っていたので、最新の日本の月刊誌や週刊誌を届けた際に、パリサンダーをはじめとする銘木の分布を調べて頂くようお願いした事があった。「はい、承知しました」と請け合ってくれたが、未だに私の手元に「マダガスカルの銘木の分布状況」は届いていない。マダガスカルの大使館に限らず、そこの職員が行う業務は日本から訪れる政治家のお守りと、大企業に対する手伝いが主な仕事であるとさえ疑ってしまう。


 ジルス・ベドの母親が手作りの料理で我々を待っていてくれた。メイドの手を煩わせず、母親が息子のために作った料理だった。


 どの料理も初めて体験する素朴な味であった。左上の黒っぽい料理は「茶」を料理したものだと説明された。以前にビルマで出された料理にもこのようなものがあった。そのとき「茶の葉を食べるのは世界でビルマ人だけです」と説明を受けたが、マダガスカルの東海岸にこのような料理があることに驚いた。






 上の写真はどれも母親の手作りの料理だが、種類が多く、その上に量も多いのでとても食べきれるものではなかった。


 父親の元法務大臣が丹精込めて作っている薬草畑。


 何か特別な病気に聞く薬草であると聞いたが、メモを取っていなかったので、申し訳ないが忘れてしまった。


 ガンに効くとされる薬草。フランスの薬学に関する機関で効能を保証していると元法務大臣から説明を受けた。


 この写真の植物はトマシナのネプチューン・ホテルの庭にきれいな花を咲かせていた。ジルス・ベドの父親が作っていた薬草と同じなので、その名前を聞いた。「Rosy Periwinkle」だと云われた。「ガンに効くそうだね?」と云うと、そのハウス・メイドのお嬢さんは「そのような話は聞いたことがありません」と不思議そうな顔で云った。気になったので日本に戻ってから英語名を頼りに図鑑で調べてみた。それには「ニチニチソウ」と出ていた。ガンに効くとの記述はなかったが、葉を煎じて飲むと糖尿病に薬効があると出ていた。ベド元法務大臣殿は薬効を誤解していたようだった。




 上の二枚の紫檀の写真は、ベド家の本拠地からトマシナに帰る途中で撮ったものである。東海岸の山中にこのような素晴らしい紫檀があることを知った。


 上の写真もほぼ同じところで撮った黒檀の写真であるが、紫檀と黒檀では比重と心材の色の違いだけで、学術的には同じ属なのでないだろうかと疑いたくなるように似ている。
 読者諸兄諸姉のご参考のために、紫檀は「Dalbargia属のマメ科」(パリサンダーもこれに属する)であり、黒檀は「Diospyros属カキノキ科」である。

 マダガスカル編の49で、フェナリブだけが良質な胡椒の産地のように書いてしまったが、此処で訂正してお詫びをしたい。良質な胡椒は、フェナリブ以外にもマナナラ(フェナリブより北)、トマシナ、アンパシマヌルートラ(トマシナの少し南)でも産出されている。東海岸の北よりの地域全体が主要な生産地である。

 モーリシャスに着き、香港行きのトランジットカウンターに向っているとき、前方から「お兄ちゃーん!」と呼んで駆けてくる二人のお嬢さんが目に入った。香港からモーリシャスに向かう飛行機の前の席に座っていた例のお嬢さんたちだった。「バカ!みっともない呼び方すんな!」と云ってたしなめたが、全く無駄であった。良く考えてみれば、周囲にはその言葉を誰一人理解する人は居なかったのである。だが、どうも照れ臭かった。
 彼女らを特別待合室に招待した。ファースト・クラスやビジネス・クラスの搭乗券を持っていなくても、私の持っている「MK Plus Card」を提示するだけで中に入れる。このカードには私の名前と、東京で二番目に発行された番号が印字されている。また、「MK elite」のタグをスーツケースに付けておくと優先的に荷物が出てくる。今回は空港の外に出るわけではないので、此のタグは意味をなさないが、外に出るときは真っ先にスーツケースが出てくるので非常にありがたかった。

 二人のお嬢さん方は二週間もモーリシャスに滞在していたことになる。このように長く休暇を取れる日本の企業は珍しい。その上かなり経済的に余裕があったのであろう。羨ましい限りである。特別待合室でコーヒーを飲み、クッキーを食べながら、彼女等が如何に楽しく休暇を過ごしたかを聞いていると、香港行の便を待つ時間はあっという間に終わった。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 49

2014年12月08日 | 旅行
 シンガポールで、よく危機を脱したとのメールを各方面から頂いた。前にも書いたと思うが、私は最悪の事態を考えて物事に対処することにしている。そうすると、どのような結果になろうと、私が予測していたことより少しは状態がいいと考え、落ち込むことなく次に当たれる。よく云えば、立ち直りが早いとか打たれ強いと云うことかもしれない。要は能天気なのであろう。
 針が落ちる音にも注意をする半面、「何とかなるさ」と安易に考えてすぐ行動に移すことが多くある。これも、よく云えば決断が速いと云うことなのだろうが、いい加減な面が非常にあると、私自身大いに反省している。

 私の聞き間違えか、マダガスカル側の連絡不足か、当然のこと伐採地から荷が届いているものだと決め込んでアンタナナリブにやって来た。而し、パリサンダーの影も形もなかった。現地では出荷を急いでいるが、サイクロンの影響がマダガスカルの中心地にまで及び、積み込み作業に手間取っているらしい。最初のトラックが到着するまでに二、三日かかる。全てが到着するには一週間以上かかると云われた。ジルス・ベドに「いい機会ですから、これからアフリカ大陸の南アフリカ共和国に行きましょう」と誘われたが、その時の私の態度は「慎重」の面が全てを圧倒した。近い将来、マダガスカルではパリサンダーの入手が手詰まりになる可能性がある。南アには彼の知り合いがおり、パリサンダーに近い樹種が豊富にあるから、必ずいい木が手に入ると云われた。だが、私の知識(「熱帯の有用樹種」から学んだものが殆ど)の中には「南アフリカ共和国」はなかった。或いは私が読み過ごしてしまっただけかもしれないが、ジルス・ベドの云うような記述はなかったように思えた。その結果、行くことを止した。面倒だったのかもしれない。マダガスカルから直行便はなく、アンタナナリブからケニアのナイロビまで行き、そこから何回か乗り継いで南アに行かなければならない。此の面倒さが、いい加減な私を「慎重」な私に変えてしまったのかもしれない。それに、事前に新木場のお得意様たちにサンプルを見せ、買って頂ける約束をしてからでなければ輸入出来ない。新木場は非常に保守的な所である。新しい材には必要以上に慎重になる。今回行かなくとも、次があるさとずぼらを決め込んだ。
 そうかと云って一週間以上もホテルで寝て暮らしても仕方がない。断らずに南アに行くべきだったかと反省した。

 ジルス・ベドがフェナリブに行きませんかとホテルに訪ねてきた。国際港のあるトマシナから真北に向かう海沿いの道を100キロほど行った所にある。アトラスの地図には「フェノアリボ(Fenoarivo)」とローマ字読みに表記されているが、マダガスカルではフェナリブと発音されている。フェナリブは良質な胡椒の産地であると同時に、ベド家の属するベツィミサラカ族の本拠地でもある。フェナリブにもある自宅に彼の両親が滞在しているので、是非にもお連れしたいと云う申し出であった。願ってもないチャンスであった。日本で使われている胡椒の主な産地はインドネシア、マレーシア、それとフィリッピンである。これらの国の品は悪くないが、非常に高い。フェナリブから直接買えれば、高品質な胡椒を日本が現在輸入している価格の半値かそれ以下で買える。胡椒については以前にも書いた。マダガスカル編の5と16をご参照願いたい。
 それに、もう一つフェナリブには用事があった。麻布にあるマダガスカル大使館の商務官に頼まれた件である。日本製のトレッキング・シューズを彼の妹に届けて欲しいと頼まれていたのだ。彼の妹はフェナリブでトレッキングのガイドをやっている。妹にねだられて、本皮の上等なものを無理して買ったらしい。かなりの重さがあったが、何とかスーツケースに入れてきた。




 途中の、川岸にある店では竹の皮に似た草で編んだ様々な生活用品が売られていた。客の多くは笊と云うか、籠と云うか、瓶に似た蓋付きの容器を買っていた。私はソンブレロ風の帽子を買って被ってみたが、強烈な太陽を遮ってくれ、実に快適であった。


 マダガスカルの他の河川と同様に、此処に架かっていた橋も壊れていたままに放置されていた。


 此の、のんびりとした風景は心を慰めてくれる。


 壊れたままの橋の50メートルほどの下流にシャンブー・シャラシャラ(舟じゃない舟、マダガスカル編の19をご参照願いたい)の渡船場があった。


 対岸からシャンブー・シャラシャラは既に着いており、積み込みが始まっていた。香港にいる中国人も含めて、中国人は順番を守らずに先を争、人を押しのけて乗り込もうとする。だが、マダガスカル人は焦らずにゆったりと待つ。


 我々以外にも乗船客は多く、次のシャンブー・シャラシャラまで待たなければならないだろう。


 少しでも多く車を乗せ、人と物資を運ぶ。土台となっているボートの浮力はかなり強いらしく、シャンブー・シャラシャラの上甲板が水に浸かる心配はないようだ。ベテランの「船長」の指示のもと、乗客たちも手伝いながら積み込みを行っていた。




 この白いピックアップトラックも乗せるらしく、場所を整理していた。人間は車と車の空いた隙間に乗り込む。人間優先ではなく、車優先のようだ。


 何とか空間を作り、ピックアップトラックは「船員」の誘導でゆっくりとャンブー・シャラシャラの「上甲板」に進んでいった。


 どうにか全ての整理がついたらしく、いよいよ出航の最終準備を始めたようだ。


 上の看板であるが、恐らく渡船料金と重量制限が書かれているのであろう。詳しく知りたかったのでダガスカル大使館に何度かメールを送って聞いたが、ウンでもスンでもなかった。以前はU嬢と云う非常に優秀で親切なお嬢さんが大使の秘書をやっていた。彼女の後任のご婦人の従業員にマダガスカルについて何かを聞こうとすると、「それには答えられません。業務に差支えます」と云う返事が必ず返ってくる。もう一人の若いお嬢さんは非常に親切であるが、私が電話すると意地の悪い、年かさの従業員の方が出ることが多い。それで、電話をしなくなった。「業務に差支える」と云うが、我々の質問に答えるのも業務の一つであろう。親切な方のお嬢さんは、自分で答えられない件は気軽にマダガスカル人の大使館員にすぐに聞いてくれる。非常にありがたい。
 今回はマダガスカル人の大使館員宛にメールに上の写真を添えて何度か質問したが、一向に質問に答えて貰えていない。本国にいるマダガスカル人は非常に親切で親しみやすい。日本人の従業員が私のメールをマダガスカル人の大使館員に取り次いでいないのか、マダガスカル人の従業員が私のメールを面倒がって無視しているのかは不明である。
 ビルマ大使館のビルマ人はもっとひどい。質問の途中でも、「そんなこと、私は知らない」と電話を切ってしまう。発展途上国の大使館員は、日本人従業員も含めて「特権階級」の一員であるとの考え違いをしているのではないだろうか。特に日本人にビザを発給する大使館には威張りくさっている従業員が多い。その国にとって非常にマイナスである。一言付け加えたいが、特殊な場合を除いてビザを発給する必要のないタイやマレーシア、それにインドネシアなどの大使館は日本人の従業員も含めて、非常に親切である。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 47

2014年11月24日 | 旅行
 前回に途中までだったシンガポールでの詐欺の顛末をご報告したい。

 ダウンタウンで旨そうな中華料理店を探しながらぶらぶら歩いていると、「すみません、今は何時ですか?」と若い男に聞かれた。シンガポールの公用語は一応英語だが、俗にシングリッシュ(シンガポール・イングリッシュ)と云われる独特の表現や発音がある。だが、慣れれば香港やビルマの英語よりはずっと分りやすい。時計を見せると、彼は「日本の方ですね。実は私の妹が看護婦として横浜の病院に行こうとしています。母はそれを心配しています」。私が興味がありそうな顔をしたのか、彼は更に続けた。「宜しかったら、お願い出るのであるなら、日本の事情を母に話して安心させて頂けないでしょうか?」と頼まれた。これから食事をしたかったのだが、30分もあれば全て済むだろうと承知した。彼は喜んでタクシーを止めた。
 タクシーは10分ほどで目的地に着いた。小ぶりな家屋が多く集まる住宅地だった。降りるときにタクシー代を払ったのは私だった。大した金額ではなかったが、私にタクシー代を払わせるのは筋が違うのではないかと疑問を持った。家の中に案内されたが、彼の母親は居なかった。二階から彼の兄だと名乗る男が現れた。「我々の妹の病気が重いのです。脳腫瘍と診断されて弱っています。美人なのに可哀そうです」とコーヒーテーブルの前のソファーに座ると直ぐに云った。話が全く違う。「私はつい最近までラスベガスのカジノでディーラーをやっていたのです。今はシンガポールのカジノで働いています」と云いながら鮮やかな手つきでトランプをいじりだした。「貴方はバカラをやったことがおありですか?」と聞かれた。当然知っている。以前にアメリカ空軍の将校クラブで大儲けをしたことがある。日本の「オイッチョかぶ」に似たゲームである。コツさえ覚えれば、八百長さえされなければ 勝つチャンスは非常に高い。だが私は「知らない、やったこともない」と答えた。半々だった警戒警報が既に100%に変っていた。「お教えしますよ」とルールを教えてくれ、「妹が帰って来るまで、少し遊んでみましょう」と云った。ゲームになると私を勝たせてくれた。必ず私に有利なカードが配られる。相当な業師であった。そして「遊びでやってもいても面白くありません。ブルネイから遊びに来ている人がいます。二人で組んでブルネイ人からお金を巻き上げましょう」と云って、インチキなゲームを仕組む手順を私に説明した。バカラをご存じの方も多いと思うが、「9」が一番強いカードである。自分の引くカードは3枚までだが2枚で止してもいい。2枚のカードの合算が4か5であるならもう 一枚引き、何とか9に近づける。だが、失敗すると、3枚の合算が11や12になってしまうこともある。それは、「1」と「2」に同じである。従って、3枚目に何が来るか非常に重要である。ペテン師のディーラーは私に3枚目に何が来るか、私だけに見せるような方法を取ったり、最初からいいカードを配るようにした。その辺のことは自在に出来るらしい。
 車の停まる音がしてブルネイ人がやって来た。本当にブルネイ人なのか、シンガポール人なのかは定かではなかった。約束通り、最初は私が勝ち、手元にはUSドルで2,000ドル以上(当時のレートで約24万円ほど)が貯まった。詐欺師ディーラーはこれまでになくいいカードを私に配った。相手は「もっと大きくかけて、負けを取り戻したい」と云ってきた。そして、アタッシュケースを開けて私に見せた。およそ3万ドルほど(約360万円)のドル紙幣があった。「自分はこれだけの現金をかけるのだから、貴方も手持ちの現金を見せてくれ」と云ってきた。そして自分のカードをポケットに入れてトイレに行った。その隙に詐欺師ディーラーは「絶対に勝てます。この3万ドルを勝ち取りましょう」と云って、次に私が引くカードをそっと見せてくれた。
 妹が帰ってきて、コーヒーとサンドウィッチを出してくれた。妹は詐欺師ディーラーの云った通り、かなりの美人だった。だが、彼等は兄妹にはとても見えなかった。旨いサンドウィッチではなかったが、空腹を満たしてくれた。「どうします?続きをやりましょうよ」と催促された。ブルネイ人も頃合いを見計らってトイレから戻ってきた。「いいよ、やりたいよ。だけど。俺は出張旅行の途中だ。3万ドルもの現金を持っているわけないだろ」と逃げの姿勢を見せた。すると、「現金がなくてもクレジットカードを持っているでしょ。空港に行けば現金を引き出せます。車で送らせます」。実は、私はこのように云われるのを待っていたのだ。このままではこの家から出て行けない。例え出られても交通手段がない。
「わかった。現金を引き出してくるから待っていてくれ」と云い、席を立とうとした。すると、詐欺師ディーラーは私のカードとブルネイ人のカードを別々の封筒に入れて夫々にサインをさせ、スコッチ・テープ(日本で云うセロテープ)で封をした。「このようにすれば、安心でしょう。私が責任を持ってカードを保管しておきます」と云った。

 私を誘った男とは別の男が運転席で待っていた。「妹」と私は後部座席に乗った。住宅街を抜けてから「看護婦として日本にはいつ行くの?」と聞いてみた。彼女はきょとんとした顔をした。「脳腫瘍だと云うのも嘘なんだろう?」とさらに聞いてみた。彼女は非常にためらいながら、運転している男には聞こえないように「病気でも何でもないわ」と云った。私は掛け金の3万ドルを喉から手が出るほど欲しかったが、旨く逃げ出せたことに安堵した。恐らく、もし私が戻ったら、次に私の引くカードが違っているのだろうと想像した。
 24時間営業の空港の銀行窓口に行ってカードを出した。このカードのキャッシング(クレジットカードによる現金借り入れ)の限度額は50万円である。外国で使うことが多いので、用心のためにそのように設定しておいた。それを承知で「3万ドル」と窓口の行員に向い、また運転手兼用心棒兼見張り役の男に聞こえるように大きな声で云った。カードの番号をコンピューターに打ち込んだ後で「お客様、このカードではそのような額の現金は出せません」とカードを突っ返された。私は再度大きな声で「何かの間違いだろう、無制限の筈だ!」と云った。窓口の行員は呆れたような顔をしていた。私はそれを無視して「男」と「妹」に云った「カードを間違えたらしい、部屋に行って取って来る。必ずここで待っていてくれ。10分ほどで戻ってくる」。そして私は早足で渡り廊下を利用して道路の反対側の空港ホテルに逃げ込んだ。フロントで鍵を受け取るときに「誰から電話があっても、誰が訪ねてきても、たとえ日本の首相でも絶対に取り次ぐな」と云って部屋に行き、シャワーを浴びて寝てしまった。

 次の朝、朝食も取らずにホテルを出て空港の中に入ってしまった。日本への一番機の出る2時間も前の時間だった。出発ロビーに入ってしまえば完全に安全地帯である。ゆったりした気分で美味しい朝食を食べた。

 友人の場合は「息子の留学」、私の場合は「看護婦として日本へ」。そして、「日本の事情を説明して欲しい」と云うのが詐欺への誘い方である。とにかく日本の事情云々の言葉が出たら詐欺だと考えてくれぐれも用心して頂きたい。私の友人は「ご説明したいが、これから人に会うので、時間がなくて申し訳ありません」と丁寧に断って難を逃れた。読者諸兄諸姉は私のように誘い込まれるほど愚かではないと思うが、充分に用心なさることをお勧めしたい。一旦誘われると必ず博打に誘われる。そして大金をだまし取られる。

 博打ではないが、もう一つの詐欺の例をご紹介したい。突如アフリカのナイジェリアから手紙が届く、それには「税金逃れのために、手元に現金を置いておけない。日本円で約2億円の現金を送るから受けて頂きたい。3か月ほど預かって頂ければありがたい。謝礼として2億円の15%をお支払するので、謝礼分と送金手手数量を差引いた額を3か月後にナイジェリアに送金して頂けないか?」。全くの詐欺である。2億円の15%は3千万円である。確かにおいしい話だが、この件を受けると、「送金にかなりの金額がかかる。申し訳ないがその分を少し立て替えて頂けないか」と云ってくる。最初は30万円、次に100万円、300万円と立て替え額が多くなり、そのうちに連絡が途絶える。この種の詐欺にもお気を付け頂きたい。












 上の写真はどれもの豪華なネプチューン・ホテル。このホテルに泊れるのも、森林大臣が発行してくれた「指令書」のお蔭である。外国人である私がマダガスカル・フランでの支払いを認められているからである。円やドルで払う場合の半分以下の金額で泊れた。
 マダガスカル唯一の国際貿易港のあるトマシナ(旧タマタベ、トマシナは「塩辛い水」の意)に来るときは必ずこのホテルを利用する。また、アンタナナリブに帰らずにトマシナの空港からレ・ユニオンを経由して日本に帰ったことも何度かあった。




 上2枚はミラマ・ホテル。此処のレストランは鶏だけではなく、それ以外の料理も非常に旨い。また敷地が広く庭は公園を思わせるほどである。

 ほぼ一年前、ビルマ編の最終回に埼玉県吾野の東郷公園の紅葉の写真をご紹介したが、今年もお見せしたい。先週の火曜日(11月18日)に写真仲間と撮影に行ったときの写真である。














TDY, Temporary Duty マダガスカル編 46

2014年11月13日 | 旅行
 中学の同期で、しばらく付き合いの途絶えていた友人から突然に電話があった。「お前がアメリカの空軍に勤めていたのは知っていた。それがどうして貿易を始めた?どうしてマダガスカルに行っていたんだ?」。どうやら私のブログを最近になって読み始めたらしい。尤もな疑問である。このブログを途中からお読み頂いている読者諸兄諸姉も宜しければ、以下の順序でお読み頂ければ幸甚である。

  TDY ビルマ編 1~8
  TDY ビルマ編 マンダレー 1~5
  TDY マダガスカル編 1~25
  TDY ビルマ番外編 枕木
  TDY ビルマ番外編 密貿易
  TDY ラオス編 1~3
  TDY マダガスカル編 26~46~

 久しぶりのアンタナナリブは非常に清々しかった。アンツォヒヒの森から帰った私にとって、此の涼しさは何にも代えがたい。マダガスカルに住む多くの人たちがアンタナナリブに住みたがる理由を肌で体験した。標高1,200メートルであることがこのような恵みを人々に与えているのだ。


 コルベール・ホテルでは私が一番のお気に入りの3階の314号室を空けて待っていてくれた。ありがたかった。
 いつからだったか記憶は定かではないが、10%引きの料金でこのホテルを利用出来ていた。ところが、ある偶然から15%引きの客がいることが判明した。それをフロント・マネージャーに云うと、「あのお客様は、毎月必ず2週間お泊り下さっています」。私は雨期のマダガスカルにはあまり来ていない。それに、マダガスカルでの滞在日数が多くても、地方に行くことが多いので、その全てをコルベール・ホテルに泊っているわけではなかった。そのことを指摘されると「10%引き」に満足するしかなかった。


 毎朝元気に迎えてくれるビジネス・レストラン「フォーグラ」のスタッフ。


 コルベール・ホテルの事務スタッフが、私の留守の間の外部からの電話やファックスを受けていてくれた。


 私がアンツォヒヒから帰ってきたと知り、ホテルに訪ねてきてくれたM嬢。彼女はC社長が最も信頼していた社員で、中国への留学経験もある(マダガスカル編15をご参照願いたい)。現在でもC社長と密かに連絡を取り合っているので、本名は控えさせて頂いた。


 ジルス・ベド社長の奥さんが新たに開いた雑貨店。ズマ・マーケットのはずれのビルの一階を借りて営業を始めたばかりだった。まだ品揃えが完全ではなく、客足もまばらであった。ズマ・マーケットで売られている台所用品よりはずっと高級品ばかりが店に並んでいた。

 マレーシアのクアラランプール空港で火事があった。嫌になるほど待たされた挙句、モーリシャスからの便がシンガポール行きとなってしまったことがあった。夕方にシンガポール空港に着いたが、その日のうちに出る成田行の便はどれも満席で乗ることが出来なかった。満席でも、交渉の仕方に依れば何とかなると頑張ってみたが、今回は駄目だった。モーリシャスの空港でシンガポールから先は各自の責任で連絡便の予約を取ってくれと云われていた。シンガポール廻りになったのは航空会社の責任ではなく、クアラランプール空港の火事が原因であるため、何が何でもと云うわけにはいかなかった。だが、翌日の朝一番の便の予約を優先的に受けてくれた。空港から連絡通路を歩いて空港ホテルにチェックインした。

 読者諸兄諸姉は充分にご存じだと思うが、念のためにご説明したい。航空機が何らかの事情で遅れ、乗り継ぎ便に間に合わなかった場合、ホテルの宿泊代は航空会社が負担する。だが、乗客が正式に航空会社にホテル代を請求しなければ、支払われることはない。今回の私のケースでは、モーリシャスから出発した後に、クアラランプール空港で火事が起こり、やむを得ずシンガポールに到着したのであるなら、ホテル代は航空会社が払うことになる。而し、搭乗前に事情を説明されて乗ったのであるからホテル代は請求出来ない。ホテル代は自己負担にはなるが、それ以外の便宜は航空会社側で測ってくれる。クアラランプールから成田行のチケットで、シンガポールから乗れるようにしてくれ、翌日の便の予約を最優先で受けてくれたのもその一環である。

 シンガポールの空港ホテルは、豪華ではないが非常に清潔な、感じの良いホテルである。その上に立地が良い。シャワーを浴びてからダウンタウンに食事に行くことにした。久しぶりの本格的な中華料理を楽しみにしながらシャワーを浴びた。この段階では博打に誘い込まれてのっぴきならぬことになるとは夢にも思わなかった。
 この件については次回に詳しくご報告する。私の親しい友人の一人も、マレーシアで流暢な英語を話す上品な夫婦に危うく引っかかるところだった。「自分たちの息子が、日本の大学に留学することになった。息子が心配なので、日本の事情を詳しく教えて頂けないでしょうか?」と云うのが詐欺への引き込みの第一歩だった。現在も同じような手口で博打に引き込む詐欺がシンガポールとマレーシアで横行している。その手口を次回にご紹介したい。








 上4枚の写真はいずれもミラマ・ホテル。このホテルにはマダガスカルで一番旨い鶏肉を食べさせるレストランがある。もも肉のステーキを食べたが、鶏肉がこんなに旨いのかと疑いたくなるような味であった。此のホテルに宿泊をしたことはないが、何度も食事に行った。アンタナナリブからは、トマシナへ向かう少し手前にある。






 上3枚の輪尾キツネザルの写真は先週(11月12日)に上野動物園で撮ったものである。此の日はお昼頃が13度で、午後の3時になってやっと15度ぐらいであった。我々にとってはそれほど寒い日ではなかったが、マダガスカルからやって来た彼等には寒かったのであろう。寒さを防ぐために「猿団子」を作っていた。これを見ると、やはり「猿」なのだと改めて感じた。