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TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 6

2015年02月09日 | 旅行
 清々しい朝を迎えた。昨夜は、夕食を終えるとシャワーも浴びずにベッドに入ってしまった。クリスの話では、一緒に飲まないかと私を誘いに来てくれたが全く返事がなかった。心配になったのでドアーを開けてみたところ、私は前後不覚に寝ていたらしい。従ってリビングルームで島の住人たちと賑やかにやっていたことなど全く知らなかった。
 夜になって灯りがつく家は、発電機を持っているクリステンセン家しかない。近くの住人は誘蛾灯に誘われるように、夜になると集まってくるのだ。これは、この島に滞在中に一日も休むことはなかった。

 クリスはまだ起きていないようだった。バルコニーを通ってトイレに行き、シャワーを浴びた。気持よかった。この家を改装したとき、トンチキな島の大工がトイレ、洗面所と浴室に行く通路を間違えて塞いでしまったため、外からでなければ行けない。トンチキな大工もそうだが、それを直させようともしないクリステンセン夫妻も相当なものだ。

 昨夜云われていた朝食の時間にはだいぶ間があったので、散歩をすることにした。


 我が家から少し上に行くと、起きたばかりの海が見渡せた。


 山側の斜面には島民の集落があった。


 東に向かう道路まで下りてきた。


 脇道があったので、そこを入ってみると島民の住居があった。後日、何軒もの住居を見たが、それらと比較するとかなりの豪邸であった。


 豪邸の脇の道を行ってみた。だが、直ぐに行き止まりのようになっていた。道が残っていたところを見ると、この先にも住居があったのでないだろうか。

 朝食後に、全員で材木置き場に向った。少しでも涼しいうちに、少しでも多くのフリッチの検品を行いたかった。


 現場では担当の作業員が私の検品に必要なフォークリフトに向うところだった。


 
 バインダーに挟んだ私の会社のLog List(マダガスカル編の15をご参照願いたい)を持って検品を始めようとしたら、ローランド・クリステンセンの作業員から彼等のLog Listを手渡された。ローリーは置き場のフリッチの山ごとにリストは作られているので、それを参照してくれと云った。確かにきちんと整理されていた。但し、私の希望しているより全てのフリッチの長さが長い。契約をする前にフリッチの径に依り、3.1メートル、3.6メートル、そして4.1メートルと私の希望する寸法を云ってある。先方のリストにある通りの長さで買うとしたら、日本での販売の際に余分な長さを切り落として売らなければならないので、非常に高いものになってしまう。そのことを云うと、ローリーは「ちゃんと契約通りの寸法で買って頂くように手配してあります」とのことだった。即ち、3.4メートルのものは自動的に3.1メートルに計算して出荷するようにしてある。また、径の大きいものは、半端な長さを切り落とし、それをクリス・ブルックが買うようになっているとのことだ。これなら三者とも損はない。
 彼等のログリストには「S」、「M」、「B」のマークが入っていた。「S」はStripe(縞黒檀)、Marble(班入黒檀)、Black(本黒檀及び青黒檀)の種類の別であるとの説明を受けた。価格は同じだが、木目の文様が違う。日本で一番人気のあるのは縞黒檀である。リストを見ると、70~80%に「S」のマークがついていた。本黒檀と青黒檀はほぼ同じだが、青黒檀は本黒檀の黒を超えた黒と理解して頂きたい。そしてより密度が高い。日本では非常に珍重される黒檀である。班入黒檀は渦巻き模様のビー玉に似ているとお考え頂きたい。日本では殆ど知られていない黒檀である。何れにしろ、全体量からすれば、その割合は少ないので、さして問題にしなかった。或いは大きく儲かるかもしれないと考えた。
 彼等のリストは非常にきちんとして信頼がおけると考えた。而し、鵜呑みには出来ないので、彼等のリストに従って寸法を測ってみた。非常に正確であった。スポットチェック(抜き取り検査)だけで済ませることにした。そうしなければ、膨大な量の黒檀のチェックを決められた時間内で済ますことは非常に難しい。パプアニューギニアに到着してから、かなりの無駄な時間をポートモレスビーとアルタオで過ごしてしまっていた。


 クリステンセン家の山側に面したところに、バルコニーともベランダとも云いようのない、涼み台ようなものがあった。6畳ほどの広さだが、非常に快適であった。昼食後に楽しい話をしながらのんびりと過ごした。


 庭に何本ものヤシの木が植えられている。そのうちの一本に、年かさの少年が登り、我々のためにヤシの実を取ってくれた。こんな高い木に登れるのかと気遣ったが、あっという間に登ってしまった。


 必要な分だけのココナッツの実をもぎ取ると、慎重に下りてきた。登るより、降りるときの方が危険らしい。
 クリステンセン家の海側に面した庭である。前方に見えるのがエイミーから提供された私とクリスの家である。夜になると、この家に島の住人が集まってくる。少ないときでも5人ほど、多いときは10人を超える人たちが来る。賑やかで楽しい。
 我が家の前面に円筒型をした、大きなタンクがご覧頂けると思う。これが雨水を溜めておく貯水タンクだ。屋根から雨水が樋を伝わって此のタンクに貯まるのだが、蓋が完全ではない。覗いてみると、木の葉や虫の死骸が浮いていた。これを飲料水やシャワーに使っているのだが、深く考えないことにした。コップに入った、無色透明な水だけを思い浮かべることにしていた。

 ある日、一番の年かさの少年にココナッツジュースを飲みたいので、よく熟れたココナッツを取ってきてくれと頼んだ。私の手元に届いたのは、小さくて多少しなびたココナッツだった。ジュースは旨かったが、新鮮な感じはしなかった。ココナッツの実は硬くなっていた。年かさの子は自分で行かず、自分の子分に云いつけたらしい。そして次々に下請けに出した。最後の小さな子は木に登れないので、床下にあった古いココナッツを持ってきて私に差し出した。ラムと云う一番の年かさの少年に文句を云おうとしたら、非常にすまなそうな顔をして私を見ていたので、何も云わずにおいた。床下のココナッツで間に合わせた一番小さな子はトトと云う非常に可愛らしい子供だった。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 5

2015年02月02日 | 旅行
 後藤健二さんに心から哀悼の意を表します。それと同時に非道なテロ行為の排除を切に願います。私の仕事場が、非常に穏やかで平和だったことが幸いでしたが、日本の国の外で働く人たちにとっては常に危険がつきまといます。国の利益のために国外で働く人たちの安全を、国がもっと積極的に守って下さるよう、強く要望致します。

 パプアニューギニアには「ブッシュフォン」と云う言葉がある。プッシュ式電話機のプッシュと、藪を意味するブッシュとの造成語である。パプアニューギニア人が作ったのではなく、この国を訪れた外国人(オーストラリア人?)が作った言葉であろう。土地の人間以外が山の入口に入ると、その情報が山の頂上に住んでいる村人まですぐに届くと云われている。何故伝ってしまうのか不思議に思った外国人が「ブッシュフォン」があるのだと想像したのであろう。
 そんなわけで、私とクリス・ブルックがやって来たことは既に島中に伝わってしまっているのだそうだ。それなら「迷子になっても心配ないな」とクリスに云うと、彼はニヤニヤ笑っていた。


 ローランド・クリステンセンの腹の向こうに、フリッチに加工する前の黒檀の丸太があった。かなりの長さがある。




 海辺の近くには黒檀輸送に使う何本ものコンテナーが置かれていた。




 桟橋に向う道端にも、黒檀のフリッチが無造作に置かれていた。この島ではそれほどの価値を持たないかもしれないが、日本に持って行けば目の玉が飛び出るほどの価格になる。こんな場所で、苦手だったケインズの経済理論を想い出すとは思わなかった。


 乱雑に置かれた黒檀の先に形ばかりの、どうにか桟橋と呼べるような場所があった。此の島唯一の港であるとローランド・クリステンセンが説明してくれた。天然の岩を利用して作られた桟橋の近辺は、コンテナーを本船まで運ぶ伝馬船や小型の貨物船の接岸には充分な深さがあるとのことだ。


 昼食を終えた作業員がフリッチの整理を始めた。時計を見るととっくに午後の1時を過ぎていた。

 空腹に耐えかねたように、ローランド・クリステンセンは「お昼にしましょう」と我々を急かせてピックアップトラックに乗せた。


 島の東西を結ぶ幹線道路、真っ直ぐ空港へと繋がる。ローランド・クリステンセン宅はこの先を左に曲がった高台にある。

 ローランド・クリステンセン家の入口で私の足は止まった。体長10センチほどの蛾の死体が5,6匹あった。その奥にも蛾の死骸が何匹も散らかっていた。ミセス・クリステンセンが手伝いに来ている子供たちを叱りつけた。自分の弟たちを叱っているようだった。「アンタたち、きちんと掃除をしないからお客様が入れないじゃないの!」。
 後で聞いた話だが、クリステンセン夫妻は事あるごとに近所の子供を臨時に雇い入れている。自分の子供たちのお守り、その他に今回のように客があった場合には特に人数を増やしている。子供たちに給金を支払うことにより、少しでも地域の経済に貢献しようとのことらしい。「おしん」のように悲惨な使われ方ではなく、見ているとまるでクリステンセン家に遊びに来ているようだ。遊びの合間にミセス・クリステンセンに用事を云いつけられたことだけをこなしている。彼等はミスター・クリステンセンとかミセス・クリステンセンとか呼ばずに、「ローリー」と「エイミー」と呼んでいる。私もいつの間にかそのように呼んでいた。ローリーがローランドの愛称であることは容易にわかるが、エイミーはパプアニューギニア人の名前をオーストリア風の名前にしたものであろうと推察される。元の名前は知らない。

 子供たちに依る掃除が終り、エイミーは改めて私を招じ入れてくれた。食卓には既に食事が用意されていた。ハムステーキに焼きたてのロールパン、新鮮な野菜サラダ。それに大振りなコップに水が満たされていた。一口水を飲んでみると、何とも云えず旨い水だった。「井戸水ですか?」とエイミーに効くと、彼女は戸惑った。ローリーがニコリともせずに「雨水です」と云った。食事はおいしかった。ローリーは無駄口を叩かず黙々と食べていた。クリス・ブルックが「どうして、蛾なんかを怖がるんですか?」と不思議そうに聞いてきた。「夜になると、此の食卓の上を沢山の蛾が飛び廻ります」とローリーがいたずらそうに云うと、クリスは「俺なら、そいつをとっ捕まえて食っちまいますね!」とニヤニヤしながら云った。死んだ蛾に恐怖心を持った私を二人はからかいたいらしい。1センチにも満たない蛾にも、私は恐怖心を持つ。「そんなに蛾が来るなら、飢え死にしてもいい。此の食卓には座らない」と私は宣言した。二人はまだニヤニヤしていた。
 だが、エイミーは親切に「別棟に貴方とクリスの寝室を用意します。食事はそちらに運びます。この家と違い、あちらの家は網戸がきちんとありますから、蛾や蚊の心配はありません」と云ってくれた。男どもと違い、此のエイミーの親切心は今でも覚えている。


 ローリーと長男。子供にだけ見せる優しげな笑顔。


 エイミーと次男。長男の方がずっと大きいのだが、巨漢に抱かれると、母親に抱かれた次男と同じ大きさにしか見えない。


 エイミーに相談に来たのか、頼って来たのか知らぬが、友人が訪ねてきた。近くに住んでいると聞いたが、彼等の「近くは」どのぐらいの距離であるかは不明である。


 一段高い場所に別棟があった。暫く住むことになる我が家のバルコニーからの景色。海は下の方に少ししか見えなかったが、眺望は左右に開け、私の目を遮るものは何もなかった。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 4

2015年01月26日 | 旅行
 ポートモレスビーで飛行機に乗るとき、「お洒落なシャツを着ていますね」とクリス・ブルックに云われた。私が不思議そうな顔をしたのか、私のシャツの胸ポケットの刺繍を指差した。見ると、馬上でポロのプレイヤーがマレット(スティック)を振り下ろそうとしている図柄があった。もしこれが本物であるなら、ラルフローレンのシャツである。ウッドラーク島行が決まってから、例の「スパマケット」と書かれているスーパーマーケットで白いデニムのズボンと一緒に買ったシャツである。700円だったか800円で買ったものである。胸ポケットの刺繍など気にもしなかった。彼は、「ちょっと失礼」と云うとシャツの襟を引っ張り上げ、「これ、本物のラルフローレンですよ」と云った。日本のデパートで買えば、8千円は下らない。気が付いていれば、一ダースも買っておきたかった。
 
 後で確認したことだが、中国の「ポロ」と書かれたラルフローレンの偽物の刺繍は、プレイヤーがマレットを振り下ろした後の図柄になっている。香港に「U2」と云う割と有名な洋品店がある。此の店はかなり大きく、「ラコステ」の正規の代理店でもある。そこで私は偽物を発見した。毛糸のチョッキの胸の刺繍は、例の右向きのワニではなく、左を向いていたのである。襟を見ると、商標が「ラコステ」ではなく「クロコダイル(わに)」となっていた。ラコステの正規の代理店が、このような商品を販売している神経が信じられなかった。手触りからして物は良さそうだったので、「シャレ」の積りで本物の「ラコステ」と対で買ったことがあった。


 マスリナ・ロッジに向かう途中に寄り道をして、雑貨屋に寄った。店には格子の鎧戸が下がり、まるで客を拒否しているかのようであった。


 マスリナ・ロッジの別館。本館の道路を隔てた向かい側にあった。本館は満員だとのことで、私だけが此の別館に泊ることになった。新しかったが、エアコンはなく、網戸の隙間から蚊が侵入してきた。
 翌朝、朝食を取るべく本館に行った。「昨夜は蚊の攻勢に参った」とクリス・ブルックに云うと、彼は不思議そうな顔をして「エアコンがあったでしょ?」と云った。その話を傍で聞いていたローランド・クリステンセンは具合の悪そうな顔をした。瞬間に私は人種差別に合ったのだと不快感を覚えた。こんなことはかつてなかった。これから一年後に行くことになったモーリシャスでも人種差別らしきものを経験したが、英国紳士に救われた(マダガスカル編の18をご参照願いたい)。
 ダイニングルームには西洋式肉料理の他にパプアニューギニア独特の料理が何種類も用意されていた。タロイモを食べたことがなかったので、どれがそうかと聞くと。ローランド・クリステンセンが「これですよ」と云って私の皿に取ってくれた。初めてのタロイモは大きめの里芋のように感じた。塩が効いていて旨かった。
 朝食付きで75キナ(円換算で¥11,250)をカードで支払った。マスリナ・ロッジを出るとき、オーナーが「また来て下さい」と握手を求めてきた。私は無視した。オーナーはパプアニューギニア人とオーストラリア人の混血のように見えた。オーナーは図々しく「日本人のダイバーに、此のマスリナ・ロッジを紹介して下さい」と云ってきた。私は「日本人を大事にしないロッジなんて、紹介するわけがないだろ!」と声を荒げてロッジを出た。クリス・ブルックは私の背中を叩いて同意してくれた。
 昨日の、高給取りのグレイダー君がピックアップトラックで迎えに来てくれた。空港に向かうのだが、申し合せたように全員で空を眺めた。間違っても今日は雨は降りそうもなかった。


 チャーター便が来て、真っ先に積み込んだのがローランド・クリステンセンの長男と次男への土産の品々だった。


 昨日と同じパイロットが笑顔で迎えてくれた。副操縦席に乗ったグレイダー君はご機嫌だった。


 真っ青な海に染まったように、陸地までブルーだった。「ヤ・チャイカ、地球は青かった」を地で行くようだった。


 途中の小さな島。周囲をサンゴ礁に囲まれていた。私が写真を撮っているのを見たパイロットが急降下で高度を下げてくれた。「俺の島はもっときれいですよ。フィルムを無駄にしないで!」とローランド・クリステンセンが云った。

 一時間ちょっとでウッドラーク島が見えてきた。島の周囲を旋回するようにして高度を下げ、雑草の生えた土の滑走路にゆっくりと降りた。


 チャーター機の前の私。村の住民が総出で迎えてくれた感じだが、実際は只の野次馬である。娯楽の無い村の人たちにとってはめったに飛んでくることのない飛行機を見るだけでも大変な事なのであろう。

 ウッドラーク島は東西に約65キロ、南北に25キロほどの島である。面積から判断すれば東京都は約2,000平方キロなので、二廻りぐらい小さいだろうか。其処に、当時は多くても2千人ほどしか住んでいなかった。その大部分が空港のある東側に集中していると聞いた。
 東西では何とか言葉は通じるが、南北では全く通じないと云う。東の外れにある空港を起点にして西の海辺まで一本の道がついている。言語が似たようなものになったのは、東西で人の交流が昔からあった証拠ではないだろうか。


 ローランド・クリステンセンのピックアップトラックに荷物を満載にして、いよいよ西に向かって出発の準備が整った。


 クリステンセン夫人が運転席から助手席に移った。彼女は非常に嬉しそうな顔をしていた。ローランド・クリステンセンは今まで穿いていたビーチサンダルを脱ぎ、裸足で運転席に座った。まるで野生の人間を見るようだった。
デコボコの道を疾走した。オイルパンを擦ってしまうのではないかと心配したが、日本製(トヨタ)のピックアップトラックはそのような心配を払拭していた。悪路で弾みながら西へ向かっている車からは、外の風景を撮るどころではなかった。両側は何処までも緑が続き、ジャングルの中の一本道を実感した。一時間半ほど走ると、「もうすぐです」とローランド・クリステンセンは振り返って嬉しそうな顔をした。「我が王国へようこそ」と云っているようだった。

 ローランド・クリステンセンの自宅に着き、奥さんと子供たち、それに荷物を降ろすと直ぐに集材場に向った。家の前の道を更に西へ行くと、すぐに海が見えてきた。船着き場の手前の広場に黒檀のフリッチが山積みにされていた。クリス・ブルックは目を輝かせた。




 宝の山だった。今までにこれほど見事な黒檀のフリッチを見たことがなかった。床柱に加工するのに充分過ぎる太さと長さがあった。


 クリス・ブルックは傍まで確かめに行った。彼も実物を見るまでは不安を抱えていたのであろう。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 2

2015年01月12日 | 旅行
 赤道直下の南太平洋にあるニューギニア島の東半分と多くの島々から構成されていることは前回に述べた通りである。そのパプアニューギニアについて多少の補足説明をしておきたい。時差は日本より1時間早いだけなので、殆ど影響はない。
 此の島に最初にやって来たのはポルトガル人のメネセスであった。そして、勝手にパプアと命名してしまった。1526年の事であった。それ以前に人が住んでいなかったわけではない。ニューギニア島には最古のシェルマネー(貝の貨幣、貝貨とも云う)が使われていたほどの文明を持った先住民がいた。その後の植民地主義の時代に、オランダ、ドイツ、イギリスが良いように分割して統治してしまった。
 余談だが、アフリカ大陸の西海岸にあるシエラレオーネに隣接してギニアがあるのはご存じと思う。そこの民族とこの島の民族が非常に似ているところから、新しいギニアであると「ニュー・ギニア」の名前を西洋人が付けた。そして、「パプア」とは縮れた髪の毛を云うそうである。

 通常の場合は取引先が空港に迎えに来てくれる。だが今回はそのようなわけにはいかなかった。ポートモレスビーから350キロほど離れたニューギニア島の東のはずれにアルタオと云う所がある。私の目指すウッドラーク島は、そのアルタオから更に洋上約300キロの所にある。電気、ガスは勿論のこと水道も電話までもない。通信手段は無線だけである。アルタオだが、地図には、Alotau、アロタウと表記されており、それが正しいのであろうが、土地の人たちが「アルタオ」と呼んでいるので、私もそのように呼びたい。
 私の取引先のローランド・クリステンセンはオーストラリア人だがウッドラーク島に長く住み、現地のご婦人と結婚して2児の父親になっている。ポートモレスビーのホテルで会うまで、彼と直接のコンタクトは一切取れなかった。

 1990年になるとインドネシアの黒檀が異常に高騰し、とても商売にならなくなっていた。パプアニューギニアにも黒檀があるらしいと云う噂を新木場で聞いた。今までは黒檀に手を出さないでいたが、そんな噂を聞くと「何とか探し出したい」との貿易屋の血が騒いだ。外国の色々な方面に手紙を出した。いい情報をくれたのが、以前に香港にいたジャック・ラウ氏だった。彼は香港の中国返還の噂を聞くと、貿易会社をたたみ、直ぐにカナダに脱出した。その彼が、黒檀のことはよく知っている、ラバウルで貿易商をやっているオーストラリア人のレックス・グラッテージ氏に連絡を取ってみるようにと住所とファックス番号を教えてくれた。早速ラバウル(パプアニューギニア最大のニューブリテン島のはずれにあり、首都のポートモレスビーから直線で約800キロの所にある)のレックス・グラッテージ氏に連絡を取った。彼は毎朝定時にウッドラーク島のローランド・クリステンセンと無線で連絡を取り合っているのですぐに用件を伝えるとのファックスが届いた。新木場における単なる噂が現実のものになった。それからの仕事は早かった。

 ローランド・クリステンセンが所用でポートモレスビーに行くので、それに合わせて日程を組んでは如何かとレックス・グラッテージから連絡が入った。そして、ポートモレスビーのトラベロッジ・ホテルで落ち合うことになったのである。そうすれば、ウッドラーク島に行く飛行機のチャーター料がいらなくなると気を遣ってくれた。帰りのチャーター料だけを負担すればいいことになる。小型飛行機のチャーター料は決して安くはないが、荒れやすい海を高速艇をチャ-ターして行くよりは安全で早い。私は香港からの便の都合で一日早くパプアニューギニアに着いた。
 
 部屋の掃除に来たハウスメードのオバさんが「これからどちらかに行くのですか?」と聞いてきた。「ウッドラーク島に行くんだ」と答えると、「マラリアの予防薬は当然お持ちですよね」と念を押された。「予防薬はないけど、虫よけのスプレーを持ってきた」と云うと、彼女は腰を抜かさんばかりに驚いた。「そんなもんじゃ、ウッドラーク島の蚊に対抗出来ません。ホテルの前を下って行くと、ドラッグストアーがあります。そこで予防薬をお買いなさい。今すぐに!」と叱られた。
 当時、パスポートの申請窓口は交通会館の中にあった。そこの何とか云う内科医院でマラリアの予防薬を売っていた。一錠が800円だか900円だった。だが、忙しくて買いに行く暇がなかった。タイやビルマでも平気だったので、蚊除けのスプレーを買っていけば大丈夫だろうと安易に考えていた。
 云われたところにドラッグストアーがあった。「マラリアの薬を下さい」と云うと、「プロテクト(予防)ですか、トリートメント(治療)ですか」と聞かれた。「これからマラリに罹るんだ」と云うと女主人は笑顔で予防薬を出してくれた。50錠入って1.5キナだった。日本円に換算すると225円にしかならない(当時のレートで1キナは約150円)。一錠あたり5円にも満たなかったのである。交通会館の何とか内科が如何に暴利をむさぼっていたかと呆れた。
 私が料金を払い終ると、彼女は「ちょっと待って」と云って奥に引っ込み、紙コップに入れた水を持ってきた。「すぐに飲みなさい。一錠でいいです」と云ってその場で予防薬を飲まされた。「この薬は一週間に一回、忘れずに必ず飲みなさい。日本に帰ってからも、一週間か二週間は飲み続けなさい。強い薬ですから、その間はアルコールは極力控えなさい」と細い注意をしてくれた。私は殆ど酒類を飲まないから問題ない。以前に「マラリアの予防薬を飲むと、酒を飲めなくなるから、予防薬は飲まない」と云っていた男がいた。彼はインドネシアのスラウェシ島から縞黒檀を輸入している。此の島のどこかは云わなかったが、マラリアの汚染地帯であることに違いない。それなのに、マラリアに罹ったとは聞いていない。軽いマラリアに罹り、それを何度も繰り返すことによって抗体が強くなってきたのか、悪運が強いとしか云いようがない。

 マラリアの予防薬を飲んだ安堵感から、街を探索してみたくなった。地図を持ってはいなかったが、取敢えず海であろうと見当をつけた方に行ってみた。


 海岸近くに改装中の建物があった。屋根の看板を見ると海運会社であった。


 「港」の看板を掲げた建物も工事中だった。


 その建物の右側には桟橋があり、一応船が入れるようにはなっていた。だが、漁港に毛の生えたような港では大型貨物船は無理のようだ。


 ユナイテット教会の看板を見つけた。パプアニューギニアはキリスト教がかなり普及していると聞いている。「ユナイテット」と云うからには、いくつかの宗派が一つになった教会なのだろうか。


 鉄道の駅のような建物があった。看板には「モレスビー警察署」となっていたが、まさかパプアニューギニアの首都の警察本部ではないだろう。此の警察署は非常に親しみのもてる建物だった。


 砂浜のある海にやっと出会えた。1月は南半球の真夏である。だが、日本の砂浜のような海水浴客は一人もいなかった。暑くて海水浴どころではないのであろう。涼しげなスタンドがあったので一休みすることにした。

 パプアニューギニアの銀行や空港ではご婦人方が要職についているケースが多い。男どもはご婦人の上司に命令されて働いている。これは会社の事であって、家庭内ではどのよな力関係になっているかは知らない。だが、テキパキと仕事をこなしているのはご婦人たちである。話し方も歯切れがいい。男どもはグータラなのか大人しい性格なだけなのかはわからない。だが、近代的なビルの間から、突如として槍を持った戦士と出くわす。頭に羽根をつけた戦士のオジさんを見ると、とても大人しい性格には思えない。此の戦士には何度も驚かされたが、不思議そうな目で見られたことはあっても、槍を突き付けられたことはなかった。非常に近代的なビルが建ち並ぶ首都のポートモレスビーの街なかにこのようなオジさんが裸足で歩いているのを見ると、何とも奇妙な感じがする。

 メインストリートを一歩入った所に日本語で大きく「鉄板焼き 大黒」と書かれたレストランがあった。入ると元気のいい「イラッシャイマセ!」の声で迎えられた。日本の鉄板焼きの店で、全員が絣の着物を着ており、カウンター席の椅子にも絣のカバーがかけられていた。肉の焼ける旨そうな匂いが店内にしていたが、非常に清潔な感じがした。カウンター席に座ると一人のお嬢さんがメニューを持ってやってきて、「いらっしゃいませ。こちらがお勧めです」と日本語で説明してくれた。勧められたセット料理を注文した。目の前で、鮮やかな手つきで肉を焼き、適当な大きさに切っている板前に「此の店には長いの?」と日本語で聞いてみた。彼はきょとんとした顔をしていた。「日本人じゃないの?」と英語で聞くと、「フィリッピンから来ました」と云った。日本の板前が着るような着物にねじり鉢巻きをした姿は日本人にしか見えなかった。
 話はそれるが、アメリカの空軍に「アマノ」と云うフィリッピン人がいた。自分は日本人との混血だと云うっていたが、どう見てもフィリッピン人だった。彼は同僚からマノンと呼ばれていた。一番下っ端の軍曹(スタッフ・サージャン)が私にぼやいたことがあった。「マノンの奴、偉そうに俺に命令しているが、フィッシュ(魚)と云えなくて、ピッシュとしか云えねぇんですよ」。確かにフィリッピン人の英語の発音には癖がある。而し、目の前にいる板前の英語は素直だった。此のマノンだが、暇さえあると女の兵隊や女子従業員の所にへばりついていた。文句を云うと、「俺はちゃんと給料分の仕事をしてる。俺にもっと仕事をさせたかったら、もっと給料を払え」と云うのが彼の云い草だった。憎たらしいことを云うが、どうも憎めない奴だった。
 客が少なくなると、日本のお嬢さんが私の所にメモを持ってきた。「私の実家の住所と電話番号です。両親に私は元気にやっているので心配いらないと、伝えて頂けないでしょうか」と頼まれた。住所を見ると、練馬区の北の方だった。日本に帰り、直ぐに電話をした。つい長話になってしまった。此のお嬢さんは小さいころから独立心が強かったそうだ。どのような経緯でポートモレスビーの「大黒」で、たった一人の日本人として働くようになったか知らぬが、頼もしいお嬢さんであったと今でも記憶に残っている。「大黒」の写真とお嬢さんの写真を撮っておけば、ご両親も喜んだに違い。残念だった。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 1

2015年01月05日 | 旅行
明けましておめでとうございます。本年もご購読頂けるよう、お願い申し上げます。

 パプアニューギニアは食料品の持込みが禁止されている。又、麻薬を持ち込んだ旅行客には、その数量に関係なく死刑が待っている。入国審査の書類に、一字でも間違いがあれば入国を拒否される。融通の利かない国である。オーストラリアと英国の頑固さがそのまま反映されているかのようである。
 このパプアニューギニアは南半球の西太平洋のニューギニア島の東半分と多くの島から成り立っている。オーストラリアの委任統治領から1975年に独立し、英連邦に加盟している立憲君主国である。首都のポートモレスビーは本島と呼ばれているニューギニア島にあるが、他に四つほどの比較的大きな島と無数の小島からこの国は構成されている。全体を合わせると日本よりはずっと大きいが、私が訪れた1991年当時は400万人しか住んでいなかった。それが、2013年には730万人にまで膨れ上がっている。かなりの人口が増えてはいるが、日本とは比較にならないほどの人口密度である。そうであるのに、七百とも八百とも云われる言語がある。パプア人とメラネシア人が人口の九十パーセントを占めていると云うから、言語は二つでいいと私は勝手に考えたが、実際の人の営みはそんな単純なものではないと、パプアニューギニアと親しく付き合うにつれてその間違いに気がついた。言語は多くても、人々は不自由とは思わず、それを当たり前の事として暮らしている。

 空港ビルから一歩出た私に赤道直下の暑い太陽が出迎えてくれた。空港ビルの前には一方通行の道路があり、その向うには駐車場がある。陽を遮るものは何一つない。辺りには日本からの観光客はいなかった。駐車場の右手には木が鬱蒼と繁り、日陰を作っていた。そこには物売りや老人が海を通ってくる涼しい風を楽しんでいた。タクシーも何台か停まっており、エンジンを止めて窓を全開にしていた。そのうちの一台がゆっくりと近づいて来た。
 「旦那!どちらまで?何処までも行きますよ!」と運転手が陽気に声をかけてきた。彼の話す英語は聞きづらかったが、多分そのように云ったのだと判断した。彼等の話す言葉に慣れる迄が大変だった。分りづらいオーストラリアの英語がパプアニューギニア流の発音と言葉づかいで出来上がった「ピジョン・イングリッシュ」である。「トラベロッジ・ホテル」と行き先を告げると「イエス・サー、ミスター」と礼儀正しい返事が戻ってきた。
 車のエアコンを最大限にしてあるようだったが、室内はそれほど涼しくはない。それでも外に比べたら別天地だった。助手席のダッシュボードに「KEN SMOK」と書かれたアクリルの板が張り付けられていた。それを“Can’t Smoke”(禁煙)の積りなのであると理解するまでに、かなりの時間を要した。出張が決ったときに、公用語は英語だとパプアニューギニアの大使館で聞いてきたのだが、いざ、ポートモレスビーに着いてみて「話がだいぶ違うではないか」と不安を感じたのを私は今でも覚えている。
 途中に “Supa Maket”の看板のある、スーパーマーケットの前を通った。その道はやがて大きく右に曲り、ゆっくりした上り坂になった。上り詰めたところに、辺りを睥睨するかのようにトラベロッジ・ホテルがあった。


 高度をどんどん下げて着陸態勢に入った。ポートモレスビー空港は目前だった。飛行機の窓越しに、安物のバカチョンカメラで撮ったので、ピントは悪いが、美しい半島であることはご理解頂けると思う。


 左から来た道を、此の急カーブに沿ってゆるやかな坂を登って行くとホテルはすぐである。


 ホテルの入口にブーゲンビレアがきれいに咲いていた。


 トラベロッジ・ホテルは辺りを圧倒するようにそそり立っていた。




 部屋はそれほど広くはなかったが、非常に快適に過ごせた。


 ベランダのすぐ下にプールがあった。






 部屋の窓やベランダから広い範囲の風景が望めた。


 パプアニューギニアはオーストラリアと同様に、車は左側通行である。だが、車は道路の右側に不規則に駐車していた。写真でもお分かりのように、車が道路の前方を向いていたり、こっち側を向いたりしていた。




 政府機関の建物であると思ったが、近寄ってみると、そうではなさそうであった。だが期待していたショッピングモールでもなかった。