ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

人は水滴のようなもの

2005年12月23日 08時30分46秒 | Weblog
人間関係というのは、複雑でストレスの溜まるものだ。おそらくすべての人にとってある程度の苦痛や我慢を強いられるものだ。そういうことは幼少期の友達関係から学んでいくもので、喧嘩や和解を繰り返しながら、我慢することとか、相手を理解すること(厳密には理解しようとすること)を学んで成長していく。

「我慢」は「協調」のために必要なことで、「社会秩序」に大きく関係している。
最近は、「個人主義」とか「オタク」とか、わがままを正当化するには都合の良い言葉がもてはやされているから、勘違いしている人が多い。

その昔、「オタク」という言葉が使われる前の時代、彼らのような人たちは自分達が一般の人々とは異なる趣向を持っていることを認識し、あくまで自虐的な表現として、わがままな言動や行動を誇張して他人に伝えていた。彼らの心情としては、自分達のような偏った趣向が一般の人たちに理解されないことへの諦めと、それでも自分はその分野を追及するという意思表示の意味があった。僕の友人に「オタク」の見本のようなのがいたので、良くそういう発言を聞いていたが、決して本当にわがままだったわけではない。「俺は好きなようにやる」というのは、「こだわりがあるんだ。お前らにはわかるまい。」という意味で、本当にわがままな行動をとっていたわけではない。

ところが、最近はその「オタク」を自負する連中の中に、単なるわがままを自己表現と勘違いしている連中を多く見かける。先輩達の発言の真意を知らずに、形だけが伝わっていった結果、本質的なずれが生じているように思えて、とても悲しい。

個人主義も勘違されて、協調性を阻害する要因になっている。「自由」とは、「制約」の中で活用されるものであり、他者の「犠牲」によって成り立っていることを忘れてはならない。誰かが何かを手に入れるということは、同時に他の誰かがそれを失うということに他ならない。自分が何かを取り上げていることに無頓着にならず、提供してくれる人々に感謝することを忘れないようにしないといけない。

各企業は、「顧客第一」と称して、客のわがままに答えようとする。職場を離れた従業員達の多くは、プライベートで顧客に回ると容赦なくわがままを通して当たり前だと言わんばかりの行動をとる。まるで自分の提供した労力を取り返すかのごとく。結果、自分の仕事も辛いものになり、ストレスだけが蓄積されていく。

大人のこういう行動が、社会を貧しくして、悲しい事件を多く作り出してしまう。
人の人格は、たとえるなら「水滴」のように丸いもの。お互いが緩やかな自己主張を行い、相手を尊重するから均衡を保つことができる。お互いに心地よい距離感、奪うことより与えること、自分と異なる意見の存在を認めること・・・・
こういう部分が無くなって、人口密度が異常に高くなっていくと、自己主張の得意でない人たちは、徐々に押しつぶされて「水滴」の形を保てなくなる。形を保てなくなる前に、破壊的な行動に出るものも多いはずだ。周辺の全ての人が敵に思えることだろう。そんなことが、ここ何年も繰り返されている。

悪循環の出口があるのだろうか・・・・