ベクトライズ

様々な出来事について、その過程や流れ、方向性を自分なりに探っていきたいと、ベクトルと「分析」をひっかけた造語です。

死と殺戮を指向する流れ 

2005年04月26日 23時48分59秒 | 暗い事件について
絶望か、虚無感か、ともかく行き場のない思うを抱え込むと、人は自分の存在を破棄したがる。

共通して彼らは、「死」と向き合い、「自身の死」と重ねるように人の死に興味を持ったように思える。
自殺者は、自らの死へ指向し、社会への不条理や矛盾に怒りを抱くものは、殺戮へ指向する。
一見大きく異なる2つの行動は、結局、自らの存在を否定する行動からくるのではないかと考えている。

集団自殺、弱者への残虐な攻撃、無差別の殺人、これらが同じ起源だとするならば、その要因を取り除けないのだろうか?

失望や虚無感を生むのは、いったい何なのか?
家族や社会は、どのようにして子供たちをそこから救うことができるのか?

子供の頃からよく死にたいと思っていた僕としては、正直なところ家族が必ずしも救いになるとは限らないと思う。むしろ、失望や虚無を加速することもある。ひどく落ち込んだときは、人がそばに居ること自体がとても重たい。僕自身の経験では、できれば誰とも関わりたくないと思うことが多かった。

結局、僕を支えていたのはなんだったのか?

馬鹿げたことに、単に義務感だったのかもしれない。そんなものが残っていること自体が不思議なのだが、いつも最後には、妙な義務感だけが支えになっていた気がする。

誰かとの約束を果たすとか、頼まれていた仕事を全うしようとか、およそ虚無感の中で見出せっこない感覚のはずなのに・・・・「やるべきことがある」と思うことで、自分自身に価値を与えていたのだろう。

では、本当に将来に失望した人たちにどうやって自身の価値を見出させたらよいのだろうか?

そもそも、彼らは何故、何に対して絶望するのだろう?
漠然と何もかも虚しくなってしまうあの感覚は、いったいどこから生まれてくるのだろうか?

ある種の悪魔のようなものなのかも知れない。