味噌・醤油・麹・酢 釧路駅北口「三共酒造」余聞録240624
大正元年10月に来釧した坂本原永(さかもとげんえい)のもと、山サ共盛の佐々木松三郎、福井邦雄、名西惣吉らの共同出資で、三共株式会社が創られた。
所在地は現在の共栄大通四丁目2番から、春日町4番に至る一帯。所在地の南を通過する釧路市道に「三共通 さんきょうどおり」の路線名。
共栄大通を通過する路線バス停に「三共」が残る。
今回注目は、現在の共栄大通二丁目2番の地点に二点。一はその角地に醸造工場があったこと、二は隣接して市橋豆腐店が開設していた。豆腐店は今も現存する。
「釧路の酒造と水で三題」240624の釧路駅北口編ということになる。
昭和45年3月発行、『わが町の人物地図 第二集』の記載から紹介する。
新潟県西蒲原郡生まれ、根っからの〝醸造屋″と評の高かった創業者が、昭和2年に「共栄」と呼ばれた地で「味噌、醤油の醸造工場」を開設する。
昭和44年の紙面掲載当時、68歳と記載があるから<当主26歳のころ>となる。
新潟から渡道。網走の醸造工場を経て大正9年、北大通十一丁目1番(のち大浦履物 はきもの 店のところ)で開業。釧路駅北口の発展を見越して、新興地の「共栄」に、と。
選んだ地点には、南大通にあったサ一村上商店の醸造所があった。
跡地に設けた新工場。味噌・醬油のみならずコウジ・酢を手がけ、販路は「雄別・春採・尺別など近在の炭鉱の飯場」。国鉄・雄鉄・臨港鉄道等、鉄道網輸送の要衝に近い製造所。
もちろん近隣の「共栄住民も<はかり買い>で買い求めた」と。戦後、統制撤廃に加えて、満州・中国本土への出荷をあきらめた大手が地方進出。あおりをうける。
「もう十年余りになろう」ということだから、昭和33、34年時点かに醸造工場を閉鎖。
空地化した用地に「共栄フードセンター」名の食品センターに転換させた。間もなく学業を終えて戻る「子息の帰省を心マチ」と。
そこはさておきこの豆腐店。元はと申すと味噌・醬油など醸造技術の指導者が始めた。創業者は旧制釧路中学の卒業生(昭和18年)が、北海道味噌醤油工業協同組合の研究所で二年間学んだヒト。
隣接の市橋豆腐店には醸造工場の創業者息女が嫁す。両家は姻戚筋にあたる。
大正元年10月に来釧した坂本原永(さかもとげんえい)のもと、山サ共盛の佐々木松三郎、福井邦雄、名西惣吉らの共同出資で、三共株式会社が創られた。
所在地は現在の共栄大通四丁目2番から、春日町4番に至る一帯。所在地の南を通過する釧路市道に「三共通 さんきょうどおり」の路線名。
共栄大通を通過する路線バス停に「三共」が残る。
今回注目は、現在の共栄大通二丁目2番の地点に二点。一はその角地に醸造工場があったこと、二は隣接して市橋豆腐店が開設していた。豆腐店は今も現存する。
「釧路の酒造と水で三題」240624の釧路駅北口編ということになる。
昭和45年3月発行、『わが町の人物地図 第二集』の記載から紹介する。
新潟県西蒲原郡生まれ、根っからの〝醸造屋″と評の高かった創業者が、昭和2年に「共栄」と呼ばれた地で「味噌、醤油の醸造工場」を開設する。
昭和44年の紙面掲載当時、68歳と記載があるから<当主26歳のころ>となる。
新潟から渡道。網走の醸造工場を経て大正9年、北大通十一丁目1番(のち大浦履物 はきもの 店のところ)で開業。釧路駅北口の発展を見越して、新興地の「共栄」に、と。
選んだ地点には、南大通にあったサ一村上商店の醸造所があった。
跡地に設けた新工場。味噌・醬油のみならずコウジ・酢を手がけ、販路は「雄別・春採・尺別など近在の炭鉱の飯場」。国鉄・雄鉄・臨港鉄道等、鉄道網輸送の要衝に近い製造所。
もちろん近隣の「共栄住民も<はかり買い>で買い求めた」と。戦後、統制撤廃に加えて、満州・中国本土への出荷をあきらめた大手が地方進出。あおりをうける。
「もう十年余りになろう」ということだから、昭和33、34年時点かに醸造工場を閉鎖。
空地化した用地に「共栄フードセンター」名の食品センターに転換させた。間もなく学業を終えて戻る「子息の帰省を心マチ」と。
そこはさておきこの豆腐店。元はと申すと味噌・醬油など醸造技術の指導者が始めた。創業者は旧制釧路中学の卒業生(昭和18年)が、北海道味噌醤油工業協同組合の研究所で二年間学んだヒト。
隣接の市橋豆腐店には醸造工場の創業者息女が嫁す。両家は姻戚筋にあたる。
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