僕はフォークソングというジャンルが好きでよく聴いているのだけれど、このフォークというジャンルと最初に出逢ったのはいつだったかとよく追憶を遡ったりしている。
フォークというこの音楽については、日本ではかつて二つの流れがあった。ひとつは関東を中心にこの世に出てきた「カレッジ・ポップス」という呼ばれ方をした一群の音楽。その始まりは諸説ある。加山雄三だと言う人もいるが、やっぱりマイク真木の「バラが咲いた」が上げられるだろう。和製フォーク・ソング第1号という評価は動かない。このカレッジ・ポップスというジャンルはグループ・サウンズとクロスオーバーしながら徐々に定着していく。よくグループ・サウンズが慶応、カレッジ・ポップス(カレッジ・フォーク)が早稲田、という見方もされる。いずれにせよ音楽シーンは当時大学生が中心になっていたという証しかもしれない。PPMやキングストントリオを範として発展した。「赤い鳥」や「トワ・エ・モワ」などがそうだろう。美しいメロディーとハーモニー。森山良子や本田路津子、ビリー・バンバン、そして小室等が代表すると思われる。
もうひとつの流れは「アングラ・フォーク」とよく言われる世界。反戦フォークとして一世を風靡した。サウンド重視ではない、と言えば語弊があるだろうが、関西を中心に世の中にプロテストすることを第一義の目標としていた。ボブ・ディランを範として、高石友也、岡林信康と言ったコワモテの人たちが中心となって発展した。後にフォーク・クルセイダーズを生んで世間に認知される。ベトナム戦争、日米安保闘争とリンクして当時の若者の支持を集めた。
僕は1965年生まれなので、いずれもリアルタイムでは知らない。後からみんな遡って聴いたものばかりだ。どこらへんから記憶があるかと言うと、はしだのりひことシューベルツ「風」あたりからだろうと思う。この曲は'69年1月リリースだから僕は3歳で当然憶えていないはずなのだけれども、よく子供の頃聴いていた。何故かと言えば、うちはヘンな家庭で、僕が幼稚園の頃は、父親が夜寝るときに聴く音楽を自分で編集して、枕元にカセットデッキを置いて子供に聴かせる趣味があって、その中の一曲だったのだ。「風」の前には「夜明けのスキャット」後には「グッドナイト・ベイビー」。そういうオーダーだった。父親の趣味だったのだろうが、そのせいでなんとなしに刷り込まれてしまったのだ。
じゃ、リアルタイムで聴いて好きになった最初の曲はなんだったのだろう、と考えると、それはガロの「学生街の喫茶店」に行き着く。
ガロは、大野真澄(ボーカル)、堀内護(マーク)、日高富明(トミー)の3人が1970年に結成したグループ。1972年にシングル「美しすぎて」のB面だった「学生街の喫茶店」が翌73年にブレイクする。
1973年と言えば、僕はまだ小学二年生で、もちろん深夜ラジオなどとはまだ出会っていない。テレビだけが唯一の音源だった。テレビに出てこない吉田拓郎やかぐや姫と出逢うのはもう少し後になる。ガロはテレビに出ていた。そのおかげで出逢うのが少し早かった。
とにかくいい曲だなあと子供心に思った。小学二年生であり今考えるとなんてマセていたのだろうと思うがそう思ってしまったものはしょうがない。いい曲だと思ったのはもちろん僕だけではなく世間的な評価も高く、レコード大賞大衆賞(ロマンス)も受賞、紅白歌合戦にも出場した。
ここいらへんが、「ガロはフォークじゃない」という厳しい評価にも繋がってくるのだろう。「学生街の喫茶店」をはじめ、「君の誕生日」などいずれもオリジナルではない。多くはすぎやまこういち氏や村井邦彦氏らが作曲し、詞は山上路夫さんが手がけている。ヒット曲では唯一「ロマンス」がマーク作曲である。また当時のフォーク界は「テレビに出ない」ことを信条としており、紅白にまで出てしまうガロは「歌謡ポップス」であると位置づけしていた人が多かった由。
しかし子供の僕はそんなことは関係なくフォークだと思って聴いていたが、ガロ内部でも確執があったと聞く。コンサートではオリジナルを重視したいという気持ちが強かったとも。しかし世間はヒット曲を望み、そのはざまで苦しみ、5年間の活動にピリオドを打って解散してしまうのだ。
今、僕の手元にはオリジナルレコードは残念ながら無く、わずかに後年出されたベストアルバムがあるだけである。しかし、これを聴くとガロの音楽性の高さに唸る。オリジナル曲も外部ライターによる曲も実にクオリティーが高い。やはり「学生街の喫茶店」もガロが歌うことによって名曲と成りえたのだろう。
君とよくこの店に来たものさ 訳もなくお茶を飲み話したよ
学生で賑やかなこの店の 片隅で聴いていた「ボブ・ディラン」
初めて聴いたときにはボブディランなんて知らなかった。それどころか喫茶店にも行ったことがなかった。この曲が再び僕の中で動き出すのは、それから10年以上も経って、大学に入学してからのことである。
大学のキャンパスには、僕の頃にはまだ「青春の息吹」が残っていた。学生運動の時代は、反戦フォークの時代は遥か遠くなっていた頃だったけれども、先達からの遺産がまだここかしこに残っていた。
あの時は道に枯葉が音も立てずに舞っていた 時は流れた
勧誘の立て看板。議論。デモ。アジ演説。民青のチラシ。硬派と軟派の主導権争い。安い学生食堂。討論コンパ。友人の下宿。一升瓶。泥酔。淡い揺れ動く感情。見つめていただけの恋。
時は流れていたが、熱い若者の時代と比べれば枯葉が舞っていたのかもしれなかったが、まだ喫茶店で日本の行く末について、男と女のあるべき姿について長く語り合える空気があったことを感謝する。
「学生街の喫茶店」という歌は、こういう世界のことを語っていたのか。僕はそのとき氷解したように思う。「いちご白書をもう一度」とともに、その空気をようやく吸うことが出来たことを素直によろこんだ。ただの「好きな曲」がそのときようやく「青春の曲」となった。
あの時の歌は聴こえない 人の姿も変ったよ 時は流れた
しかし「学生街の喫茶店」を体感出来る場に僕が身をおいた頃には、もうガロは居なかった。そして僕が大学三年の秋、元メンバーのトミーがこの世を去った。衝撃は今も忘れられない。
ガロは、その全盛時「歌謡ポップス」と扱われ酷評されたが、最近では再評価されている。美しいハーモニーと才能、音楽性の高さがようやく認められたのだ。 「カレッジ・フォーク」のひとつの極みだったのかもしれない。けれども、あの時の歌はもう聴こえない。時は流れたのだ。
フォークというこの音楽については、日本ではかつて二つの流れがあった。ひとつは関東を中心にこの世に出てきた「カレッジ・ポップス」という呼ばれ方をした一群の音楽。その始まりは諸説ある。加山雄三だと言う人もいるが、やっぱりマイク真木の「バラが咲いた」が上げられるだろう。和製フォーク・ソング第1号という評価は動かない。このカレッジ・ポップスというジャンルはグループ・サウンズとクロスオーバーしながら徐々に定着していく。よくグループ・サウンズが慶応、カレッジ・ポップス(カレッジ・フォーク)が早稲田、という見方もされる。いずれにせよ音楽シーンは当時大学生が中心になっていたという証しかもしれない。PPMやキングストントリオを範として発展した。「赤い鳥」や「トワ・エ・モワ」などがそうだろう。美しいメロディーとハーモニー。森山良子や本田路津子、ビリー・バンバン、そして小室等が代表すると思われる。
もうひとつの流れは「アングラ・フォーク」とよく言われる世界。反戦フォークとして一世を風靡した。サウンド重視ではない、と言えば語弊があるだろうが、関西を中心に世の中にプロテストすることを第一義の目標としていた。ボブ・ディランを範として、高石友也、岡林信康と言ったコワモテの人たちが中心となって発展した。後にフォーク・クルセイダーズを生んで世間に認知される。ベトナム戦争、日米安保闘争とリンクして当時の若者の支持を集めた。
僕は1965年生まれなので、いずれもリアルタイムでは知らない。後からみんな遡って聴いたものばかりだ。どこらへんから記憶があるかと言うと、はしだのりひことシューベルツ「風」あたりからだろうと思う。この曲は'69年1月リリースだから僕は3歳で当然憶えていないはずなのだけれども、よく子供の頃聴いていた。何故かと言えば、うちはヘンな家庭で、僕が幼稚園の頃は、父親が夜寝るときに聴く音楽を自分で編集して、枕元にカセットデッキを置いて子供に聴かせる趣味があって、その中の一曲だったのだ。「風」の前には「夜明けのスキャット」後には「グッドナイト・ベイビー」。そういうオーダーだった。父親の趣味だったのだろうが、そのせいでなんとなしに刷り込まれてしまったのだ。
じゃ、リアルタイムで聴いて好きになった最初の曲はなんだったのだろう、と考えると、それはガロの「学生街の喫茶店」に行き着く。
ガロは、大野真澄(ボーカル)、堀内護(マーク)、日高富明(トミー)の3人が1970年に結成したグループ。1972年にシングル「美しすぎて」のB面だった「学生街の喫茶店」が翌73年にブレイクする。
1973年と言えば、僕はまだ小学二年生で、もちろん深夜ラジオなどとはまだ出会っていない。テレビだけが唯一の音源だった。テレビに出てこない吉田拓郎やかぐや姫と出逢うのはもう少し後になる。ガロはテレビに出ていた。そのおかげで出逢うのが少し早かった。
とにかくいい曲だなあと子供心に思った。小学二年生であり今考えるとなんてマセていたのだろうと思うがそう思ってしまったものはしょうがない。いい曲だと思ったのはもちろん僕だけではなく世間的な評価も高く、レコード大賞大衆賞(ロマンス)も受賞、紅白歌合戦にも出場した。
ここいらへんが、「ガロはフォークじゃない」という厳しい評価にも繋がってくるのだろう。「学生街の喫茶店」をはじめ、「君の誕生日」などいずれもオリジナルではない。多くはすぎやまこういち氏や村井邦彦氏らが作曲し、詞は山上路夫さんが手がけている。ヒット曲では唯一「ロマンス」がマーク作曲である。また当時のフォーク界は「テレビに出ない」ことを信条としており、紅白にまで出てしまうガロは「歌謡ポップス」であると位置づけしていた人が多かった由。
しかし子供の僕はそんなことは関係なくフォークだと思って聴いていたが、ガロ内部でも確執があったと聞く。コンサートではオリジナルを重視したいという気持ちが強かったとも。しかし世間はヒット曲を望み、そのはざまで苦しみ、5年間の活動にピリオドを打って解散してしまうのだ。
今、僕の手元にはオリジナルレコードは残念ながら無く、わずかに後年出されたベストアルバムがあるだけである。しかし、これを聴くとガロの音楽性の高さに唸る。オリジナル曲も外部ライターによる曲も実にクオリティーが高い。やはり「学生街の喫茶店」もガロが歌うことによって名曲と成りえたのだろう。
君とよくこの店に来たものさ 訳もなくお茶を飲み話したよ
学生で賑やかなこの店の 片隅で聴いていた「ボブ・ディラン」
初めて聴いたときにはボブディランなんて知らなかった。それどころか喫茶店にも行ったことがなかった。この曲が再び僕の中で動き出すのは、それから10年以上も経って、大学に入学してからのことである。
大学のキャンパスには、僕の頃にはまだ「青春の息吹」が残っていた。学生運動の時代は、反戦フォークの時代は遥か遠くなっていた頃だったけれども、先達からの遺産がまだここかしこに残っていた。
あの時は道に枯葉が音も立てずに舞っていた 時は流れた
勧誘の立て看板。議論。デモ。アジ演説。民青のチラシ。硬派と軟派の主導権争い。安い学生食堂。討論コンパ。友人の下宿。一升瓶。泥酔。淡い揺れ動く感情。見つめていただけの恋。
時は流れていたが、熱い若者の時代と比べれば枯葉が舞っていたのかもしれなかったが、まだ喫茶店で日本の行く末について、男と女のあるべき姿について長く語り合える空気があったことを感謝する。
「学生街の喫茶店」という歌は、こういう世界のことを語っていたのか。僕はそのとき氷解したように思う。「いちご白書をもう一度」とともに、その空気をようやく吸うことが出来たことを素直によろこんだ。ただの「好きな曲」がそのときようやく「青春の曲」となった。
あの時の歌は聴こえない 人の姿も変ったよ 時は流れた
しかし「学生街の喫茶店」を体感出来る場に僕が身をおいた頃には、もうガロは居なかった。そして僕が大学三年の秋、元メンバーのトミーがこの世を去った。衝撃は今も忘れられない。
ガロは、その全盛時「歌謡ポップス」と扱われ酷評されたが、最近では再評価されている。美しいハーモニーと才能、音楽性の高さがようやく認められたのだ。 「カレッジ・フォーク」のひとつの極みだったのかもしれない。けれども、あの時の歌はもう聴こえない。時は流れたのだ。
この曲に表現されてる世界ってどんな世界なんだろう?って胸ワクワクだったっけな。
で、やっぱりこの曲を聞いて「ボブディラン」を聞きました!!!
凛太郎さんよりはかなりおねーさん(オバサンって言わないでね♪)だと思うのですが大学に入ってからは先輩の影響を強く受けよく反戦歌を覚えて歌ってました。
段々私達世代以降は楽しく生きることが大切な時代になってきた感じがします。
不器用な生き方しかできなかったんですよね~。
うーん、古い時代の女じゃきに(^_-)
その一番の始まりが「学生街の喫茶店」で私にとっては今でも胸キュンソングです。
PS 凛太郎さんの記事を拝見してメッチャ懐かしい気分になりました。
ステキな記事ありがとう(*^o^*)
少し本文でもふれましたが、僕達の世代はもう「シラケ世代」に入っていたのかなとも思います。しかし大学にもよるのでしょうが、僕のところは幸いにして先達の積み上げてきた世界がまだ色濃く残っている部分もあって、なんとか「学生街の喫茶店」的世界を味わうことが出来たことは幸福なことだったと思っています。
>古い時代の女じゃきに(^_-)
その古風さが女性の魅力ですね。不器用でも懸命に生きている人には憧れますねー。
あれ、なんの話だ? (笑)
ふとした時に甦り、気がつけば口ずさんでいる。
学生街もお洒落になり
学生たちはさらにお洒落になり
反戦や学費闘争は歴史の勉強で習うことになる。
時は流れた
学生たちが自分の子供たちの年齢になっても
私の中の大学生のイメージは
汚いシャツとたばことお酒
イメージの中では
時は流れないのかもしれないですね。
そして、この憧れは「いちご白書・・」へと
つながるのですよね。
下宿にガロのテープありましたよ。
「学生街・・・」はもとより「姫鏡台」が好きでよく聴いていました。
大学に入った頃は、学生運動は当に終わっていましたが、高野悦子「二十歳の原点」にはまったのは、これらが遠因でしょう。
こういう時代の息吹を吸いながら「卒業」した僕達は、幸せなのかも知れませんね。
確かに大学生のイメージは変わりませんね。それにしても、まだ自分が大学生だったときの夢を見たりする僕は、成長していないのでしょうか(汗)。時は流れたのに。
その日の午後、僕はいつもの喫茶店に居た。
コンクリ打ちっぱなしの、椅子の硬い喫茶店。
そこのかぼちゃプリンが好きな君は
午後の休講の時間によくやってくることを知っていた。
君にどうしても言いたいことがあった。
どうしても伝えたいことがあった。
君がやってきた。
僕はどうしても言いたかったことを
どうしても言えずにいた。
やっぱり時はあれからずいぶん流れてしまいましたね(笑)。今なら何でも言えそうな気がする。((爆))
僕の頃には学生運動など彼岸の時代でしたが、僕が自転車で通っていた大学にはなんとなしに、その頃の残り香があったような気がします。先達たちのおかげでしょう。高野悦子もその先達の一人。
彼女が居た京都広小路のキャンパスは既に無く移転してしまっていて、「しあんくれーる」に通うことも出来ませんでしたが、息づいていたものを感じられただけでも幸せでした。あれから20年。まだ大学にそんな気配は残っているでしょうか…。
私は67年生まれなんですが、大学にまだ学生運動家っぽい人がいて、「しあんくれーる」にも通ってましたよ。
僕と2歳違いということは、同じ大学時代の空気を吸われた方ですね。
確かに僕の時代にも学生運動っぽい人はたくさんいました。表立っていたのは、R館では民青でしたが、D社には中核派もいましたね。
ただ、時代の空気というものが決定的に違うような気が僕はしていたのです。学生運動が是か非かということではありません。むしろ、盛んなりし当時は「ノンポリではいられない」という雰囲気の中、本来さほど主張を持っていない人たちも立ち上がっていました。それは必ずしも正しいことではないとは思うのですが、少なくとも「熱気」だけはありましたね。
一例。
僕が子供の頃、学生デモを何度か見たことがあります。その頃は、三派はもちろん隆盛でしたが黒ヘルも居ました。懐かしい「ノンセクト・ラディカル」ですね。その彼らがデモのとき「唐獅子牡丹」を歌いながらデモっていたのです。
子供の僕はそういうものだと思って見ていましたが、後になって考えるとこりゃあヤ○ザの出入りです。右翼か左翼かわからない(笑)。そんな人たちも学生運動に身を投じていたのです。時代の空気としか言いようがありません。
これがいいことかどうかはわかりません。しかし、80年代後半の大学の雰囲気とは違うことは確かです。
「しあんくれーる」に行ったことはありますが、「通う」とまではいきませんでした。もう高野悦子の大学は広小路から衣笠へ全て移転完了していましたから。「しあんくれーる」は遠いのですよ。僕が府立医科大にでも通っていたのなら日常的に行ったでしょうけれどもね(滝汗)。