やしきたかじんと言う人は(以下敬称略。たかじんさんでは雰囲気がちょっと)、今は関西屈指の毒舌司会者であり知らない人はいない。上沼恵美子と双璧だろう。その独特のパネルと指し棒を使った新作ドラマや芸能人を罵り笑う芸風(と言っていいのか)は比類がなく、まさしく何も怖いものがない「たかじんしか出来ない」世界である。絶対に生では放送できない。「たかじん胸いっぱい」は関東でもローカルで放送しているらしいが、「ムハハnoたかじん」「たかじんのそこまで言って委員会」などは全国ネットでは無理だろう。批判の電話が鳴り止まない可能性もある。
「たかじんnoばぁ~」「たかじんONE MAN」「晴れ時々たかじん」など冠番組を数えると…どれだけ売れているかわかる。意外に長寿番組もある。かつてのたかじんを思い起こすと隔世の感がある。しかしたかじんも番組を降ろされまくって今の地位をようやく築いたのだ。歯に衣を着せないトークが受けいれられるまでずいぶん時間がかかったのである。
しかしながら、やしきたかじんの本業は歌手である。何を今さら、であるが関西のオバちゃんにはたかじんを歌手だと知らないでただ「おもろい兄ちゃん」と認識している人もいるのだ。むしろ関西以外の人の方が、カラオケの定番曲を何曲も持っている関係から歌手としてとらえている人の割合が多いのではないか。
歌がとにかく上手い人である。この「上手い」という言い方で本当は表しきれないほど上手いのである。どういうレベルで上手いかと言うと、越路吹雪や美輪明宏のレベルで上手いのである。そんじょそこらではない。
うたが表現力である、とすればちょっと比較する人がいないくらいだと僕は思う。歌に思いを込めることで言えば、この人レベルの人は…上田正樹くらいしか僕は思いつかない。(あくまで僕の感じ方です)
この人を最初に知ったのはもちろん深夜ラジオなのだけれども、いつだったろうか。もう30年近く前になってしまうのではないか。鶴瓶師匠の友だちということで出演したときが最初だったかもしれない。当時はやっぱりフォーク歌手だったと思う。身の上話を聞いたことがあるのだが、高校時代新聞部部長だったたかじんは大学に入り新聞記者になろうとしたが親の反対にあって勘当、退学して京都にうつり、流しをやったりして生計をたて「ゆめいらんかね」でデビューしたという話である。
優しい女がひとり居た 愛していたし愛された
春になればアパート借りて 二人で暮らす約束だった
とりたての涙いらんかね 優しい女知らんかね 夢ひとついらんかね
子供にもわかる歌の細やかさ。乱暴な口調と違った優しさ。ギター一本で歌うたかじんに感動した。「ズバリク」で聴いたのか「ぬかるみの世界(新野新&鶴瓶のまったりラジオ)」で聴いたのか今では記憶が定かではない。
ラジオでは「ながばなし」などの名曲がよく流れた。このうたの「もしもし~十円玉はまだありますか…」というフレーズが印象的だった。携帯の今の世の中では通用しない話に違いない。
その後、たかじんも「ズバリク」のパーソナリティーとなり思い切り毒舌を吐くようになったが、問題の多い発言が多くすぐに降板となった。最終回のいつもよりおとなしいたかじんの放送をよく憶えている。
その後たかじんはどうしたのか。しばらく東京に出ていたらしい。歌の上手さは折り紙つきである。名曲「明日になれば」は東京に行ってからの歌だったろうか。
その後「ガンダム」のテーマソングも歌いメジャーになる。この「砂の十字架」は売れただろうけれども、ガンダムファンでたかじんも好きだった僕だったのだが、どうしても両者が結びつかなくて違和感が全身を襲ったことを憶えている。
「ラブ・イズ・オーヴァー」や「Too far away」を歌ったのはこの頃だっただろうか。たかじんにはオリジナルソングを歌って欲しいと思っていたのだけれど。
しばらくして大阪に帰ってきたたかじんは、大阪で番組を始め、とうとう「あんた」をリリースする。
うちのことはええからね どうせ命は預けたんやから
この歌は伊藤薫さんの歌。「Too far away」からの縁だったのかもしれないがこんなにたかじんにマッチした曲はない。大阪の男と女の泥臭い恋愛を描いたこの歌は関西で静かにブームとなった。「大阪で生まれた女」「悲しい色やね」と並んで三大大阪ソングと言われたような言われなかったような。
女でよかった あんたに出逢えたからね…
そのあと「やっぱ好きやねん」「ICHIZU」といかにも浪花の垢抜けない不器用な男と女の物語の歌をリリースし、オバちゃんたちは痺れ、おっさんたちはカラオケの定番が出来たと喜んだ。しかし、僕も「ICHIZU」とか歌ったことがあるけれども、たかじんの歌は相当の歌唱力がないと上滑りしてしまう。気をつけた方がいい。僕も歌ってから後悔した。
その後の活躍はご存知のとおり。関西を中心に人気爆発である。しかし毒舌と「パネル芸人」の側面だけが浸透して歌がどこかへ行ってしまうのではないかと不安になる。一時期は歌手業休止宣言もした(解除されましたが)。今はコンサートもディナーショーもやっておられるようでまずは安心なのだけれども。
「再会-After Five Year-」は、たかじんが大阪へ帰ってきた頃の曲だから…もうそれでも20年くらい前になってしまうのだろうか(じゃ「あんた」も20年前やな)。
傷つけあった痛みも懐かしさにすり替える いつでも時は優しい味方…
大人の歌だな…と思った。僕は当時、まだ世間の荒波も知らない無邪気な時代だったと思う。恋愛も単純なものしか経験がない頃で、男女の機微などというものとかなり遠いところで生きていたので、別れたあとまたこうして始められる「大人の世界」にはちょっと憧憬を持ったものだった。
君と生きたあの日よりも深い愛に 出逢うことは出来なかったよ
この曲を最初に聴いたのはレコードではなくてTVで見たライブだったと思う。とにかく圧倒的な歌唱力にシビれた。
当時はまだこういう歌を聴いても背伸びしている感が否めなかったものだが、さすがにこの歳になるとじんわりと沁みる。40歳にならないと等身大で聴けないのか、と自分でも呆れるが。
僕を見つけて右手を上げる君の瞳 哀しみも ためらいも消してくれる
表通りを君が渡ってやってくれば ゆきすぎる風さえも道を空ける
君の姿を昔のように見つめられる 満ち足りたこんな日を待ってたんだ…
今日も昼間、たかじんの番組をダラダラと見ていて笑っていた。この人の「話芸」は本当に天下一品だ。そんでもってこんなに泣かせる歌をうたうわけだから、そりゃキタの新地ではモテモテでしょうよ。そんなに天は何物も与えなくてもいいのに、とちょっと嫉妬混じりで考えてみたりもするのである。
「たかじんnoばぁ~」「たかじんONE MAN」「晴れ時々たかじん」など冠番組を数えると…どれだけ売れているかわかる。意外に長寿番組もある。かつてのたかじんを思い起こすと隔世の感がある。しかしたかじんも番組を降ろされまくって今の地位をようやく築いたのだ。歯に衣を着せないトークが受けいれられるまでずいぶん時間がかかったのである。
しかしながら、やしきたかじんの本業は歌手である。何を今さら、であるが関西のオバちゃんにはたかじんを歌手だと知らないでただ「おもろい兄ちゃん」と認識している人もいるのだ。むしろ関西以外の人の方が、カラオケの定番曲を何曲も持っている関係から歌手としてとらえている人の割合が多いのではないか。
歌がとにかく上手い人である。この「上手い」という言い方で本当は表しきれないほど上手いのである。どういうレベルで上手いかと言うと、越路吹雪や美輪明宏のレベルで上手いのである。そんじょそこらではない。
うたが表現力である、とすればちょっと比較する人がいないくらいだと僕は思う。歌に思いを込めることで言えば、この人レベルの人は…上田正樹くらいしか僕は思いつかない。(あくまで僕の感じ方です)
この人を最初に知ったのはもちろん深夜ラジオなのだけれども、いつだったろうか。もう30年近く前になってしまうのではないか。鶴瓶師匠の友だちということで出演したときが最初だったかもしれない。当時はやっぱりフォーク歌手だったと思う。身の上話を聞いたことがあるのだが、高校時代新聞部部長だったたかじんは大学に入り新聞記者になろうとしたが親の反対にあって勘当、退学して京都にうつり、流しをやったりして生計をたて「ゆめいらんかね」でデビューしたという話である。
優しい女がひとり居た 愛していたし愛された
春になればアパート借りて 二人で暮らす約束だった
とりたての涙いらんかね 優しい女知らんかね 夢ひとついらんかね
子供にもわかる歌の細やかさ。乱暴な口調と違った優しさ。ギター一本で歌うたかじんに感動した。「ズバリク」で聴いたのか「ぬかるみの世界(新野新&鶴瓶のまったりラジオ)」で聴いたのか今では記憶が定かではない。
ラジオでは「ながばなし」などの名曲がよく流れた。このうたの「もしもし~十円玉はまだありますか…」というフレーズが印象的だった。携帯の今の世の中では通用しない話に違いない。
その後、たかじんも「ズバリク」のパーソナリティーとなり思い切り毒舌を吐くようになったが、問題の多い発言が多くすぐに降板となった。最終回のいつもよりおとなしいたかじんの放送をよく憶えている。
その後たかじんはどうしたのか。しばらく東京に出ていたらしい。歌の上手さは折り紙つきである。名曲「明日になれば」は東京に行ってからの歌だったろうか。
その後「ガンダム」のテーマソングも歌いメジャーになる。この「砂の十字架」は売れただろうけれども、ガンダムファンでたかじんも好きだった僕だったのだが、どうしても両者が結びつかなくて違和感が全身を襲ったことを憶えている。
「ラブ・イズ・オーヴァー」や「Too far away」を歌ったのはこの頃だっただろうか。たかじんにはオリジナルソングを歌って欲しいと思っていたのだけれど。
しばらくして大阪に帰ってきたたかじんは、大阪で番組を始め、とうとう「あんた」をリリースする。
うちのことはええからね どうせ命は預けたんやから
この歌は伊藤薫さんの歌。「Too far away」からの縁だったのかもしれないがこんなにたかじんにマッチした曲はない。大阪の男と女の泥臭い恋愛を描いたこの歌は関西で静かにブームとなった。「大阪で生まれた女」「悲しい色やね」と並んで三大大阪ソングと言われたような言われなかったような。
女でよかった あんたに出逢えたからね…
そのあと「やっぱ好きやねん」「ICHIZU」といかにも浪花の垢抜けない不器用な男と女の物語の歌をリリースし、オバちゃんたちは痺れ、おっさんたちはカラオケの定番が出来たと喜んだ。しかし、僕も「ICHIZU」とか歌ったことがあるけれども、たかじんの歌は相当の歌唱力がないと上滑りしてしまう。気をつけた方がいい。僕も歌ってから後悔した。
その後の活躍はご存知のとおり。関西を中心に人気爆発である。しかし毒舌と「パネル芸人」の側面だけが浸透して歌がどこかへ行ってしまうのではないかと不安になる。一時期は歌手業休止宣言もした(解除されましたが)。今はコンサートもディナーショーもやっておられるようでまずは安心なのだけれども。
「再会-After Five Year-」は、たかじんが大阪へ帰ってきた頃の曲だから…もうそれでも20年くらい前になってしまうのだろうか(じゃ「あんた」も20年前やな)。
傷つけあった痛みも懐かしさにすり替える いつでも時は優しい味方…
大人の歌だな…と思った。僕は当時、まだ世間の荒波も知らない無邪気な時代だったと思う。恋愛も単純なものしか経験がない頃で、男女の機微などというものとかなり遠いところで生きていたので、別れたあとまたこうして始められる「大人の世界」にはちょっと憧憬を持ったものだった。
君と生きたあの日よりも深い愛に 出逢うことは出来なかったよ
この曲を最初に聴いたのはレコードではなくてTVで見たライブだったと思う。とにかく圧倒的な歌唱力にシビれた。
当時はまだこういう歌を聴いても背伸びしている感が否めなかったものだが、さすがにこの歳になるとじんわりと沁みる。40歳にならないと等身大で聴けないのか、と自分でも呆れるが。
僕を見つけて右手を上げる君の瞳 哀しみも ためらいも消してくれる
表通りを君が渡ってやってくれば ゆきすぎる風さえも道を空ける
君の姿を昔のように見つめられる 満ち足りたこんな日を待ってたんだ…
今日も昼間、たかじんの番組をダラダラと見ていて笑っていた。この人の「話芸」は本当に天下一品だ。そんでもってこんなに泣かせる歌をうたうわけだから、そりゃキタの新地ではモテモテでしょうよ。そんなに天は何物も与えなくてもいいのに、とちょっと嫉妬混じりで考えてみたりもするのである。
うたは当時からビシバシと情感に響いてきてましたよ。ガキでもわかる歌の上手さ(笑)。
ヘップナビオの観覧車は乗ったことがないですよ(笑)。乗ろう乗ろうと思っていて今に至ってしまっています。しょうがないのでドンキの観覧車にでも乗るか(笑)。
関西人を知るには、これを見なさい!!
と関西在住の友達から、松竹新喜劇と吉本新喜劇、そしてたかじんのそこまで言って委員会などが入ったビデオが送られてきました。
それも、お誕生日祝いに(笑)
その後もおもしろい番組をセレクトしては送ってくれますので、関西の番組っておもしろいって
笑ってみています。
が…たぶん、関東では放送したらクレームの嵐のような番組もあることも確かですね。私は好きですが…。
文化の違い。
いろいろな地方の人が集まっている東京という街では、たぶん、個性というのは毒なのかもしれませんね。
ネタと言う言葉も、このところのお笑いブームで
ようやく定着したようなもので…。
たかじんの歌をライブで聴いてみたくなりました。明日、ちょっとCD探しに行ってみようかな。
カラオケでも、歌唱力とともに、ネイティブな関西弁が話せる人でないと、たかじんの曲は歌えないような気がします。
これを書きながら、なぜか梅田のヘップナビオの
観覧車が思い浮かんでしまった(笑)
尊敬の意を込めてTBさせていただきました。