「哀しみのバラード」という曲を僕が初めて聴いたのは、おそらくコッキーポップだっただろう。僕は小学生か、あるいは中学に入っていたか。以降、数度ラジオで聴いた。そのうち一度は、うまくエアチェックに成功して、僕の雑音だらけのカセットテープにまだ残っている。
当時僕はまだ少年だったけれど、心に残る曲となった。
北へ 北へ 北へゆく船の 汽笛さえも遠のくよ
街を 街を 街を追われて 涙ぐんでた哀しい友よ
北へ、北へ北へと三度繰り返す。以後もこの言葉の繰り返しがきわめて印象的だった。シンプルながら、その強調が響く。この繰り返しは、哀しい。タイトルどおりだけれど、ここには慟哭がある。傷つき旅立つ友への歌だけれども、見送る側もまた、哀しい。
根田成一というミュージシャンについては、全く知識がない。ずっと知らないままだったのだけれど、ネットの時代となっていろいろ調べることが出来た。
当然ポプコンに出場しているはず、とサイトを見れば、第11回にその名がある。優秀曲賞だ。出身支部は「仙台」となっている。東北の方か。確かになんだかそんな感じがするな。この年のグランプリは「グッドバイ・モーニング」。「あぁ…褪せた夕陽に包まれて今…」という歌か。知ってる知ってる。この歌の作詞は上記サイトでは「ゆいまこと」となっているがこれが庄野真代のペンネームだということを知ったのはずいぶんと後の話である。他には佐々木幸男、また渡辺真知子の名前も見える。
では世界歌謡祭は。第7回の入賞曲に「哀しみのバラード」がある。やはりグランプリは「グッドバイ・モーニング」だった。
この曲は当時、どのくらい知名度があったのだろうか。僕はまだ小学生だったのでよく分からない。前年度のポプコンは中島みゆきの「時代」そして因幡晃の「わかってください」という大ヒットを生んだのだが、「哀しみのバラード」はラジオで数度聴いただけであり、僕がラジオっ子でなければ知らずにきた可能性もある。
そして、僕の中ではどちらかといえば「隠れた名曲」の世界に属すると思っていた「哀しみのバラード」だが、後に意外な場所から聴こえてきた。それからまた何年かのち、学生の時に旅していた北海道である。
僕は19歳の夏に自転車で自宅から北海道まで走るという旅行をしていたのだが、その北の果ての稚内にあるユースホステルで「哀しみのバラード」を聴いた。いや正確には、旅人が数人で歌っているのが聴こえてきた。
「哀しみのバラードじゃないですか。いい歌ですよね」
「ん、知ってるの?君も島帰り?」
「え??」
どうも礼文島にあるYHでの愛唱歌のひとつになっているらしい。
今から四半世紀も前のこと。YHでは「ミーティング」と称して食事後のひととき、宿泊者が集まって交流を深める時間というものがたいてい設定されていたが、そこで皆で歌をうたったりすることも多々あった。歌のセレクトはYHにより様々だったが、どうやら礼文島にあるYHでは「哀しみのバラード」もそのひとつであるらしい。なるほど。
北へ 北へ 北へ行く船の 汽笛さえも遠のくよ
北へ行く船というのは、「北」を北海道と考えてももちろん青函連絡船や様々なフェリーなどがあったが、最北をゆく船は利尻島、そして礼文島へ渡る船だろう。正確には稚内からだと「西へ」だけれども、この最北の地でそんな細かいことはどうでもいい。イメージとしては、北だな。「哀しみのバラード」がそんなところで歌われているのも分かるような気がする。
僕は、その旅では島に渡れなかった。北海道へ、北の果てへやってくるだけで日程をほぼ費やし、あとは帰るしかなかったからだ。
利尻島。道北を走っているときにもうその姿は見ていた。洋上に突然浮かぶ山塊。険しく厳しいのにも関わらず流麗さも併せ持つその山容。奇跡的に美しい。そして、その北に位置する礼文島。細長い台地の島で、季節には花が咲き乱れる。さぞかし素晴らしいところに違いない。
それから2年後、僕はその島たちに渡る機会を持った。今旅はフェリーでいきなり自転車ごと北海道に来たので、十分な時間があった。小樽で船を降り、そのまま北に向けてペダルを漕いだ。島に渡ろう。
3日かけて稚内まで走り、早朝のフェリーターミナルに僕は立っていた。そして利尻島行きの切符を持ち、船上の人となった。約2時間で船は、利尻の鴛泊港に着く。
独峰・利尻岳。とにかくカッコいい。日本は山国でどこに行っても山が連なっているが、独立峰も富士山を筆頭にいくつかある。だが、海の上に凛然と聳えたち、しかもここまで美しい山はそうないだろう。
とりあえず島のYHに投宿したが、まだ午前中である。自転車から荷物を外し身軽にして、島を一周する。約60kmでありさほど労力はかからない。姫沼、オタドマリ沼、仙法志、景勝地が多い。そしてどのポイントで仰ぎ見てもコニーデ型の山は美しい。ただ、少しづつ形を変えていく。それがうれしい。
一周の後、小休止。少し眠る。今宵に備えて、である。これから夜間登山を試みるのだ。
夕食を済ませた後、出発する。メンバーはYHの宿泊者有志約30名。まず海岸へ出る。ここは当然標高0m。標高どおり登りきろうという算段である。利尻は1721m。実働1721mというのは、日本アルプスでもそうはない。富士山だって五合目は2000mを超える。相当にキツい登山となる。我々は素人でも登りやすい鴛泊ルートを選択したが、それだってキツい。
夜の登山は眺望がない。ただ黙々と歩く。最初はわいわいと話しながらであったが、だんだん寡黙になる。厳しいのだ。加えて、天候も怪しくなる。霧が出てきた。
急登が一服したところが八合目。山小屋がある。僕は先頭集団にいたので、ここで後続を待つ。しかし、天候悪化と、思った以上の険しさにリタイヤする人が増える。そうだろう。ライダーブーツで登っていた人もいたのだ。結局、これより先に進めたのは6名だけだった。僕以外は、山経験のある人やワンゲル出身者など。そんなに簡単に登らせてはくれないのだ。
八合目からはさらに厳しくなる。徐々にぼんやりと薄明るくはなってきているが、稜線は両手両足を使わねば登れない場所も。なんとか歯を食いしばって登る。視界が悪い。だが、霧の向こうにローソク岩という鋭い岩峰が浮かんできた。もう少しだ。
そして登頂。なんと山頂は晴れていた。雲を抜けたのだ。眼下には雲海が広がっている。そして雲の色が刻々と変わり、御来光。こんな美しい朝日を今まで経験したことがない。僕に味方してくれた全てのものに感謝した。
下山は天候に恵まれた。太陽光が雲を吹き飛ばすのだろう。遥か遠くまで見渡せるのはさすが独立峰ならでは。隣の礼文島もよく見える。降りて少し休んだら、あの島へ渡る。
午後の便で礼文島に渡る。香深港へはあっという間だ。下船して自転車にまたがる。香深は島の南に位置し、ここが島では最も栄えている。
どこに泊まるかについては考えた。どうも「哀しみのバラード」が歌われているのは島の西岸にあるニシン番屋を改造したYHだと聞いている。しかし、人がどうも多すぎる。あまり騒がしいのは困るので、僕は島の北まで走り、船泊という集落のYHに投宿。
後の話になるが、数年後島の西岸にあるYHにも泊まってみた。熱烈なファンが多いYHであり頷かせる部分も多かったのだが、このときは、違う宿にして正解だったと思う。少し個を大切にしたかった。
その夜はゆっくり休んで体力を回復させ(なんせ前夜は徹夜で登山をしたのだ)、翌日は宿泊者20名程で漁船をチャーターし(割勘にすると千円ちょいだから大したことはない)、島の北に浮かぶ「トド島」という無人島へ渡る。ジンギスカンの用意をして。ビールもしこたま積み込む。
いい島だ。さすがにトドまでは見られなかったが、ロケーションは最高である。島を探検して後、海岸でパーティー。日本各地から集まってきた旅人と楽しいひとときを過ごす。
実は、ここはウニ漁が盛んな場所。透明度の高い海であり、上から見下ろすだけでもうウニが手の届くところに見える。実際ちょっと潜ると、いくらでもバフンウニを手に取ることが出来る。もちろん、漁業権というものがあり勝手に獲ったりしては絶対にいけない場所である。
約20年以上も前の話ではあるが、やはりこれ以上は書けない。類推に任せる。ああ美味かった(ジンギスカンとビールが)。
礼文島は南北に細長い島である。そして車道は東海岸にしかない。だが景勝地は西岸に多く存する。岩礁険しく美しい風景。お花畑。それらに出逢おうと思えば、もう歩いていくしかない。遊歩道が西岸に延々と続く。この遊歩道を旅人は「愛とロマンの8時間コース」と呼ぶ。
これが目的で島へ渡ってくる人も多い。何ゆえ「愛とロマン」なのかと言うと、これは約30kmのトレッキングコースであり単独行はなかなか難しく、多くは何人かで誘い合って行く。つまり同宿した知らないもの同士が8時間も一緒に歩くわけだ。たいていは若い男女であり、ガレ場など足元の悪い場所も多く皆で協力して歩を進めるために、見知らぬもの同士が急接近する可能性も高い。実際、これがきっかけで結婚まで至った旅人同士も多いと聞く。
僕も、もちろん歩く。男性メンバーは、一緒に利尻山頂にまで登った仲間のうち2人と僕はまだつるんでいる。これは精鋭部隊である。ただ、男ばかりで歩いていては愛とロマンは生まれない(嗜好によっては生まれるかもしれないが僕はそうじゃない)。果たして参加者は他にいるか。
トド島から帰った日のミーティング(宿泊者の交歓会)。「翌日8時間コースに行く人は?」と声がかかると数名が手を挙げた。僕たち3名の他には、それこそ千差万別の旅人。総勢8名であり、比率は4:4。おっとこれは愛とロマンが生まれる可能性が出てきた。
その8名で自己紹介。大学の研究者、デザイナー、会社社長、ダンサーの卵etc…。旅でなければ絶対に接点のない人たちばかり。これは面白くなってきた。こういう言い方は宜しくないが、女性は皆奇跡的に美人ばかりである。男たちは張り切った。
翌日早朝、礼文島最北の「スコトン岬」まで送ってもらう。ここが出発点。ここから、島の南端まで歩くのだ。
僕はなぜか「リーダー」になっている。バカ体力を自慢するサイクリストだったからだろう。このお調子者の僕を含む男性陣はいろいろ考えた。まず、全員で島土産のTシャツを購入、ユニフォームとする。8人で揃えると一体感が生まれる。さあいこう。
道は、遊歩道とはいえ結構険しい。小山を登り、また岩場を歩き。しかし風景はさすがと言うべきで、海の青と空の青が融けてみえる。花もシーズンを外しているとはいえしっかりと咲いている。僕たちは語らいながらその空気を満喫していた。先日登ったばかりの利尻岳も姿良く天に向かって伸びている。
トレッキングコースとしては秀逸だと思う。気分がいい。山場かと思えば浜、草原のような尾根道、そして海沿いの道。僕たちはすっかり打ち解け楽しんでいた。
昼に差し掛かり、大休止。弁当を広げる。ここで男たちは集落で買ってきたスイカを割った。女性たちから歓声が上がる。よしよし。重いのを分担しつつここまで担いできた甲斐があったぞ。
後半も厳しい道は続いたが、すっかり和気あいあいとなった僕たちは多少の疲れも気にならず、夕刻、ゴールの地蔵岩に着いた。記念撮影会は延々と続いた。
「愛とロマン」が生まれたのかどうかはよく分からない。どちらかと言えばグループ交際的な感じもするのだが、何をやっても楽しい。宿に帰れば、みんなで寄せ書きをして興じた。あれだけ長い時間一緒にいたのに話は尽きない。
その翌日はメンバー全員で早起きし、宿近くの牧場へ遊びに行き、乳搾りをさせてもらう。その牛乳は「最北端牛乳」として売られている。さすがに濃厚なミルク。またすぐそばで「最北端たいやき」なるものも。何でも最北端と言えばいいものではないが、こういうものは旅情がある。
「たいやき、半分づつしようよ」
ダンサーの彼女が僕に言う。彼女とは、トレッキングの後半はずっと話をしていた。旅の話。今の自分の話。これからの夢の話。これが「愛とロマン」なのかどうかはよく分からない。共通体験が気持ちを盛り上げてくれているのだとは思うが。
僕たちは、全員昼の船で礼文島を離れることになった。香深港にフェリーが接岸している。僕たちは名残惜しくなかなか船に乗船することが出来ない。
港に、名物のジャンボソフトクリームがある。女の子たちはそれを食べている。でも大きすぎるようだ。ダンサーの彼女が「もうダメ。いっしょに食べて」と。なんだかとてもいい雰囲気になってしまっている。こんな美人とひとつのソフトクリームを一緒に食べていいものなのか。
そして出航。島の人たちの見送りがいつまでも響く。いいところだったな、利尻・礼文。忘れられない思い出を作ってもらった。
そして船は稚内に着く。
旅の仲間たち。僕はまだまだ旅を続けるけれども、もう帰らなくてはならない人もいる。女性たちはみんな札幌に向かうようだ。男たちと言えば、ひとりは「オレも一緒に列車乗るよ、ここで別れるの寂しいじゃん」。二人はライダーで「俺達も列車追いかけるぜ。ぶっ飛ばすから札幌で待っててくれよな」。そして一足先に爆音を残して走り去った。
僕も一緒に行きたかったが、自転車では追いかけられない。ここまで来るのに僕は3日もかかったんだ。無理だよ。僕は、ここでお別れになる。さよなら。
何処に 何処に 何処に行ったって俺は お前の事を信じているさ
果てしない夢と自由の中で 生きてた事をいつまでも いつまでも
旅はいつも出逢いと別れ。その繰り返し。僕はホームまでみんなを見送った。この別れを涙で表現してくれた貴女のことは、いつまでも忘れない。自分のために泣いてくれた人をみたのは、そのときがはじめてだった。
北へ 北へ 北へ行く船の汽笛さえも遠のくよ
涙 涙 涙流したけどそれでも生きていくだけ
「哀しみのバラード」 から遠く離れた話になってしまったけれども、僕がこのうたを今聴いて思い出すのは、その時の稚内駅のプラットホームだ。見えなくなるまで手を振ってくれた人。そしてホームが尽きるまで走った僕。列車が去った後の、あの寂寞とした風景。
そして僕は夕刻、ひとり北の果ての街にいた。寂しいな。無性に寂しいな。でも、明日も旅は続く。
当時僕はまだ少年だったけれど、心に残る曲となった。
北へ 北へ 北へゆく船の 汽笛さえも遠のくよ
街を 街を 街を追われて 涙ぐんでた哀しい友よ
北へ、北へ北へと三度繰り返す。以後もこの言葉の繰り返しがきわめて印象的だった。シンプルながら、その強調が響く。この繰り返しは、哀しい。タイトルどおりだけれど、ここには慟哭がある。傷つき旅立つ友への歌だけれども、見送る側もまた、哀しい。
根田成一というミュージシャンについては、全く知識がない。ずっと知らないままだったのだけれど、ネットの時代となっていろいろ調べることが出来た。
当然ポプコンに出場しているはず、とサイトを見れば、第11回にその名がある。優秀曲賞だ。出身支部は「仙台」となっている。東北の方か。確かになんだかそんな感じがするな。この年のグランプリは「グッドバイ・モーニング」。「あぁ…褪せた夕陽に包まれて今…」という歌か。知ってる知ってる。この歌の作詞は上記サイトでは「ゆいまこと」となっているがこれが庄野真代のペンネームだということを知ったのはずいぶんと後の話である。他には佐々木幸男、また渡辺真知子の名前も見える。
では世界歌謡祭は。第7回の入賞曲に「哀しみのバラード」がある。やはりグランプリは「グッドバイ・モーニング」だった。
この曲は当時、どのくらい知名度があったのだろうか。僕はまだ小学生だったのでよく分からない。前年度のポプコンは中島みゆきの「時代」そして因幡晃の「わかってください」という大ヒットを生んだのだが、「哀しみのバラード」はラジオで数度聴いただけであり、僕がラジオっ子でなければ知らずにきた可能性もある。
そして、僕の中ではどちらかといえば「隠れた名曲」の世界に属すると思っていた「哀しみのバラード」だが、後に意外な場所から聴こえてきた。それからまた何年かのち、学生の時に旅していた北海道である。
僕は19歳の夏に自転車で自宅から北海道まで走るという旅行をしていたのだが、その北の果ての稚内にあるユースホステルで「哀しみのバラード」を聴いた。いや正確には、旅人が数人で歌っているのが聴こえてきた。
「哀しみのバラードじゃないですか。いい歌ですよね」
「ん、知ってるの?君も島帰り?」
「え??」
どうも礼文島にあるYHでの愛唱歌のひとつになっているらしい。
今から四半世紀も前のこと。YHでは「ミーティング」と称して食事後のひととき、宿泊者が集まって交流を深める時間というものがたいてい設定されていたが、そこで皆で歌をうたったりすることも多々あった。歌のセレクトはYHにより様々だったが、どうやら礼文島にあるYHでは「哀しみのバラード」もそのひとつであるらしい。なるほど。
北へ 北へ 北へ行く船の 汽笛さえも遠のくよ
北へ行く船というのは、「北」を北海道と考えてももちろん青函連絡船や様々なフェリーなどがあったが、最北をゆく船は利尻島、そして礼文島へ渡る船だろう。正確には稚内からだと「西へ」だけれども、この最北の地でそんな細かいことはどうでもいい。イメージとしては、北だな。「哀しみのバラード」がそんなところで歌われているのも分かるような気がする。
僕は、その旅では島に渡れなかった。北海道へ、北の果てへやってくるだけで日程をほぼ費やし、あとは帰るしかなかったからだ。
利尻島。道北を走っているときにもうその姿は見ていた。洋上に突然浮かぶ山塊。険しく厳しいのにも関わらず流麗さも併せ持つその山容。奇跡的に美しい。そして、その北に位置する礼文島。細長い台地の島で、季節には花が咲き乱れる。さぞかし素晴らしいところに違いない。
それから2年後、僕はその島たちに渡る機会を持った。今旅はフェリーでいきなり自転車ごと北海道に来たので、十分な時間があった。小樽で船を降り、そのまま北に向けてペダルを漕いだ。島に渡ろう。
3日かけて稚内まで走り、早朝のフェリーターミナルに僕は立っていた。そして利尻島行きの切符を持ち、船上の人となった。約2時間で船は、利尻の鴛泊港に着く。
独峰・利尻岳。とにかくカッコいい。日本は山国でどこに行っても山が連なっているが、独立峰も富士山を筆頭にいくつかある。だが、海の上に凛然と聳えたち、しかもここまで美しい山はそうないだろう。
とりあえず島のYHに投宿したが、まだ午前中である。自転車から荷物を外し身軽にして、島を一周する。約60kmでありさほど労力はかからない。姫沼、オタドマリ沼、仙法志、景勝地が多い。そしてどのポイントで仰ぎ見てもコニーデ型の山は美しい。ただ、少しづつ形を変えていく。それがうれしい。
一周の後、小休止。少し眠る。今宵に備えて、である。これから夜間登山を試みるのだ。
夕食を済ませた後、出発する。メンバーはYHの宿泊者有志約30名。まず海岸へ出る。ここは当然標高0m。標高どおり登りきろうという算段である。利尻は1721m。実働1721mというのは、日本アルプスでもそうはない。富士山だって五合目は2000mを超える。相当にキツい登山となる。我々は素人でも登りやすい鴛泊ルートを選択したが、それだってキツい。
夜の登山は眺望がない。ただ黙々と歩く。最初はわいわいと話しながらであったが、だんだん寡黙になる。厳しいのだ。加えて、天候も怪しくなる。霧が出てきた。
急登が一服したところが八合目。山小屋がある。僕は先頭集団にいたので、ここで後続を待つ。しかし、天候悪化と、思った以上の険しさにリタイヤする人が増える。そうだろう。ライダーブーツで登っていた人もいたのだ。結局、これより先に進めたのは6名だけだった。僕以外は、山経験のある人やワンゲル出身者など。そんなに簡単に登らせてはくれないのだ。
八合目からはさらに厳しくなる。徐々にぼんやりと薄明るくはなってきているが、稜線は両手両足を使わねば登れない場所も。なんとか歯を食いしばって登る。視界が悪い。だが、霧の向こうにローソク岩という鋭い岩峰が浮かんできた。もう少しだ。
そして登頂。なんと山頂は晴れていた。雲を抜けたのだ。眼下には雲海が広がっている。そして雲の色が刻々と変わり、御来光。こんな美しい朝日を今まで経験したことがない。僕に味方してくれた全てのものに感謝した。
下山は天候に恵まれた。太陽光が雲を吹き飛ばすのだろう。遥か遠くまで見渡せるのはさすが独立峰ならでは。隣の礼文島もよく見える。降りて少し休んだら、あの島へ渡る。
午後の便で礼文島に渡る。香深港へはあっという間だ。下船して自転車にまたがる。香深は島の南に位置し、ここが島では最も栄えている。
どこに泊まるかについては考えた。どうも「哀しみのバラード」が歌われているのは島の西岸にあるニシン番屋を改造したYHだと聞いている。しかし、人がどうも多すぎる。あまり騒がしいのは困るので、僕は島の北まで走り、船泊という集落のYHに投宿。
後の話になるが、数年後島の西岸にあるYHにも泊まってみた。熱烈なファンが多いYHであり頷かせる部分も多かったのだが、このときは、違う宿にして正解だったと思う。少し個を大切にしたかった。
その夜はゆっくり休んで体力を回復させ(なんせ前夜は徹夜で登山をしたのだ)、翌日は宿泊者20名程で漁船をチャーターし(割勘にすると千円ちょいだから大したことはない)、島の北に浮かぶ「トド島」という無人島へ渡る。ジンギスカンの用意をして。ビールもしこたま積み込む。
いい島だ。さすがにトドまでは見られなかったが、ロケーションは最高である。島を探検して後、海岸でパーティー。日本各地から集まってきた旅人と楽しいひとときを過ごす。
実は、ここはウニ漁が盛んな場所。透明度の高い海であり、上から見下ろすだけでもうウニが手の届くところに見える。実際ちょっと潜ると、いくらでもバフンウニを手に取ることが出来る。もちろん、漁業権というものがあり勝手に獲ったりしては絶対にいけない場所である。
約20年以上も前の話ではあるが、やはりこれ以上は書けない。類推に任せる。ああ美味かった(ジンギスカンとビールが)。
礼文島は南北に細長い島である。そして車道は東海岸にしかない。だが景勝地は西岸に多く存する。岩礁険しく美しい風景。お花畑。それらに出逢おうと思えば、もう歩いていくしかない。遊歩道が西岸に延々と続く。この遊歩道を旅人は「愛とロマンの8時間コース」と呼ぶ。
これが目的で島へ渡ってくる人も多い。何ゆえ「愛とロマン」なのかと言うと、これは約30kmのトレッキングコースであり単独行はなかなか難しく、多くは何人かで誘い合って行く。つまり同宿した知らないもの同士が8時間も一緒に歩くわけだ。たいていは若い男女であり、ガレ場など足元の悪い場所も多く皆で協力して歩を進めるために、見知らぬもの同士が急接近する可能性も高い。実際、これがきっかけで結婚まで至った旅人同士も多いと聞く。
僕も、もちろん歩く。男性メンバーは、一緒に利尻山頂にまで登った仲間のうち2人と僕はまだつるんでいる。これは精鋭部隊である。ただ、男ばかりで歩いていては愛とロマンは生まれない(嗜好によっては生まれるかもしれないが僕はそうじゃない)。果たして参加者は他にいるか。
トド島から帰った日のミーティング(宿泊者の交歓会)。「翌日8時間コースに行く人は?」と声がかかると数名が手を挙げた。僕たち3名の他には、それこそ千差万別の旅人。総勢8名であり、比率は4:4。おっとこれは愛とロマンが生まれる可能性が出てきた。
その8名で自己紹介。大学の研究者、デザイナー、会社社長、ダンサーの卵etc…。旅でなければ絶対に接点のない人たちばかり。これは面白くなってきた。こういう言い方は宜しくないが、女性は皆奇跡的に美人ばかりである。男たちは張り切った。
翌日早朝、礼文島最北の「スコトン岬」まで送ってもらう。ここが出発点。ここから、島の南端まで歩くのだ。
僕はなぜか「リーダー」になっている。バカ体力を自慢するサイクリストだったからだろう。このお調子者の僕を含む男性陣はいろいろ考えた。まず、全員で島土産のTシャツを購入、ユニフォームとする。8人で揃えると一体感が生まれる。さあいこう。
道は、遊歩道とはいえ結構険しい。小山を登り、また岩場を歩き。しかし風景はさすがと言うべきで、海の青と空の青が融けてみえる。花もシーズンを外しているとはいえしっかりと咲いている。僕たちは語らいながらその空気を満喫していた。先日登ったばかりの利尻岳も姿良く天に向かって伸びている。
トレッキングコースとしては秀逸だと思う。気分がいい。山場かと思えば浜、草原のような尾根道、そして海沿いの道。僕たちはすっかり打ち解け楽しんでいた。
昼に差し掛かり、大休止。弁当を広げる。ここで男たちは集落で買ってきたスイカを割った。女性たちから歓声が上がる。よしよし。重いのを分担しつつここまで担いできた甲斐があったぞ。
後半も厳しい道は続いたが、すっかり和気あいあいとなった僕たちは多少の疲れも気にならず、夕刻、ゴールの地蔵岩に着いた。記念撮影会は延々と続いた。
「愛とロマン」が生まれたのかどうかはよく分からない。どちらかと言えばグループ交際的な感じもするのだが、何をやっても楽しい。宿に帰れば、みんなで寄せ書きをして興じた。あれだけ長い時間一緒にいたのに話は尽きない。
その翌日はメンバー全員で早起きし、宿近くの牧場へ遊びに行き、乳搾りをさせてもらう。その牛乳は「最北端牛乳」として売られている。さすがに濃厚なミルク。またすぐそばで「最北端たいやき」なるものも。何でも最北端と言えばいいものではないが、こういうものは旅情がある。
「たいやき、半分づつしようよ」
ダンサーの彼女が僕に言う。彼女とは、トレッキングの後半はずっと話をしていた。旅の話。今の自分の話。これからの夢の話。これが「愛とロマン」なのかどうかはよく分からない。共通体験が気持ちを盛り上げてくれているのだとは思うが。
僕たちは、全員昼の船で礼文島を離れることになった。香深港にフェリーが接岸している。僕たちは名残惜しくなかなか船に乗船することが出来ない。
港に、名物のジャンボソフトクリームがある。女の子たちはそれを食べている。でも大きすぎるようだ。ダンサーの彼女が「もうダメ。いっしょに食べて」と。なんだかとてもいい雰囲気になってしまっている。こんな美人とひとつのソフトクリームを一緒に食べていいものなのか。
そして出航。島の人たちの見送りがいつまでも響く。いいところだったな、利尻・礼文。忘れられない思い出を作ってもらった。
そして船は稚内に着く。
旅の仲間たち。僕はまだまだ旅を続けるけれども、もう帰らなくてはならない人もいる。女性たちはみんな札幌に向かうようだ。男たちと言えば、ひとりは「オレも一緒に列車乗るよ、ここで別れるの寂しいじゃん」。二人はライダーで「俺達も列車追いかけるぜ。ぶっ飛ばすから札幌で待っててくれよな」。そして一足先に爆音を残して走り去った。
僕も一緒に行きたかったが、自転車では追いかけられない。ここまで来るのに僕は3日もかかったんだ。無理だよ。僕は、ここでお別れになる。さよなら。
何処に 何処に 何処に行ったって俺は お前の事を信じているさ
果てしない夢と自由の中で 生きてた事をいつまでも いつまでも
旅はいつも出逢いと別れ。その繰り返し。僕はホームまでみんなを見送った。この別れを涙で表現してくれた貴女のことは、いつまでも忘れない。自分のために泣いてくれた人をみたのは、そのときがはじめてだった。
北へ 北へ 北へ行く船の汽笛さえも遠のくよ
涙 涙 涙流したけどそれでも生きていくだけ
「哀しみのバラード」 から遠く離れた話になってしまったけれども、僕がこのうたを今聴いて思い出すのは、その時の稚内駅のプラットホームだ。見えなくなるまで手を振ってくれた人。そしてホームが尽きるまで走った僕。列車が去った後の、あの寂寞とした風景。
そして僕は夕刻、ひとり北の果ての街にいた。寂しいな。無性に寂しいな。でも、明日も旅は続く。
懐かしくなりました
僕も秋田は毎年行きます。八幡平に行きつけの宿があります。
香港でカヴァーについては早速検索してみたいと思います。
「哀しみのバラード」・・・
今でも歌い継がれています。
また、恐縮ですが、僕もフォーク酒場なんぞで歌わせて頂いております。
僕が言うのも変ですが、貴重なお話有難うございました。
僕は何も知らずに「歌の記憶」だけでこれを書きましたので、東北の方というところまでで止まりました。大館の方だったのですか。
私事になりますけれど、妻の実家が津軽なので僕も帰省をするのですが、旅が好きなのでいつも新幹線などは必要最少限度に止めて、奥羽本線で行ったりまた盛岡から花輪線を利用したりします。毎年一度は必ず大館に寄り、あたりをぶらつきそして駅弁の鶏めしを食べるのを楽しみにしています。今年の正月は花輪線も豪雪で止まり、吹雪いて散歩もままならず駅にずっといましたが、ハチ公の映画のスナップがたくさん飾られていました。
大館といえば因幡晃さんのイメージがあったのですが、近い時代に根田成一さんもいらっしゃったのですね。この時代の、大館の音楽界の密度の濃さに驚きます。どういうムーブメントだったのでしょうか。おっしゃるように「アマチュアリズムの純粋性」「ピュアな感性」に溢れていたのでしょうね。
これから、大館を訪れるときの僕の視線は全く以前とは異なるものになるでしょう。
香港でカヴァーされたとか。申し訳ありませんが今はこういう時代ですので、レスリー・チャンの当該曲をすぐ聴くことが出来ました。夏韶聲という人もカヴァーしているようですね。
名曲は普遍なのだと本当に思いました。あちらではクレジットが詞・曲の順ではなく曲・詞で示されるようで、「作曲・根田成一」とまず一番に出てきますと、何だか僕などでも胸が熱くなりました。
そして日本でも、今もその人気は衰えず。
こんな僕のブログにさえも、アクセス解析を見ますと月に何十件も「根田成一」という検索ワードで訪れる方がいらっしゃいます。「哀しみのバラード」「北へ北へ北へ 歌詞」なども併せますと結構な数で、相当の方が根田さんのことを探しています。
根田成一さんは今も「時代の音」として普遍の存在であるとともに、今後も永遠だろうと思われます。いつまでも、歌い継がれていくに違いありません。
わざわざコメントをいただき、恐縮でした。本当に素敵なお話をありがとうございました。
「根田成一」というキーワードを検索する人が今もいるということに、ちょっと不思議で照れ臭いような懐かしい感じがします。
彼の出身は忠犬ハチ公の故郷、秋田県の大館市です。ヤマハのコッキーポップ、世界歌謡祭と同世代にはたまらなく懐かしい時代の空気とも言えるステージがそこにはありましたね。
ここ数日メディアをにぎわせたアイドルグループの「総選挙」なるものとは異質な、アマチュアリズムの純粋性があったように思います。まあこう書くこと自体、自分が年とった証拠かもしれませんが…
「哀しみのバラード」がラジオから流れていた時、中学生だった僕もドキドキしながら聴いていたものです。この当時の大館は若者たちの音楽への思いというか、今では笑ってしまうほどのぎこちなくもピュアな感性をどうしても表現したいという思いにあふれていました。
礼文島で島歌の様に歌われていたということには驚きと共にそうかという感じです。「時代の音」は普遍ですね。
本人の手から離れた、そんな「哀しみのバラード」は、香港のアーティスト、レスリー・チャンの「SALUTE(サルート)」というアルバムに、中国語の歌詞で「童年時」というタイトルでおさめられています。あの頃の日本の感性はアジアに受け入れられたのかもしれませんね。
根田成一、彼は今僕の兄として、正確には姉の亭主として、横須賀で暮らしています。
「哀しみのバラード」が誰のために書かれたのか、それは触れないでおく事にします。みなさん本当にありがとう。
でも、このうただけですよ。特別です。
僕は、嫁もホステラーなので結婚して後も何年かはYHも使っていたのですが、その頃でもやはり同世代が多く学生が少なかった印象があります。あのまま世代はスライドしてるんだな(笑)。楽しさを知っているからなんでしょうね。
あーそういうものなのですか?
「街」は僕も島へ渡る前から知っていた歌ですが、「それなりにアレンジしてるなぁ…」って感じで歌ってましたね!
その部分だけでなく、他の部分の歌詞も島の思い入れのある風景を歌っているからだと思います。
まぁ、その辺は感じ手の自由なので、しょうがない部分もありますし、アノ場所で過ごした時間なんかも関係するかもですしね!
でも、今のYHやらあの手の民宿って学生よりも僕らの世代が多いですよ!
8時間を一緒に歩いたメンバーと20年以上経って青森のYHで再会なんてのもありましたヨ。
「この島が好きさ~」と歌われると京都生まれでナターシャ好きの僕はたまらない違和感を覚えます(笑)。
>「哀しみのバラード」を島のオリジナル
そうなんですよね!
原曲の「街」なんかも知らないヘルパーさんも居ますよ。
四半世紀前のヘルパーがそうなんですから、今のヘルパーが知っている訳ないですよねぇ~。
では、2曲目にレスさせて頂きますね!
そうそう、南の八重山の離島群も大好きですヨ!
僕は「島」の経験は少ないんですが、フォーク好きがああいうところへ行くと案外温度差に驚いたりしますね。
僕がそこに置いてあったギターでちょっと遊んでますと、それを聴いて「叫ばない"遠い世界に"って初めて聴いたぜ」と僕に言ったベテランヘルパーがいました。西岡たかしという人物も知らないようで。逆に「へー」と驚いたり(笑)。
本文で書いた「君も島帰り?」の人は、「哀しみのバラード」を島のオリジナルだと思っていたようです。いろいろですね。
僕も北が好きで(南も好きですが♪)、北海道の話はいろいろなところで顔を出しています。書きためたものを読んでいただくほどうれしいことはありません。ありがとうございます。
お初ですが、宜しくお願いします。
「哀しみのバラード」は僕もコッキーポップで聞いて知りました。
何を隠そう当時、僕も北海道フリークで長期の休みには、夏冬問わず周遊券を握り締めて旅立ったものでした。
また「島」でこの歌を聞いた時には、逆にビックリでした。当時この歌を歌っているヘルパー陣も「根田成一」という人は知らないようでした。
「INDEX 好きな歌・心に残る歌」を拝見致しました。僕の好きなレアな歌が入っていて、これまた驚いております。
またコメントさせていただいても宜しいでしょうか?
なんだか懐かしいですね確かに。僕のここでの稚内の話は後から出来た「モシリパYH」の出来事なんですが、稚内ユースのカレーの話は聞いたことがある。昔、こまどりハウスと言ってなかったかな。
うたも、いろいろなうたが流れていましたね。僕は今、堕落と申しますか何と申しますか、ママチャリで町を走っています。あのときのランドナーも、ロードレーサーも今はもう所持していません…。
この話では結局旅の話しかしてませんで。僕は時々こういう話を書いてしまいます。「おもかげ色」とか「寒い国から」とか。これ、自分が書きたいから書いてるんで、読まれる側からすれば分かりにくい話だとは思うのですよね。独りよがりで情景が浮かびにくいかと。何年後かに「トド島」とか「8時間コース」とかで検索されてごく一部の人に共感が得られればいいや、と思って書いてます。
でもまあ、旅の風景はともかくとしても、この年頃の若者の揺れる心なんてのは、わりと分かってもらえるかも、と。この時代は打算もウラ読みもしませんでしたからね。
「淡い想い」とか「ちょっと欠けた勇気」とか、いろいろ紋切り型の表現は出来るでしょうけど、そう言ってしまいたくもない。青春、と類型化もされたくない。もっと熱っぽくも涼やかな、失いたくない痛切な何物か、であるのですが、うまく表現できません。よぴちさんの、せめて忘れたくない「感覚」というのも分かる。そうなんだよなー。
「哀しみのバラード」、残念ながら記憶には無かったですが(当時のコッキーポップは欠かさず聴いていたはずなのに)、なぜか、聴いた瞬間、鼻がツンときました。
どうにも私は、70年代によく聴いた曲を聴くと無条件に泣けてしまうところがあるのですが、この曲は記憶にないのに、なんでか、泣けてきた。
音、でしょうね。音が、どうにも私にとって70年代を思わせるのでしょう。
凛太郎さんの「旅」の話を先に読んでから曲を聴いたせいか、私の中でも、この曲には「旅」のイメージが乗っかってきた。こういう、間違いなく自分なり相手の「性」を意識しているのだけれど、たぶん「大人」たちが思うような感情を抱いたり行動をしたりはしない、そんな「感覚」を、せめて忘れたくない。今、実行は出来なくても。
なんか、朝から、とても清々しい気持ちになりました。凛太郎さん、ありがとう。
でも確かに僕にとっては思い出の断片は劇的に追憶として残り、映像として脳裏のスクリーンに映されます。
「ロードムービーのような美しい物語」と書いてくれて本当にありがとうございます。美しいかどうかはともかく、僕にとってはこういう場面は、確かに映画のワンシーンのように甦るのです。
「哀しみのバラード」。素朴ですがいいうたですね。
結局、今でも追憶に連なるうたは、あの頃のラジオから流れてきたメロディが基盤になっています。
忘れたいもの・留めておきたいもの。それはアラレさんがおっしゃった「変えたいもの・変えたくないもの」にも通じる面があると思います。忘れてもいいこと。忘れなくちゃいけないこと。忘れたくないこと。忘れてはいけないこと。
そんな「忘却の波に抗いそして大切に残してきた」自分の中の物語を今年も少しづつ書いていけたら、と素直に今思っています。
私を含め周りにもそんな人が増えています。
ロードムービーのような美しい物語。
また会おうね!
手紙書くよ!
旅先の別れで交わした約束は
日常に戻れば優先順位が後ろに回り、気づけば時だけが経っている。
時を逃した切なさと宿題を提出しなかった時のような淡い後ろめたさだけが残る約束。
2009年の終わりに綴られた美しい物語。2010年の始まりに出会えたことがうれしいです。
コッキーポップ
テレビだけじゃなくラジオ番組もありましたね。
♪哀しみのバラード
記憶になかったけど聞いてみたら
私も聞いていたことを思い出しました。
毎晩のようにつけっぱなしにしていたラジオの深夜放送。
明かりを消した
自分の部屋の光景が浮かんできました。
2010年のこの記事を読んだ記憶が…十数年後に蘇ったら素敵だな。
神様が人間に与えてくれた力の一つに忘れるという力があると言います。
忘れることが生きていくために必要な力なら
忘れないこともまた大切な力なのかもしれないですね。
今年も懐かしい歌を思い出させて下さい。