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凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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寿司屋で酒を呑む その弐

2013年03月30日 | 酒についての話
 さて、前回の続きで、とある寿司屋に入った話。

 と言いつつ、まだ入らないのである。ホテルの部屋の窓から店の構えを見て、もう入ることは決めているのだが、その前にビールを一杯飲みたい。ちょっと疲れて喉が渇いていたということもあり、また公的自分から私的自分へ移り変わる儀式でもある。
 ビールなど寿司屋に入って注文すればいいだろう。まさにその通りなのであるが、僕は寿司屋ではビールを飲みたくない偏狭者だということを既に書いている。
 …なんてゴタクを並べたが、実はホテルフロント横に喫茶軽食コーナーがあって、そこに生ビールサーバーを発見したのだ。寿司屋に生ビールがあるとは限んないもんね。僕はそこでまずゴクゴクと生中を飲み干し、ほろ酔い気分で勇躍寿司屋に出かけた。

 さて、寿司屋ののれんをくぐる。もちろん初めての店であり、ちょっと緊張したりして。
 宮脇俊三氏が、こんなことを書かれていた。大都市では細分化される業種が小さな町では未分化となると。主題はビジネスホテルがラブホテルとして利用されたりもする、というような話だが、「小都市で寿司専門の店を探すのはむずかしい。たいてい鰻屋と天ぷら屋を兼業している。私は鰻が好きだが、あの臭いを嗅ぎながら寿司をつまみたくない。寿司だけの店はないかと探しても、なかなか見当たらない」と書かれているのを読んで笑ったことがある。確かにそうなんだよね。さほど人口が多くない町で、飲食店として寿司だけで成立させるのは難しいだろう。よくのれんには「寿司・割烹」とか書かれていたりする。

 そのまさに小さな町の寿司屋であるが、どうやら寿司専業の店らしい。これは、有難いことである。せっかく勇気を出して寿司屋に入ったのに、居酒屋か何だかかわからない様相ではちょっと残念な気持ちになったりもする。
 酒を呑みやすいのは、実は未分化の店である。居酒屋っぽい寿司屋。一杯やろうとするならば、寿司だけを看板にしている店は、ちょっと身構えるのも確か。しかし、その身構える感じも味わいたい。寿司屋という専門店に入ったという気にさせてくれないと。
 専門店にもいろいろある。焼き鳥屋。おでん屋。串カツ屋。いずれも酒を呑むことを前提としているので、何も身構えることはない。ただ寿司屋は、酒も呑めるだろうけれども、基本的には飲酒抜きでも成立する専門店である。
 同様の形態に、鰻屋、蕎麦屋等が挙げられる。鰻丼を食べる、蕎麦をたぐるついでに、酒も呑ませてもらう店。専門店であるがゆえに、そこで食べられる酒肴はたいていは本業の流用品である。鰻屋であれば白焼きそして肝焼き、う巻き、うざく、香の物くらい。蕎麦屋であれば、焼海苔、鴨焼き、天たね、鰊棒煮などの蕎麦の具。したがいこれらの店で、例えば刺身などの本業と異なるもののメニューがあったとすれば、それはむしろ残念な気持ちになる。せっかく専門店に入ったつもりだったのに、小さな町の未分化店と同じことになってしまうから。
 寿司屋はまさにその本業の流用品が、新鮮な魚介である。酒を呑まずにいられようか。だから、寿司屋で酒を呑むのが好きなのだ。
 無論、こちらもそのつもりで居なくてはいけない。寿司ネタをつまみに酒を呑むのが寿司屋で酒を呑む本流。仮に可能であるとしても、そのブリを照り焼きにしてくれとか鯛のカブト蒸しが食べたいとか言うべきではないのだろう。魚があるんだから煮魚を食わせろなんて言う生意気な若造は阿呆だ。そんなヤツからはうんとふんだくればいい(前回参照)。
 
 さて、カウンターが空いていたので座る。寿司屋に来てカウンター席が空いていなかったら寂しい。寿司屋特有の冷蔵ガラスケースがあり、そこに魚がずらりと並んでいる。その寿司ネタケースの前が特等席のように思うが、僕はちょっとずれた席に座った。そちらのほうが、職人さんの仕事が見やすいから。
 居酒屋で一人で酒を呑むときに僕は本や新聞を読んだりといった行儀悪いことをしてしまったりもするが、寿司屋ではそういうことはしない。職人さんを見ていると退屈しないからだ。その手さばきを見るのもまた酒の肴のひとつである。
 まずは、燗酒を注文。しばらく待つうちに、奥から運ばれてくる。同時に小鉢が置かれた。お通しだろう。のぞいてみるとイクラのおろしあえだった。大葉の緑が鮮やか。これなら、いい。それをちびちびと食べながら徳利を傾けていると、職人さんの手があいて僕に「何か切りましょうか」と言ってきた。

 酒のつまみには、何を注文すべきか。これは、人それぞれ好みであるので正解はなく、食べたいものを出してもらえばいい。
 僕は、基本的にこのように考える。
 まずは、最初店に入り座った段階で、何を握ってもらうか大まかな作戦を立ててしまう。僕は酒呑みだが、寿司屋はあくまで寿司がメインである。ネタケースを見たり、あるいはつけ場の後ろに品書きが並んでいたりするので、それを頼りにある程度心積もりをする。そうして、寿司として食べたいもの以外の魚介を切ってもらう。カブらせない。ひとそれぞれだが僕は、例えばトロをつまんで酒を呑みさらにトロを握ってもらう、ということはしない。
 寿司屋にある魚介は全て寿司にするために仕入れているわけで、みんな寿司として食べれば旨いはずだが、そこに好みの問題は入ってくる。僕にとっては握るよりつまみとして食べるほうが望ましいネタもある。
 僕のパターンは、歯ごたえが強かったりするものは寿司よりつまみで。柔らかいものが寿司で固いものがアテ。寿司はネタとシャリが食べたときに口中で渾然となる幸せを味わいたいので、コリコリしていつまでも口中に残りシャリが先に嚥下されてしまうようなものは、ネタだけで食べたい。
 具体的には、貝類などはつまみだろう。サザエやツプ貝。アワビも、酒蒸のいかにも柔らかそうなものは握ってもいいが、活けのものは歯ごたえも身上であり、それはつまみとして食べたい(もっともアワビなど怖くて注文しないが)。
 そして、僕は貝で呑むのが大好きなのである。昔北陸に住んでいた頃、寿司屋に行って「バイ貝」があれば必ず切ってもらった。コリっとした感じががたまらん。ワンパターンだがいつも食べていた。
 二枚貝、とくにホタテやハマグリなどは口の中でほどけていくので、握りで食べるのがいい。トリ貝はしっかりとしているが握りも好き。しかしホッキ貝はつまみのほうが好き。もうこれは好みだろうか。
 他には、イカやタコなど。イカもコウイカはやわらかいがヤリやスルメは歯ごたえがいい。その店に応じて。また、活けのカンパチやシマアジ、フクラギなどはしっかりとした歯ごたえのものもあり、酒に合うのでつまみでいただくほうが多い。
 その日は、初めての店でもありまずタコを切ってもらった。

 寿司屋のカウンターは、たいてい二階建て構造になっている。徳利やお通し、箸などを置いているテーブル部分が手前にあり、奥(調理場側)に、一段高くなっている部分がある。これを多くは「つけ台」といい、職人さんが寿司を握って置いてくれる台となっている。
 これは寿司屋が屋台だった時代からの流れをくむもので、伝統のシステムと言っていい。直接寿司を置くので、その部分は板ではなく漆塗りになっていたりもする。客が寿司を取りやすいように傾斜していることもある。
 しかし、僕はこのシステムがあまり好きではない。そういうと寿司通の方に「寿司を語るな」と怒られそうだが、このつけ台というものは、言ってみれば備え付け型の長大な、カウンター全客共用の食器である。そこに寿司を直接置く。
 つけ台は簡単には取り外して洗えないので、営業中は拭くだけである。混雑していると、前の人が食べたガリの残りや煮ツメが垂れたあと、ごはんつぶなどがつけ台に付着している。それをざっと拭いて、次のお客さんどうぞ。拭いたあとがまだ濡れている。不衛生とまでは言わないし僕も潔癖症ではないが、それほど気持ちがいいとも思わない。つけ台の上に大きい切り笹やバランを敷いてくれる店もあるが、それとて好ましい、とまでは言わない。
 ある寿司屋で、つまみに貝を頼んだ。さすればつけ台の上にバランを置いて、その上に職人さんが切った貝を無造作に手づかみで置いた。なんとなしにいい気分はしない。刺身は「造り」とも言い、美しい盛りつけが身上でもある。さらに寿司を頼むと、その同じバランの上にポンと置いた。生の魚を置いて、とても水っぽくなっているところに飯を置く。せめてバランは取り替えてくれないだろうか。確かに酒を呑みながら寿司と刺身を交互に注文したりするお客もいるので、いちいちそんなことはしていられない、と言われるかもしれないが。

 この店は、まずつけ台の上に、さらに台を置いた。それはいわゆる「ゲタ」と呼ばれるもので、小さなまな板に足をつけたようなもの(下駄の鼻緒がないもの、と言ったほうがわかりやすい)。このゲタも「つけ台」と呼ばれることが多い。つまりつけ台の上につけ台を重ねたのだが、これは気分がいい。
 僕が繰り返し行こうと思う寿司屋は、必ずこうしてゲタを置いたり塗りの板を置いたりして、備え付けの場所に直接寿司を置くことをしない。伝統とは異なるかもしれないが、こういう気遣いはうれしい。
 そして、ゲタの上にはガリを置く。まだ握ってくれとは言っていないが、いつでもいいですよ、ということだろう。
 そして、頼んだタコの刺身は、別皿にきれいに盛り付けられて出てきた。そしてつけ台ではなく、前のテーブル部分に置かれる。
 こういうことがちゃんとしていると、それだけで嬉しくなってしまうのである。酒もうまくなってくる。

 続きは次回
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寿司屋で酒を呑む その壱

2013年03月17日 | 酒についての話
 先日、地方都市で夜、寿司屋に入った。

 回転寿司ならともかく、ちゃんとした寿司屋は我々にはやっぱり少し「怖い」気がする。寿司屋は、会計まで値段がわからないところが多い。酒を呑んで調子に乗ってじゃんじゃん食べると、えらい金額を請求されたりする。
 何度も書いていることだが若い頃、いきがって一人で寿司屋に入り、カウンターに座って酒を呑み、そしてつい煮魚が食べたくなって注文した。寿司屋だもの、魚料理は何でもござれだろうと思ったのである。板さんが「カレイでいいですか」と言うのでそれを煮てもらった。さすがにふっくらと煮あがったカレイは絶品だったのだが、その一皿で7000円とられた(とられた、とは申し訳ない言い方だがそのときはまさにそんな感じがした)。別に一尾ではなく切り身だったのになあ。そりゃね、その切り身で寿司が何貫握れるか、ということを考えれば確かに納得もするのだが、煮魚ですよ(たかが、とはもちろん言わないが)。
 酒も呑み寿司も食べたので、合計で13000円。まだ僕は20代前半だった。青くなった。
 懲りた。以来もう寿司屋で生意気に煮魚など絶対に頼まない。
 
 閑話休題。
 その夜はなぜ寿司屋に入ろうかと思ったかといえば、まず宿泊先から近かったから。ホテルはちょっと繁華な場所からは離れていて、部屋の窓から見える飲食店は数軒しかなく、そのうちの一軒だった。もう遠くへ行くのは面倒だった。
 普段は入りにくい寿司屋だが、海に近い地方都市であり、それほどべらぼうな請求はされないだろうという読みもあった。ならば、ちょっとくらい贅沢してもいいだろう。今日は疲れた。
 そういったことが理由となるが、最も大きな動機は、一人だったから、ということ。
 寿司屋で呑むのは、一人に限る。僕はそう思っている。何故かといえば、僕が偏狭な性格だから。それに尽きる。なので気が合わない他人と席を同じくしていると、もう居心地が悪くてしかたなくなるのだ。
 その自分の偏狭な性格について、書く。

 寿司屋は、とりもなおさず寿司を食べるために存在している。なのに、そこで酒を呑むとは何事か、とおっしゃるむきもあろうかと思う。山本益博氏は確か「僕はすし屋ではおすしだけを食べる」と言われていたような。それは確かに正論かもしれない。だが、寿司屋には間違いなく上質で旨い魚介が並んでいるはず。だから、その旨い魚で酒が呑みたいと思う呑ん兵衛の気持ちは、ある程度理解はしていただけるのではないか。もちろん、寿司屋だから寿司を食べずに出てくるなんてことは、ない。
 その旨い魚介にあわせる酒は、まず清酒だろうと僕は思う。
 これは好みの問題であって、また生牡蠣とシャブリ論争みたいになりかねないが、少なくとも僕はそう思っている。
 だから、店側も「やっぱり日本酒だろう」と思っていてくれていればありがたい。そういう店のほうが、居心地がいい。
 実際に、ワインセラーを持っている寿司屋に入ってしまったことがある。まあね、ワインを充実させている店であっても、自分がワインを飲まなければいいだけの話であって関係ないのだが、その店ではほとんどの人がワインを飲んでいた。そういう中で、断固として日本酒を呑んでいると、どうも居心地が悪い。ワインを飲んでる人もいる、程度ならばいいのだが。
 ここからが僕のさらに偏狭な部分だが、僕は寿司屋ではビールさえ嫌である。僕は酒と肴の相性の好みについては偏りがあり、ビールに合うアテというものは限られている。アツアツの串カツや唐揚げをガブリとやり、口の中が火傷しそうになったところへビールをくいっと、というのはたまらなく好きだが、刺身のような冷製の料理で冷たいビールを飲むのは好ましくない。そして、フライやギョーザの置いてある寿司屋もまた、好ましくない。
 山口瞳氏のエッセイの中に、ビールというものを置かない、一切飲ませないふぐ料理屋の話が出てくる。ふぐには日本酒に限る、という店の持論かららしい。僕も同様に考えているので拍手したい思いでいるが、そこまで出来るのはよっぽどの老舗で予約必須の店でしかありえないだろう。ふらりと入れる店で「うちはビールはございません」なんて言われたら「何言ってやがるべらぼうめ」になってしまう。
 僕も、別に寿司屋にビールやワインやウイスキーを置くな、とまではもちろん思っていない。ワインを看板にしてまずワインリストを持ってくるような前記の店には閉口するが、別に離れた席に飲んでいる人がいたって問題はない。むしろ、日本酒に「こだわり」を持った寿司屋もそんなに好ましいとは思っていない。全国の隠れた旨い酒、なんてのが呑みたければ銘酒居酒屋に行くし、吟醸酒の香りは生きのいい魚には合わないと思っている。なにより、寿司屋に入れば間違いなく僕は燗酒が呑みたいと思っているのであり、ガラス張りの冷蔵庫から出してグラスに注がれる酒は求めていない。
 だから、店が吟味した清酒を一銘柄だけ置いている店、というのが最も望ましい。そして、気を遣っていい按配に燗をつけてくれる店。寿司屋の酒のつまみの王道は間違いなく刺身だが、それに対するのはやはり燗酒。僕の「腹内温度一定の法則」が発動するから。

 だから、寿司屋には一人でゆきたい。連れ立っていくと、勢いがつくから必ず以下のようになる。
 「ああお疲れお疲れ。まずはやっぱりビールだろ? おにーさーんビールちょうだい。おお来た来た。さあぐーっといってくれよ。うーんやっぱり寿司屋じゃグラスが小さいな。もう一杯いけよ。ねー、何かつまみを切ってよ。トロがいいなやっぱりトロが。寿司屋はマグロだろう。さあじゃんじゃん飲もう」
 僕は間違ってもトロでビールなど飲みたくはない。トロなどはつまみとして出されるのも嫌で、寿司にしてシャリといっしょに食べてこそその実力を発揮するものだと思っている。百歩ゆずってつまみとして食べるなら、やっぱり燗酒を所望したい。トロなんて高価なものじゃないですか。だったら、自分が最も良いと思える方法で食べたいもの。だがむろん、あなたが「トロとビールの相性は最高」だと考えているなら別に止めはしません。どうぞご自由に。
 以上のようなことを酒席で言えば白けてしまう。気まずくなる。僕だって大人だ、空気くらいは読めるので、しょうがなくビールを飲む。楽しくないですな。だから、連れ立って寿司屋に行くのは嫌なんだ。

 もうひとつ、重要な問題がある。僕は、寿司で酒を呑むのが好きではないのだ。
 これについては昔「飯で酒が呑めるのか?」なんて記事を書いたことがある。その内容と重なるが、あくまで酒肴は酒肴、寿司は寿司。今もそれは変わらない。
 寿司屋に行けば寿司を食う。これはしごく当然のことである。だが寿司屋で酒を呑む場合は、あくまで最初に酒肴として刺身などのつまみで一杯やって、その後に寿司を食べたい。寿司を食べつつ酒を呑む、という方式はとりたくない。宴会というものはたいてい、まず酒をたらふく呑み、最後にごはんもの、また麺などで「シメ」にするでしょう。それを寿司屋でも踏襲したい、というだけのこと。
 だが、世間ではむしろ寿司をつまみつつ酒を呑む、という方式が主流のようだ。どこかのグルメ本で、いかに酒にあわせて旨い寿司にするか心を砕く、なんて職人さんの話を読んだこともある。提供する側もそういう考えがあるらしい。高級寿司屋でおまかせにすると、寿司と酒肴が交互に出てくるという事例を、これもグルメ本で読んだことがある。
 だから、余計に「酒肴は酒肴、寿司は寿司」とは主張しにくい。
 酒を頼んだら職人さんが「どうしましょうか?何か切りましょうか?」とだけ言ってくれれば嬉しい。わかってるねー。しかし「切りましょうか? それとも握りましょうか?」であれば、「握ってくれ」と僕より先に言う人がいる。しまった先を越された! そういう経験が以前あって、その相手は気の置けない人だったから素直に僕は尋ねた。「飯で酒を呑むのかよ?」と。
 さすれば、「寿司屋で寿司を食べずに何かつまんで酒ばっかり呑んでる客は嫌われるぞ」と言う。そうなのかい? 確かにグダグダと酒ばかり呑んでる長っ尻の客は好ましくはないだろうが、サクっと呑んで寿司に移行するなら別に問題ないのでは、とも思う。それに、そんなに寿司屋の都合ばかり考えなくてもいいんじゃないのかい。マナーは大切だが、客の都合だって少しは加味してもいいだろう。客なんだから。

 さらに「寿司で酒を呑むのが大好き」という人もいる。それはそれでかまわないが、こういう人と同席してしまったら困ることもある。
 上記記事で「握りを頬張ったら即座にビールを飲めという上司」のことを書いたが、こういうのは我が身の不幸として捉えるよりしょうがない。だが、これは決して特殊例ではない。
 友人達何人かとで、昼食に寿司屋に入ったことがある。あくまで昼食であり、テーブル席に座ってそれぞれ一人前づつ注文した。桶に盛り合わせられた寿司が各々の前に並んだ。僕らは談笑しながらそれを食べていた。
 当然、お茶を飲んでいる。ところが一人が「やっぱり寿司食べたらビール飲みたいな。一本だけならいいだろう」と注文した。一本だけでも、全員の前にグラスが配膳される。
 僕はビールなど飲む気はさらさらなくて寿司を味わって食べていた。ところが、その友人が「お前も飲めよ」と僕の前のグラスにビールを注いできたのだ。しかも、乱暴な男でドボドボとついだから、泡がたちまち盛り上がってテーブルに溢れた。僕は、その溢れるさまを何も手を下さず見ていた。
 「何でこぼれる前に一口飲んでくれないんだよっ!」とその友人は言う。僕だってそうしたかった。しかし僕はウニの軍艦巻きを口に入れたところだった。旨い。さすがは北のウニは一味違う。たまらん(言い忘れたが場所は北海道は積丹半島である)。その口中にビールを流し込めというのか。とんでもない話だ。だいたいワシはビールを飲ませろとは一言も言っていないぞ。百歩譲っても、お前がビールを乱暴に注ぐからこうなったんじゃないか。
 まあね、こんなことで別に険悪な雰囲気になったりはしませんよ。「ウニが口の中に居て幸せだったんでビールをそこに入れたくなかったんだよ」と笑いながら答えて、すまんすまんとテーブルを拭きましたがな。しかし「寿司を食べるとビールが飲みたくなる」という御仁は、いっぱいいるのだ。油断できない。

 昼食ですらこれだから、酒を前提とする夜に、寿司屋に連れ立っては入りたくないのである。それが世間的に見て偏狭な性格であるということは、もうわかっているが。
 で、先日一人で寿司屋に入ったのだが、話がそこまでいかなかった。次回
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角打ち・酒屋呑み

2013年02月09日 | 酒についての話
 前回の続き。
 僕は京都生まれで、あちこちに引越しを繰り返してきたものの今はまたしばらく関西に住んでいる。そういう状況下において「角打ち」という言葉は全然聞いたことがなかった。知ったのは、近年である。
 どうも九州や関東において「酒屋でのむ」ことをそういうらしい。最近、この言葉は便利なので全国区になりつつあると思われる。
 なにゆえ「角打ち」というのかは全く知らない。こういう時代だから検索すれば正答を得られるかなとも思ったが、諸説あるらしく決定打はない。しかし「北九州角打ち文化研究会」という団体があるようで(いかにも遊びを遊びと知っている大人が集まっている感じがしますな)、そのHP内の角打ち(かくうち)とはを読めば、辞典の「酒を升にはいったまま飲むこと」という定義を引用しておられる。枡は角ばっているのでそこからかもしれないな。「打つ」とはなんだろうか。もしかしたら地方独特の言い回しか、明治以前の言葉であるかもしれない。古語かなー。
 こんなことも書かれている。
関西では、酒屋で飲むのは、「立ち呑み」、立ち飲み屋で飲むのは「立ち飲み」らしい。東北では、「もっきり」とも。
 関西では言葉が未分化であるようだ。呑むと飲むの書き分けは後付けだろうと思われる。この未分化の理由は、少しわかるような気もしている(後述)。「もっきり」は知ってる。つげ義春の「もっきり屋の少女」という佳作は僕も持っている。おそらく「盛りきり一杯」からきた言葉だろうと確か推測されていたっけ。

 さて、角打ちの定義である。これも前記「角文研」さまに教えていただくことにする。
「ところで、酒屋は酒を販売するところであり、飲ませるところではない。飲ませるところは飲み屋であって酒屋ではない。」 
「酒屋は酒を売るのが商売であるから、酒を買ってくれる人はお客である。しかし、そこで立ち飲みし始めた人はお客ではないはずだ。飲んでいる人にサービスをする必要はないし、サービスすれば違法である。」
 なるほど、こう言っていただくとはっきりしてくる。
 あくまで、酒屋なのである。酒屋で酒を買って、通常は持ち帰って呑むのだが、その場で「勝手に」呑んじゃうのが「角打ち」だ。
 酒屋は飲食店ではない。上記引用で「違法」というのはそういうことだろう。酒を燗したり水割りにしたり、さらにはつまみを出したりするには飲食店免許が必要となってくる。保健所から食品衛生法に基づく営業許可を得て、さらに食品衛生責任者の資格を持つ従業員が必要となる。そういう準備がもちろんない普通の酒屋では、酒を呑みに来る客に対して一切のサービスは出来ない。テーブルや椅子なども、飲食店のサービスのうちだろう。なので、立ってのむしかない。テーブルは、せいぜいレジカウンターということに。
 つまみの類は、酒屋で珍味、乾き物や缶詰などを売っている場合があるので、それをその場で食べることは可能だが、あくまで売っているものを勝手に食べているのであって、店側が調理して提供しているのではない。
 酒をコップに入れて供することすら、厳密に言えば問題があるのではないか。仮に酒樽を置いて量り売りをしていたとしても、店側が食器を提供することになり、洗浄がしっかり出来ているか保健所の監察が入らねばならない事態にならないとも限らない。
 だから角打ちは、安い。当然だろう。全て店で売っている小売価格ですむのだから。

 さて、角打ちは、酒屋があって、そこの人に「ここでのんじゃってもいいかな?」と聞いて「いいとも!」と言ってくれさえすればそれで成立する。その店を「角打ち可能店」にするのも、店の方とのむ人の意思だけで決まる、ということになる。
 もちろん、断られるほうが多いのではないかと思われる。店の中でのまれたら営業妨害だと考えられるむきもあろう。それだけに「いいとも!」と言ってくれる店は呑み助にとっては有難く、呑ん兵衛があちこちから集まってきてしまうかもしれない。
 角打ちの名店などは、そういうふうな過程で生じてくるのだろう。
 だが、そういう角打ちが出来る酒屋って、本当に今もたくさんあるのだろうか。
 
 角打ちのルーツは、江戸時代にさかのぼると考えられる。太田和彦氏は著作「超・居酒屋入門」において「居酒屋は江戸時代、酒屋の店頭で立ち飲みさせたのがはじまりと言われる」と書かれている。
流通用小売り瓶のない当時は酒も醤油も量り売りで、客は容器を持って買いに行った。(中略)大都市江戸は地方からの出稼ぎ労働者であふれ、彼らは一日の手間賃をもらうとまず酒屋に行き一杯となった。徳利も何もないからその場で、量った枡で飲む。これが居酒屋のはじまりだ。
 なるほど。居酒屋のはじまりの説明だが、これはそのまま角打ちのはじまりの説明でもある。枡で呑むところなどまさに角打ちと言える。
 だが、太田氏は続ける。「やがて、煮〆やおでんを置く『煮売り屋』となり、酒と一緒に安直に小腹を満たす所となった」と。つまり酒屋が居酒屋になっていく過程だが、これは必然ではないか。江戸時代には飲食店免許など関係ないが、角打ちが評判となればそれは居酒屋へと発展していくのも摂理と言える。
 大阪で広く立ちのみ処を展開している「赤垣屋(HP)」。全国初の立ち呑み店であることを謳っているが、その沿革を見れば、最初は酒屋から始まったことが記してある。その酒屋時代に酒を店頭で呑ませてくれていたとしたらそれは角打ちだが、居酒屋へと発展となれば、その時点で赤垣屋はもう角打ちの店ではなくなったことになる。
 ここから先は、推測。
 関西に「角打ち」に該当する言葉がなく、「立ち飲み」「立ち呑み」などと無理に分類していることについて角文研さまの言を引いて前述したが、もしかしたら関西では、酒屋でのませる店は、サービス精神旺盛な土地柄ゆえにどんどん居酒屋に衣替えして、純粋な「角打ち」は早期から少なくなっていったのではないだろうか。なので「酒屋呑み」に該当する言葉が生じる間がなかったのではないか。なんせ、全国に先駆けて立ちのみ屋が酒屋から発展して生まれた場所柄なのである。
 関西には、酒屋の立ちのみは多い。僕が知る中でも、神戸元町のA松酒店、十三のI中酒店、梅田のU田酒店、京橋のO室酒店などいずれも名店だが、これらの店は酒販店ではあるものの厳密に言えば角打ちではない。立ちのみ居酒屋である。僕の分類によればその形態は「通常飲食店由来型」となる。酒屋がルーツなのはよくわかっているのだが、店の形態は既に居酒屋である。
 U田酒店を例にとれば、ここはもちろん現在でも酒販店である。酒の小売もちゃんとやっている。だが、酒のつまみとしていろいろ料理したものも出してくれる。これは飲食店も兼ねていないとできない。もちろん缶詰や乾きものなど調理不要の角打ちらしいメニューもあるが、おでんもぐつぐつ煮えている。コンビーフにマヨネーズをつけると+30円となったり、焼酎ロックを頼むと氷代は別料金となったりで極めて角打ちっぽいのだが、決定的なのは店頭で缶ビールを買い持ち帰るのと、店内でその缶ビールを飲むのとでは若干ながら値段が違うのである。本当にほんの少しだが店内でのむと高くなる。これは、飲食店であるからなのだ。

 僕は今関西に住んでいるが、この地で純粋な「角打ち」を経験したことはない。
 もちろん探せば、そういう「店頭でのませてくれる酒販店」はあるのだろう。だが、機会がない。酒屋で酒を買うときに「ここでのませてくれますか?」と確かめることもなかなかしないし(フィールドワーク精神が欠如しているな^^;)、それにも増してまず、酒屋に行くことが少なくなった。
 酒は、量販店やスーパーで買ってくる。そっちのほうが安いから。
 例えばこういうことはある。妻といっしょにスーパーへ行く。惣菜売り場で、出来立ての焼き鳥を見てつい「ああうまそうだ」と思い購入する。アツアツだ。しかしそこで気がつく。これを持って帰って家でアテにするころには冷めてしまう。レンジでチンしても当然味は落ちる。いいや、もうここで食べようよ。幸いスーパーの片隅に休憩できるスペースがある。ここでスーパー製の弁当を買って食べている人もいて、冷水器まで完備してあり紙コップもある。じゃビールを買って、小宴会といこうじゃないか。なーに、人目など気にならないよ。
 これ、角打ちと言えるだろうか。違うよねやっぱり。
 駅のキオスクでビールやカップ酒を買う。その場でぐーっとのむ。これもやっぱり違うよね。 

 もうひとつ大きなことは、酒屋そのものが減少しているのではないかということ。
 前述したように、僕だって酒は主として量販店やスーパーで買ってしまうフトドキモノである。酒屋に行くときは、地酒や珍しい酒が欲しいときくらい。それも、機会は少ない。消費者がこれでは、町の酒屋さんは苦しかろう。誠に申し訳ない。
 昔、よく行っていた酒屋さんがあったが、代替わりでコンビニに衣替えしてしまった。酒を売るには酒販免許が必要なため、こういう例が多いとも聞く。
 コンビニで角打ちが出来るだろうか。酒は揃っていて、アテも数多く売っていておでんまでグツグツ煮えている。飲食スペースを設けている所もあり実に環境がいいが、見ると「店内飲酒禁止」の文字が。そりゃそうだよな。コンビニの店内で酔っ払いにたむろされたら困るだろう。それに、風情もないし。
 僕は前回、前々回と立ちのみについてクドクド書き、立ちのみを四形態に分類した。それは①「通常飲食店由来型」②「屋台露店由来型」③「海外由来型」であり④「角打ち」で終わるのだが、①などは隆盛を極めているのに④「角打ち」はどうも消えゆく運命であるのかもしれない。これは僕のような消費者が悪いのであって、残念だ、などとひとごとのようには言えない。

 さて、僕は今住んでいる関西では純粋な角打ちの経験がない、と書いたが、それは関西での話であって、全く未経験であるわけではない。もっとも、今にして思えば、の話なのだが。
 関西に再び移り住む前は、とある地方都市にいた。忙しくしていた。
 ストレスがたまることも多く、酒ばかり呑んでいた。当時はまだ独身だった。酒場で呑むことが多かったのだが、家でも呑んだ。
 最寄のバス停から自宅の途中に酒屋があった。そこで、帰り道によく酒を買った。今から20年以上前の話。
 あるとき。やっぱりいつもの酒屋に寄ったのだが、もうすぐにその場でのみたくなってしまった。そういう精神状態だった。
 店のおかみさんに言った。
 「ビールください。ああ袋に入れなくていいです。すぐここで飲むから」
 「そうですか。じゃ、あっちでどうぞ」
 え?
 僕は店舗を出てすぐ路上で飲むつもりだったのだが、指されたのはレジ横の扉。開け放たれたその扉の先には、スペースがあった。倉庫兼配達用車駐車場みたいな広い場所で、もちろん冷暖房があるような所ではなかったが屋外ではない。
 なんとそこには、先客がいた。ビールケースに座ってカップ酒を呑んでいるおっさんが二人いる。
 左様か。こういうことを黙認しているのか。
 僕も座って、ビールを飲んだ。さらに調子にのって、また店舗に戻って酒を買いさらに呑んだ。
 これは、今にして思えばつまり「角打ち」と言っていいのではないか。もちろん当時はそんな言葉も知らなかったし、酒屋で呑む文化というものがあるのも知らなかった。もっとも「立ちのみ」ではなかったが。
 このぼんやりとした空気感は、なんだか妙に落ち着いた。尖った神経へのクールダウンの要素があった。
 この店が実際に「角打ち店」であることがわかったのは、次回訪問時だった。
 前に来たときに先客のおっさんが何かを食べていた。サキイカだったか。店にそういうものも置いてあるので、それを購入していたのだろう。そんな話をレジのおかみさんにしたら、何でも買って食べてくれていいと言う。そりゃ向うも商売だから買って欲しいだろうが、レジ横につま楊枝を常備していることを教えてくれた。なるほど。つまりそういうことだった。これは酒屋呑みのためのサービスなのだ。そういうことを、前提としていた。
 僕は焼き鳥缶(ホテイ製)を手に取った。そして酒のつまみとした。
 これはもう完全に「角打ち」ではないのか。(繰り返すが当時はそんな言葉も文化も知らない)
 
 その酒屋にはその後何度も行ったが、もちろん酒を買って帰るのが主で、その場で呑んだのは結局4、5回くらいだっただろうか。そうこうしているうちに所帯をもち、まっすぐうちに帰るようになった。酒は、妻が用意してくれている。
 そうして酒屋呑みのことも忘れて行かないうちに数年経ち、その酒屋はリニューアルした。ディスカウントショップになったようで、倉庫兼駐車場兼角打ち場だったあのスペースも無くして店舗を広くした。レジにはバイトの若い人がいる。もう「ここでのませてくれ」と言ってもダメだろうな。
 時を同じくして、僕は転勤した。その後のことは知らない。

 立ちのみの話、おわり。
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立ちのみの四形態

2013年02月02日 | 酒についての話
 関西、とくに大阪には串カツ専門店が多い。「ソース二度漬け厳禁!」のフレーズはもう全国区だろう。
 その何割かは、形態としては「立ちのみ」に入る。椅子のない店。
 下町に多いのだが、都市部にももちろんある。例に出して申し訳ないが、梅田の「松葉・地下店(食べログ)」。各種路線の乗り換え場所であり百貨店への入り口もあり、梅田地下街で最も人通りの多い場所にある。僕も揚げ物の匂いに誘われついビールを飲みにフラフラと立ち寄ってしまう。
 この店の形態をちょっと覗いてみて欲しい。通常の店舗との違いに気づかれると思う。
 ここには、まず店に入る扉がない。
 それどころか、客はほぼ通路上に立っている。それでいいのか悪いのかは知らないけれども、少なくとも店の敷地と公共の場所である通路との境目は、ない。わずかに暖簾が店の存在を主張しているだけである。
 小規模な立ちのみ店舗には、こういうところがいくつもある。店への入り口(扉)がない。道路と店の床が繋がり一体化している。
 これは何も関西に限ったことではない。「立ちのみ」とくくると分かりにくいかもしれないが、例えば駅ホームの立ち食いそばの店を思い出せばわかる。あれは、どこまでが店舗の敷地なのか。よくわからないまま、ホームに立って蕎麦を食っている。
 前回、通常飲食店由来型の立ちのみについて書いたが、こういう店はどうもそれらとはジャンルが違うようだ。決定的なのは、扉の有無。
 例に出した「松葉地下店」などは、地下なのでまだいい。路上にある店は、夏は開放感はあるが冷房など効かず、冬は寒い。よって、透明ビニールシートで覆ったりする。そこまでするなら壁と扉を設ければいいのにと思ってしまうが、頑固にバリアフリーを貫いている。
 これは、結論から言ってしまうとルーツが違うからなのではないか。これらの店の形態は、「屋台・露店」由来ではないのだろうか。そう推測してみる。

 屋台という店舗の形式は、古い。世界のことは知らないが、日本においては江戸時代からあったとも言われる。ことに江戸では、流入人口も多く独身男がやたら居たことから、手軽に食事が出来るファストフード感覚で隆盛した。
 屋台のwikipediaを見ると、「江戸後期の天ぷら屋台」の再現画像がある。これは、松葉地下店の形態に酷似してはいないか。この時代、酒を出していたかどうかまでは知らないが、天ぷらをただ揚げるだけの店としてこの屋台は機能し、客はテイクアウトするだけではなく、この屋台に群がるようにして揚げたてを食っていたに違いない。もちろん椅子などない。立ち食いであろう。
 その後屋台の形式もかわり、博多に代表されるように座る場所を完備した様相になってきたが、江戸時代のこの形式は例えば縁日の夜店や、競馬競輪場内によくある露店、ホームのそば屋、そして立ち食い、立ちのみの店の中に残った。そう考えてもいいような気もする。

 もっとも、バリアフリーの店はみな屋台由来である、などと言っているのではない。串カツの松葉地下店だって最初は屋台だったわけではないだろう。あくまで「形態」を受け継いでいるだけ。遺伝子なのだろうか。現在では、開け放つことによって客が気軽に入りやすいからそうしているだけとも見てとれる。
 しかし、ここからは僕の主観だが、開け放っている屋台露店由来の店のほうがなんだか入りにくいような気もしてしまうのは不思議だ。常連度が高く見えるからなのかもしれない。そして、店独自のルールがありそうなのも屋台露店由来店のほうである。キャッシュオンデリバリーとかね。通常飲食店由来の店は、ただ普通の店に椅子がないだけだからむしろ入りやすいように思えてしまう。注文もメニューが完備しているのは通常飲食店由来店のほうであるし、ウェイター、ウェイトレスさんが居たりする場合もあるから。
 もっとも、勇気を出して客になってしまえばどちらも変わらない。
 
 さて、立ちのみの形態において「通常飲食店由来型」「屋台露店由来型」と見てきたが、次に考えられるのは海外にルーツを持つ形態である。
 欧米には、立ちのみの歴史がある。例えばイギリスのパブ。フランスのカフェ。イタリアのバール。アメリカのスタンドバー。そういう店舗形式が、明治の文明開化、大正デモクラシー、また戦後進駐軍などとともに日本に入ってきたのでは、と考えてみる。日本ではみんなひっくるめて「バー」という場合が多い。
 そもそもカウンターという形式が海外由来だろう。対応する日本語が思い当たらない。わずかに寿司屋に「つけ台」という言葉があるが、あれは寿司をのせる台のことだろうと思われる。
 立ちのみの方が座ってのむよりも廉価の設定、というのも、昔から欧米ではなされてきたこと。
 玉村豊男氏の「パリ旅の雑学ノート」によれば、「カフェで飲みものや食べものをとる場合、カウンターで立ったままとるのと、サルやテラスの座席にすわってとるのとでは料金が異なるのだ(中略)カウンターで立ち飲みすれば四フランのコップ一杯の生ビールが、座席にすわって飲めば六フランという具合。」なるほどね。明快である。
 海外の立ちのみにもいろいろある。パブのように庶民がダーツに興じながらわいわいビールをのむ雰囲気、アメリカの西部劇に出てくるような荒野のガンマンたちが集いバーボンのストレートをくいっとやってすぐさま出て行くような砂塵舞う雰囲気、また同じアメリカでも禁酒法以前のマンハッタンやマティーニなどを編み出したカクテルバーの雰囲気、それぞれ、日本に採り入れられているように思う。
 店により個性があるのが当然だが、基本的には洋酒をのむ場所である、というのは共通認識としてあるだろう。あまり食に色を出していない場合も多い。例外はあって、パテの異常に旨いショットバーを僕は一軒知っているが、あくまで酒をのむ場所である、酒場であるという共通項はある。カウンターの向うに居るのは基本的にコックさんではなく、酒の専門家であるバーテンダーさん。

 昔は、こういうショットバーやカクテルバーのような店は結構入りづらかったものである。「大人の居場所」であり、若造が来てはいけない場所のように思えて。
 若い者が行く場所としてビリヤードが置いてあるプールバーやダーツバーなどがあったが、僕は不調法でそういうものが不得手であり、こちらも行きづらかった。
 カクテルが出てくるようなバーは、一軒だけ知っていた。最初は人につれていってもらって、その後一人で足を運ぶようになった。ひとりの優しいバーテンダーさんが居たことが大きい。酒については博覧強記の人だったが、それ以外は寡黙で、ただし聞けば何でも教えてくれた。ここで学んだことは多い。ただし、そこはスタンドの店ではなく、止まり木がちゃんとあった。それをいいことに、長居してしまったこともある。
 このようにバーは何も立ちのみに限らず座席があることのほうがむしろ多いかもしれないが、このバーの席のことを「止まり木」という言葉で表していることが、バーは基本的にはスタンドであるものという感じを出している。大抵は椅子としては脚が長いスツールで、座れば僕などは足が浮いてしまう。立ち疲れた時にちょっと休む意味をこめて「止まり木」と命名されているのであり、本来カウンターに対しては立つものなのだ。だからカウンターは立って丁度いい高さに設定され、それに対応して座る場合の椅子の脚は長くなっているのだろうと思われる。

 この歳になってみればバーに入りづらいことなど全くなく、一見であろうと図々しく入り込む。酒場にルールなどなにもないとは思うが、たとえスツールが置いてあっても前述したように基本は「立ってのむ」場所だから、長居はしないようにしている。
 もっとも、長居したところでやることもない。カクテルやオンザロックは生ものであり鮮度が大切だということくらいは僕だってわかっている。なので早めに飲み干す。のんでしまえば、お代りをしない限り間が持たない。別に女性を口説くわけでもなし(汗)。

 さて、立ちのみの四形態という題だった。主としてルーツから「通常飲食店由来型」「屋台露店由来型」「海外由来型」としてきた。もうひとつは当然ながら「角打ち」である。しかし長くなったので、それは次回
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立ちのみさまざま

2013年01月26日 | 酒についての話
 もちろん昔からある飲食店形態なのだけれども、こういうご時世だからか「立ちのみ屋」が増えてきた。たいていは座って呑むより廉価であり、気軽さも評価されているようで。

 僕は、そりゃ立って呑むより座って呑むほうがいいと思ってるよ。楽だもん。
 僕が酒場に向かおうという心理状態になるとき。それはもちろん美味い酒が呑みたい、旨い魚が食べたいと思って暖簾をくぐる場合もあるが、たいていは酔いたいからである。陶然とした気分に浸りたい。酔いたい理由はその時々によって違うけれども。
 そして酔っ払ってくると、身体から力が抜ける。したがって、立っているのがしんどくなってくる。座ろうよ。座らせてくれよ。そうなるのは目に見えている。
 立ちのみのいいところ(狙い)は、そこなのだろう。長時間立っていられないので客の大半は長居しない。したがって回転が良くなり、なかなか小さな酒場では成しえなかった薄利多売が可能になった。だから酒も肴も廉価で提供してくれる。そうなればもちろん客も嬉しい。
 しかし、酒場でグズグズしたい僕などには不向きということになってしまう。なので、かつては積極的に足を踏み入れなかった。

 もうひとつだけ理由があって、これを書いてしまえば身も蓋もないのだが、どうしても「立って飲み食いするのは行儀が悪いのではないか」という意識が僕の脳内に少しだけあった。
 話がそれるけれども、先日久々に故郷京都錦小路の市場を歩いて驚いた。あちこちの店舗前で食材を串に刺して一口サイズで売っている。出し巻きや鳥、魚等々。それを齧りながら歩いている観光客多数。なんとも下世話な雰囲気になっている。錦市場というのは、プロも買いに来る伝統ある「京の台所」。僕も幼い頃、母がハレの日或いは正月用の買出しのためにここへ来るのによく付いて来た。そういう場所だったはず。今は観光名所になっているのは承知しているが、缶ビール片手に串を食べ散らかしながら歩く人たちを見て、何とも違和感をおぼえた。試食ならいいよ。でもなぁ。例えば神戸南京町とは違うこの道幅の狭い小路でそれはないんじゃないのか。何より品がない。この世の中、京都伝統の錦市場もしんどいのか。こういうことを許すようになったとは。
 以上本当に余談で、区画された店内で立って飲み食いすることに文句があるわけではもちろんない。そういうルール内でなされていること、何の問題もない。そして今では立ちのみ屋さんを「行儀悪い」などと考えることなど全くないことは申し添えたい。あくまで過去の僕の意識内でのこと。

 そんなこんなのクドクドした理由で、立ちのみには過去それほど出入りしていなかったように思う。もちろん例外はあるが、僕が出入りする酒場において立ちのみの占める割合はそう高くなかった。
 だが、ここ何年か、そういう店によく誘われるようになった。若い人たちと呑むことが増えたからかもしれない。

 そんな一軒。先日、何とイタリアンの立ちのみ屋へ行った。絶対に自分の意思では足を踏み入れない場所だなぁ。バール風とでも言えばいいんだろうか。
 値段のことについてはよくわからない。最も安いグラスワインが350円くらいだったか。だいたいイタリアンレストランの相場がわからないから何とも比較しようがないか。総じて安いらしい。しかしトリッパのトマト煮込とか初めて食べたわ。
 行ってみて、案外楽しいのである。パーティーに来たみたいな。
 立ちのみというのは、僕の持っていたイメージでは、まずグループで来店するものではない。一人で「カウンターでもくもくと呑む」ものである。混むと「ダークスタイル」になる。ダークスタイルの説明は不要と思うが一応書くと、立ちのみの店は基本的にはそんなに広くなくてカウンターだけの店も多い。混んでくると、カウンターに対して正対していた客が斜め向きになって詰め、スペースを空けて新たな客を入れてあげる。個々に椅子のある店では不可能だが椅子のない立ちのみならこうして詰め込むことが可能。この片方の肩を前に出した姿勢ががコーラスグループ「ダークダックス」に似ているためにそう呼ばれるようになったと承知している。
 ところがこの店はスペースが広く、テーブルが店内にいくつも置かれた様相であるために、ダークスタイルなんてものは無い。余裕がある。多くはグループ客でありひとつのテーブルに集まるのだが、振り向けば背中合わせに隣のグループがいて、僕はその違うグループのおっさんと話し込んでしまった。カウンターであると両隣の人としか接触がないので、まず後ろのおっさんとしゃべるなんてことはない。
 店を出るとき若い人から「盛り上がってましたね。そういう赤の他人とでも楽しくやれるのが立ちのみの醍醐味ですよ」とご高説を賜った。うーむ。僕は初対面にやたら強いので別に立ちのみでなくてもいくらでもそういう機会はあるが、こういうスタイルが一種垣根をとっぱらう効果はあるのだろう。先ほど「行儀悪い」などと書いたが、その行儀悪いことをしているという意識もおそらくプラスに働くに違いない。
 僕が知る立ちのみというのは、放吟してはいけない場所だったように思うのだが。いや、してもいいのかもしれないけどそういう雰囲気にはならなかったはずだが。
 経験もさほどないのにこういうことを書くのも何なのだが「立ちのみも変わったのだな」とそのとき思った。安いから行くのではなく、楽しいから行くのか。そうか。

 こんな感じで、僕は今までよりも立ちのみに馴染むようになった。今さら感はあるのだが、まあよかろう。昔と比べて体力も落ち、そんなに長くは「立って呑んで」いられないが、それが逆に推進力となっている。どうせ短時間なのだ。ちょっとだけ寄ってもいいだろう。そんな感じでね。何より懐ろもさほど痛まないし。
 そうして様々な店にお邪魔し呑みながら、立ちのみという形式の酒場は、どのようにして始まったのだろうか、どこにルーツを求めればいいのだろうか、などということを酔眼で考えていた。立ちのみも、さまざまである。僕は分類と体系化みたいな作業が好きでブログでもしょっちゅうそんなことをしているが、また同じことをしている。
 そういうことをぼんやりと考えているうちに、こういう立ちのみの酒場というのは、四つくらいに分類できるのではと思い当たった。もちろん厳密ではなくその発展形態によってこれは交錯していくのだが、ルーツを辿れば、そのくらいに分けられる。
 
 ひとつは、通常の飲食店から椅子を無くした形態である。
 この形態は、もちろん古くからあり「オヤジたちのオアシス」として存在している。しかし新しい感覚の店も多く登場している。上記のような洋風立ちのみはその典型ではないだろうか。
 こういった店のかたちは、もちろん値を下げることを目的に、酒場の客回転を速くするために採り入れられたものだろう。それがデフレの世の中に適して増殖したと考えられる。そしてさらにその気軽さが受けた。
 かつては、立ちのみの酒場が供する酒や料理の種類はある程度決まっていた。バーなどを除けば居酒屋系が主で、焼鳥やおでんなどが出され酒はビール清酒焼酎。バラエティがあってもその範疇を出るものではなかった。
 今は、イタリアンやフレンチなどは普通に存在し、中華料理やエスニック系の店まで立ちのみに乗り出している。もしかしたらあらゆるジャンルの立ちのみ店舗が存在するのではないか。

 焼き肉屋に行ったことがあるぞ。扉を開けると煙が上がっている。コの字型のカウンターに立つと、七輪を置かれる。煙はそのせいだ。そしてスタンディングで肉をジュージュー焼いて食う。
 焼き肉の値段というのは高いか安いかという判断がつけにくい。肉の質によって千差万別であるから。僕は舌に自信がないので品質云々はわからないが、一人前の肉の量と値段だけでみれば、この店はそう飛びぬけて安いわけではない。普通の座って食べる焼き肉屋さんでもっと安い店もある。
 しかし、この店はそれなりの雰囲気を持たせている。店の外観、内装が既に洒落た空間。そこに無煙コンロではなく七輪というのも、味のみならず演出もあるのだろう。非日常的感覚か。女性客も居る。隣の客はワインを飲んでいる。それで空気感が伝わるのではないだろうか。僕はこういう雰囲気は苦手なので若い人たちに任せようと思うが(汗)、このように立ちのみに付加価値をつけるという手法もあるようだ。ただ薄利多売を目指しているだけではもうないのである。もしかしたら後年、立ちのみだからこそ多少高くても行く、なんて思考も登場してこないとは限らない。
 
 本当に、いろいろなジャンルの店がある。僕は他にも不思議な立ちのみに入ったことがある。
 ハイボールを売りにした酒場。もちろん居酒屋であることを看板にしていてアテの種類もそれなりにメニューにあるが、ほとんど食べている客はいない。みんな酒だけを呑んでいる。そのハイボールの値段は、無論安いものの、激安とまではゆかず座って呑む店とあまり変わらないかもしれない(安い店が回りに多い場所柄なのである)。
 しかしながら、カウンターの向うにいる店の人は、若いおねえさんが数名なのだ。
 それが目当てで人が集まる、と断言したら怒られるかもしれないが、話しているとおねえさんの勤務時間は曜日や時間ごとに変わり、それに合せて来る客もやっぱり多い由。おねえさんは客と気さくに談笑しつつ、グラスが空くと「お代りいかが? おつくりしましょうか」。行ったことないけどガールズバーってこんな感じ? それはわかんないがこの雰囲気、カラオケこそないがどうも「スナック」にかなり近いんじゃないの。
 しかしチャージ料はない(椅子もないが)。そしてハイボール3杯のめば結構いい気分にもなる。小一時間居て、それで1000円くらいだからこんなに安いスナックはない(楽しくてもそれ以上長い時間は僕には無理)。

 こういう通常は普通の飲食店として成立するはずの店が、思い切って椅子をなくし、客回転をよくして廉価での提供をを目指すとともに、「立ちのみ」という営業形態に個性を見出して、例えば非日常感覚、またお洒落な雰囲気、またフレンドリーな空気感といった付加価値を副次的に与えるという方式を採りだした。それは立ちのみというジャンルにおいては最も新しい形態であるようにも思う。
 もちろん、従来のオヤジの味方である大衆居酒屋的立ちのみも健在である。このオヤジ立ちのみの付加価値は今も昔も安さと気楽さ。これらを便宜的に「通常飲食店由来型」と呼ぶか。

 立ちのみには、そのルーツなどから考えて、他に3パターンの形態があると思っている。それは、次回
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