ここまで神話時代の日本の酒の変遷についていろいろ書いてきた。その続きとなるのだが、以降は、日本の酒が麹で醸した酒となる過程について、古事記と日本書紀を読みつつ書いていく。内容は、ほぼ僕の覚書みたいなものなので、申し訳ない。
本来この話は、ある鬱陶しいおっさんがきっかけなのである。酒場で遭ってしまうそのおっさんは、国粋主義者でワインなど毛唐の酒は飲む気がしない、などど乱暴なことを言いつつ、日本人は縄文の心を忘れておる、嘆かわしいことだなどと言い出す。そして酔っ払いは同意を求めるので困る。閉口しつつふと、日本書紀初出の酒はワインではなかったか、と論じていた書籍があったのを思い出し、もう一度本を読みなおそうかと思ったのが始まり。
そして神話の深みにはまり、おっさんのことなどどうでも良くなってここに至る。
閑話休題。
ニニギが日向国に降臨し、コノハナサクヤと結婚して海幸彦・山幸彦を産み、山幸彦の孫が日向の高千穂を出でて東征し、大和を平らげて神武天皇となる。そして、神話の時代は終わり、ここからは史実扱いになる。
史実といっても不可思議な記述が多いこの上代だが、この神武天皇が打ち立てた大和朝廷が、僕の考え方だと弥生人政権ということになる。そういう短絡的な見方はお叱りを受けるもとだが、あくまで私見。
ここからは、酒の記述はいくつも出てくるので全ては挙げられないが、代表的なものを。
第十代崇神天皇の世。天皇は、高橋邑の活日 を、三輪大神宮の掌酒官とした、という記述がある。
活日は、神酒を天皇に献じて歌を奉げた。
まず「大物主の醸(か)みし酒」とよまれる。かみし酒とは噛みし酒みたいだな。原文は「於朋望能農之能 介瀰之瀰枳」となっているので「かみし」で間違いはない。まだ口噛み酒かな?
しかし崇神天皇といえば実質大和朝廷の初代とも言われる天皇。そのご時世にこの解釈は難しい。賀茂真淵のみならず、この酒を口噛みと解釈している学者もいないだろう。僕だってそう思いたい(イクヒさんって多分おっさんなのだろうし)。しかし、口噛み酒だった可能性もゼロではないかも。
イクヒさんは今も杜氏の元祖と祀られているが、イクヒさんは「大物主が造ったのだ」と謙遜している。果たして大物主とは誰か。
これが、難しいのである。
酒と関係ないので端折るが、大物主は奈良の大神神社(三輪大神宮)の祭神で、祟り神1号と言ってもいい。崇神天皇の時世、疫病その他で祟り、天皇が困って大物主に聞けば、大物主は「わしの子孫を探して祭祀させよ」と告げ、そのとおりにしたらおさまったという。
で、大物主の正体だが、どうも大国主命と同形らしい(もしくはその分身)。まずは国つ神であり、さすれば「大物主の醸みし酒」とはやっぱり口噛み酒か、とも思えてしまう。どうなのだろうか。
話が少し横道でしかも神話に戻るが、大国主命が国造りをしたときの有能なパートナーに、少彦名 神がいる。スクナヒコナは書紀によれば医薬とまじないの神であり人々を災厄から救った。今風に言えばスクナヒコナは技術者だったとも言えるが、ある日常世国へ帰ってしまう。
古事記では、スクナヒコナが帰って途方にくれたオオクニヌシに「ワシの魂を祭れば国造りはOKだ」と言い、三輪山に祀られたのが大物主であるという。書紀ではオオクニヌシの幸魂・奇魂が大物主であるという。よくわからない。いずれにせよこの国は、オオクニヌシとスクナヒコナ(と大物主)が精魂込めて造りあげた。しかしその国(葦原中国 )は、天つ神に譲らされた。
スクナヒコナに戻るが、この神は同時に、酒の神でもあったらしい。
この時より何世代か後で、そのことがわかる。書紀によれば、応神天皇が敦賀から帰った際に、おかあさんの神功皇后が宴会をした。その宴会のときの歌。
現在、三輪にある大神神社は主祭神が大物主大神、配神にオオクニヌシとスクナヒコナがいて、醸造の神となっている。
このテクノクラートとも言えるスクナヒコナが、日本に麹造りの酒を伝えたのであろうと推察する説もある(太田水穂氏「日本酒の起源」)。なるほどそうかもしれない。さすれば、その技術をイクヒさんが受け継いでいたのだろう。ならば、口噛み酒ではなく麹の酒であった可能性が高い。わざわざイクヒさんを召して造らせたのであり、技術を要した酒だったのだろう。口噛み酒にあまり技術は必要ないから。
しかし実情は、よくわからないなぁ。
崇神天皇のときは、酒はなんだかうやうやしく奉げられた感じもするので、生産量はそれほどでもなかったのかもしれない。これは、口噛みだったから大量に造れなかったのか、それとも米が酒に回せるほど余剰がなかったのか(材料不足)、あるいは、イクヒさんのような酒造りの技術者が不足していたのか。それもよくわからない。
その後は、徐々に大量生産が可能になったようで、宴会の記述もある。前述の神功皇后と応神天皇の宴会の他にも、日本武尊 が熊襲の首長の梟帥 を討つ際には、宴会で酔っ払っているところを狙っている。
熊襲と大和の対立はずっと続いていて、ヤマトタケルの以前にも景行天皇は征伐を試みているが、このやり方がえげつない。
熊襲八十梟帥の娘、市乾鹿文 は「容既端正 心且雄武」とされていた。その美人の娘を何と天皇が籠絡するのだ。天皇は偽の寵愛を重ね、イチフカヤを手の内とする。彼女は一計を案じ、父親に酒をたっぷり飲ませて寝させ、その間に弓の弦を切る。あとは、天皇の兵が来て終り。天皇を愛して父を裏切ってしまったイチフカヤもまた天皇の命令で殺される。ヤマトタケルもそうだが、どうも大和のやり方は卑怯だ。戦前はどんなふうに教えていたんだろう。
それはともかく、熊襲梟帥を酔わせた酒はかなり強い酒だと言われている。九州方面の男はたいてい酒に強いが、それを酔い潰す酒であるからして。原文は「以多設醇酒 令飮己父 乃醉而寐之」で、醇酒と表現される。「からき」と訓ずる場合も。醇と書けば濃厚なイメージがあるが、やはり度数も高かったのだろう。これは、麹酒でしかありえない。
応神天皇は酒が好きだったのか、前述の宴会の他にもいくつか酒の記述が残る。吉野へ行幸の時には国樔人 が来て、醴酒 を献じている。
この国樔人とは、かつて神武天皇が東征の折、熊野から吉野に入った時に出あった「国栖 人」と同じ人たちだろう。彼らは国つ神だった。
その醴酒だが、国樔人はこのように歌っている。
日本書紀には国樔人の生活の様子が描写されている。どうも非農耕民らしい。木の実を採集し、また蛙を獲って食べるなどしている様子は、山間の村で古い縄文の様式を守っている様子が伺える。稲も焼畑の陸稲だったか。そうなれば、やはり僕も口噛み酒ではなかったかと思う。現在の醴酒を知らねば、果実酒説に一票だったかもしれないが。
醴酒は延喜式の造酒司にも記されている。それは麹を用いている。ただし何百年も後の都でのことで、この国樔人が醸した醴酒と同じであったかは難しい。
ともあれこの時期(応神天皇時世 3~4世紀)は、様々な醸造法が混在していた時代なのだろう。縄文以来の口噛み酒もあれば、またおそらくは大陸伝来の麹の酒もあった。そして水稲がますます盛んとなり、ある程度酒の量産も可能となって、麹の酒が徐々に席巻し始めたのだろう。しかしその麹の酒とて、幾種類もの造酒法があったことも考えられる。
応神天皇はよほどの酒好きか、それともこの時期に酒が不自由なく出回るようになったのか、酒をのんでは歌を詠んでいる。そのひとつひとつを挙げてはいられないが、古事記に、応神天皇が百済に技術者を要求したことが記してある。このとき「論語」「千字文」を伝えたとされる和邇吉師(王仁)をはじめ鍛冶や機織職人等が海を渡ってきたが、酒職人も渡来したらしい。
ともかく、この百済から渡来したススコリさんが、日本に麹で醸す酒を伝えたのだという有力説がある。
ススコリさんについては鄭大聲氏の論文「須須許理について」があり、それを読むと、朝鮮語で酒はスルと言い、コリ、コルリが「漉す」であるらしい。マッコリのコリですな。つまりスルコリで「酒を漉す人」、まあ酒職人の意だろうとされる。さすればニホが名前でススコリは職名ですな。ススコリ屋さんと言う方が適うか。
で、ススコリ屋のニホさんが日本酒の祖かと言われれば、これも難しい。朝鮮半島は、中国と同じく主として餅麹を用いるが、日本は散麹だからである。バラ麹。
麹と言うのはすなわち、でんぷんを糖化させるカビの培養体のことである。餅麹とは麦などを粉にして水で練って固め、それにカビを繁殖させたもの。固まりなので「餅コウジ」と呼ぶ。中国、朝鮮半島などは、この餅麹で酒を醸す。
対して日本酒は、米を蒸してそれを固まりにせず粒のまま、カビを繁殖させる。
材料の麦等と米、非加熱と加熱、塊と粒、それらが異なることよってカビの種類も違ってくる。同じ米で造る紹興酒、マッコリ、日本酒がここまで異なったものとなっているのは、むろん様々な要因があるが麹が違うことも大きい。
ススコリ屋さんが造ったのは、マッコリのような酒であったかもしれない。朝鮮半島の酒の歴史を知らないと何も言えないことだが。
ススコリ屋さんが日本酒の祖ではないとしたら、誰が日本にバラ麹の酒造りを伝えたのか。やっぱりスクナヒコナか。しかしスクナヒコナも外来神の可能性がある。大陸由来であれば、やはり穀物の粉をレンガの如く固めてカビを生やす餅麹だったかも。イクヒさんはどうやってデンプンを糖化したんだろう。
バラ麹はどこから伝わったのか。それは定かではない。現在の文化人類学では東アジアにおけるバラ麹のルーツを長江下流などに想定されているが、決定的ではないようだ。
或いは、日本独自に発明されたのか。
「播磨国風土記」に以下のような記述がある。御粮 が沾 れて糆 が生じたのでそれで酒を醸した。それが庭酒村という名の由来だ、と記するのだが、ここでカビを用いた酒の話が出てくる。
粮というのは米とみていいだろう。供えた米なので蒸米だったかも。それが湿気てカビた。なのでこれで酒を醸した、と。
これをもって、蒸米に粒のままカビを繁殖させる日本式麹は日本で編み出されたのだ、という説がある。確かにそうかもしれない。
しかし、これでは庭酒村の人が米に生えたカビは酒造りに使える、と知っていただけの話ともとれる。裏返せばこの時代にバラ麹を使った米の醸造法が知られていたことになる。
同じ頃、大隅国風土記では口噛み酒を造っていた。畿内に近い播磨と南九州ではずいぶん様相が異なっていたことはわかる。
風土記は、奈良時代のこと。奈良時代には、大いに酒がのまれていた。正倉院文書に清酒、濁酒、糟、粉酒などの文言がみえる。
「写経司解案」という文書があって、中身は写経生の待遇改善の要求である。その中に「三日に一度酒を呑ませろ」というのがある。
そして、平安時代の延喜式には、14種類の酒が列記されているという。その酒を孫引きさせてもらえば、御井酒、御酒、三種の糟(三淋)、醴(桃の節句の白酒に同じ)、擣糟 頓酒、熟酒、粉酒、汁糟、搗糟、黒貴、白貴。
柳生健吉「酒づくり談義」によれば、それぞれに蒸米、麹、酒造用水の配合歩合、そして醸造操作が異なるという。つまり、14種の酒が造り分けられていたということである。
この時代の辞書である和名抄には、醰酒、醨、醇酒、酎酒、醪、醴の記載があるらしい。
これらの酒の解明は醸造学者らによってかなり進んでいるが、全てが分かったわけではないだろう。
これまでも、日本では様々な方法で米の酒が醸されてきた。コノハナサクヤの天甜酒。スクナヒコナが伝えイクヒさんが醸した酒。クマソのタケルを酔いつぶした醇酒。国樔人の醴酒。ススコリ屋さんが百済から伝えた醸造法。だがそれらが、この奈良、平安時代の酒造方にどれだけ繋がっているのかはわからない。そして、現在の日本酒にその技術の破片が残されているのかどうか。
このあとも、日本酒の醸造法はどんどん発展していく。諸白(精白米)の使用。酛(酒母)を造る技術の向上。火入れによる殺菌。そして現在の醸造法の根幹を成す「三段仕込み」を編み出したこと。現在では、吟醸酒というバケモノみたいな酒も誕生している。
そうなると、なかなか古代の日本酒というものを想像しにくくなる。もしかしたら甘酒や味醂などのほうが近しいのかもしれない。
しかし、連綿と続いてきた歴史というものは紛れもなくある。想像力を逞しく保ちつつ、神話や上代に思いを馳せながら、幾久しく「われ酔ひにけり」と呑もうと思う。古代の酒の話はこのくらいにして。
関連記事:
ヤマタノオロチが呑んだ酒
縄文はワイン?
くちかみ酒
本来この話は、ある鬱陶しいおっさんがきっかけなのである。酒場で遭ってしまうそのおっさんは、国粋主義者でワインなど毛唐の酒は飲む気がしない、などど乱暴なことを言いつつ、日本人は縄文の心を忘れておる、嘆かわしいことだなどと言い出す。そして酔っ払いは同意を求めるので困る。閉口しつつふと、日本書紀初出の酒はワインではなかったか、と論じていた書籍があったのを思い出し、もう一度本を読みなおそうかと思ったのが始まり。
そして神話の深みにはまり、おっさんのことなどどうでも良くなってここに至る。
閑話休題。
ニニギが日向国に降臨し、コノハナサクヤと結婚して海幸彦・山幸彦を産み、山幸彦の孫が日向の高千穂を出でて東征し、大和を平らげて神武天皇となる。そして、神話の時代は終わり、ここからは史実扱いになる。
史実といっても不可思議な記述が多いこの上代だが、この神武天皇が打ち立てた大和朝廷が、僕の考え方だと弥生人政権ということになる。そういう短絡的な見方はお叱りを受けるもとだが、あくまで私見。
ここからは、酒の記述はいくつも出てくるので全ては挙げられないが、代表的なものを。
第十代崇神天皇の世。天皇は、高橋邑の
活日は、神酒を天皇に献じて歌を奉げた。
このなんとも朗々とした歌でいいなーと思うが、いくつかわからないこともある。神酒 は 我が神酒ならず 大和なす大物主 の醸 みし酒幾久 幾久
まず「大物主の醸(か)みし酒」とよまれる。かみし酒とは噛みし酒みたいだな。原文は「於朋望能農之能 介瀰之瀰枳」となっているので「かみし」で間違いはない。まだ口噛み酒かな?
しかし崇神天皇といえば実質大和朝廷の初代とも言われる天皇。そのご時世にこの解釈は難しい。賀茂真淵のみならず、この酒を口噛みと解釈している学者もいないだろう。僕だってそう思いたい(イクヒさんって多分おっさんなのだろうし)。しかし、口噛み酒だった可能性もゼロではないかも。
イクヒさんは今も杜氏の元祖と祀られているが、イクヒさんは「大物主が造ったのだ」と謙遜している。果たして大物主とは誰か。
これが、難しいのである。
酒と関係ないので端折るが、大物主は奈良の大神神社(三輪大神宮)の祭神で、祟り神1号と言ってもいい。崇神天皇の時世、疫病その他で祟り、天皇が困って大物主に聞けば、大物主は「わしの子孫を探して祭祀させよ」と告げ、そのとおりにしたらおさまったという。
で、大物主の正体だが、どうも大国主命と同形らしい(もしくはその分身)。まずは国つ神であり、さすれば「大物主の醸みし酒」とはやっぱり口噛み酒か、とも思えてしまう。どうなのだろうか。
話が少し横道でしかも神話に戻るが、大国主命が国造りをしたときの有能なパートナーに、
古事記では、スクナヒコナが帰って途方にくれたオオクニヌシに「ワシの魂を祭れば国造りはOKだ」と言い、三輪山に祀られたのが大物主であるという。書紀ではオオクニヌシの幸魂・奇魂が大物主であるという。よくわからない。いずれにせよこの国は、オオクニヌシとスクナヒコナ(と大物主)が精魂込めて造りあげた。しかしその国(
スクナヒコナに戻るが、この神は同時に、酒の神でもあったらしい。
この時より何世代か後で、そのことがわかる。書紀によれば、応神天皇が敦賀から帰った際に、おかあさんの神功皇后が宴会をした。その宴会のときの歌。
此の神酒は 我が神酒ならず先のイクヒさんの歌と対応している。ここで、少名御神が薬の神であり、同時に酒の神であったことがわかる。薬=酒だったのかも。薬 の神 常世に在ます 石立たす少名御神 の 豊寿き 寿き廻へし 神寿き 寿きくるほし 献り来し御酒ぞ 余さず飲せ ささ
現在、三輪にある大神神社は主祭神が大物主大神、配神にオオクニヌシとスクナヒコナがいて、醸造の神となっている。
このテクノクラートとも言えるスクナヒコナが、日本に麹造りの酒を伝えたのであろうと推察する説もある(太田水穂氏「日本酒の起源」)。なるほどそうかもしれない。さすれば、その技術をイクヒさんが受け継いでいたのだろう。ならば、口噛み酒ではなく麹の酒であった可能性が高い。わざわざイクヒさんを召して造らせたのであり、技術を要した酒だったのだろう。口噛み酒にあまり技術は必要ないから。
しかし実情は、よくわからないなぁ。
崇神天皇のときは、酒はなんだかうやうやしく奉げられた感じもするので、生産量はそれほどでもなかったのかもしれない。これは、口噛みだったから大量に造れなかったのか、それとも米が酒に回せるほど余剰がなかったのか(材料不足)、あるいは、イクヒさんのような酒造りの技術者が不足していたのか。それもよくわからない。
その後は、徐々に大量生産が可能になったようで、宴会の記述もある。前述の神功皇后と応神天皇の宴会の他にも、
熊襲と大和の対立はずっと続いていて、ヤマトタケルの以前にも景行天皇は征伐を試みているが、このやり方がえげつない。
熊襲八十梟帥の娘、
それはともかく、熊襲梟帥を酔わせた酒はかなり強い酒だと言われている。九州方面の男はたいてい酒に強いが、それを酔い潰す酒であるからして。原文は「以多設醇酒 令飮己父 乃醉而寐之」で、醇酒と表現される。「からき」と訓ずる場合も。醇と書けば濃厚なイメージがあるが、やはり度数も高かったのだろう。これは、麹酒でしかありえない。
応神天皇は酒が好きだったのか、前述の宴会の他にもいくつか酒の記述が残る。吉野へ行幸の時には
この国樔人とは、かつて神武天皇が東征の折、熊野から吉野に入った時に出あった「
その醴酒だが、国樔人はこのように歌っている。
樫の木の臼に貯めたこの醴酒については、果実酒説や甘酒説などさまざま言われているが、上田誠之助氏は、口噛み酒ではなかったかとされる(「日本酒の起源」)。実は現在でも奈良県国樔村(現吉野町)では祭りで何と醴酒を造っているという。作り方は、水に浸したもち米を臼で砕いて布ごし、残りかすの粉砕、裏ごしを繰り返して「しとぎ」をつくり、それに清酒と砂糖を加えて温めるとか。当然1700年前と今では同じ作り方ではないだろうが(当時は清酒も砂糖もない)、その「しとぎ」の様子から口噛み酒を想定されている。樫 の生 に横臼 を作り 横臼に 醸める大御酒 うまらに 聞こし持ち食 せ まろが父
日本書紀には国樔人の生活の様子が描写されている。どうも非農耕民らしい。木の実を採集し、また蛙を獲って食べるなどしている様子は、山間の村で古い縄文の様式を守っている様子が伺える。稲も焼畑の陸稲だったか。そうなれば、やはり僕も口噛み酒ではなかったかと思う。現在の醴酒を知らねば、果実酒説に一票だったかもしれないが。
醴酒は延喜式の造酒司にも記されている。それは麹を用いている。ただし何百年も後の都でのことで、この国樔人が醸した醴酒と同じであったかは難しい。
ともあれこの時期(応神天皇時世 3~4世紀)は、様々な醸造法が混在していた時代なのだろう。縄文以来の口噛み酒もあれば、またおそらくは大陸伝来の麹の酒もあった。そして水稲がますます盛んとなり、ある程度酒の量産も可能となって、麹の酒が徐々に席巻し始めたのだろう。しかしその麹の酒とて、幾種類もの造酒法があったことも考えられる。
応神天皇はよほどの酒好きか、それともこの時期に酒が不自由なく出回るようになったのか、酒をのんでは歌を詠んでいる。そのひとつひとつを挙げてはいられないが、古事記に、応神天皇が百済に技術者を要求したことが記してある。このとき「論語」「千字文」を伝えたとされる和邇吉師(王仁)をはじめ鍛冶や機織職人等が海を渡ってきたが、酒職人も渡来したらしい。
及知醸酒人 名本名はニホさんで、またの名をススコリと名乗ったらしい。このススコリさんの醸した酒が旨く、応神天皇はまた歌を詠んでいる。仁番 亦名須須許理 等 参渡来也 故 是須須許理 醸大御酒以献
須須許理が 醸みし御酒に 我酔ひにけり ことなススコリさんの酒で俺は酔っ払っちゃったよ、というなんとも大らかな歌である。ことなぐし、えぐしというのがわかりにくいが、くしは薬であり=酒のこと。ことなは、事無し、心配いらぬ天下泰平、みたいな感じか。えぐしのえは笑だろうか。楽しそうな酒だなー。酒 ゑ酒 われ酔ひにけり
ともかく、この百済から渡来したススコリさんが、日本に麹で醸す酒を伝えたのだという有力説がある。
ススコリさんについては鄭大聲氏の論文「須須許理について」があり、それを読むと、朝鮮語で酒はスルと言い、コリ、コルリが「漉す」であるらしい。マッコリのコリですな。つまりスルコリで「酒を漉す人」、まあ酒職人の意だろうとされる。さすればニホが名前でススコリは職名ですな。ススコリ屋さんと言う方が適うか。
で、ススコリ屋のニホさんが日本酒の祖かと言われれば、これも難しい。朝鮮半島は、中国と同じく主として餅麹を用いるが、日本は散麹だからである。バラ麹。
麹と言うのはすなわち、でんぷんを糖化させるカビの培養体のことである。餅麹とは麦などを粉にして水で練って固め、それにカビを繁殖させたもの。固まりなので「餅コウジ」と呼ぶ。中国、朝鮮半島などは、この餅麹で酒を醸す。
対して日本酒は、米を蒸してそれを固まりにせず粒のまま、カビを繁殖させる。
材料の麦等と米、非加熱と加熱、塊と粒、それらが異なることよってカビの種類も違ってくる。同じ米で造る紹興酒、マッコリ、日本酒がここまで異なったものとなっているのは、むろん様々な要因があるが麹が違うことも大きい。
ススコリ屋さんが造ったのは、マッコリのような酒であったかもしれない。朝鮮半島の酒の歴史を知らないと何も言えないことだが。
ススコリ屋さんが日本酒の祖ではないとしたら、誰が日本にバラ麹の酒造りを伝えたのか。やっぱりスクナヒコナか。しかしスクナヒコナも外来神の可能性がある。大陸由来であれば、やはり穀物の粉をレンガの如く固めてカビを生やす餅麹だったかも。イクヒさんはどうやってデンプンを糖化したんだろう。
バラ麹はどこから伝わったのか。それは定かではない。現在の文化人類学では東アジアにおけるバラ麹のルーツを長江下流などに想定されているが、決定的ではないようだ。
或いは、日本独自に発明されたのか。
「播磨国風土記」に以下のような記述がある。
庭音村 本名庭酒 大神御粮沾而生糆 即令醸酒 以献庭酒而宴之 故曰庭酒村 今人云庭音村播磨国宍禾郡にある庭音村の地名由来譚である。大神(播磨国宍粟郡の伊和神社。祭神は大巳貴命)に献じた
粮というのは米とみていいだろう。供えた米なので蒸米だったかも。それが湿気てカビた。なのでこれで酒を醸した、と。
これをもって、蒸米に粒のままカビを繁殖させる日本式麹は日本で編み出されたのだ、という説がある。確かにそうかもしれない。
しかし、これでは庭酒村の人が米に生えたカビは酒造りに使える、と知っていただけの話ともとれる。裏返せばこの時代にバラ麹を使った米の醸造法が知られていたことになる。
同じ頃、大隅国風土記では口噛み酒を造っていた。畿内に近い播磨と南九州ではずいぶん様相が異なっていたことはわかる。
風土記は、奈良時代のこと。奈良時代には、大いに酒がのまれていた。正倉院文書に清酒、濁酒、糟、粉酒などの文言がみえる。
「写経司解案」という文書があって、中身は写経生の待遇改善の要求である。その中に「三日に一度酒を呑ませろ」というのがある。
そして、平安時代の延喜式には、14種類の酒が列記されているという。その酒を孫引きさせてもらえば、御井酒、御酒、三種の糟(三淋)、醴(桃の節句の白酒に同じ)、擣糟 頓酒、熟酒、粉酒、汁糟、搗糟、黒貴、白貴。
柳生健吉「酒づくり談義」によれば、それぞれに蒸米、麹、酒造用水の配合歩合、そして醸造操作が異なるという。つまり、14種の酒が造り分けられていたということである。
この時代の辞書である和名抄には、醰酒、醨、醇酒、酎酒、醪、醴の記載があるらしい。
これらの酒の解明は醸造学者らによってかなり進んでいるが、全てが分かったわけではないだろう。
これまでも、日本では様々な方法で米の酒が醸されてきた。コノハナサクヤの天甜酒。スクナヒコナが伝えイクヒさんが醸した酒。クマソのタケルを酔いつぶした醇酒。国樔人の醴酒。ススコリ屋さんが百済から伝えた醸造法。だがそれらが、この奈良、平安時代の酒造方にどれだけ繋がっているのかはわからない。そして、現在の日本酒にその技術の破片が残されているのかどうか。
このあとも、日本酒の醸造法はどんどん発展していく。諸白(精白米)の使用。酛(酒母)を造る技術の向上。火入れによる殺菌。そして現在の醸造法の根幹を成す「三段仕込み」を編み出したこと。現在では、吟醸酒というバケモノみたいな酒も誕生している。
そうなると、なかなか古代の日本酒というものを想像しにくくなる。もしかしたら甘酒や味醂などのほうが近しいのかもしれない。
しかし、連綿と続いてきた歴史というものは紛れもなくある。想像力を逞しく保ちつつ、神話や上代に思いを馳せながら、幾久しく「われ酔ひにけり」と呑もうと思う。古代の酒の話はこのくらいにして。
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ヤマタノオロチが呑んだ酒
縄文はワイン?
くちかみ酒
「ヤマタノオロチの呑んだ酒」「縄文はワイン?」と、有史以前にはもしかしたら日本列島ではワインが醸され、その痕跡が八岐大蛇退治であり縄文式土器であり、また酒船石ではないのか、という話を、主として柳生健吉氏著作「酒づくり談義」から引いて書いてきた。
しかしながら、仮にワインが本当に米の酒に先んじて日本列島で醸されていたとしても、それは今は根絶してしまった。その後、日本では米から醸造された酒が主流となり、ただ「酒」と言えば米の酒を指すようになる。米の酒=日本酒、である。
いったいいつから、日本では米の酒が主流となったのか。その過程については、考古学、文化人類学、醸造学などからそれぞれアプローチが出来るようだ。柳生健吉氏は、それが縄文から弥生時代へと移り変わる過程と一になっているのではと推測されている。
僕の場合は、好奇心だけで詳しく研究などできないので、続けて神話を読んでゆく。
スサノオの一幕の次に酒が出てくるのは、オオクニヌシの妻問い、そしてスセリヒメの嫉妬の場面である。この話は、日本書紀には出てこない。古事記の話。
大国主命 の正妻は、須勢理毘売命 である。ところが、オオクニヌシは越国の沼河比売 にも求婚する。現在の倫理観を当時に持ち込むことは出来ないが、まあ浮気か。そのためにスセリヒメは嫉妬した(スセリヒメだって実は略奪婚なのだが)。
困ったオオクニヌシは出雲から大和に逃げようとすると、スセリヒメは杯を手に引き留める歌を読む。
艶話は措いて、この酒は、果たして何の酒だったのだろうか。
スセリヒメは、スサノオの娘である。またオオクニヌシもスサノオの系列で、ともに国つ神である。さすれば、もしかしたらワインであったかもしれない、と推察もできる。しかし、美女であるスセリヒメが、盃を片手に誘ってきたのであれば、もしかしたら違う酒かも、とも思えるのである。
その違う酒とは、の話の前に、次に神話で酒が出てくる場面を。それは、コノハナサクヤヒメの一幕である。木の花咲くや姫。桜の化身だな。名前からして美しい。
話は、天孫降臨である。古事記、日本書紀とも骨子は変わらない。天照大神 の孫である瓊瓊杵尊 は、高天原から日向国に降臨する。そこでニニギは絶世の美女である木花開耶姫 と出逢い、求婚。一夜の契りでコノハナサクヤヒメは懐妊し、火照命 、火須勢理命 、火遠理命 を生む。ホデリとホオリがつまり海幸彦・山幸彦であり山幸彦の孫が神武天皇になるのだが、それはともかく、日本書紀の「一書曰」は以下のように記す。神吾田鹿葦津姫 というのはコノハナサクヤの別名。コノハナサクヤは、卜定田(占いで定めた田)を狹名田と名づけ、その田の稲で、天甜酒 を醸し、奉げたとする。
これは稲で作っているので、明確に米の酒である。果実酒ではない。
ニニギと言えばアマテラスの孫。スサノオとは三世代の差だが、神代の三世代とは何百年か何千年か。ともかく、米の酒である。
この天甜酒とはどういう酒だったかについては、口噛み酒ではなかったかとの説がある。
これは、酒を醸 すという言葉が「かむ」と同語源であると推察されていることにもよる。後述する大隅国風土記逸文の紹介文に「酒ヲ造ルヲバカムトモイフ。イカナル心ゾ」とも書かれている。
これには反論もある。賀茂真淵が「冠辞考」で「醸 の語は麴 、黴立 に通じ嚼 ではないといふ」と論じたのをはじめとして、カモすはカビすだろう、との説も強い。
しかしながら、酒を造るのに噛んで造る方法は、実際に存在した。
今まで書いてきたように、穀物から酒は簡単には作れない。果実に含まれる糖分に酵素が働いてアルコールが生成されるワインと異なり、穀物はまずそのデンプン質を糖化する作業が前段として必要となる。ちなみにビールは、大麦の種子が発芽する際に生じる糖化酵素の作用を活用する。麦芽糖というのは一般的に知られているかと思う。
そして日本酒はその糖化のために麹を活用するのだが、麹というカビの培養体がデンプンを糖化させるという発見は、なかなかできることではない。
米をもっと簡単に糖化させる方法は、噛むことである。
炊いたご飯を口中で長い時間噛んでいると、だんだん甘くなってくるだろう。これは、唾液に含まれるアミラーゼがデンプン質を分解し糖化させるからである。そうして噛んで甘くなった米を、容器に貯めて放置すると、自然酵母が働いて醗酵しアルコールが生成される。口噛み酒とは、そういうものである。
この口噛み酒を醸すのは、女性の仕事だったといわれる。
かつて真臘(カンボジア)で造られていた口噛み酒は「美人酒」と呼ばれていたとの話もある。日本では、上田誠之助氏の「日本酒の起源」より孫引きさせていただくが18世紀末から編纂された薩摩藩の農事書に、
他に、沖縄や奄美の口噛み酒も女性が主体であったらしい。
こういうものは巫女さんがなさるもの、という意識は、なんとなしに我々も持っていたりして。傍証ともならないが、酒造りの長である杜氏と、古来主婦を指す刀自という言葉は共に「とじ」であり同語源説もある。また妻を「カミさん」というが、「噛みさん」ではなかったのか、とも(相当怪しい説だが)。
そのように思えば、艶っぽいスセリヒメの誘惑の酒や、コノハナサクヤヒメの天甜酒は、なんとなしに口噛み酒ではなかったかと思えてくるのだが(根拠希薄)。
口噛み酒は、世界中に分布しているものではない。東アジアと、中南米にみられるだけらしい。
アジアでは、台湾、閩(福建省)での記録、また前述の如く13世紀のカンボジアにも出てくるとか。さらに、北方の女真、韃靼での記録もあると(石毛直道「酒造と飲酒の文化」)。
日本では、沖縄、奄美諸島での報告がある。そして古くは「大隅国風土記」にも口噛み酒が記されているという。やはり鹿児島だ。
風土記は、だいたい8世紀前半にかかれたもの。神話の世からは時代がかなり下るが、それでもその時代まで、まだ口噛み酒が存在した地域があるということだ。
ただこの時代(地域)では、男も女も噛んでいる。うーむ。
日本の稲作の歴史は、かつては弥生時代に始まるとされていたが、昨今の研究では縄文時代後期から始まっていたようだ。その縄文時代の米作りは、陸稲(熱帯ジャポニカ)だとされる。畔を作り水を引き入れて苗を植える、集団でなされる水田稲作ではない。籾を畑に直接蒔くやり方である。
これは、南方から「海上の道(柳田國男)」を経由して持ち込まれたものなのだろうか。ならば南方モンゴロイドによるもので、すなわち縄文人に対応できる。
後期縄文人は焼畑農業によって、陸稲の他に大麦や粟、小豆なども栽培していたらしく、稲に完全依拠した生活であったとは考えにくい。だが、この陸稲の伝来と同時に、南方から口噛み酒の製法も入ってきたのではないだろうか。口噛み酒の東アジアでの分布状況から見て、そんなふうにも思う。
スサノオ時代にはまだ米はなく(あったとしても酒に転用できるほどではなく)、酒は果実酒だった。だがオオクニヌシの時代ともなれば、徐々に米の生産も増え、そのことで米の酒が登場し、果実酒を凌駕していったことが考えられる。しかし麹による糖化醗酵までは至らず、口噛みであった、と。
麹の酒を持ち込んだのは、水稲栽培をむねとする弥生人であっただろう。
大和朝廷成立の頃には、もう酒といえば麹を使った酒が主流になってきたのでは、とも考えられる。そして沖縄、奄美、南九州(大隅国風土記)、また北方のアイヌ民族など、弥生文化の伝播が完全に至らない地域に、口噛み酒が縄文の痕跡として残ったのではないか。
神話と縄文・弥生の話からまたぼんやりと考える。
この口噛み酒は、縄文文化の醸し方ではないかと仮に考えた。そして、今までのように国つ神を縄文人、天つ神を弥生人に対応させていく。
さすれば、美女のほまれ高いスセリヒメやコノハナサクヤヒメは、やはり自らの口をもって酒を醸したのだろう。そして、オオクニヌシやニニギにのませた。これでは男はもう…イチコロである(言葉が古いな)。
こうなると、やはり杜氏は刀自ではなかったのかと思いたくなる。
次回、もう少しだけ蛇足を。
しかしながら、仮にワインが本当に米の酒に先んじて日本列島で醸されていたとしても、それは今は根絶してしまった。その後、日本では米から醸造された酒が主流となり、ただ「酒」と言えば米の酒を指すようになる。米の酒=日本酒、である。
いったいいつから、日本では米の酒が主流となったのか。その過程については、考古学、文化人類学、醸造学などからそれぞれアプローチが出来るようだ。柳生健吉氏は、それが縄文から弥生時代へと移り変わる過程と一になっているのではと推測されている。
僕の場合は、好奇心だけで詳しく研究などできないので、続けて神話を読んでゆく。
スサノオの一幕の次に酒が出てくるのは、オオクニヌシの妻問い、そしてスセリヒメの嫉妬の場面である。この話は、日本書紀には出てこない。古事記の話。
困ったオオクニヌシは出雲から大和に逃げようとすると、スセリヒメは杯を手に引き留める歌を読む。
爾其后取大御酒坏 立依指擧而歌曰スセリヒメが手にしている大御酒杯。中身はもちろん酒に決まっている。そしてオオクニヌシに寄り添うようにして詠むその歌というのが、実に艶めかしい。全文引用ともいかないのでちょっと意訳して書くと、
私の大国主神さん。あなたは男だから、先々どこでも若い妻を持つんでしょう。でも私は女、あなた以外に夫はいないのよ。綾織の帳がふわりと揺れる下、柔らかで白い夜具の中で、私の淡雪のように若やかな胸を、そして白い腕を、抱きしめ思うように愛撫して、私の美しい手を枕としていつまでも寝ていましょう。さあ御酒をどうぞ。エロい。ここまで言われてオオクニヌシはスセリヒメに負け、酒をのんで互いのうなじに手を絡めて寝ちゃうのである。後半部はやっぱり引こう。これぞ万葉仮名。
阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀迩 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世あわ雪の 若やる胸を 栲綱の 白き腕(ただむき) そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き ももながに いおし寝せ とよみき 奉らせ…原文でもエロいな。この「とよみき」が酒。「豊神酒」と解釈されている。
艶話は措いて、この酒は、果たして何の酒だったのだろうか。
スセリヒメは、スサノオの娘である。またオオクニヌシもスサノオの系列で、ともに国つ神である。さすれば、もしかしたらワインであったかもしれない、と推察もできる。しかし、美女であるスセリヒメが、盃を片手に誘ってきたのであれば、もしかしたら違う酒かも、とも思えるのである。
その違う酒とは、の話の前に、次に神話で酒が出てくる場面を。それは、コノハナサクヤヒメの一幕である。木の花咲くや姫。桜の化身だな。名前からして美しい。
話は、天孫降臨である。古事記、日本書紀とも骨子は変わらない。
時神吾田鹿葦津姫 以卜定田 號曰狹名田 以其田稻 釀天甜酒嘗之
これは稲で作っているので、明確に米の酒である。果実酒ではない。
ニニギと言えばアマテラスの孫。スサノオとは三世代の差だが、神代の三世代とは何百年か何千年か。ともかく、米の酒である。
この天甜酒とはどういう酒だったかについては、口噛み酒ではなかったかとの説がある。
これは、酒を
これには反論もある。賀茂真淵が「冠辞考」で「
しかしながら、酒を造るのに噛んで造る方法は、実際に存在した。
今まで書いてきたように、穀物から酒は簡単には作れない。果実に含まれる糖分に酵素が働いてアルコールが生成されるワインと異なり、穀物はまずそのデンプン質を糖化する作業が前段として必要となる。ちなみにビールは、大麦の種子が発芽する際に生じる糖化酵素の作用を活用する。麦芽糖というのは一般的に知られているかと思う。
そして日本酒はその糖化のために麹を活用するのだが、麹というカビの培養体がデンプンを糖化させるという発見は、なかなかできることではない。
米をもっと簡単に糖化させる方法は、噛むことである。
炊いたご飯を口中で長い時間噛んでいると、だんだん甘くなってくるだろう。これは、唾液に含まれるアミラーゼがデンプン質を分解し糖化させるからである。そうして噛んで甘くなった米を、容器に貯めて放置すると、自然酵母が働いて醗酵しアルコールが生成される。口噛み酒とは、そういうものである。
この口噛み酒を醸すのは、女性の仕事だったといわれる。
かつて真臘(カンボジア)で造られていた口噛み酒は「美人酒」と呼ばれていたとの話もある。日本では、上田誠之助氏の「日本酒の起源」より孫引きさせていただくが18世紀末から編纂された薩摩藩の農事書に、
其法十三四より十五歳までの女子とある。端正 なるを擇 て齊 せしめ、甘蔗にて歯を磨き、清水にて口を洗い、粢を嚼しめて、醞醸 の中に投れば、一宿も経て成れり… 「成形図説」
他に、沖縄や奄美の口噛み酒も女性が主体であったらしい。
こういうものは巫女さんがなさるもの、という意識は、なんとなしに我々も持っていたりして。傍証ともならないが、酒造りの長である杜氏と、古来主婦を指す刀自という言葉は共に「とじ」であり同語源説もある。また妻を「カミさん」というが、「噛みさん」ではなかったのか、とも(相当怪しい説だが)。
そのように思えば、艶っぽいスセリヒメの誘惑の酒や、コノハナサクヤヒメの天甜酒は、なんとなしに口噛み酒ではなかったかと思えてくるのだが(根拠希薄)。
口噛み酒は、世界中に分布しているものではない。東アジアと、中南米にみられるだけらしい。
アジアでは、台湾、閩(福建省)での記録、また前述の如く13世紀のカンボジアにも出てくるとか。さらに、北方の女真、韃靼での記録もあると(石毛直道「酒造と飲酒の文化」)。
日本では、沖縄、奄美諸島での報告がある。そして古くは「大隅国風土記」にも口噛み酒が記されているという。やはり鹿児島だ。
大隈ノ国ニハ、一家ニ水ト米トヲマウケテ、村ニツゲメグラセバ、男女一所(ひとところ)ニアツマリテ、米ヲカミテ、サカブネニハキイレテ、チリヂリニカヘリヌ、酒ノ香ノイデクルトキ、又アツマリテ、カミテハキイレシモノドモ、コレヲノム、名ヅケテクチカミノ酒ト云フ「大隅国風土記」はもう原典は失われている。この文は、鎌倉時代の事典「塵袋」に引用されたもの。原文どおりではないだろうが、意は伝えているのだろう。
風土記は、だいたい8世紀前半にかかれたもの。神話の世からは時代がかなり下るが、それでもその時代まで、まだ口噛み酒が存在した地域があるということだ。
ただこの時代(地域)では、男も女も噛んでいる。うーむ。
日本の稲作の歴史は、かつては弥生時代に始まるとされていたが、昨今の研究では縄文時代後期から始まっていたようだ。その縄文時代の米作りは、陸稲(熱帯ジャポニカ)だとされる。畔を作り水を引き入れて苗を植える、集団でなされる水田稲作ではない。籾を畑に直接蒔くやり方である。
これは、南方から「海上の道(柳田國男)」を経由して持ち込まれたものなのだろうか。ならば南方モンゴロイドによるもので、すなわち縄文人に対応できる。
後期縄文人は焼畑農業によって、陸稲の他に大麦や粟、小豆なども栽培していたらしく、稲に完全依拠した生活であったとは考えにくい。だが、この陸稲の伝来と同時に、南方から口噛み酒の製法も入ってきたのではないだろうか。口噛み酒の東アジアでの分布状況から見て、そんなふうにも思う。
スサノオ時代にはまだ米はなく(あったとしても酒に転用できるほどではなく)、酒は果実酒だった。だがオオクニヌシの時代ともなれば、徐々に米の生産も増え、そのことで米の酒が登場し、果実酒を凌駕していったことが考えられる。しかし麹による糖化醗酵までは至らず、口噛みであった、と。
麹の酒を持ち込んだのは、水稲栽培をむねとする弥生人であっただろう。
大和朝廷成立の頃には、もう酒といえば麹を使った酒が主流になってきたのでは、とも考えられる。そして沖縄、奄美、南九州(大隅国風土記)、また北方のアイヌ民族など、弥生文化の伝播が完全に至らない地域に、口噛み酒が縄文の痕跡として残ったのではないか。
神話と縄文・弥生の話からまたぼんやりと考える。
この口噛み酒は、縄文文化の醸し方ではないかと仮に考えた。そして、今までのように国つ神を縄文人、天つ神を弥生人に対応させていく。
さすれば、美女のほまれ高いスセリヒメやコノハナサクヤヒメは、やはり自らの口をもって酒を醸したのだろう。そして、オオクニヌシやニニギにのませた。これでは男はもう…イチコロである(言葉が古いな)。
こうなると、やはり杜氏は刀自ではなかったのかと思いたくなる。
次回、もう少しだけ蛇足を。
日本酒というのは、造るのが実に難しい。
穀物からは、勝手に酒は出来てくれないからだ。醸造、とは原料を発酵させてアルコールを得ること。しかしアルコールは、糖からしか出来ない。
日本酒の原材料である米は、糖分を含まない。したがって、米から酒を造ろうとすれば、まず米から糖を生じさせなければならない。具体的には、麹の力によって米のデンプン質を糖に変化させる。そして、その糖化されたもの(つまり甘酒)に、酵母を働きかけさせて、糖からアルコールを生じさせる。そうして、酒が出来る。
思い切って簡単に言えば日本酒造りの工程は、米を麹の力で甘酒にする→甘酒を酵母の力で酒にする、ということである。二重の工程が必要となる。
これが、果実酒であればもっと単純である。果物は、そもそも甘い。糖分がふんだんに含まれているわけで、それに酵母が働けばもうアルコールになってしまう。
そして、酵母は自然界に存在する。果物を瓶に貯めておいたら、自然酵母で醗酵が始まり酒が出来てしまう可能性も。おそらく、ワインの発明はそんなところから始まっていると思われる。
対して日本酒は「麹菌というデンプンを分解し糖化するカビ」の発見から始まっている。そんな簡単じゃないのだ。
さすれば、日本列島で米の酒が出来る以前には、果実酒が醸されていた可能性もゼロではないのではないか。縄文後期には米は伝来していたと思われるが、米が伝わる以前(あるいは水稲耕作によって大量収穫が可能になる以前)に、酒は存在していなかったと断言は出来ない。なんせ魏志倭人伝に「人性嗜酒」と書かれた酒のみ日本人である。
もしかしたたら、彼らはワインをのんでいたのかもしれない。現に前回書いたように、スサノオたちは「あまたのこのみ」を使って果実酒を醸しているではないか(現に、とか言いながら神話だけど)。
ここからは、いろいろなことが考えられる。
日本の神は、天津神・国津神に大別される。天つ神とは、高天原にいる神。国つ神は土着の神。見方を変えると、天つ神は大和朝廷の神であり征服者側、国つ神は出雲その他の神であり、被征服者側であるとも言える。国つ神の大国主命は、頑張って治めていた葦原中国を、天つ神に譲らされた。
これを日本歴史に当てはめて、縄文文化と弥生文化に対応させる見方もある。短絡的な見方を承知で書けば、日本列島においては、縄文人を弥生人が駆逐した。おそらくは大陸から、稲作技術をもつ集団が日本列島へ移住してきた。それが弥生人であり、それまでの先住民族だった縄文人を侵食していった。
縄文人は、かつては狩猟漁労採集による移動生活を営む民と言われたが、現在の研究では三内丸山遺跡に見られるように村落を作り、縄文文化が花開いていたとされる。農耕も行われていたと考えられる。
日本の先住民族である縄文人が、稲作をどれほど広く行っていたかはわからない。ただ大陸から来たとされる弥生人は、完全に稲作に依拠した民族である。米が生活の根幹だった。
縄文時代から弥生時代へいつ移ったのかは明確には言えず、徐々に水稲耕作が浸透していく過程が時代の変遷過程でもある。ただ年代で言えば、紀元前10世紀から紀元前3世紀くらいが縄文から弥生時代への変わり目と考えていいようだ。
スサノオの追放や国譲りの使者たちは別として、天つ神が日本列島に正式に足を踏み入れたのは、天孫降臨である。天つ神の女神である天照大神 の孫である瓊瓊杵尊 が日向国に降り立った。
ではいつ頃、ニニギは日向国に降臨したか。神武天皇が45歳のときに「天孫降臨して百七十九万二千四百七十余年」という話があるが(日本書紀)、これはまああまりにも粉飾として。神武天皇の即位が紀元前660年、ニニギは神武天皇の曽祖父だから、まあだいたい100年サイクルとみて(神武天皇は127歳崩御)、降臨はだいたい紀元前10世紀頃か。弥生時代の始まりと一であるとも見える(強引かな)。
素戔嗚尊 という人物は、なかなか捉えどころがない。一応、アマテラスの弟だから天つ神のはずだが、罪を犯し高天原を追放され(神逐 )、以後国つ神扱いとなる。国つ神の総大将とも言える大国主命の祖でもある。これは、もともと国つ神だったスサノオが、神話構成上天つ神アマテラスの弟ということにされたという説もある。
そのスサノオが高天原を追い出された罪というのが面白い。田の溝を埋めたり、畔を壊したり、用水路を破壊したり、とにかく稲作は敵と言わんばかりに水田に悪さを働いている。
こうした側面から、スサノオはニニギ(水稲農業を旨とする弥生人)が日本に来る以前の縄文人の象徴と考えてもいいかもしれない。
そのスサノオがヤマタノオロチ退治の際に造れと命じた酒は、果実酒である。ワイン。造ったアシナヅチ・テナヅチは大山祇 神の子であり、オオヤマツミもまたイザナギ・イザナミから生まれているが、スサノオ同様国つ神とされている。
「酒づくり談義」の柳生健吉氏によれば果実酒は、米から酒を造るより当然原始的であり、簡単であると言われる。そうだろうな。米から酒を造るのは前述したように難しいのだ。
ことに葡萄酒は、ブドウが蔓に生っている時からヘタのところに酵母菌が群がりついていて、ブドウを容器に入れておくだけでこの酵母がブドウの糖分に直接働きかけ、醗酵して炭酸ガスの泡を発し糖分が分解され、アルコールが生成されるのだとか。こう聞けば、縄文時代にもワインくらいあっただろうと思ってしまう。
それを証明する手立ては少ないが、状況証拠なら考古学上でいろいろ見つかっているらしい。昭和45年刊の「酒づくり談義」にさえ、青森県是川、また東京江古田の泥炭層からブドウの種子などが見つかっていると書かれ、大型のためどうも栽培種ではなかったか、とまで推察されている。
さらに柳生氏は、縄文式土器を「酒器だったのでは」と推察される。口広で尖底、縦長、土に埋めて使用するこの装飾土器は、醗酵時に多量の泡が盛り上がる果実酒の醗酵容器として合理的だとされる。「酒屋が酒の専門家の立場として」考察されているので、説得力を持っている。
面白い話である。この「酒づくり談義」は柳生氏の没後に遺稿をまとめて発刊されたものだが、その後の考古学は柳生氏の説を裏付けるような発見を続ける。
有孔鍔付土器の発見。口縁部に小孔が列状に開く特徴には太鼓説もあるが、炭酸ガス抜きの穴という説も説得力がある。そして長野の富士見町の縄文中期にあたる井戸尻遺跡からは、出土した有孔鍔付土器の中にヤマブドウの種子が付着していたという。
そして縄文後期になると注口土器が出てくる。ヤカンやキュウスのような形状をしたこの土器は、酒器という見方も有力になっている。また三内丸山遺跡からも、注口土器の他ニワトコ、ヤマブドウなどの種子、また醗酵液につきやすいミエバイが大量に出土しているという。
短絡的には言えないが、興味深い話だと思う。
吉田集而氏の「東方アジアの酒の起源」を読んでいると、古代日本の果実酒の存在については、考古学者や醸造学者らは存在説であり、文化人類学者は否定説になるのだそうだ。吉田氏や、他に篠田統氏、また石毛直道氏などによれば、①日本の果実は西欧産のように甘くなく酒の原料に不適である。②存在したとして、縄文以降根絶した説明がつかない。痕跡がない。③狩猟採集民で酒を造っている民族はいない。原料となる果実が食べる量以上の量を必要とし、そのため栽培が条件となる。などなど。
確かに、アジアに葡萄酒ってないのね。
これに対し柳生氏は、中国にも果実酒が存在していたかもしれないことを、唐宋時代の漢詩に「小槽酒滴真珠紅(李賀)」など紅酒、赤酒、さらに緑酒などが歌われていることから「酒の専門家の立場として」推測されているが、詩のことなので決定打とはいかないと思われる。
しかしながら、さらに推測として柳生氏は、果実酒が縄文以降根絶したことについては、やはり弥生人の渡来によって、水田稲作と共に米の酒が入ってきて席巻されたのであろうとされる。そして、ある時を境に縄文式土器が失われたことを、米の酒の席巻によるのではないか、と論じられる。これは興味深い視点である。果実酒を醸す道具であった口広のこの土器は、米の酒を作りその貯蔵容器とするには確かに不適当であり、弥生式土器にとって代わられたと。
縄文式土器が何ゆえ消えたかについては、しっかりとした説明がいまだになされていないと思われる。これについて、酒造の面からのアプローチは興味深い。またその様々な文様や「火焔土器」に象徴される華美な装飾も、酒造りの土器であり酒は祝祭、信仰、呪術などに関わっているものであるとすれば、説明もゆく。面白い。
私見を書けば、なぜ米の酒が果実酒を駆逐したのか、ということについては、弥生人の圧力もさることながら、やはり米の酒が果実酒よりも美味であったことがあるのだろう。アルコール度数も果実酒より高かったのかもしれない。
日本の野生の果実が、文化人類学者が言うように酒の材料としてそれほど適していなかったとすれば、造り方さえわかれば米の酒に飛びついてそれまでの果実酒が廃れていくのも不思議ではない。もしも縄文時代に酒造用果実が栽培されていたとしても、農地はどんどん水田に変わっていったことも考えられる。文字もなかった縄文時代。痕跡が残っていなくともそれは致し方ないことのように思うのだが。
しかし、記録には残らずとも、人々の記憶には細々と残ったのかもしれない。かつては、果物から酒を醸していたということが。
日本には「猿酒伝説」というものがある。猿が、食糧貯蔵のために木の実を、例えば古木のうつろや岩のくぼみに隠す。それが醗酵して天然の酒になったという伝説。
柳生健吉氏によれば、この話は曲亭馬琴の「椿説弓張月」に書かれているもので、猿はそういう習性が無く事実とは言いがたいらしい。だが、猿酒というものが馬琴の創作とも思えず、それに類した話は伝説として伝わっていたのだろう。果物を貯蔵すれば酒になる、という知識が。
それが縄文以来の知識であったのかどうかはわからない。しかし、少なくとも日本書紀には「衆菓を以て」酒を醸したと書かれている。これは、廃れてしまった縄文の酒造りの記憶ではないのか。その記憶を、縄文人の代表たる国つ神のスサノオに託して「一書」は記した。天孫降臨に始まる弥生人の列島席巻以降は、酒は衆菓を以ては醸されなくなる。果実酒用の酒器であったかもしれない縄文式土器も、急に歴史から消えた。
柳生氏は、ひとつ非常に面白い指摘をされている。それは、飛鳥に残る謎の石造物である「酒船石」についてである。(→wikipedia)
この酒船石、用途が全くのところ不明であり、薬調合台説から油絞り台説、庭園施設説、はたまた宇宙人の痕跡説まで諸説紛々だが、名が酒船石と伝わっているにもかかわらず、酒造りにはほぼ関係性は見出せない。こんな石に窪みを穿って溝で繋げたものなど、日本酒造りには全く用途が思いつかないからだ。
これが、果実酒造り用であれば話は別となる。季節に狩り集めた果実を持ち寄り、各々の石の窪みでそれを潰せば、果汁は溝を伝って流れ出る。それを縄文式土器で受けて、醗酵させる。さすればこれは、酒工場の中心器具ではないのか。
もちろん、真相はわからない。ただ、この石に窪みを穿ち溝で繋げた石造物を「酒船石」と呼び慣わしてきたことこそが、古代縄文のワイン造りの記憶の痕跡であるようにも思われる。
そのように夢を見てみるのも、悪くは無い。
次回に続く。
穀物からは、勝手に酒は出来てくれないからだ。醸造、とは原料を発酵させてアルコールを得ること。しかしアルコールは、糖からしか出来ない。
日本酒の原材料である米は、糖分を含まない。したがって、米から酒を造ろうとすれば、まず米から糖を生じさせなければならない。具体的には、麹の力によって米のデンプン質を糖に変化させる。そして、その糖化されたもの(つまり甘酒)に、酵母を働きかけさせて、糖からアルコールを生じさせる。そうして、酒が出来る。
思い切って簡単に言えば日本酒造りの工程は、米を麹の力で甘酒にする→甘酒を酵母の力で酒にする、ということである。二重の工程が必要となる。
これが、果実酒であればもっと単純である。果物は、そもそも甘い。糖分がふんだんに含まれているわけで、それに酵母が働けばもうアルコールになってしまう。
そして、酵母は自然界に存在する。果物を瓶に貯めておいたら、自然酵母で醗酵が始まり酒が出来てしまう可能性も。おそらく、ワインの発明はそんなところから始まっていると思われる。
対して日本酒は「麹菌というデンプンを分解し糖化するカビ」の発見から始まっている。そんな簡単じゃないのだ。
さすれば、日本列島で米の酒が出来る以前には、果実酒が醸されていた可能性もゼロではないのではないか。縄文後期には米は伝来していたと思われるが、米が伝わる以前(あるいは水稲耕作によって大量収穫が可能になる以前)に、酒は存在していなかったと断言は出来ない。なんせ魏志倭人伝に「人性嗜酒」と書かれた酒のみ日本人である。
もしかしたたら、彼らはワインをのんでいたのかもしれない。現に前回書いたように、スサノオたちは「あまたのこのみ」を使って果実酒を醸しているではないか(現に、とか言いながら神話だけど)。
ここからは、いろいろなことが考えられる。
日本の神は、天津神・国津神に大別される。天つ神とは、高天原にいる神。国つ神は土着の神。見方を変えると、天つ神は大和朝廷の神であり征服者側、国つ神は出雲その他の神であり、被征服者側であるとも言える。国つ神の大国主命は、頑張って治めていた葦原中国を、天つ神に譲らされた。
これを日本歴史に当てはめて、縄文文化と弥生文化に対応させる見方もある。短絡的な見方を承知で書けば、日本列島においては、縄文人を弥生人が駆逐した。おそらくは大陸から、稲作技術をもつ集団が日本列島へ移住してきた。それが弥生人であり、それまでの先住民族だった縄文人を侵食していった。
縄文人は、かつては狩猟漁労採集による移動生活を営む民と言われたが、現在の研究では三内丸山遺跡に見られるように村落を作り、縄文文化が花開いていたとされる。農耕も行われていたと考えられる。
日本の先住民族である縄文人が、稲作をどれほど広く行っていたかはわからない。ただ大陸から来たとされる弥生人は、完全に稲作に依拠した民族である。米が生活の根幹だった。
縄文時代から弥生時代へいつ移ったのかは明確には言えず、徐々に水稲耕作が浸透していく過程が時代の変遷過程でもある。ただ年代で言えば、紀元前10世紀から紀元前3世紀くらいが縄文から弥生時代への変わり目と考えていいようだ。
スサノオの追放や国譲りの使者たちは別として、天つ神が日本列島に正式に足を踏み入れたのは、天孫降臨である。天つ神の女神である
ではいつ頃、ニニギは日向国に降臨したか。神武天皇が45歳のときに「天孫降臨して百七十九万二千四百七十余年」という話があるが(日本書紀)、これはまああまりにも粉飾として。神武天皇の即位が紀元前660年、ニニギは神武天皇の曽祖父だから、まあだいたい100年サイクルとみて(神武天皇は127歳崩御)、降臨はだいたい紀元前10世紀頃か。弥生時代の始まりと一であるとも見える(強引かな)。
そのスサノオが高天原を追い出された罪というのが面白い。田の溝を埋めたり、畔を壊したり、用水路を破壊したり、とにかく稲作は敵と言わんばかりに水田に悪さを働いている。
こうした側面から、スサノオはニニギ(水稲農業を旨とする弥生人)が日本に来る以前の縄文人の象徴と考えてもいいかもしれない。
そのスサノオがヤマタノオロチ退治の際に造れと命じた酒は、果実酒である。ワイン。造ったアシナヅチ・テナヅチは
「酒づくり談義」の柳生健吉氏によれば果実酒は、米から酒を造るより当然原始的であり、簡単であると言われる。そうだろうな。米から酒を造るのは前述したように難しいのだ。
ことに葡萄酒は、ブドウが蔓に生っている時からヘタのところに酵母菌が群がりついていて、ブドウを容器に入れておくだけでこの酵母がブドウの糖分に直接働きかけ、醗酵して炭酸ガスの泡を発し糖分が分解され、アルコールが生成されるのだとか。こう聞けば、縄文時代にもワインくらいあっただろうと思ってしまう。
それを証明する手立ては少ないが、状況証拠なら考古学上でいろいろ見つかっているらしい。昭和45年刊の「酒づくり談義」にさえ、青森県是川、また東京江古田の泥炭層からブドウの種子などが見つかっていると書かれ、大型のためどうも栽培種ではなかったか、とまで推察されている。
さらに柳生氏は、縄文式土器を「酒器だったのでは」と推察される。口広で尖底、縦長、土に埋めて使用するこの装飾土器は、醗酵時に多量の泡が盛り上がる果実酒の醗酵容器として合理的だとされる。「酒屋が酒の専門家の立場として」考察されているので、説得力を持っている。
面白い話である。この「酒づくり談義」は柳生氏の没後に遺稿をまとめて発刊されたものだが、その後の考古学は柳生氏の説を裏付けるような発見を続ける。
有孔鍔付土器の発見。口縁部に小孔が列状に開く特徴には太鼓説もあるが、炭酸ガス抜きの穴という説も説得力がある。そして長野の富士見町の縄文中期にあたる井戸尻遺跡からは、出土した有孔鍔付土器の中にヤマブドウの種子が付着していたという。
そして縄文後期になると注口土器が出てくる。ヤカンやキュウスのような形状をしたこの土器は、酒器という見方も有力になっている。また三内丸山遺跡からも、注口土器の他ニワトコ、ヤマブドウなどの種子、また醗酵液につきやすいミエバイが大量に出土しているという。
短絡的には言えないが、興味深い話だと思う。
吉田集而氏の「東方アジアの酒の起源」を読んでいると、古代日本の果実酒の存在については、考古学者や醸造学者らは存在説であり、文化人類学者は否定説になるのだそうだ。吉田氏や、他に篠田統氏、また石毛直道氏などによれば、①日本の果実は西欧産のように甘くなく酒の原料に不適である。②存在したとして、縄文以降根絶した説明がつかない。痕跡がない。③狩猟採集民で酒を造っている民族はいない。原料となる果実が食べる量以上の量を必要とし、そのため栽培が条件となる。などなど。
確かに、アジアに葡萄酒ってないのね。
葡萄ノ美酒夜光ノ杯王翰の漢詩「涼州詞」は僕も漢文の時間に習った。ただ、この葡萄の美酒は輸入品である。葡萄酒は西域のものだった。文化人類学者の言うこともわかるのである。
飲マント欲スレバ琵琶馬上ニ催ス
酔ヒテ沙上ニ臥ス君笑フコト莫カレ
古来征戦幾人カ回ル
これに対し柳生氏は、中国にも果実酒が存在していたかもしれないことを、唐宋時代の漢詩に「小槽酒滴真珠紅(李賀)」など紅酒、赤酒、さらに緑酒などが歌われていることから「酒の専門家の立場として」推測されているが、詩のことなので決定打とはいかないと思われる。
しかしながら、さらに推測として柳生氏は、果実酒が縄文以降根絶したことについては、やはり弥生人の渡来によって、水田稲作と共に米の酒が入ってきて席巻されたのであろうとされる。そして、ある時を境に縄文式土器が失われたことを、米の酒の席巻によるのではないか、と論じられる。これは興味深い視点である。果実酒を醸す道具であった口広のこの土器は、米の酒を作りその貯蔵容器とするには確かに不適当であり、弥生式土器にとって代わられたと。
縄文式土器が何ゆえ消えたかについては、しっかりとした説明がいまだになされていないと思われる。これについて、酒造の面からのアプローチは興味深い。またその様々な文様や「火焔土器」に象徴される華美な装飾も、酒造りの土器であり酒は祝祭、信仰、呪術などに関わっているものであるとすれば、説明もゆく。面白い。
私見を書けば、なぜ米の酒が果実酒を駆逐したのか、ということについては、弥生人の圧力もさることながら、やはり米の酒が果実酒よりも美味であったことがあるのだろう。アルコール度数も果実酒より高かったのかもしれない。
日本の野生の果実が、文化人類学者が言うように酒の材料としてそれほど適していなかったとすれば、造り方さえわかれば米の酒に飛びついてそれまでの果実酒が廃れていくのも不思議ではない。もしも縄文時代に酒造用果実が栽培されていたとしても、農地はどんどん水田に変わっていったことも考えられる。文字もなかった縄文時代。痕跡が残っていなくともそれは致し方ないことのように思うのだが。
しかし、記録には残らずとも、人々の記憶には細々と残ったのかもしれない。かつては、果物から酒を醸していたということが。
日本には「猿酒伝説」というものがある。猿が、食糧貯蔵のために木の実を、例えば古木のうつろや岩のくぼみに隠す。それが醗酵して天然の酒になったという伝説。
柳生健吉氏によれば、この話は曲亭馬琴の「椿説弓張月」に書かれているもので、猿はそういう習性が無く事実とは言いがたいらしい。だが、猿酒というものが馬琴の創作とも思えず、それに類した話は伝説として伝わっていたのだろう。果物を貯蔵すれば酒になる、という知識が。
それが縄文以来の知識であったのかどうかはわからない。しかし、少なくとも日本書紀には「衆菓を以て」酒を醸したと書かれている。これは、廃れてしまった縄文の酒造りの記憶ではないのか。その記憶を、縄文人の代表たる国つ神のスサノオに託して「一書」は記した。天孫降臨に始まる弥生人の列島席巻以降は、酒は衆菓を以ては醸されなくなる。果実酒用の酒器であったかもしれない縄文式土器も、急に歴史から消えた。
柳生氏は、ひとつ非常に面白い指摘をされている。それは、飛鳥に残る謎の石造物である「酒船石」についてである。(→wikipedia)
この酒船石、用途が全くのところ不明であり、薬調合台説から油絞り台説、庭園施設説、はたまた宇宙人の痕跡説まで諸説紛々だが、名が酒船石と伝わっているにもかかわらず、酒造りにはほぼ関係性は見出せない。こんな石に窪みを穿って溝で繋げたものなど、日本酒造りには全く用途が思いつかないからだ。
これが、果実酒造り用であれば話は別となる。季節に狩り集めた果実を持ち寄り、各々の石の窪みでそれを潰せば、果汁は溝を伝って流れ出る。それを縄文式土器で受けて、醗酵させる。さすればこれは、酒工場の中心器具ではないのか。
もちろん、真相はわからない。ただ、この石に窪みを穿ち溝で繋げた石造物を「酒船石」と呼び慣わしてきたことこそが、古代縄文のワイン造りの記憶の痕跡であるようにも思われる。
そのように夢を見てみるのも、悪くは無い。
次回に続く。
以前、郷土史のサイトを作ったときに、酒造りについての本も何冊か読んだ。
それは、自分の今住んでいる街が、古来より清酒を特産として造り続けている街だからである。酒造りの歴史から、街の歴史を見ようと思った。
その中で、柳生健吉氏の「酒づくり談義」という古い書籍を手に取った。著者は、長く西宮の老舗で酒造業に携わった叩き上げの方である。
酒造りの歴史を研究した興味深い内容だったが、その中に日本における酒の起源についても言及がなされていた。
日本の「酒」というものの存在について、最も古い記述は魏志倭人伝である。これは3世紀であり、日本のどんな歴史書よりも古い。
魏志倭人伝は邪馬台国論争で注目されるが、当時倭人と呼ばれた民族(おそらくは日本人)の習俗についても詳細に書かれている。酒についても多少の記述が。例えば人が亡くなった時。
酒についての記述の中で面白いなと思うのに、
とりあえずは、卑弥呼の時代でも我々は酒を飲んでいたことが知れる。
この酒がどういう酒であったかについては記述がない。そしてこれは歴史書のことであり、この時をもって日本の酒の始まりということではない。
日本の史書で、現在に伝わるもので最も古いものはご存知「古事記」と「日本書紀」である。この成立は、教科書的には古事記が712年、日本書紀が720年とされる。僕はこれに異説も持っているが(もしも古事記が偽書でなかったなら1・2)、とりあえず成立は7~8世紀であることは間違いないだろう。
古事記と日本書紀は、成立は魏志倭人伝よりも後だが、内容的には倭人伝よりも古くさかのぼって記述される。神武天皇が生まれたのが紀元前711年であり、それ以前の神話の時代となると、どこまで年代が遡れるのかわからない。
神話は神話だが、その神話時代にも酒のことは多く出てくる。
その神話の中で最初に出てくる酒の話は、あのスサノオのヤマタノオロチ退治である。
これは、よく知られている話であるが一応書くと、高天原を追放された素戔嗚尊 は、出雲国に降り立つ。そこで、泣いている櫛名田比売 と、その両親である足名椎命 と手名椎命 に出逢う。聞けば、年に一度八岐大蛇 という化け物がやってきて、娘を食べてしまうのだという。既に7人の娘は餌食となり、末娘のクシナダヒメももうすぐ食べられてしまうという。
スサノオはヤマタノオロチ退治に立ち上がり、親のアシナヅチ、テナヅチに酒を用意させ、八つの樽に満たし、やってきたヤマタノオロチがその酒を呑んで酔っ払ったところをスサノオが退治した、という話。このあとオロチの尾から草薙剣(三種の神器のひとつ)が出てきて、スサノオとクシナダヒメは結婚してめでたしめでたし、なのだが、ここでヤマタノオロチを酔っ払わせた酒が、日本史上での酒の初出である。
この酒は、どういう酒だったのかについて、古事記では「八鹽(塩)折酒」、日本書紀では「八醞酒」と記す。やしおりのさけ、と訓ずることが多い。
この八塩折酒について、本居宣長が「八回酒で酒を重醸した」と解した。酒を水代わりにして酒を醸しさらにそれを繰り返してヤマタノオロチも酔っ払うアルコール分の高い濃厚な酒を造ったのであろうと。
本居宣長の「古事記伝」というのは古事記研究のバイブルみたいなものであり、その解釈論は現在においても生きている。本居宣長に異を唱えることは生半可なことでは出来ない。したがい、現在も解釈本を見れば、八塩折酒は重醸であると書かれていることが多い。八度、手塩にかけて造った酒であると。定説となっている。
しかしこの説に対して柳生氏は、明確に誤りであるとする。酒造業からの視点は、鋭い。
そもそもヤマタノオロチが襲ってくる火急の場で8回も醸造を繰り返してられるか、という問題もあるのだが、さらに根本的な問題として、酒は重ねて醸してもアルコール分は高くならない、という事実があるようだ。
本居宣長は古事記伝において「酎は三重の酒なり」という焼酎(蒸留酒)の製法を引用して、水の代わりに酒を用いて酒を醸し、それを八回繰り返したのだ、と説明する。しかし、醸造酒と蒸留酒では当然のことながら異なる。
実は、水の代わりに酒を用いて醸しても、糖醗酵は起すが酒精醗酵は起さないものらしい。酒の中では乳酸菌が育たず、乳酸菌がなければ雑菌が増え、糖分をアルコールに変える酵母菌が育たなくなる。したがって、酒精醗酵は酒を水代わりに使った仕込みでは起こりえないものらしい。しかし糖醗酵だけは起すため、(揮発分は別として)アルコール分は変わらずに甘さが増した酒となる。味醂や白酒は本来このようにして甘く造る。
つまり八回繰り返したところで、どんどん甘くなるだけで強い酒にはならないということである。なるほど。
さらに、この神代の時代に焼酎はまだ存在していない。醸造酒を蒸留してアルコール分を抽出する方法が日本にもたらされたのは、せいぜい16世紀ではないかと言われる。
したがって八塩折酒を重醸酒であるとする本居説は「醗酵学上あり得ない」と柳生氏はされる。「それが素人の悲しさというもの」と書かれていて面白い。
では、八塩折酒とはどういう酒なのか。
書紀の「八醞酒」がどういうものか。「醞」という字について、僕の手持ちの漢和辞典では「酒」「かもす」という意味しか載っていないが、延喜式巻四十「造酒司」に何種もの酒の原材料や醸造法の記載があり、その中の「雑給酒料」に
したがい延喜式から時代は大きく遡るが、漢文である日本書紀において、醞は速醸の意味で使われたのだろう。時間をかける重醸ではあるまい。もしかしたら「八醞」とは、8日間を示すのかもしれない。
次に、古事記における「八塩折酒」とは何か。これは、よくわからない。古事記だから、おそらく漢字の意味よりも読み先行だったろう。「やしおおり」「やしおり」でそう間違いではあるまいが、意味はよくわからない。重醸からの連想か「やしぼり」と訓ずる場合もあるようだが、それはどうなのだろうか。
その言葉の意味はともかくとして、八塩折酒について。
古事記は、どんな酒かについては全然語ってくれない。須佐之男 が「酒を造って、8つに分けて置け」と言うだけ。
日本書紀も、似たようなものである。酒を醸して棚を八面設け、それぞれに一つ酒槽を置いた、くらいしか書かれていない。
但し、書紀というのは「一書曰」という注釈がやたら多い。書紀が編まれるのに先行して様々に伝えられてきた歴史書があったからだろう。そこには本文以外の情報がある。
こういうのもある。一書曰く。「素戔鳴尊乃計釀毒酒以飮之」と。毒の酒ですか。日本の酒の初出が毒入り酒とは穏やかではないが、酒にトリカブトでも入れたならスサノオが斬らずとも死んだだろうしなあ。酔わせて寝させる目的なら毒などいらないし。眠り薬なんてこの神代にあるとは思えないし。解釈が難しい。悪酔いする酒、毒のようによく酔う酒、と考えるのがいいのか。
毒酒は措いて、柳生氏は別の「一書曰」に注目される。
つまり八塩折酒は「果実酒」だ。これには驚いた。スサノオはヤマタノオロチにワインを飲ませたのか。
次回に続く。
それは、自分の今住んでいる街が、古来より清酒を特産として造り続けている街だからである。酒造りの歴史から、街の歴史を見ようと思った。
その中で、柳生健吉氏の「酒づくり談義」という古い書籍を手に取った。著者は、長く西宮の老舗で酒造業に携わった叩き上げの方である。
酒造りの歴史を研究した興味深い内容だったが、その中に日本における酒の起源についても言及がなされていた。
日本の「酒」というものの存在について、最も古い記述は魏志倭人伝である。これは3世紀であり、日本のどんな歴史書よりも古い。
魏志倭人伝は邪馬台国論争で注目されるが、当時倭人と呼ばれた民族(おそらくは日本人)の習俗についても詳細に書かれている。酒についても多少の記述が。例えば人が亡くなった時。
其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飮酒喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。つまり葬送のときは、弔問客らが酒を飲んでいた様子が伺える。
酒についての記述の中で面白いなと思うのに、
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒とあって、その会同、坐起には父子男女別なしというのは、儒教的な習俗に欠けるという意味だろうとは思われるが、「人性嗜酒」というのが興味深い。人の性として酒を嗜む、と記されるのは、日本人は当時の中国人から見ても、酒好きが多く見えたのだろうか。面白いな。
とりあえずは、卑弥呼の時代でも我々は酒を飲んでいたことが知れる。
この酒がどういう酒であったかについては記述がない。そしてこれは歴史書のことであり、この時をもって日本の酒の始まりということではない。
日本の史書で、現在に伝わるもので最も古いものはご存知「古事記」と「日本書紀」である。この成立は、教科書的には古事記が712年、日本書紀が720年とされる。僕はこれに異説も持っているが(もしも古事記が偽書でなかったなら1・2)、とりあえず成立は7~8世紀であることは間違いないだろう。
古事記と日本書紀は、成立は魏志倭人伝よりも後だが、内容的には倭人伝よりも古くさかのぼって記述される。神武天皇が生まれたのが紀元前711年であり、それ以前の神話の時代となると、どこまで年代が遡れるのかわからない。
神話は神話だが、その神話時代にも酒のことは多く出てくる。
その神話の中で最初に出てくる酒の話は、あのスサノオのヤマタノオロチ退治である。
これは、よく知られている話であるが一応書くと、高天原を追放された
スサノオはヤマタノオロチ退治に立ち上がり、親のアシナヅチ、テナヅチに酒を用意させ、八つの樽に満たし、やってきたヤマタノオロチがその酒を呑んで酔っ払ったところをスサノオが退治した、という話。このあとオロチの尾から草薙剣(三種の神器のひとつ)が出てきて、スサノオとクシナダヒメは結婚してめでたしめでたし、なのだが、ここでヤマタノオロチを酔っ払わせた酒が、日本史上での酒の初出である。
この酒は、どういう酒だったのかについて、古事記では「八鹽(塩)折酒」、日本書紀では「八醞酒」と記す。やしおりのさけ、と訓ずることが多い。
この八塩折酒について、本居宣長が「八回酒で酒を重醸した」と解した。酒を水代わりにして酒を醸しさらにそれを繰り返してヤマタノオロチも酔っ払うアルコール分の高い濃厚な酒を造ったのであろうと。
本居宣長の「古事記伝」というのは古事記研究のバイブルみたいなものであり、その解釈論は現在においても生きている。本居宣長に異を唱えることは生半可なことでは出来ない。したがい、現在も解釈本を見れば、八塩折酒は重醸であると書かれていることが多い。八度、手塩にかけて造った酒であると。定説となっている。
しかしこの説に対して柳生氏は、明確に誤りであるとする。酒造業からの視点は、鋭い。
そもそもヤマタノオロチが襲ってくる火急の場で8回も醸造を繰り返してられるか、という問題もあるのだが、さらに根本的な問題として、酒は重ねて醸してもアルコール分は高くならない、という事実があるようだ。
本居宣長は古事記伝において「酎は三重の酒なり」という焼酎(蒸留酒)の製法を引用して、水の代わりに酒を用いて酒を醸し、それを八回繰り返したのだ、と説明する。しかし、醸造酒と蒸留酒では当然のことながら異なる。
実は、水の代わりに酒を用いて醸しても、糖醗酵は起すが酒精醗酵は起さないものらしい。酒の中では乳酸菌が育たず、乳酸菌がなければ雑菌が増え、糖分をアルコールに変える酵母菌が育たなくなる。したがって、酒精醗酵は酒を水代わりに使った仕込みでは起こりえないものらしい。しかし糖醗酵だけは起すため、(揮発分は別として)アルコール分は変わらずに甘さが増した酒となる。味醂や白酒は本来このようにして甘く造る。
つまり八回繰り返したところで、どんどん甘くなるだけで強い酒にはならないということである。なるほど。
さらに、この神代の時代に焼酎はまだ存在していない。醸造酒を蒸留してアルコール分を抽出する方法が日本にもたらされたのは、せいぜい16世紀ではないかと言われる。
したがって八塩折酒を重醸酒であるとする本居説は「醗酵学上あり得ない」と柳生氏はされる。「それが素人の悲しさというもの」と書かれていて面白い。
では、八塩折酒とはどういう酒なのか。
書紀の「八醞酒」がどういうものか。「醞」という字について、僕の手持ちの漢和辞典では「酒」「かもす」という意味しか載っていないが、延喜式巻四十「造酒司」に何種もの酒の原材料や醸造法の記載があり、その中の「雑給酒料」に
右雑給酒は十日に起して醸造、旬を経て醞となる。四度を限る。との文言がある。10日間で醸すとは早い。ために、「頓酒」とも呼ばれ、速醸造の酒である。醞は「わささ(早酒)」とも読む。
したがい延喜式から時代は大きく遡るが、漢文である日本書紀において、醞は速醸の意味で使われたのだろう。時間をかける重醸ではあるまい。もしかしたら「八醞」とは、8日間を示すのかもしれない。
次に、古事記における「八塩折酒」とは何か。これは、よくわからない。古事記だから、おそらく漢字の意味よりも読み先行だったろう。「やしおおり」「やしおり」でそう間違いではあるまいが、意味はよくわからない。重醸からの連想か「やしぼり」と訓ずる場合もあるようだが、それはどうなのだろうか。
その言葉の意味はともかくとして、八塩折酒について。
古事記は、どんな酒かについては全然語ってくれない。
告其足名椎手名椎 汝等 釀八鹽折之酒 亦作廻垣 於其垣作八門 毎門結八佐受岐 毎其佐受岐置酒船而 毎船盛其八鹽折酒而待頑張って読んでも、どんな酒かはわかりませんなあ。
日本書紀も、似たようなものである。酒を醸して棚を八面設け、それぞれに一つ酒槽を置いた、くらいしか書かれていない。
但し、書紀というのは「一書曰」という注釈がやたら多い。書紀が編まれるのに先行して様々に伝えられてきた歴史書があったからだろう。そこには本文以外の情報がある。
こういうのもある。一書曰く。「素戔鳴尊乃計釀毒酒以飮之」と。毒の酒ですか。日本の酒の初出が毒入り酒とは穏やかではないが、酒にトリカブトでも入れたならスサノオが斬らずとも死んだだろうしなあ。酔わせて寝させる目的なら毒などいらないし。眠り薬なんてこの神代にあるとは思えないし。解釈が難しい。悪酔いする酒、毒のようによく酔う酒、と考えるのがいいのか。
毒酒は措いて、柳生氏は別の「一書曰」に注目される。
素戔鳴尊乃教之曰 汝可以衆菓釀酒八甕 吾當爲汝殺蛇汝、衆菓を以て酒八甕を醸むべし。この「衆菓」、「もろもろのこのみ」または「あまたのこのみ」と訓じるが、酒の材料を示していると考えていいだろう。この酒は、たくさんの菓をつかって醸された。菓とは、果物の意である。
つまり八塩折酒は「果実酒」だ。これには驚いた。スサノオはヤマタノオロチにワインを飲ませたのか。
次回に続く。
前回の続き。
結局、酒というのは気分よく呑めるかどうか、なのである。いい気分で呑ませてくれる酒場が、すなわちいい酒場であると僕は思っている。
魚介及び寿司の微妙な味なんて、本当はよくわからない。自分の舌にそれほど才能もないし経験も積ませていない。100円均一の回転寿司だってうまいうまいと食べている。こちらは名取は閖上産の赤貝です、いつもと違うでしょう?などと言われても、いつものと並べて出してくれないとわからない。並べられてもわからないかもしれぬ。
だから、僕の思ういい寿司屋さんとは、ネタの鮮度がいいとか産地に拘りを持っているとかでは、ない。職人さんの腕も確かに重要かもしれないが、それよりも、職人さんが短髪で清潔感があるとか(握る人に不潔感があったらイヤだ)、おしぼりの汚れを気にしてこまめに取り替えてくれるとか、前回書いたようにゲタを置いたり刺身を別皿でちゃんと出す店のことである。そういうのが、酒呑みの気分を向上させる。
この店は、入ったときにまず職人さんがこちらを向いて笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。常連度がおそらく高いであろう小さな町の寿司屋であり、一見であることはすぐわかる。その一見の客をちゃんともてなそうという気持ちが見えた。
僕は酒を注文するときに「お燗してください」と言った。そのときに店側は「熱くしましょうか、それとも…」という反応をした。こういうのは居酒屋でもあまり聞かれない。「熱燗いっちょ~」などと勝手に通されたりするのが大半(こっちはお燗と言っただけで熱燗とは言っていない)。燗の温度まで気にしてくれるのはうれしい。こうなると、酒の種類なんかどうでもよくなる。普通酒であっても美味いに違いない。
また、タコの造り。このタコがどこ産のものかは知らないし、抜群に旨いものかどうかもわからない。もしかしたら少し水っぽかったかもしれない。けれども、きれいに盛り付けられ、あしらいもケンがしっかりと立っている。僕は刺身のあしらいまでたいてい残さず食べてしまうが、ケンの大根はしっかり水切りされていて気持ちがいい。
タコも、酒のつまみにいいように造られている。心持ち厚めでしかもぶつ切りではない、歯ごたえを生かす造り。板場をのぞいていると、職人さんはタコの握りを注文されると、切り口を波型にして、さらに刃打ちをして歯切れがいいように仕上げて握っていた。つまみと握りでタコの切り方をちゃんと変えている。当たり前のことかもしれないが、そういう気遣いのない店もあるのだ。
僕は気分がよくなって、酒をもう一本頼んだ。
さて、この店には基本的にメニューはなかった。季節によって、また仕入れ状況によって品書きが変わるのが寿司屋であり、固定メニューを出しにくいのはわかる。
だが、最初は気づかなかったのだがふと見ると、ホワイトボードに手書きの品書きがあった。そこには、一人前でいくら、といったことが書かれていて、松・竹・梅となっている。並・上・特上でないのも好感が持てる。
そして、一品料理も。茶碗蒸し、潮汁、あら味噌汁と書かれている。値段もちゃんと明記してあった。
これは、困惑する。
僕はここまで、「寿司ネタをつまみに酒を呑むのが寿司屋で酒を呑む本流」であると書いてきた。一品料理は寿司屋の本業ではなく、若い頃に気取って煮魚を注文したことを大いに反省している。しかし茶碗蒸しは好きなんだよなぁ。しかも、品書きにあるんだよなー。
僕は誘惑に負けて(?)、茶碗蒸しを注文してしまった。
寿司屋の昼のランチでは、よく椀物がいっしょについてきたりする。おそらくこの店も昼はそうしているのだろう。このくらいは、寿司屋の許容範囲だろう(本音は茶碗蒸しがメニューにあって嬉しい)。
ちなみに、僕にとって潮汁は酒のアテになりうる。というか、吸い物で酒を飲むのが実は好き。外ではなかなかしにくいが、家ではハマグリの吸い物などで延々酒を呑んだりする。蕎麦屋で「抜き」で呑むのも同様だろう。しかし味噌汁は僕には酒のアテになりにくい。どうしてかな。好みとしか言いようがない。茶碗蒸しは大好物なので(末期の一品にしたいくらい)、万能である。茶碗蒸しで酒も呑むし、メシのオカズにだってする。結婚したての頃、茶碗蒸しでご飯を食べてる男をはじめて見た、と女房は言い、僕をヘンタイ扱いした。
茶碗蒸しは出来上がるまで時間がかかる。こういうのは席に着くと同時に注文すべきものだが、品書きの発見が遅れてしまったのでしょうがない。出来上がるまで酒を呑んで待つことになる。サクっと呑んで寿司に移行、がマナーであるのはわかっているので、申し訳ない。
そうしているうちにタコの刺身は食べ終わった。酒は二本目に入っている。つけ台におかれたガリも口直しについつい食べていると、すぐに補充してくれる。こういうのも気持ちがいい。
つまみはタコだけで終わろうと思っていたのだが、つい興に乗ってアジを頼んだ。ガラスケースにはサバもあって、どちらを切ってもらおうか迷ったのだがアジにした。さすれば、
「たたきにしましょうか? それとも刺身で?」
刺身にしてもらった。たたきも旨いのだけれど。
しばらくして、出てきた。またきれいに盛ってある。アジの色つやもいい。
もちろん新しい皿だが、醤油皿も取り替えてくれた。アジには下し生姜も添えられている以上当然なのかもしれないが、こういうところがちゃんとしている店はもう間違いないような気がした。
アジを生姜とともに口に運ぶ。奥歯でギュっと噛みしめるほどの身の締り。これは刺身で正解だったか。また、鼻に抜ける香りがいい。酒がすすむ。
そんなことをしているうちに、茶碗蒸しが運ばれてきた。
寿司屋で出されるものは、例外はあるが握りも含めほぼ冷製である。だから燗酒や熱いお茶でバランスをとっているとも言えるが、こういう温かい料理を挟むのもまた嬉しい。
茶碗蒸しは、言うまでもなく出汁を贅沢に用いていて、上品な仕上がりで本当にうまい。具は小海老、白身魚、百合根、銀杏、椎茸、三つ葉。鶏肉など入っていないのはさすが寿司屋の茶碗蒸しというべきか。匙で食べているのだが、その匙をなかなか置くことが出来ない。
僕はもう一本酒を追加せざるを得なかった。
ここまで、突き出しのイクラ、タコとアジの刺身、茶碗蒸し、酒三本。店に入る前に生ビールも中ジョッキで飲んでいる。酔い加減も、ちょうどいい(いや、ちょっと過ごしていたかも)。
さあ寿司にしよう。
多人数のお客さんがさっき帰ったのもまたいいタイミングである。注文して待たされるのは、しょうがないけど好ましくはない。今なら職人さんは手が空いている。
「握ってください」
そう言うと、板場から手が伸びてガリをまた新しく盛ってくれた。前に散らかっていた空いた皿などは全て一度片付けられ、醤油皿が寿司用のものに。今まで刺身は四角い深めの醤油皿だったが今度は浅めの丸い皿。こういうのは当たり前のことかもしれないが、ちゃんとやってくれない店も多いのである。さらにおしぼりも取り替えてくれた。寿司は手でつまむから、ということだろう。そして、
「何しましょう!」
の声がかかる。この瞬間、好きだなあ。ようし食べるぞ。
よく、寿司を食べる順番について薀蓄のネタになるが、本当にどうでもいい。脂の強いものは後にしろという意見が多いが、まずトロを食べろ、という銀座の名店もある。だいたい、ガリを合間に食べお茶を飲めば口中はリフレッシュするだろう。あたしゃ好きに食べさせてもらう。
まずは、エビ。小ぶりなのでそんなに高くないだろうという読み。僕は甲殻類が大好きでエビには目がない。エビは、やはり踊りより茹でたのが好み。予想通り旨い。
次に、さっきつまみで食べるのを見送ったサバ。一応〆てあるのだが、シメサバまでゆかずかなり生状態。これ旨かったね。
職人さんは完全に僕の前に立って、次は何が来るのかと待っている。僕も、出されたらすぐにつまんで食べる。これ、一人でないとこうはいかないのね。二貫で出されるので、一貫食べたら次の注文をする。それがスピードアップに繋がる。
次ににヒラメ。脂がのっている。旨い。
次にシャコ。ケースに見たときから食べようと決めていた。これは煮ツメを塗って供されるが、ゲタに直接置くのではなく小皿に乗せて出された。ツメが垂れるから、ということだろう。こういう気遣いも、当たり前なのかもしれないがちゃんとしている。このちゃんとしているところが嬉しい。ますます旨くなる。
次に、マグロの赤身で鉄火巻きを。巻きすを使ったものも、ひとつは必ず注文する。海苔の香りがいい。パリっとしている間に急いで食べる。
で、ついにアナゴ。握りを食べるときのクライマックスだと僕は思っている。軽く炙って握ってくれる。煮ツメを塗って、シャコと同様別皿で。口に入れるとほんのり温かく、はらりと溶けていく。あーホントにアナゴは旨いよね。カウンターで寿司を食べる醍醐味がこれ。
最後に玉子を。さっき茶碗蒸し食べたのにまだ食うか、てなもんだが好きなものはしょうがない。寿司屋の玉子は、旨いよねー。
ああ旨かった。もっと食べたいとも思ったがこれくらいにしといてやるか。
熱いお茶を飲みながら、旨かったです、と伝える。にっこりと笑って「ありがとうございます」と。この店、また来たいな。何とか機会を作って。
勘定は、煮魚を食べて青くなった店の半額以下。満足です。寿司屋で呑んで食べるなら、こんな感じが理想。
寿司屋で呑む話、終り。
結局、酒というのは気分よく呑めるかどうか、なのである。いい気分で呑ませてくれる酒場が、すなわちいい酒場であると僕は思っている。
魚介及び寿司の微妙な味なんて、本当はよくわからない。自分の舌にそれほど才能もないし経験も積ませていない。100円均一の回転寿司だってうまいうまいと食べている。こちらは名取は閖上産の赤貝です、いつもと違うでしょう?などと言われても、いつものと並べて出してくれないとわからない。並べられてもわからないかもしれぬ。
だから、僕の思ういい寿司屋さんとは、ネタの鮮度がいいとか産地に拘りを持っているとかでは、ない。職人さんの腕も確かに重要かもしれないが、それよりも、職人さんが短髪で清潔感があるとか(握る人に不潔感があったらイヤだ)、おしぼりの汚れを気にしてこまめに取り替えてくれるとか、前回書いたようにゲタを置いたり刺身を別皿でちゃんと出す店のことである。そういうのが、酒呑みの気分を向上させる。
この店は、入ったときにまず職人さんがこちらを向いて笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。常連度がおそらく高いであろう小さな町の寿司屋であり、一見であることはすぐわかる。その一見の客をちゃんともてなそうという気持ちが見えた。
僕は酒を注文するときに「お燗してください」と言った。そのときに店側は「熱くしましょうか、それとも…」という反応をした。こういうのは居酒屋でもあまり聞かれない。「熱燗いっちょ~」などと勝手に通されたりするのが大半(こっちはお燗と言っただけで熱燗とは言っていない)。燗の温度まで気にしてくれるのはうれしい。こうなると、酒の種類なんかどうでもよくなる。普通酒であっても美味いに違いない。
また、タコの造り。このタコがどこ産のものかは知らないし、抜群に旨いものかどうかもわからない。もしかしたら少し水っぽかったかもしれない。けれども、きれいに盛り付けられ、あしらいもケンがしっかりと立っている。僕は刺身のあしらいまでたいてい残さず食べてしまうが、ケンの大根はしっかり水切りされていて気持ちがいい。
タコも、酒のつまみにいいように造られている。心持ち厚めでしかもぶつ切りではない、歯ごたえを生かす造り。板場をのぞいていると、職人さんはタコの握りを注文されると、切り口を波型にして、さらに刃打ちをして歯切れがいいように仕上げて握っていた。つまみと握りでタコの切り方をちゃんと変えている。当たり前のことかもしれないが、そういう気遣いのない店もあるのだ。
僕は気分がよくなって、酒をもう一本頼んだ。
さて、この店には基本的にメニューはなかった。季節によって、また仕入れ状況によって品書きが変わるのが寿司屋であり、固定メニューを出しにくいのはわかる。
だが、最初は気づかなかったのだがふと見ると、ホワイトボードに手書きの品書きがあった。そこには、一人前でいくら、といったことが書かれていて、松・竹・梅となっている。並・上・特上でないのも好感が持てる。
そして、一品料理も。茶碗蒸し、潮汁、あら味噌汁と書かれている。値段もちゃんと明記してあった。
これは、困惑する。
僕はここまで、「寿司ネタをつまみに酒を呑むのが寿司屋で酒を呑む本流」であると書いてきた。一品料理は寿司屋の本業ではなく、若い頃に気取って煮魚を注文したことを大いに反省している。しかし茶碗蒸しは好きなんだよなぁ。しかも、品書きにあるんだよなー。
僕は誘惑に負けて(?)、茶碗蒸しを注文してしまった。
寿司屋の昼のランチでは、よく椀物がいっしょについてきたりする。おそらくこの店も昼はそうしているのだろう。このくらいは、寿司屋の許容範囲だろう(本音は茶碗蒸しがメニューにあって嬉しい)。
ちなみに、僕にとって潮汁は酒のアテになりうる。というか、吸い物で酒を飲むのが実は好き。外ではなかなかしにくいが、家ではハマグリの吸い物などで延々酒を呑んだりする。蕎麦屋で「抜き」で呑むのも同様だろう。しかし味噌汁は僕には酒のアテになりにくい。どうしてかな。好みとしか言いようがない。茶碗蒸しは大好物なので(末期の一品にしたいくらい)、万能である。茶碗蒸しで酒も呑むし、メシのオカズにだってする。結婚したての頃、茶碗蒸しでご飯を食べてる男をはじめて見た、と女房は言い、僕をヘンタイ扱いした。
茶碗蒸しは出来上がるまで時間がかかる。こういうのは席に着くと同時に注文すべきものだが、品書きの発見が遅れてしまったのでしょうがない。出来上がるまで酒を呑んで待つことになる。サクっと呑んで寿司に移行、がマナーであるのはわかっているので、申し訳ない。
そうしているうちにタコの刺身は食べ終わった。酒は二本目に入っている。つけ台におかれたガリも口直しについつい食べていると、すぐに補充してくれる。こういうのも気持ちがいい。
つまみはタコだけで終わろうと思っていたのだが、つい興に乗ってアジを頼んだ。ガラスケースにはサバもあって、どちらを切ってもらおうか迷ったのだがアジにした。さすれば、
「たたきにしましょうか? それとも刺身で?」
刺身にしてもらった。たたきも旨いのだけれど。
しばらくして、出てきた。またきれいに盛ってある。アジの色つやもいい。
もちろん新しい皿だが、醤油皿も取り替えてくれた。アジには下し生姜も添えられている以上当然なのかもしれないが、こういうところがちゃんとしている店はもう間違いないような気がした。
アジを生姜とともに口に運ぶ。奥歯でギュっと噛みしめるほどの身の締り。これは刺身で正解だったか。また、鼻に抜ける香りがいい。酒がすすむ。
そんなことをしているうちに、茶碗蒸しが運ばれてきた。
寿司屋で出されるものは、例外はあるが握りも含めほぼ冷製である。だから燗酒や熱いお茶でバランスをとっているとも言えるが、こういう温かい料理を挟むのもまた嬉しい。
茶碗蒸しは、言うまでもなく出汁を贅沢に用いていて、上品な仕上がりで本当にうまい。具は小海老、白身魚、百合根、銀杏、椎茸、三つ葉。鶏肉など入っていないのはさすが寿司屋の茶碗蒸しというべきか。匙で食べているのだが、その匙をなかなか置くことが出来ない。
僕はもう一本酒を追加せざるを得なかった。
ここまで、突き出しのイクラ、タコとアジの刺身、茶碗蒸し、酒三本。店に入る前に生ビールも中ジョッキで飲んでいる。酔い加減も、ちょうどいい(いや、ちょっと過ごしていたかも)。
さあ寿司にしよう。
多人数のお客さんがさっき帰ったのもまたいいタイミングである。注文して待たされるのは、しょうがないけど好ましくはない。今なら職人さんは手が空いている。
「握ってください」
そう言うと、板場から手が伸びてガリをまた新しく盛ってくれた。前に散らかっていた空いた皿などは全て一度片付けられ、醤油皿が寿司用のものに。今まで刺身は四角い深めの醤油皿だったが今度は浅めの丸い皿。こういうのは当たり前のことかもしれないが、ちゃんとやってくれない店も多いのである。さらにおしぼりも取り替えてくれた。寿司は手でつまむから、ということだろう。そして、
「何しましょう!」
の声がかかる。この瞬間、好きだなあ。ようし食べるぞ。
よく、寿司を食べる順番について薀蓄のネタになるが、本当にどうでもいい。脂の強いものは後にしろという意見が多いが、まずトロを食べろ、という銀座の名店もある。だいたい、ガリを合間に食べお茶を飲めば口中はリフレッシュするだろう。あたしゃ好きに食べさせてもらう。
まずは、エビ。小ぶりなのでそんなに高くないだろうという読み。僕は甲殻類が大好きでエビには目がない。エビは、やはり踊りより茹でたのが好み。予想通り旨い。
次に、さっきつまみで食べるのを見送ったサバ。一応〆てあるのだが、シメサバまでゆかずかなり生状態。これ旨かったね。
職人さんは完全に僕の前に立って、次は何が来るのかと待っている。僕も、出されたらすぐにつまんで食べる。これ、一人でないとこうはいかないのね。二貫で出されるので、一貫食べたら次の注文をする。それがスピードアップに繋がる。
次ににヒラメ。脂がのっている。旨い。
次にシャコ。ケースに見たときから食べようと決めていた。これは煮ツメを塗って供されるが、ゲタに直接置くのではなく小皿に乗せて出された。ツメが垂れるから、ということだろう。こういう気遣いも、当たり前なのかもしれないがちゃんとしている。このちゃんとしているところが嬉しい。ますます旨くなる。
次に、マグロの赤身で鉄火巻きを。巻きすを使ったものも、ひとつは必ず注文する。海苔の香りがいい。パリっとしている間に急いで食べる。
で、ついにアナゴ。握りを食べるときのクライマックスだと僕は思っている。軽く炙って握ってくれる。煮ツメを塗って、シャコと同様別皿で。口に入れるとほんのり温かく、はらりと溶けていく。あーホントにアナゴは旨いよね。カウンターで寿司を食べる醍醐味がこれ。
最後に玉子を。さっき茶碗蒸し食べたのにまだ食うか、てなもんだが好きなものはしょうがない。寿司屋の玉子は、旨いよねー。
ああ旨かった。もっと食べたいとも思ったがこれくらいにしといてやるか。
熱いお茶を飲みながら、旨かったです、と伝える。にっこりと笑って「ありがとうございます」と。この店、また来たいな。何とか機会を作って。
勘定は、煮魚を食べて青くなった店の半額以下。満足です。寿司屋で呑んで食べるなら、こんな感じが理想。
寿司屋で呑む話、終り。