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凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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酒呑み初めし頃

2013年11月30日 | 酒についての話
 初めて酒をのんだのはいつか、という話をすれば、それはおそらく正月の屠蘇である。何歳のときだったかは記憶にない。
 それ以外、となればどうか。これは語ると必然的に未成年者飲酒禁止法違反の話となってしまう(屠蘇ももちろんそうだが)。自分勝手な言い分だが大目にみてもらうことにしよう(匿名で書いていて良かった)。

 しかし、僕は少年時代、酒の経験はそれほど多くなかったといえる。それは、なにより両親が下戸だったからだ。したがって、家に酒がない。せいぜい貰い物の梅酒か、親父が趣味で作った果実酒、さらには親戚の集まりなどでビールをひとくち飲まされた、くらいのものである。これでは習慣性など生じないし、うまいとは思わなかった。ビールはおきまりの如く「何て苦いものだろう」という感想しか持ち得なかったし、赤玉ポートワインはそこそこうまいと思ったがやはりジュースのほうが望ましかった。
 こういう人間が、のちに酒のみになるのだから、大人になるということは摩訶不思議だ。
 親の監視下を離れて酒を口にするのは、高校時代くらいだったか。友人の家などで「背伸びをして」「いきがって」酒をのむようになる。のむ酒は、極めて廉価なウイスキー(トリスなどではない。Qとか21とかNEWSとかコブラとか…懐かしい)をコーラで割ってのむ。所謂コークハイだ。口当たりがよくのみやすい。
 もうコークハイなどは30年ものんでいない。子供だったと思う。あんなのは、ただ酔うためだけのシロモノであり、酒のうまさなど全く考慮されていない。しかしこの頃が、酒を酔うためにのんだ嚆矢だろうと思う。最初は、酒はやはり麻薬だったのだ。味わうためではなくただ酔うためにのんだ。

 これは、大学へ行ってもかわらない。大学生になれば、酒をのむ機会が飛躍的に増える。何人かで集まれば、まず酒だ。そしてコンパなどで「居酒屋」に入ることも多くなった。
 酒をのませる店に入るというのは、新鮮だった。のめば楽しくなり放吟する。人との垣根も取っ払われる。だが、とくに酒をうまいと思ってのんでいたわけではなかったと思う。ビールの苦味には抵抗がなくなっていたけれど、だからと言って「今日は暑いな、こういうときにはビールだ」なんて考えにはまだ至らない。あくまで、皆で騒ぐ手段であり、味わいは二の次だった。

 いつから酒をうまいと思ってのみはじめたのだろうか。そんなことをぼんやりと思い出しながら書いている。
 
 これはうまい、と思って酒をのんだ最初の記憶は、ある。
 まず清酒だが、これは初詣のときにある神社で振舞われたお神酒である。まだ大学へ行く前で、少年時代と言ってもいい。巫女さんが銚子でかわらけに少し注いでくれたものを口にしたときに驚いた。うまい。樽酒だったのだろう。ほのかな木の香りがしみわたった。
 また、大学に入ってのち、教授の家に遊びに行って、そこで無銘の瓶に入ったよく冷えた清酒をのんだ。品評会用のものだと先生は言っていたが、これもまた驚いた。非常に上質の吟醸酒だったのだろう。香りが全然違う。
 しかしこういうのは、特例である。これをもって、清酒に目覚めたというわけではない。樽酒や吟醸酒だけしかのまない大人になったのでもない。
 同様に、ビールは札幌の出来立てのビールであろうし、ワインはまた大人に少しだけのませてもらった貴腐ワインだろう。ウイスキーやブランデーにも、同様の経験がある。だが、やはりこういうのは特例。酒が嫌いな人だって、うまいと思うはずだ。
 ただ味わいだけではない。極めて上質のものから大衆的なものまで「酒」というそのものを愛するようになったのは、いつだったか。 

 酒をのむという場合。最初は、常にまわりに人が居た。皆でのむのが楽しいからのんでいた。そうやって酒に慣らされてきたのだけれども、人を介さずとも自発的に酒をのむようになったときは、いつだったろうか。背伸びやいきがり、また潤滑剤としての役割ではなく、純粋に酒をのみたいと思ってのんだときは。そのときが、酒との人生が始まったときではないかと仮定してみる。
 そうすると、いくつか思い出せる場面がある。 

 高校を卒業してのち飛躍的に酒をのむことが増えたけれども、それでも自宅でのんでいたわけではない。親が下戸のため、父親の晩酌に付き合うという場面もない。また、そこまで僕が酒を必要としていたわけでもなかった。あくまで酒は、友人等と機会を設けてのむものだった。
 同時期に僕は、旅をするようになった。交通手段は自転車。
 最初は、大学一回生のときに北海道の宗谷岬を目指して自宅から走り始めた。初めての一人旅だったが、思い返してもほとんど酒をのんでいない。
 もちろん日のあるうちは自転車を漕いでいるわけで、酒をのむはずもない。また夜は、宿泊施設としてはユースホステルが主であり、基本的に飲酒ご法度の場所だった。野宿をすることもあったが、ひとりで酒をのむ習慣がないため、単純にめしを食べて寝袋にくるまって寝るだけ。酒が介在する機会がない。
 京都を出発して青森まで到着したのが10日後。本州最後の日ということで、今の僕なら当然乾杯をしていただろう。だが、のむ予定は全くなかった。思いもしなかった。
 だが、青森市に着いた夕刻。その日は、ねぶたまつりの最終日だった。予定していたことではなく、偶然だった。僕は初めて遭遇する熱狂の祭りに、思わず飛び込んだ。ラッセラー・ラッセラーと激しく踊るはねと(ねぶたの踊り手)の姿を見て、観客だけでは我慢できなくなったのだ。そして、あるはねと集団に紛れ込んで一緒に跳ねた。こっちは衣装など持ってないので上半身裸だ。有難いことに受け入れてくれて、見ず知らずの同世代の若者達と一緒に跳ねた。
 「どっから来た?!」「京都や!」「おう、鈴つけねばまね(ダメだ)、これ腰に!」鈴までもらった。
 そして、振舞い酒。僕はガブのみし、踊って跳ねて、知らない人たちと肩を叩きあい、酩酊した。記憶を失ったわけではなかったが、べろべろだった。そのあと、よくフェリー埠頭まで行けたなと自分でも思う。青函の深夜便に乗って、函館へ渡った。

 酒がのめる人間で良かったと思った。
 けれどもその後、酒をのむようになったのかと言えばそうではない。札幌で帰省中の大学の友人と会ってのんだくらいで、目的地だった日本最北端宗谷岬に到達したときですら、乾杯もしなかった。そういう発想すらなかった。
 だいたい貧乏旅行で、余剰の予算が無かったということもある。結局その旅でのんだのは、ねぶた酒と札幌酒、そして旅の終盤で同宿の人に奢ってもらった缶ビールくらいのものだ。
 ただ、夢のように楽しい旅だった。いつまでもこんな時間が続いたらいいのにと思っていた。美しい山河、峠の汗と感動的な風景、抜けてゆく空とそよぐ風、燃える夕陽と煌く星、そしてたくさんの人々との出会い。
 小樽から船に乗って北海道を離れなければならないとき、僕は無性にのみたくなった。それは祝祭を終えなければならない寂寥感ももちろんあっただろう。町のスーパーでワインを一本買い、船上の人となった。
 そして、出航するデッキで、遠ざかる風景を見つつ、のんだ。
 それが、僕がひとりきりでのんだ最初の酒だった。そのときの酒は、旅の余韻を彩るにも、思い出を反芻するにも、寂しさを紛らわすにも格好の相方となった。もちろん、うまかった。

 振り返れば、以来酒を友と思うようになったと思う。

 それでも、いつも酒ばかりのむようになったわけではない。学生時代は、基本的に懐が寒い。もちろん様々な場面場面で酒をのんできたが、やはり基本的に「皆でのむ酒」の範疇を超えることはなかったし、自宅ではのまない。
 けれども、旅の空の下ではのむようになった。貧乏旅行には違いないが、宿泊する予算を削っても一杯の酒を選ぶことがあった。その頃には僕も成人し、誰にも見咎められることもない。
 各地でのんだ。それは主として野宿を伴うものだった。田舎の無人駅で終電が過ぎたあと。ワインが多かったが、月を見ながらシェラカップに注いだ酒をひとりのむ。旅では気分が高揚している。酒はそれをさらに助長させてくれる。ときに蚊に悩まされながら、煌々と照る月の下での一杯。ほろ酔いとなって、寝袋に入る。
 ときに桂浜で大酒したりということもあったが、概して一人でのむ酒はおとなしいものである。じんわりと酔いに身をまかせる心地よさ。
 自転車だけでなく、汽車旅も始めるようになった。さすれば、車窓を見つつのむ。傾けるのはウイスキーの小瓶
 だが、居酒屋には入らなかった。それは予算も心配だったし、一人で居酒屋というものも経験が無く、なかなか知らない店ののれんをくぐることが怖くて出来ない。

 結局、はじめて居酒屋に一人で入ったのも、旅の途中だった。冬の青森。
 この町は、夏のねぶたでの思い出が鮮烈に残る。だが季節は冬。吹雪いてこそいないものの、雪深く寒かった。駅前にほとんど人が居ない。その日僕は、やっぱり青函連絡船で北へ向かう予定である。しかし、あのときのような熱狂は今は無い。しんしんと冷え込む冬空。
 出航は夜中の12時。それまでまだ5時間もある。青函の待合室で暖をとりつつ待つのが貧乏旅行の常道だが、なんだか猛烈に寂しくなってきた。夏の楽しかったあの日を思い出したからだろう。
 どこかで酒を買おうか。けれども寒いな。
 今夜は宿に泊まらないので、少しくらいはいいか、と思い、駅近くの安そうな店に思い切って足を踏み入れた。もつ焼きを中心とした店だ。
 店の中は、暖かかった。その暖かさが有難かったが、お客さんは少ない。僕はまごつきながら「ここいいですか?」と聞いて、頷かれたのでカウンターに座った。こんな飲み屋のカウンターに一人で座るのも、また初めてのことだ。
 今でこそ初めての居酒屋だろうが何だろうがバリアフリーのようにすっと入り込みさも常連のような顔で酒をのむのが得意な厚顔人間だが、当時は緊張した記憶がある。入る前は「お酒ちょんだい、せから適当に焼いて」という漫画か何かで読んだ台詞を言おうと思っていたが、萎縮してとてもそんなことは言えない。お酒下さい、というのがせいいっぱいだった。
 まだまだ昭和の時代。お酒、と言えば自動的に燗酒である。冷蔵庫から出してくる吟醸酒などは一般的ではない。ましてや寒い冬。
 「で…カシラとレバーとタンを焼いてください」
 実は、僕は焼き鳥屋の経験はあるがもつ焼きの店に入ったのは初めてだ。当時、あまり関西ではもつ焼きを出す店は少なかったと記憶している。その頃からグルメエッセイなどを読むのが好きだったのである程度承知していたが「カシラ」などもちろん見たことも無い。
 酒が来た。
 少し熱めに燗がしてある。そりゃ当然だろう。それを一杯のんで、ようやく落ち着いた。ただ、まだまだ経験不足の若僧で酒さえのめば天下無敵になるほどヒネてはいない。やがて来たもつ焼きをかじりつつ、間の持たなさを実感した。今では一人酒も慣れたものだが、当時はゆったりとする余裕も無くただのみ食べるしかやることがない。酒もなくなり、もう一本と追加した。
 やがて「どこから来たの」という声がかかった。店の人だったかお客だったか記憶があいまいなのだが、駅近くなのでよそ者も来る店なのだろう。ただ、青森である。聞き取りづらい。今では津軽出身の妻がいてヒアリングには多少の自信もあるが、あの頃は戸惑った。
 しかし、徐々に慣れてきたのか、話も出来るようになってきた。「夏はねぶたに飛び入りして跳ねました。楽しかった」「おおそうか!」話題もある。そうして、約3時間くらいいただろうか。結構のみ食いしたのだが、勘定は1440円(当時の日記にそう書いてある)。店を出るときには、すっかり満ち足りた気持ちになっていた。
 以来、一人居酒屋が全く問題ではなくなった。
 
 こんなふうに酒に親しんでこれたのは、幸いだったと思う。失恋で酒をのみはじめたり、社会人のストレスで酒に逃げるようなのみはじめであったなら、酒は辛いものになっていたかもしれない。
 つらいときも楽しいときも、のむ。そんな人生となったことに、乾杯したい思いでいる。
 今は、病気などにならない限りは、365日のんでいる。酒なくてなんの己が桜かな。往時に比べ酒量は圧倒的に減ったが、それでものめることに感謝しつつ、今日ものもうと思っている。
コメント (4)
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かぼすを搾って

2013年10月31日 | 酒についての話
 ちょっと前の話になるが、妻の実家から今年の初収穫となるりんごが大量に送られてきた。毎年のことなので恐縮なのだが、早生種のりんごは日持ちしない。かといって、冷蔵庫には入れにくい。りんごはエチレンガスを発するため、野菜などと一緒にしておけない(野菜が傷んでしまう)。
 そもそもダンボール2箱ぶんなど冷蔵庫に入りきらないので、あちこちにお裾分けしてまわった。しかしこれも恐縮な話なのだが、そうしてお分けするとたいてい「お返し」をいただいてしまう。こっちは別に自分で買ったものではないから、人の褌で相撲をとっていることになる。結構いいものも頂いたりするので、海老で鯛を釣っていることにもなる。いやはや。
 最後に持っていったお宅で、大量のかぼすを頂いた。30個くらいある。どう考えても海老鯛だが、途方にくれてしまった。
 ミカン30個なら軽く食べられるが、かぼすは皮をむいてパクパク食べるものではない。だがせっかく頂いたものをさらに他にお裾分けするのもまた無礼であるし、そういう知り合いのお宅は今まわったところ。もう一回行きにくいよ。「ジュースにすればいい」と先方はおっしゃるのだが、僕はジュースを飲む習慣がほぼ無い。コンビニや自販機ではお茶しか買わない。冷凍保存も可能なのだろうが、冷凍庫に隙間が無い(詰め過ぎだ)。
 妻は、秋刀魚を焼いたときに添えたり、様々料理に使ったりしていたようだが追いつかず、冬なら湯豆腐や鍋物にぽん酢で使うのに、とか呟きつつ「お酒に搾ってのんだら?」と僕に言ってきた。

 僕は、晩酌にそういう酒ののみ方は基本的にしない。酒に何か別の味わいのものを混ぜることは、積極的にはしたくない。
 そう言うと「カクテル全否定」みたいな話になってしまうので申し添えなければならないが、僕はカクテルもおいしくいただいている。そして、異なる味わいのものを混ぜて絶妙のバランスを見出す積年の技術は素晴らしいと思っている。
 ただカクテル(特にショートドリンク)は、晩酌時にのむ酒ではない。あれは食前酒だろう。別にアペリティフでなくてもいつのんでも良いのだが、いずれにせよ何かを食べながらのむ酒ではなく、単独で味わうべきものである。以前にも書いたので繰り返さないが、ショートドリンクはそうでないともったいない。
 そして、僕の場合においてはロングドリンクも、食事には適合しないのではないかと思っている。

 ちなみに、カクテルにおいてショートドリンクとはいわゆるカクテルグラスで供される強いヤツのこと。マティーニ、マンハッタン、ダイキリ、ピンクレディetc. ロングドリンクとはタンブラーやゴブレットなどで供される、たいていは強い酒を割った飲み物。ジントニックやフィズなどがすぐに挙げられるが、広義に考えれば水割りもロングドリンクと言えるかもしれない。ハイボールはもちろんロングドリンクの代表的なものであるから、つまりチューハイやサワーなども、ロングドリンクの範疇と言える。
 このロングドリンクの中で、僕が先程から「食事中にはほぼのまない」と言っているのは、酒に別の味わいを加えたものである。水割りや酎ハイは、酒をほぼ無味のもので割っているだけだから全く抵抗はない。あまりのみたくないのは、カルアミルクやスクリュードライバーはもちろんだが、酎ハイレモンやグレープフルーツサワーなどもそうである。そして、かぼすを焼酎に搾るのも、食事の際にのむのは二の足を踏んでしまう。

 アタマの中でこの嗜好について整理すると、これには、2つの理由があったりする。
 ひとつは「酒がもったいない」と思ってしまう場合があること。
 今でもそうなのかもしれないが、ひところ焼酎のお湯割りに梅干を入れることがよくあった。お湯割りを注文すると店側も「梅干入れますか」と尋ねてくる。
 それには「入れないで」と言えばいいだけのことなのだが、ある居酒屋での宴席。僕がちょっと席を外して戻ると「君の分の酒も頼んどいたからな。お湯割りでいいだろ」と。寒い日だったので異論はないが、その人は「梅干入り」で頼んでしまっていた。よかれと思ってのことだろうが、焼酎は鹿児島の上質の芋焼酎だった。ブランドもので、値も張る。
 芋焼酎はその香りが身上である。あちゃー。僕は芋のお湯割りは大好きなのに。ご丁寧に梅干はもうグラスの中で崩されている。注文した人の指示らしい。なんてもったいない。案の定、酸っぱい。これでは高い上等の芋焼酎が泣く、と僕は思った。この出来事は、僕にとってはオールドパーをコークハイにされたのと並ぶ痛恨の思い出である。
 うまい酒は、出来ればあるがままにのみたい。酒には酒の味わいがあり、それを殺すべきではない。芋焼酎はクセがあるから梅干でも入れなければのめない、という人には、そこまでしてのまなければいいのに、なんて考える。個人の嗜好だから人のことにとやかく言うべきではないかもしれないが。
 
 もうひとつの理由。こっちのほうが重要なのだが、料理と酒を合わせる場合は、できれば酒はプレーンなほうが料理を生かすのではないかと思っていることである。
 完全に個人的な嗜好なのだが、僕は「食事における酒は、料理に奉仕すべきである」という考え方を持っている。味わいとして酒が突出するのは望ましくない。料理をうまく食べんがために、酒が存在している。
 つまり酒は、ごはんみたいなものである。そしてごはんも、おかずをうまく食べるために奉仕してくれる。秋刀魚の塩焼きも鯖の味噌煮も、単体でそれだけ食べていては何だか物足りない。白いごはんがあって共に食べてこそ相乗効果が得られると思っている(異論はあるでしょうが僕はそう)。
 ところが、それが白いごはんでなかった場合はどうなるか。僕は炊き込みごはんが好きだが、トンカツと共に出されても困ってしまう。いくら鯛飯や牡蠣御飯が好きでも、定食のごはんはプレーンなほうがいい。そしてカキフライとともに牡蠣御飯を頬張れば、フライも牡蠣御飯も死ぬような気がする。双方の強い個性がバッティングする。牡蠣御飯を食べるならあくまで口直し程度の汁と香の物でいい。主と従の関係性は重要だと思う。
 この主従の関係性は、酒においても然りである。
 「味付け」した酒は、つまり炊き込みごはんと同じことだろうと思う。単体でのむ場合には、さほど問題は生じない。だが料理と合わせるのは難しいのではないのか。個性が喧嘩しないか。
 さらに。僕は酒にうるさいほうではない。第三のビールや普通酒だって喜んでのんでいる。だが酒と肴の合わせ方についてはある程度考えるし、選ぶ。塩辛なら燗酒を選びたいと思うし、ワインはのみたくない。相性というものは存在していると思っている。そういうことは、ずいぶん記事にしてきた。
 さらに酒がロングドリンクである場合は、ベースとなる酒と料理の相性だけ考えればいいわけではない。この料理には果たして梅干テイストは合うのか。ライムと相性がいいのだろうか。そういうことまで考えなければならない。これは、甚だ面倒くさいことである(自分で勝手に面倒にしているのは百も承知だが、そういう男なのですよ)。
 だから、かぼすを酒に搾り入れるのに二の足を踏むのだ。

 しかし、現実にかぼすが山ほどある。妻に「なぜかぼすを絞らないのか」について滔々と語ったら、阿呆かと一蹴された。みんなそうやってのんでるじゃないの。あんただけよそんな鬱陶しいことを言ってるのは、と。
 阿呆、偏屈、頭デッカチと言われればもうしょうがない。試しに絞ってみることに。
 
 かぼすと合わせる酒は、どうすべきか。
 一般に柑橘系は、酒と合わせやすいという声が多い。僕はやらないが、ブランデーやウイスキーにレモン、という組み合わせでのむ人もいる。テキーラにライムはもうつきものと言ってもよく、ジントニックやモヒート、さらにダイキリやギムレットなど、カクテルは柑橘類を多用する。 
 スピリッツだけではない。ワインは果実酒だからそもそも酸味を含み柑橘類は合わないと思うのだが、アメリカン・レモネードというワイン使用カクテルもあるらしい。まさかビールには泡を殺す果汁を入れることはない、と思えば、メキシコではコロナビールには当たり前のようにライムを入れると聞く。まさか清酒に…と思えば、昨今女性を中心にレモンを浮かべた清酒がのまれていたりもするようだ。おそらく日本酒が苦手な層に「口当たりよく」のませるためのものだろう。芋焼酎&梅干同様、何もそこまでしてのまずとも、と一瞬思うが、清酒の消費が冷え込む昨今は、何でもいいからのんでくれればいいのかもしれない。僕はやらないが。
 基本的には焼酎だろう。それも、芋などの個性の強いのではなく麦あたりがいいか。いやむしろ本格焼酎ではなく、甲種焼酎のほうがいいのかもしれない。
 我が家を探せば、ペットボトルに入った甲種焼酎が一本あった。いわゆる「ホワイトリカー」である。味に個性はほぼない、と言っていい。僕は焼肉や餃子のときは、よくこういうプレーンなアルコールをのんでいる。一時期ビールを止めたときからの習慣。

 グラスに氷を入れ、25度のリカーを入れ、半割りにしたかぼすを上からぎゅっと搾る。
 うん…かぼすの味しかしない。無味に近いリカーに絞り入れたのだからこれは当然の帰結だ。そして、かなり酸っぱい。かぼすの実は大きい。半割にしても果汁はたっぷりある。加減が必要か。ただ甲種焼酎特有のアルコールくささは消える。のみやすくなるのは確かだ。
 何と合わせれば良いのかわからぬまま、そのまま一杯のみ干した。これは危険だぞ。アルコールをのんでいる感覚が薄まるため、度数にかかわらずすいっとのどを通ってゆく。

 その後。
 最近は、鶏唐揚げがブームのようだ。大分発のご当地グルメとしても高名になり、専門店が増えた。北海道の「ザンギ」も本州上陸している。僕は唐揚げといえば餃子の王将で出す「花椒塩」をつけて食べるものをすぐ思い出すが、昨今は下味をしっかりつけたものが多い。唐揚げというより竜田揚げに近いものも多いが、概してうまい。
 ところで、店で唐揚げを注文するとレモンがついてくることが多い。あれ、僕は好きじゃないのね。さっぱりと食べられるのだが、唐揚げは元来脂っこいものだと認識しているし、さっぱりさせなくともいい。持ち味を失うような気もする。また、果汁を掛けることによって衣がしなっとしてしまうのも残念。だから、多人数で食べるときに、何も問わずにレモンを上からじゃっと搾りかけてしまう人がいたりすると「何をする!」と思う。これは、唐揚げだけではなくフライなどもそうだ。レモンは食べる都度、また小皿に搾ってつけて食べるほうが料理のパリパリ感を失わずにすむと思うのだが、そんな細かいことを主張するわけにもいかずしばしば残念な思いをする。
 そんなことはともかく。近所でから揚げをごそっと買ってきた。
 これに、かぼすを搾った焼酎をあわせてみると、これがなかなかいける。
 唐揚げにレモンをかけることによって食感、また温度が変わってしまうのだから、柑橘味は酒のほうにつければよかろう。そう思って試したのだが、想像通り実に相性がいい。ビールは最初だけでいい僕のようなものには、実に適している。
 難点は、食べすぎかつのみすぎてしまうことか。唐揚げはしつこいのだが、酸味のある酒をのむことによって口中がリセットされ、いつまでたってもうまい。酒もまた、過ぎてしまう。ビールでないため多少のカロリーオフになっているが、食べ過ぎてしまってはなんにもなるまい。

 以降、かぼすを多用するようになった。つまり、単純に脂っこい食べ物にはそこそこいける。ジンギスカンのときにものんだ。羊肉に酸味はいいな。そのとき試しにウイスキーの安いやつを水割りにしてかぼすを搾ったら、これはあまり良くなかったかも。やはり酒自体に個性がないやつのほうがいい。
 そうしているうちに、かぼすも徐々になくなってきた。妻は「だから言ったのよ入れてのんだらおいしいはずって」と言う。確かにね。しかし何でもいいというわけじゃないのだよ。やはり、相性というものはある。
 それに、徐々に秋風が吹いて涼しくなってきた。燗酒やお湯割りが恋しい季節。お湯割りにかぼすは難しいよね。むせそうだ。ホットレモネードってのもあるけどさ。
 そろそろ鍋でもどうかな。かぼすをポン酢醤油にして。うまそうだよ。かぼすはそちらで消費して、僕は燗酒を。
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酒場のB.G.M.

2013年09月01日 | 酒についての話
 例年のことだが八月、妻が里帰りをしてしばらく一人暮らしが続いた。
 短い期間なら、なんら不自由は感じない。掃除などしないし(散らかり放題でいつも怒られるが馬耳東風)、洗濯は機械が勝手にやってくれる。柔軟剤を入れるのよ、とかいつも言われるのだがしゃらくさいので洗剤だけ投入する。我が家には乾燥機がないので干す作業だけが面倒くさいくらいか。あまり皺を伸ばさないのでシャツはいつもヨレヨレになる。弊害はそれくらいだろう。暑いのでアイロンなどかけない。A型のくせに、とよく言われるが、こういうことに几帳面さは全くない。血液型診断などだからアテにはならない。
 結婚する前は、何年か一人暮らしをしていた。そのときは、しょうがないので一応アイロンなんかもかけていたのだよな。今にして思えば信じ難い。加齢と共に全てが七面倒くさくなるのは、誰も同じだろうと(勝手な解釈)。
 食事は、半分以上は外で、ということになる。朝はモーニング。夜は、日ごろの不義理を解消すべく誘いには必ず乗る。だがそんなに人気者でもないので宴会が続くわけでもない。一人で駅前居酒屋のときもあれば、時間が早ければうちで一人で呑む。シャワーを浴びて適当につまみを作って一人で座って呑むのも、また愉悦である。ちょっと凝ったものも作ったりして。

 そんなときはTVを点けるのが常道だろうが、一人のときくらいはTVから離れたい。ナイターを見ることもあったが、それも中継が贔屓チームのときくらい。あとは、主として音楽を聴いていた。
 面白いもので、酒と音楽には相性がある。
 もちろんこれは僕だけの嗜好で他の人と共通理解は得られにくいとは思うが、例えばハードロックを聴くとウイスキーをガツンと呑みたくなる。ブラックサバスになると氷さえ入れずストレートで、サラミを切らずに齧りながらグラスを干す。これは酔いがまわって楽しい。
 また、するめの天ぷらを作って(暑いのに我ながらよくやるよな)、冷奴とともに焼酎を呑む。何故か南こうせつおいちゃんを聴いている。「君は僕の肩に~頬つけて~眠ってた~」とかつい口ずさむ。時は流れて風が吹く。なんともしみじみする夏の夜。
 そのうちに「今日は何を聴こうか」から始まってメニューを考えるようになった。小松菜を買ってきて、常備してあった車麩を戻し卵液に浸して膨らませ、ともにざっと炒め塩とかつお顆粒出汁、少量の醤油で味付け。麩チャンプルーの出来上がり。ゴーヤは天ぷらにして塩で。当然、泡盛。そしてりんけんバンドを聴く。というよりりんけんバンドが聴きたかったから、そういうメニューになったのだ。
 一人暮らしは、意外に楽しい。
 
 このように自宅なら、酒とB.G.M.を完璧にコントロールできるが、酒場だとそうはいかない。酒はチョイスできても、流れる音楽はほぼお仕着せになる。
 とある場所に、古めの居酒屋がある。数度入ったことがある。そこが最近、わざとスピーカーを外に向けて音楽を流すようになった。そういうタイプの酒場ではなかったはずだが、代替わりしたのだろうか。
 流れているのはチェッカーズとかハウンドドッグとか米米とか、ちょうど昭和から平成に代わる前後のヒット曲。おそらくそういう有線チャンネルがあるのだろう。ターゲットはアラフォーか。僕はもうひとつ上の世代なのであまり興味はなかったのだが、小泉さんの「GOOD MORNING-CALL」が流れていたので思わずのれんをくぐってしまった。
 驚いたことに、店の中でも外と同じ音量で流れている。はっきり言って、喧しい。既にバックグラウンドミュージックではなくなってしまっている。そのうちに長○とか○崎とかが聴こえてきたので甚だ面倒くさくなり、とん平焼きにビール一本だけで退散した。
 いろいろな考え方はあるだろうが、少なくとも酒場で流れる音楽は、B.G.M.であるべきだ、と僕は考える。もの思いや会話の邪魔になるような音量はいかがなものかと思う。

 もちろん、音楽を主体にした酒場はある(あるいは飲食店全てを範疇にしてもいいが)。それは、そういう目的があってその店を訪れるわけであって、音楽鑑賞が主体で飲食が従だ。それにまで文句をつけているわけではない。
 僕の知らない頃の話だが、名曲喫茶という場所が当たり前に存在した時代がある。かつてはオーディオ機器やレコードは高価なものであり、個人で所有が叶わなかった庶民が音楽を聴きに行った。もちろんそこで流れる音楽はB.G.M.ではなく、おそらくしゃべっていると「うるせー」と言われたはず。名曲喫茶はクラシック主体、他にジャズ喫茶もあった。
 酒場に限れば、かつて大箱のキャバレーが一世を風靡していたころ、多くは生バンドが演奏していた。歌手が営業で歌いに来ていた。これはB.G.M.に近いものであったかもしれないが、ホステスさんとチークを踊るためだけに存在するのではなく、音楽を聴かせたいという意図ももちろん酒場にはあっただろう。ラウンジの生ピアノはB.G.M.だったかもしれないが。居酒屋の流しさんはどうだったか。
 鑑賞だけではない。うたごえ喫茶なるものも存在した。客に歌集を配り、みんなで声をそろえて歌う。今の時代、全くニーズに合わない店と思われ、ほとんどは衰退したと思われる。
 こういう形態は、おそらくライブハウスなどに受け継がれているのだろう。ライブハウスなら僕も何度も行った。ドリンクを注文して演奏を聴く。コンサートより廉価でバーボンを呑みつつ好きな音楽を生で聴けるのは有難い。また観客参加型の、フォーク酒場なども存在している。
 全て、酒は従である。音楽とは異なるがスポーツカフェなどもその一形態だろう。もっともこちらはパブリックビューイングや街頭テレビがそのルーツだろうが。

 あとは、カラオケか。
 僕は、カラオケボックスという発明を非常に評価している。評価していると書けば偉そうに聞こえるので、ありがたいと言い換えようか。
 カラオケボックスが発明(?)された正確な時期は知らないが、僕は'90年代初めにその存在を知った。当時住んでいた町の、自宅近くの焼肉屋が閉店した場所にあるときコンテナがいくつも運ばれ、カラオケボックスと称して営業を始めた。
 通信カラオケが客の選曲セルフサービスを可能にし、ボックスが成立したのだろう。それまでは、カラオケは飲食店で歌うものだった。
 スナックが代表的だろう。通信などなく、機器にLDなどを入れていた時代は、カラオケは接客する人の介在を必要としていた。そしてカラオケに対する酔っ払いの需要は大きく、スナックのみならず、若者向けのカフェバーやおっさん向けのラウンジまで、カラオケが席巻していた。
 そうなると、喧しいと感じることも多かったのである。スナックは、カラオケを置かない店は少なかっただろう。店側も一曲いくらと勘定につくので積極的に歌わせようとする。さすれば、次から次へとリクエストが入り途切れることが無い。僕も歌っていたからもちろん人のことは言えないのだが、カウンターの向うのおねえさんを口説くことすらうるさくて出来なくなっていた。もう少し大きな店でも、せっかくホステスさんがいるのに会話すらしにくい。
 驚くことに、居酒屋にもカラオケがあったのだ。個室ではない。カウンターにマイクが回って、客は演歌をがなる。無線マイクではない店で、コードが燗酒の徳利をなぎ倒す事故も頻発した。
 酔えば、放吟したくなる。それはわかる。自分が歌うのは気持ちがいい。しかし、それは他の客にとって酒場におけるB.G.M.にはならない。プロが歌うならともかく、知らないおっさんの調子外れで大音量の歌など酒をうまくするわけがない。スナックはカラオケに特化していたからまだしょうがないとしても、居酒屋のカラオケは本当に困った。前述のアラフォーホイホイの居酒屋より酷い。僕もさすがに焼き鳥食べながら歌う気にもなれず、そういう居酒屋に入ってしまうたび、もう二度とここへは来まいと思った。
 それを思うと、カラオケボックスの普及は本当に有難かった。居酒屋とカラオケを分離してくれただけでも、功績はある。
 
 酒場にもいろいろあるが、例えば居酒屋なら、僕は無音が望ましいと思っている。居酒屋は、酒を呑み旨いものを食べることが主体であるべき。音楽は必要ないと言える。それが寂しいのなら、せめて従であるべきだ。B.G.M.に留まってほしい。何か鳴っているな、程度であれば邪魔にならない。
 そのB.G.M.の選曲だって難しいだろう。何か聴こえているな、程度の音量でも、酒に影響する。パンクロックは合わないだろう。郷土料理店なら民謡でもかまわないかもしれないが、ごく普通の居酒屋だとどうか。津軽三味線が聴こえてきたなら思わずじゃっぱ汁を食べたくなってしまうではないか。そんなものは普通の居酒屋にはない。以前、和楽器アレンジのB.G.M.が流れていた店があったが、琴による「世界にひとつだけの花」とか聴くとなんだか和風ファミレスにいるような気がしてしまった。天ざるとにぎりのセットを注文したくなるではないか。ややこしいのだ。
 万人に喜ばれる居酒屋のB.G.M.などなかなかないのだから、もう無しでいいではないか。居酒屋のB.G.M.は喧騒。あるいは、音楽ではなく野球や相撲の中継のほうがむしろ有難いように個人的には思う。
 
 こうやって考えると、僕はずいぶん音楽に気分を左右される人種であるなと思う。影響を受けやすいのか。だから、気になる。
 統一感があればいいのだろうと思う。ビアホールでアイスバインと黒ビールをやっているのに、岸壁の母が流れてきたらおかしな気分になる。それは市場食堂で新鮮な刺身と焼き魚でコップ酒のときのB.G.M.だろう。単純な話だが例えば洋酒主体の店では洋楽が流れていてしかるべきだ。
 しかし、ビアホールにはドイツの音楽がふさわしいと仮にして、メンデルスゾーンとスコーピオンズでは全く異なる。ワインにシャンソンがいいのかどうかもよくわからない。店の雰囲気にもよる。以前ポンドステーキでビールをガバガバ飲むという店でデキシーランドジャズが流れていたが、あれは良かったな。勢いがついた。

 カクテルを供するようなバーでは、静かなモダンジャズの頻度が高いような気がする。僕はモダンジャズはほとんど知らないが、たいてい心地いい。そういうB.G.M.として定番の音楽があるのは、結構なことだと思う。
 酒と音楽の一体感というのは、客の個々の好みがある以上正解は出せないものだろうとは思うが、店側もB.G.M.を流すのなら吟味してもらいたいとは思う。わがままかもしれないが。
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お通し問題2

2013年08月03日 | 酒についての話
 前回の続き。子安大輔氏の「お通しはなぜ必ず出るのか」からもう少し引かせていただく。
 このお通しですが、「自分が頼んだわけではない」という点が問題となるケースがあります。
「必ずお通しが出るのは不愉快。押し売りみたいなもんだ」と思っている人もいるでしょう。実際に、頼んでもいないお通しが有料であることについては、外国人客などからクレームがつけられることもあるようです。
 そうだろうなと思う。頼んでもいないのに勝手に商品を押し付けて料金を請求するというのは、日本じゃこのお通しとNHKの受信料くらいか。外国人だけではなく、居酒屋に入り慣れていない人はみな戸惑うだろう。
 280円均一で全国展開を推し進めている焼き鳥居酒屋「鳥貴族」はお通しを出さない。それについて社長はブログで説明している(→鳥貴族 社長の焼鳥日記!!:居酒屋の【お通し】について)。
 大倉社長は自らの体験を語る。
勝手に出てくるということで、お店のサービス(無料)だと思い込んでました。
ところがある時、お会計でレシートをくれたお店があり(その頃は珍しかった)、内容を見ると、代金を取られてたことを発見したんです。
その後、行きつけのお店でも確かめたところ、やはり代金を取られてました。
【取られてた】・ ・・まさにそんな心境でした。
もっと厳しい言い方をすれば、【詐欺】にあったような気持ちになりました。
 確かに厳しい言葉だが、なんの説明も無ければその通りだろう。だから鳥貴族では「お通し」を出さないのだ、と。
 これは、法的に問題ではないのだろうか。
 木村晋介弁護士は、「居酒屋でお通しを有償で提供することが、社会的にみて商法第一条の商慣習として成立しているとは言いがたいのではないか」とされる。(PRESIDENT Online 「解決!法律教室」)
 確かにね、「お通しが出てないじゃないか!」と怒り出す客は少ないと思う。これが成立しなければ、客側に代金を支払う義務はなくなる。
 
 僕は、そこまで厳しく言うべきかは迷う。
 立ちのみなどを除いては、酒場はとにかく客回転の悪い場所であり、席料をとらなくてはやっていけないであろうことは、前回書いた。客側からすれば席料などないにこしたことはないが、もしもお通しが無くなっても他で料金に上乗せされるのであれば同じことだと思われる。
 難しいなと思う。居酒屋という場所は廉価であるから有難いので、だからしげく通うことができるのだ。これが底上げされれば困る。ただでさえ消費税を上げようと政府に企まれているのに。
 僕は前回「お通し」には否定的であることを書いた。しかし、席料まで否定的なのではない。仮に、今までお通しで補っていた分を値上げでまかなおうとするならば。また値上げでなくとも、例えばホテルのサービス料のように、料金の10%を席料として頂戴する、なんてことになったなら。
 同じ時間飲み食いしたとしても、品数を多く、また高価な品を頼んだほうが損になる。漬物盛り合わせでチビチビ徳利を一本なめるようにのむ客もガンガン注文してガバガバのむ客も、同じ2時間居たのに。なんだかそういうのは楽しくない。
 しかし時間制で席料が決められるのもイヤだ。酒をのむ時間を縛るのは終電の時刻とニョーボの角くらいで十分。もちろん飲み食べ放題2時間制とかは別だが、時間で料金がかわるのはなんだかせわしない。僕などはセコいので、あと5分でまた席料が別途かかる、と思えば何となしに腰が浮く。
 じゃ均一席料が最もいい方法か、といえば、それもどうなのかなと。
 バーなどにはチャージ料というものがある。そこには、ここは酒だけを提供しているのではない、時間と空間が売り物なのだ、という矜持もあるだろう。居酒屋だってもちろん酒と肴だけを提供しているわけではないが、居酒屋の売りを空間等に設定されると困るし、そういう店には行きたくない。実質的なのが居酒屋のいいところではないのか。
 席料の必要性を否定するわけではないが、やっぱりそう明示されると「今日はサク呑みなのに」「そんなに長居してないのに」とか考えてしまう。
 こういう話になると、「お通し」という存在はいい落しどころであるようにも思えてくる。

 けどなぁ…。
 若いときの話なのだが、とある休日、昼食をとろうとうどん屋に入った。そこで僕は、カツ丼とミニうどんの定食を頼んだ。それですませればいいものを、休日だったのでつい「ビール一本追加して」と言った。暑かったんだよ。
 そのビール(中瓶)に、お通しがついてきた。少量のヒジキか切干大根か何かが、刺身の醤油皿のようなものに盛られてきたと記憶している。いずれにせよ大したものではなかった。ビールも中瓶なのでカツ丼が供される前に飲み干し、そのお通しはしょうがないのでカツ丼の合いの手に食べた。食べ終わるまでに15分とかからなかったはず。
 はっきりと憶えてはいないが、カツ丼定食700円、ビール500円、お通し300円くらいだったと思う。あの一口で食べられるような小鉢にそんな値段がついていたので驚いた。一言いったら「お酒を召し上がる方にはお出ししております」と。この店、夜には居酒屋に変身するようだ。
 しかし釈然としない。昼間だよ。結局中瓶ビール一本800円か。外でロング缶イッキしてから店に入ればよかったよ。
 そしてこのお通し、全くもってコスパが悪い。お通しというものは席料込みとすればコスパが悪いのは当然のことだが、それにしても。

 話が堂々巡りになっているのは承知していて申し訳ないが、やっぱり変な気もしてくる。お通しのつまらなさについて、①順番と酒との相性を無視②好き嫌い無視という側面から書いたが、やはり③コストパフォーマンスへの不満もあるだろう。
 まず、値段が高い場合。
 僕が知る中でお通しの最高額は、1500円である。こうなると、お通しの概念を超える。
 なお、これをボッタクリというつもりは毛頭ない。この店のお通しが1500円であることを承知で、入店しているからであるが。
 1500円のお通しと書くだけで、あああの店だとわかる人はわかるだろう。杜の都のあの店である。そのお通しの内容といえば、僕が行ったときには鮪と牡丹海老と帆立の造り盛り合わせだった。相当に吟味された上質のものであり、1500円はサービス品であると判断することも可能だ。うどん屋で出された少量の惣菜お通しが300円だったことを考えると、五倍の値打ちどころではない。
 しかし、知らずに入ったらびっくりするだろうなとは思う。これは既にコース料理の一部だと考えたほうが適っている。
 かに酢を出してきた店のことは述べたが、こういうものをお通しと称しているのはどうなのかなと思う。コスパに合う合わない以前に。

 お通しは3~400円くらいにして欲しいのだが、その値段にすら全くみあわないものも、やっぱり出てくる。
 個人でやっている小さな居酒屋などで、例えば刺身の切り落としや前日の魚の残ったものをさらりと煮てお通しとして出してくる店がある。こういうのは個人的にはうれしい。お通しは席料込みだから原材料費を切り詰めないとその役割を果たさないが、こういう余剰材料なら何とかまかなえるのだろう。だいいち、美味い。やっぱり困るのは大きい店やチェーン店だ。お通し用に仕入れをするはずだから、どうしても業務用の惣菜になったりする。
 どうしてああいうものは、美味くないんだろうねぇ…。100円であっても値段にみあわない気がする。

 こうして考えていると、僕も文句ばっかり言っている。代案を出さねばいけないのだが、それが思いつかないのが困ったことだ。
 まず、改善してほしいこと。
 詐欺にあったとまで思う客もいるのだし、食習慣の異なる外国人客もいるのだから、まず「お通し」を最初に出すことについては事前に告げるべきである。勝手に出して勝手に勘定に入れるのなら、それは確かに問題点が多すぎる。
 これは、メニューに書くだけでは足らないような気もしている。
 大手の居酒屋チェーンではクレーム対策なのか、一応メニューには明示している。例えば「養老の滝」はこんなふうに。(→Web版メニュー)
 こういうのは、現状を考えれば良心的と言えるだろう。だが、メニューのかなり後部下段にしるされている。つぼ八は裏表紙だ(こちら)。やはり、申し訳ないがクレーム対処用にも見える。
 こうした大手チェーン店には、メニューの表ないしは1ページ目にお通しについて書くことを義務付けられないものか。「頼んでないぞ」「いや書いてあります」というのは、あまりにも客をないがしろにしてはいないか。
 僕が望む形は、店頭に張り出してもらうことである。「今日の突き出しは○○。315円」と。
 それを見て客は店を選ぶ。
 本来は、お通しに何種類か選択肢があるのが理想である。好みにしたがって、また酒に合わせて選べるようにせよ。それが居酒屋の楽しみじゃないか。
 だが、それはコスパの関係上難しい(1種類に絞らないと席料込みで採算がとれない)ならば、やはり店頭に明示しなさい。自信を持って。
 なかなか難しいのはわかりますけれどもね。けれども、メニュー表の最後に小さく載せておく、なんてのもちょっといやらしいやり方じゃないのかい。
 あるいは、お通しのメニューを固定化する、というのもいいかもしれない。うちは、春夏秋冬いついらっしゃっても煮豆です、とか(根岸の鍵屋)。これもうまくやれば、店の名物をつくることにもなり集客につながる。
 そして、拒絶されたら出さない覚悟を持つこと。あくまでお通しは、本音は席料であっても肴の一品であるのだから。僕はびしょびしょの酸っぱい春雨サラダなど出されても困るのだ。せっかく呑みに来てるんだもの、好きなものだけを食べたいよ。
 僕個人だけの都合でいえば、お通しは300円で今日は○○ですが、もしお好みでなかった場合はお出ししません、替りに席料200円別途とさせていただきます、でもいい。むしろそちらのほうが無駄がなく、食べ物を粗末にする罪悪感からも逃れられる。無粋だけれども。

 以上の話は、お通しが席料込みであるということを前提で書いている。だが、そうでない場合はもう「ふざけるな」としか言いようがない。
 全国どこにでもある大手チェーン居酒屋の話なのだが。
 その夜、気の置けない友人と夜半過ぎから呑んでいた。話が続いて夜も更け、終電も終わった。翌日は休日なので朝まで呑んでもいいと思っている。だが、店が次々と閉まってゆく。僕らは、朝まで開いているその大手居酒屋に入った。もう何も食べたくないし、酒呑んで話せる場所さえあればいい。
 店に入るとカウンターがあり、二人だからそこに座ろうとすると「空いていますのでテーブル席へどうぞ」と言う。確かにガラガラだったが、そんな10人くらい座れる席など話しにくくてしょうがない。
 その広い席で、二人で焼酎ばかり呑んで、2時間くらい居ただろうか。ここは、僕が支払うことにして勘定をした。
 レシートをくれたので、なんとなしにそれを見た。さすれば「席料105×2 お通し315×2」と書いてある。
 ん?
 酔っていたので、聞いてみた。何だこの席料というのは? と。
 さすれば、テーブルチャージだということ。おいおい、僕らはカウンターのほうが良かったんだ、それを無理にあんたらが連れてったんじゃないか。そのときに一言でも席料の話をしたか? 僕は酔いもまわっていたのでつい「店長を呼べ」と言ってしまった。
 でも、理不尽じゃないですかこれ。深夜料金10%というのも加算されていて、まあそれはファミレスだと思えばいいのだけれどもね。お通しに別途席料か。小さい話ではあるのだが…どうも釈然としなかったのも事実で。
 何でも、事前説明というのが必要だと思う。こんな小額でも、気分がよろしくない。「お通し」というものの存在を知らない人がサービスだと思っていて、代金を「取られていた」と知ったときの気分ってこういうものか、とその時に思った(ちょっと違うかしらん)。

 軽い気持ちで書き始めたが思わず長くなった。案外、難しい問題だったのかも、これは。

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お通し問題1

2013年07月28日 | 酒についての話
 居酒屋に入る。座る。さすれば、注文を聞かれる。
 「とりあえずビール」でもいい。「おちょうし一本、あったかくしてね」でもいい。まずは、のむ酒を伝える。しばらくすれば、酒がやってくる。
 その酒が出される前に、目の前に小鉢が置かれたりする。或いは酒と共に何か運ばれてくる。もちろん、こちらはまだ酒しか注文していない。肴は、これから品書きを見て決めようと思っている。しかし何も言わずとも、そういう類のものは出てくる。中身は店によって違う。ちょっと気の利いたものから「え?」と思うものまでさまざま。
 決してサービスではない。しっかりと勘定はなされる。
 これが「つきだし」である。関東では「お通し」と言う。お通しのほうが全国的に通じるらしいのでそう書くことにする。

 これについては、いろいろ考えてしまった人も多いのではないかと思う。
 僕はつい「お通しはなぜ必ず出るのか(子安大輔著)」という本まで読んでしまった。これはビジネス書であり、お通しの話はほとんど載っていなかったのだが(こういうタイトルは何とかならんかね)。
 しかしせっかく読んだので引用する。かえって簡潔に書いてあったので。
 お通しの意味は、一般的には料理が出るまでの「つなぎ」と言われています。客が注文した料理を待つ間、お酒のアテとして気軽につまめるものを提供するという意味です。
 確かにそういう一面もありますが、本当の狙いは「席料を取る」ことにありそうです。
 客が頼んでもいないものをただ出すだけで、一人当たり二百円から五百円程度の売上を店側は自動的に計上することができるのです。客単価が三千円の居酒屋であれば、三百円のお通しは実に売上の十パーセントを占めることになります(ちなみに大きな声では言えませんが、それに対する原材料費は限りなく安いはずです)。
 モノを出さなくてもテーブルチャージやサービス料という名目で合計額の十パーセント程度を取る店もありますから、お通しの実態はやはり「席料」という見方が正しいと言えるでしょう。
 なるほどね。わかりやすいわ。
 ただ、ここに書かれていることが全てではない、と一応ことわっておいたほうがいいだろう。もちろん料理を出すまでの時間を考慮し客を待たせない手段として「お通し」に力を入れている店も当然あると思うし、個性を発揮しようとしている酒場も当然あるだろう。そういう店も、僕は知っている。
 だが、席料の一部としてお通しを考えている店が、やはり多いのではないだろうか。子安氏の見方はある意味においては当たっていると思われる。
 居酒屋という場所は、客の回転が悪い。これはわかる。ただでさえ酔っ払いは長っ尻で、しかも酔えば何も注文しなくなったりする。ただ笑ったり泣いたり、寝たりしている。さすれば、席料を取らないとやっていけない。その店側の事情だって、むろん理解できる。
 そういったことを踏まえながらも、僕はこの「お通し」については、肯定的か否定的かと言われれば否定的である。なんとかならんのか、といつも思っている。
 問題点を考えていこうと思う。

 お通しの何が好ましくないかについて、突き詰めて考えると、主として三点ある。
 ①頼んでもいないものを最初に出されるつまらなさ
 ②好みでないものを出されるつまらなさ
 ③コストパフォーマンスにあわないつまらなさ
 僕の場合は、こういったところだろうか。世間的にもこう思っている人はいるはず。

 まず、頼んでもいないものが最初に出てくる違和感について。
 僕の場合居酒屋の楽しみは、自分で段取りが決められるところにある。一人でのむならなおさらだ。まず、ビールが飲みたい。で、串モツ焼きを注文する。ビールは、瓶にする。生ビールもあったが、ジョッキで出されると、既に注がれているものだから直ぐに飲まなければ不味くなる。だから、瓶で頼んでグラスに一杯だけク~っと飲む。あとは、モツ焼きが来るまで待つ。
 そこまでは計画が立っているのだが、そのあとはどうしようか。豚足焼きと厚揚げで焼酎にするか。あるいはたこぶつと湯豆腐で燗酒にするか。ふたパターン考えられるがまだ決まらない。モツ焼きを食べたあとの気分で決めよう。こういうことを考えながら待つのは楽しい。
 しかし、そこに「お通し」としてポンとポテトサラダを出された。これは、困るのである。
 ポテサラが嫌いだと言っているのではない。
 僕の場合、組み合わせとして例えば串カツ+ポテサラ+ビールなら、○アリである。だが、モツ焼き(しかもタレ焼きを頼んでいる)+ポテサラ+ビールは、×ナシだ。この理由は人に説明できないわけではないが長くなるので割愛する。
 いやなら食べなきゃいいだろう。そのとおりである。だが、僕は母親に「食べ物を残してはいけない」としつけられている。三つ子の魂百まで。結局そのポテサラは残してしまったのだが、なんとも後味がわるい。

 「今日はアジフライでビールだっ♪」と昼間から考えていて(不謹慎をお許し下さい)、夕刻に連れ立ってざっけない居酒屋へ。そこのアジフライが美味いのを僕はよく承知していて、何度も食べたことがある。
 だがオーダーする前にお通しで「小鯵の南蛮漬」を出された。
 こういうの、実に気分が削がれるのである。
 それでも頑固にアジフライを押し通したのだが、「鯵好きなんですね~」とまわりから口々に言われた。なんでそんなことを揶揄のように言われなきゃならんのだ。ワシはアジフライにソースかけてビールと共に食べたかっただけなのに。南蛮漬さえ出てこなければ。

 ある日は、3人でのんでいた。一軒目はビアガーデンであり、しこたまビールを飲んだ。ただそのビアガーデンは非常に騒がしく、落ち着いて話も出来なかったのでもう一軒行こうか、となって、居酒屋へ入った。
 小上がりに座ると、お通しとして枝豆が出された。
 「こりゃビールだな」と一人が言った。僕は正直もうビールは飲みたくなかった。さっき散々飲んだじゃないか。だが話はそういう方向性にゆき、場の空気もあるのでビールをオーダーせざるを得なかった。僕はビールばかり飲むと決まって悪酔いする。この日も、翌日に残った。枝豆さえ出てこなければ。
 お通しは、飲む酒の種類や体調にまで影響を及ぼすことがある。

 お通し、また突き出しというものが本音の部分では席料であるとしても、それが一応は、頼んだ料理が出てくる間の「しのぎ」の役割を果たそうとしていることはわかる。
 料理というものは手がかかるものが多く、酒はたいていはすぐに出てくる。店側も「まずお飲み物のほうはどういたしましょうか」などと言って酒を先に出そうとする。日本人は「最初はビール」派が多いので、瞬く間に目の前に置かれる。
 こうなると、何か食べるものもないと寂しい。それもわかるのである。
 けどなぁ。
 
 僕は、コース料理というのがあまり好きではない。そりゃ料亭の会席料理や旅館の夕食など、自由に注文できない場所で酒をのむ機会もそりゃあって、そこまでウダウダ言うつもりはない。でも、アラカルトが選択できるのであればそうしたい。
 僕は、そういう性格なのである。何でもいいから適当にみつくろって出してくれ、とは言わない。定食屋に入っても、どんな料理かを確認せずに「日替わり定食を下さい」とは絶対に言わない。日替わりが得なのはわかっていても、だ。
 ましてや、居酒屋。好きなものを「好きな順番で」食いたい。
 「おまかせコースありますお得です」と言われても「じゃそれで」とは言わず「品書きを見せて」と言う。鬱陶しい客かもしれないが、食事くらい好きにさせてくれ。ちょっと上等な店で「うちにはメニューはありません全ておまかせで承りますお客さんの顔を見てお出しします」あんたにワシの何がわかると言うのだ。だいたいおまかせで承りますって日本語はおかしいんじゃないのか。立ち飲みの串カツ屋を愛しおしゃれな「串揚げ屋」に行きたくないのは、たいていコースしかないからだ。大好きなウインナー揚げを5本とか頼めないじゃないか。「おなかがいっぱいになったらおっしゃってくださいそこでストップ致します」アホかと思う(暴言でした陳謝します)。
 ちなみに、店の常連になると時々「これサービスね」と一品ひょいと出されたりすることもある。好意はわかっていても、僕はそれすら好きではない。自分の心積もりを乱されるのは望ましくない。
 そういう偏屈な人間が、最初の一品をコントロールできないことは誠に残念なのだ。

 このことは、好みの問題にも大きく関わってくる。
 お通しはまずあてがいぶちであり、自分の好みが反映されることはない。
 勝手に出されるお通しだが、自分の好みに合致したものが出れば、不満の何割かは解消するのではないかと思う。しかし僕個人の経験だけで言えば、打率一割いくかいかないか、だろうか。
 お通しは最初にしのぎの一品として出されるのだが、それをすぐ食べるかどうかは客の勝手である。たいていは作り置きの品なので、これは例えばとりあえずのビールに合わない品だと思ったら、別にあとから食べてもいい。
 ところが、それすらその気になれないのもある。
 前述のポテサラもそうなのだが、例えばかつお造り、焼き茄子、若竹煮、子鮎天ぷらと注文をし清酒の杯を重ねる中で、最初に出されたもやしのナムル風小鉢をどこに組み込めばいいのか。別にもやしが嫌いだと言っているのではないのだが、このようにして呑んでいるとどうも箸をつけたくない。
 まして、本当に嫌いなものが出てきたらどうするのか。

 僕の知り合いで、どうしても生のオニオンがダメという人がいる。前述のポテサラは困るに違いない。生魚だけでなく、魚全般がダメという人もいる。そういう人にも本来居酒屋は優しかったはずだが、お通しにイカとキュウリの酢の物を出してきたりする。
 そういえばキュウリが駄目な人もいたなあ。
 僕だって、雑食に見えて苦手な食べ物はある(自らの弱点は晒したくないので何が嫌いかは書かないが)。そういうものを出されれば、困る。
 これ、取り替えてくれる店もあるだろう。だが酒を呑んでいるとそういうみみっちいことが面倒になるし、多人数で来ていればなおさら「これキライだからヤメて」とは言いにくい(格好悪いし弱点を晒すことにもなる)。しかし無理して食べるのも馬鹿げている。
 大人が好き嫌いを言うのはみっともないかもしれないが、アレルギー体質の人だっている。以前にも書いたことがあるがお通しに「かに酢」を出してきた店があった。これは600円であり、もしも席料込みの値段だとすれば、かなり頑張っている内容だったと思う。しかし、こういうのは危ないのではないか。
 
 しかしこういう頑張っているお通しはあるものの、多くはその値段に見合わないものを出してくる。お通しが席料だとすれば、それは当然の帰着と思われる。一品としてみればコストパフォーマンスに合わないのは当たり前だろう。
 この話は長引きそうなので、次回にまた。
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