「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生があなたに絶望することはない」
(ヴィクトール・E・フランクル)
今日は、お葬式でした。長年、お世話方をしていただいていた方でした。85歳の尊い人生、お疲れさまでした。
さて、今日は、藤能成(よしなり)さんの文章を紹介します。藤さんは龍谷大学の教授です。 2005年10月5日の「佐賀新聞」に藤さんが書かれた「今日一日、精一杯生きてみよう」という文章の一部分です。
あなたの人生はあなただけのもの、世界の中で誰一人としてあなたと同じ人生を歩む人はいない。だからあなたは人類を代表してあなたの人生を歩んでいる。誰もあなたの人生を歩むことはできない。だからあなたの人生はあなたが責任を持って歩んでいかなければならない。あなたの人生の答えを見つけることができるのは、あなたしかいない。
そして、人生の意味とは自分の思い通りに生きることではなく、与えられた人生の条件、人生からの期待に応えることにある。それは今のあなたが置かれている状況の中で、あなたができること、あなたにしかできない仕事を見つけて、あなた自身を生かすということ。楽しいことやうれしいことばかりでなく、苦しいこと、つらいこと、悲しいことにも意味がある。両親も、家庭も、この自分も選べなかった。でも自分自身と自分に与えられた条件を受けとめ、その中であなたができることや、あなたにしかできないことを見つけ、あなた自身を十分に生かすことができたら、道は必ず開ける。そして眼に見える世界を支え導く、眼に見えない願い・はたらきがあることに気付かなければ、本当の世界は見えないし、本当の喜びにも出あえない。仏教ではそれを仏の智慧という。
京都市の和洋紙販売会社「柿本商事」さんが企画した「恋文大賞」という手紙コンクールがあります。今から1年前、第2回「恋文大賞」を受賞した手紙の一つが、菅原文子さんの「あなたへ」でした。
菅原文子さんは、気仙沼市の方です。文子さんのご主人は、東日本大地震後、自宅の酒屋を片づけていた時に津波に流され、行方不明になってしまいました。2011年の夏の終わり、震災から5ヶ月後に、文子さんはその行方不明のご主人に宛てて、一通の手紙を書きました。その手紙が大賞を受賞した「あなたへ」です。
下のリンク先に全文がアップされていますので、ご覧ください。
なお、ご主人のご遺体は、震災から1年以上経った今年6月5日、奇跡的にも衣服を着た状態で、ご主人とハッキリ分かる姿で、発見されたそうです。帰ってこられたんですね。
※追記(2012/11/14 14:20)
スマホだとリンク先がうまく表示されないので、一応、簡易版も張っておきます。左の画面をクリックすると大きくなります。上下二段組みです。
織田信長 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
豊臣秀吉 「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
徳川家康 「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三武将の性格の違いを表した言葉として、有名な俳句です。
ところで、今日、読んだ本に、こんな話が書いてありました。
晩年の松下幸之助さんが、「あなたはどれにあたるか」と問われたそうです。
すると、幸之助さんは、次のように答えたそうです。
「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」
三武将の句はすべて、ホトトギスが鳴くことを前提としています。でも、鳴かないホトトギスがいてもいいですよね。いろんなホトトギスがいて、構わない。それぞれがそれぞれに尊い姿です。そういうことを教えてくれる幸之助さんの句ですね。
「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)
昨日買った本に引用されていたので、ちょっとご紹介。
生ましめんかな -原子爆弾秘話- 栗原貞子
こわれたビルデングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった。
生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも
『日本現代詩文庫17-栗原貞子詩集-』(土曜美術社出版)より
昨日の続きです。これで、昭寿さんの文章からの引用は終わりです。
お母さんは、鈴ちゃんの家に「ジャー」を借りに行って下さったようだ。この私のために、私の用事を果たすために走り回ることが、いまのお母さんにとって、最大のたのしいことだとおっしゃって下さる。何とありがたいことか。でも足下に気をつけて、行き来はしてくださいよ。昨日ふと見ると、大分白髪が目についた。親に先立つ子供になって、ほんとにすみません。でもお浄土にいったら、いつもお母さんたち有縁の人たちを度すために、みつめていますからね。寂しいことないでしょう。
鈴ちゃん-立った一人の姉さん。理想的な兄弟仲に、ともにいままで歩いてきて、たのしい思い出ばかりですね。入院手術以来、雪の日も風雨の日も、よく看護して下さいました。今度のように、肉親の、兄弟の愛情がこんなにも豊かなものかを、わからせて頂いたことはありません。他家へ嫁いだらそれだけ縁が薄くなるなんてこと、私たちの間では微塵もないことでしたね。
ほんとにいいお姉さんでした。しかし私は、鈴ちゃんに何ら弟らしいことはせず、あなたから愛情を降り注いでもらうばかりの愚弟でした。いまから先、池辺さんも心の純粋な良い方だし、立派な家庭をきずきあげていって下さい。仏縁に恵まれた家庭として-。(『親鸞に出遇った人びと<第3巻>』より)
竹下昭寿さんは、昭和3年に長崎県に生まれられ、昭和34年に30歳で往生されました。
亡くなられた昭和34年4月17日のことを、お兄さんの竹下哲さんが日記に書かれているので、最後にそれを引用してみます。
7時過ぎから、極度に容態が悪くなる。呼吸が早い。そして、ひと呼吸、ひと呼吸がとても苦しそう。脈が早鐘を打つように早い。唇を水でしめしてやる。
母と私、昭寿の手をしっかりと握りしめて、お念仏を称える。昭寿、一心に母の顔を見つめる。
窓の外からうぐいすの声が聞こえてくる。
母が、手をしっかり握りしめながら、
「このまんまよ。このまんまよ。もうすぐ楽にさせていただけるのよね。お父さんが待っとんなさるよ」
と言ってお念仏する。
昭寿、母の顔を見つめながら、手を合わせるような格好をする。そして、かすかに、つぶやくように、
「なもあみだぶつ、なもあみだぶつ……」
と称える。しばらくして、涙をほろりとこぼす。母が、ガーゼでていねいに拭き取ってやる。
次第に、呼吸、脈が衰えはじめる。そして、喘ぐような、大きな息を数回して、7時25分、とうとう最後の息を引き取る。
がんばれと激励することもなく、しっかりしろと力むこともない、静かな往生であった。両手離した、あるがままの、安らかな最期であった。
病室にきれいな花をたくさん飾って、この美しい弟の死を荘厳(しょうごん)してやった。
たった今読んで衝撃を受けた竹下昭寿さんの文章を今から書いてみます。
3月25日
久しぶりに字を書く。なんだかうまく書けないな。「死の宣告」、今までに何回も聞き馴れたこの言葉だが、自分自身が本物の「死の宣告」を聞かされようとは。
今日は朝からすばらしい春日和だった。朝は食欲がなかったけれど、お昼ごろから気分は良い方だった。午後一時間ばかり眠ってちょうど目が覚めたとき、高原先生が往診された。一昨日の往診のとき、何か不安なことはないか、包み隠さず体裁ぶらずに、その不安を聞くから-と言いおいて帰られたので、今日は病状がちっとも快方に向かわない、逆に退院当時より疲労度は増してくるようだと言った。先生は、待っていたように、私の真の病気が何であるかを明らかにされた。
「胃ガン」-信じられないような病名。致命的な病状の進み。すべてはもはや手遅れだったのだ。それとは知らず、日が経つにつれて焦っていた私。母や兄たちが入院当時から深刻な表情をしていたのを、むしろ不思議に思っていたのだ。
何にも知らなかったのは私だけだったのだ。みんなは、私の姿を見ながら深く悲しんでいて下さったのだ。
先生から「死の宣告」を聞かされたときは、なんだかぼっとしていた。興奮状態だったのだろう。
あと何日いのちがあるかわからない。三十年の宿業が、残り少なくなっているということだけ。明日までかも知れないのだ。「今日一日をありがたく大切に」-高原先生のこの言葉が、実感となってひびいてくる。これからさき、どんな病苦にのたうちまわるかも知れない。果たすべき宿業は自分で果たして、この世を去る以外にないのだ。しかしその宿業の果てには、親鸞聖人や唯円房が渡っていられる処があるのだ。そして、十五年前に往っておられるお父さんも。
この世の人間の愛情の、なんと濃(こま)やかな中に、自分は生かされていたことだろう。三十年の愛の火の中で。しかも何よりも、仏縁に恵まれていたことの良かったこと。すべては大慈悲の唯中(ただなか)に、いままでもいまも生かされているのだ。
夜十時半、疲れてまとまらないが、今夜も休ませていただこう。
「ただ念仏して」
3月27日
昨日は、母と兄が、高原先生から色紙に詩を書いて頂いてきた。それを立派な額に入れて、壁にかけてもらう。
「何もかも我一人のためなりき 今日一日のいのちたふとし」
ほんとに私ぴったりの歌だ。「我一人のため」-大慈悲の真っ只中に抱かれて、残り少ない業を果たしていけるこの身の幸福。
ほんとにこのまんまで、お浄土に生まれさせてもらえると思えば、浄土真宗のありがたさがつくづくしみとおってくる。
(中略)
「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」。私にはもったいないのだけれど、如来さまはそのまんまでいいとおっしゃるのだ。だからこそ私は救われていくのだ。如来の本願のかたじけなさ。ほんとに「我一人のためなりき」です。
南無阿弥陀仏。
むのたけじさんの言葉
サカナは、海中にいても店頭におかれてもサカナである。人間は死ねば「故人」あるいは「遺体」である。生きているから人間である。しんじつ生きていないなら、しんじつ人間ではあり得ない。
生きているから人間なんだ、本当の意味で生きていなければ、それはすでに人間ではないのだ、という言葉です。
『涅槃経』の言葉
二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚はうちにみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。慚愧あるが故に、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるが故に、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
慚愧があるのが人間で、慚愧がなければ人間ではない、という言葉です。
慚愧とは、自らを恥ずかしく思い、他に対して申しわけなく思う心です。恥ずかしいな、申し訳ないな、という心があってこそ、家族も成立するんだ、と。
親鸞聖人の言葉
「是人」といふは、「是」は非に対することばなり。真実信楽のひとをば是人と申す、虚仮疑惑のものをばといふ。
最後、親鸞聖人の言葉ですが、もともと私たちは「虚仮疑惑のもの」です。それが、阿弥陀仏のはたらきによって、真実信心をいただき、「真実信楽のひと」とならせてもらいます。
つまり、阿弥陀仏によって、人間ではなかった私が、人間にさせてもらうんだ、ということです。
本当の意味で生きていなかった自分、「恥ずかしい、申し訳ない、悪かった」という心のない自分、そんな自分が、阿弥陀仏のはたらきによって、本当の人間にさせてもらうのです。
本当の人間に成らせていただくはたらき、それが阿弥陀仏のはたらきだったのでした。
今日は、木村誠一さんの和歌を紹介します。
身のほどの 知らぬをいよいよ 愛(いとお)しむ お慈悲の中に いかされてあり
いづこまで そむきそむきて 行くなるか 御名ははてなく われを摂(おさ)めて
木村誠一さんは、昭和37年4月1日に亡くなられた方です。幼い子ども5人を遺して。享年45歳でした。
木村さんは、昭和36年10月、胃ガンの再発により入院されました。その入院中に木村さんが書いていた日記が、『真楽記(しんぎょうき)』です。
『木村誠一さんの生涯と『真楽記』』という本の序文で、浅野純以さんがこう書かれています。
昭和36年秋、胃ガンの再発で京都府立医大に入院する3ヶ月前の夏休み、誠一さんは京都の自照舎に白井成允(しらいしげのぶ)先生を訪ねられる。しかし白井先生は遠く岩手盛岡方面へ講演に出向され不在であられた。誠一さんは意を決して盛岡へと足をのばされたのであった。今日のように交通機関が発達しておらず、東北線は蒸気機関車が走っていた頃のことであるから、胃の半分を摘出している身には相当にこたえる旅であったに違いない。盛岡の願教寺で白井先生に会うことができ、盛岡、釜石と先生に同行して講演を聴聞されたのであった。その白井先生と京都への帰途、満員列車の車中での誠一さんの切羽詰まった問いは、誠一さんのいのちの奥底からの呻きにも似た問いであった。20数年にわたってひたすらに聞法しつづけてきて、薄紙一枚がどうしてもとれないという一途な求道における最後の切実な問いであったといえよう。満員列車の中で、両人は立ったままで、
「私の頑なな心のために、お慈悲を受け入れることができません」
と、誠一さんは眼に一杯の涙をためて問うたのであった。白井先生はその切羽詰まった問いに、しばらく間をおいて一言一言噛んで含めるように、
「その頑なな心ゆえに、如来さまの五劫の間のご苦労があったのでしょう」
先生のその穏和柔軟なお言葉の終わらないうちに、誠一さんの口からはお念仏の声が溢れていたという。その頬には滂沱のごとく涙が伝わっていたと白井先生は記しておられる。
間に合ったんだなぁと思います。どこまでもそむき続ける自分を、はてなく呼び続けてくださる御名なればこそでしょう。如来大悲の恩徳、そして師主知識の恩徳の深きことを知らされた瞬間だったのではないでしょうか。
あと4首、『真楽記』に記された歌を書いてみます。
四十四の年を生ききて言うことなし お慈悲の御名におさめとられて
おん慈悲のめぐみのみ徳なかりせば この世に生くる甲斐なきものを
いざ往かん尊き御名を高らかに称へつつ親の待てるみくにに
どこまでも そむきゆく身を 憂(いとお)しみ 呼びに呼びます 御名ぞ尊き
南無阿弥陀仏
今日は、雪が降ってきました。といっても、積もるほどではありませんでしたけど。
そこで、今日は、雪にちなんだ詩を二つ。
まずは、木村無相さんの詩です。この詩は、御遠忌の時、本堂にも貼りました。
降るわ 降るわ
煩悩無尽(ぼんのうむじん)と雪が降る
降るわ 降るわ
大悲無倦(だいひむけん)と雪が降る
私が持っている煩悩には限りがありません。しかし、その底なしの煩悩を持つ私であるからこそ救わずにはおれないのだという阿弥陀仏の大悲もまた、限りがないのでした。
次に、金子みすゞさんの「つもった雪」という詩です。
「つもった雪」
上の雪
さむかろうな。
つめたい月がさしていて。
下の雪
重かろうな。
何百人ものせていて。
中の雪
さみしかろうな。
空も地面もみえないで。
金子さんのまなざしは、やさしいですね。
自分ではない、人ですらない、雪の悲しみに寄りそうやさしさ。相手の悲しみを、否定もせず、励ますのでもなく、ただただ一緒に悲しむやさしさ。そういうやさしさを、大悲というのでしょうね。そして、そういう大悲に出遇えた時、人は救われるのでしょうね。