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退職オヤジのひとりごと

退職オヤジが直面する新しい日々…感動か困惑か?
カオスの日々を綴ります

旅姿五人衆

2020年02月22日 23時10分03秒 | 旅行


70代2人、60代3人のオヤジ5人で鬼怒川温泉への一泊旅行を決行した。

全員リタイヤ組

無料の送迎バスでホテルへ向かうが、「バス内飲酒不可」にショック!・・・
何せ、飲むための一泊なのですから。

近況報告で時間をつぶしているうちに、東北自動車道佐野サービスエリアでの休憩となった。



「当然」とばかりに「佐野ラーメン」を注文する。   食べてみた。



味・ボリューム共に・・・。あの『佐野ラーメン』ってこんな感じだっただろうか?
物足りなさが残った。

以前、会津で製麺店をしている知り合いから生麺を貰ったが、麺スープ共にもっと味に奥行きがあった気がした。

そういえば、あの「佐野サービスエリアのゴタゴタ」はどうなったんだろう。
客はそれなりに入っていたが、少し心配になってきた。

単に食い意地が張っていただけかも知れない。


旅行は笑顔とともに進み、一日が終わった。




2日目は、鬼怒楯岩大吊橋と古釜の滝で暇をつぶす。

吊橋・・・すごく怖かった。 私はこんなにも恐がりだったのだろうか?
高所恐怖症?加齢?
バンジージャンプをする人の気が知れない。



2日目の昼食は、「盛り蕎麦」にした。
何しろ、2日間飲み過ぎに食べ過ぎ・・・。



いつも後悔するのだが、私には『バイキング』は向いていない。



根が卑しい所為か、食べきれないほど取り、頑張って食べた後に「○○もあったの?」とまた盛り付けに行く。決して元を取ろうなどとは考えていないのだが・・・。
しかも、親の教育が徹底していて、未だに「残すことは罪悪」が身についている。


                                  <朝食>



最後は駅前の『足湯』でバスの発車時間まで過ごす。

インド人の若者二人と、片言の英語でコミュニケーション。盛んに日本を褒めていたが、東京だけは今一だったようだ。ビルばかりだからだそうだ。笑った。



とにかく、楽しい2日間でした。幹事に感謝。
仲間にツアコンタイプの人がいることは良いことですね。

勿論私ではありません。


呑み会

2019年11月23日 21時31分37秒 | 旅行


埼玉県奥秩父の秘湯の宿「かやの家」で泊まりがけの宴会をしました。

 メンバーは、退職前の仲間達です。


 私が参加する呑み会は、年に何度かありますが、一番美味しい酒が飲める会です。

 若い人も何人か参加してくれて、とても楽しい会になりました。

 普段10時前には寝てしまう私ですが、横になっているところをたたき起こされて、25時くらいまで語り明かしました。(内容の記憶がないのは毎度のことですが・・・)

 
 今回は、退職したことも有り、プレゼントを頂きました。
 


 な、なんと、憧れの「イチローズ・モルト」。知る人ぞ知る世界が認める名品です。

 嬉しかった。 ・・・勿論「心遣い」をです。

 明日の晩から、少しずつチビチビ味わいます。




 この宿は、とにかく静かでイイです。

 いつものように朝4時前に起きて、朝風呂から出てボーとしていると、時間だけがゆっくりと流れていきます。

夜が明けた冷気の中、雨にぬれた紅葉、霧に隠れた山並み、深閑。




 ・・・と突然!

静寂を破る大地の叫び?・・・隣に寝ているジジイのイビキ!!!

 あ~、情緒も何もあったもんじゃない(涙)。
 本当に楽しいメンバーなのです。


 来年も呼んでくれるかな・・・楽しみです。


ほったらかし温泉

2019年11月17日 18時58分10秒 | 旅行

ドライブがてら山梨県の『ほったらかし温泉』に行ってきました。

 

残念ながら、中は写真不可ですので、こんな写真です。

 「あっちの湯」と「こっちの湯」があるのですが、「あっちの湯」の湯船に身を沈めました。

 お湯は「アルカリ単純泉」とのことで、入りやすく芯まで温まることができました。



 特筆すべきは、その眺望。 

 『雄大な富士山』

 『石和温泉だろうか、随所から湯けむりが上がる、眼下の甲府盆地』

 『その盆地に掛かる低い霧』

 『その中を優雅に滑空する鳶』

 『目の前には風になびくススキの穂』



天気も良く、最高でした。






 <おまけ> クーポンでタオル貰っちゃいました。ラッキー!





 <追> 山梨県をドライブしていて、国道20号線に通行止めの
     区間がありました。(法雲寺橋というところらしいです)
     台風19号の影響です。復興はまだまだです。

     そんな関係で、中央高速の大月↔勝沼間が無料で通れます。
     ETCで通ると、いつも通りでドキッとしますが、請求は
     されないそうです。








忍城

2019年11月15日 18時46分48秒 | 旅行


映画『のぼうの城』を見たので、忍城と石田堤を見学してきました。
 (「のぼうの城」には、あの芦田愛菜さんが出ていました)


まずは、忍城本丸跡にある『行田市郷土博物館』を訪れました。


 当時忍城は、四方を沼地で囲まれた天然の沼地の中に、島状に残る微高地や自然堤防を巧みに利用して作られていたようです。
 今は、博物館を中心に、小さいながらも手入れの行き届いた公園になっており、時折、二の丸跡地にある「忍中学校」の生徒さんの声が聞こえてきます。

 館内を見学していた時も、中学生のグループが、展示物を見ながらペンを片手にしきりにメモを取っていました。

 天守閣(御三階櫓)最上階に上ってみましたが、さほど高さを感じられませんでした。しかし、関東平野ど真ん中の沼地に位置しており、その高さでも充分に四方を見渡せたようです。


 映画にもあった「豊臣軍の忍城水攻め」は以下の説明がありました。


【 天正18年(1590)豊臣軍は館林城・忍城を攻略するために、石田三成・大谷吉継・長束正家を派遣した。6月4日に三成は館林から忍へ移動し、城の大宮口に本営を設け攻撃をしたが、城の守りが固く容易に落ちなかった。6月17日に三成は丸墓山古墳に陣を構え、忍城を包囲したが忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。
 豊臣方の石田三成は城攻めが上手くいかないので近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いたと『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。
 しかしこれは明白な誤りであり、実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。
 これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず、そこから終始水攻めを望み、三成はそれを実行していたに過ぎないのである。
 このような状況のなかで、三成は城を中心に南方に半円形の堤防を築くことにした。
 近辺の農民などに昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文を与え昼夜を問わず工事を行い、4~5日という短期間で堤防を築いた。全長28キロメートルにもなる石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まった。
 ところが予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから忍の浮き城と呼ばれた。
 6月18日、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったが、これを防ぐ為に下忍口守備の本庄泰展は配下の脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせた。二人は夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊、これにより大雨で溜まりに溜まった水が溢れ出し、豊臣軍約270人が死亡、これにより水の抜けた忍城周辺は泥沼の様になり、馬の蹄さえ立たない状況になった。
 7月はじめには浅野長政らが、7月6日頃には上杉景勝・前田利家らが攻城軍に加わったが、それでも忍城は落城しなかった。なお攻城戦終盤や戦後処理では石田三成ではなく、浅野長政が主導的な役割を果たしていくことになる。
 7月5日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされ、未落城の城は忍城のみとなっていた。
 成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏をすすめたので、遂に7月16日、忍城は開城した。
 この戦いは軍記物では三成の築城が強調され、「石田堤」の呼称とともに攻防戦の「歴史像」を形成していったと言えると評価されている。

<その後>
 成田泰季の急死により総大将となった長親であったが、小田原征伐後は氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔。出家して「自永斎」と称し、晩年は尾張国に住んだ。
 甲斐姫は自ら鎧を纏い戦ったと言われている。忍城開城の後は豊臣秀吉の側室となったが、秀吉の死後の詳細な動向は不明である。
 石田三成はこの城攻めに失敗したことにより戦下手の烙印を押され、評判を大きく落とすこととなった。しかし失敗の原因は現地の地形を知らない秀吉の命令にあり、この戦いに参加した豊臣方の大名の大半は関ヶ原の戦いでも西軍に応じている。三成は秀吉死後も五奉行の一人として権勢を振るい徳川家康と対立、関ヶ原の戦いで敗れ斬首された。 】


映画とはちょっと違うのですね。


 忍城跡を見学した後、「石田堤」を見に行きました。
場所は、忍城から4kmほど離れており、映画では解りづらかった規模の大きさが実感できました。
 ほんのわずかしか現存していませんが、これを一週間足らずで28kmも築いたとは、にわかに信じがたいものでした。



 『夏草や 強者どもが 夢の跡』 ・・・ 平泉ではありませんが、思わずつぶやいてしまいました。


 映画も、なぜか涙が出てきます。年のせいですかね。


新富町から

2019年11月04日 22時04分59秒 | 旅行

 今日は、新富町から歩いて築地場外市場に食事に行きました。


 途中築地本願寺に立ち寄り、見学しました。



築地本願寺は日本の仏教建築の中でも、極めて特異な建物です。

 なぜあの姿になったのか・・・ 調べてみました。

  浄土真宗 西本願寺22代宗主・鏡如上人(大谷光瑞)は、
  本願寺派再興を託されておりました。
  建築家・伊東忠太(東京帝大助教授)は、西本願寺の大谷光瑞の
  もとを訪れたことがきっかけで築地本願寺の設計を依頼されたの
  だそうです。

  伊東は西洋建築を学びながら、奈良・法隆寺が日本最古の寺院
  建築であることを学問的に示した建築家です。 
  伊東はのちに建築界で初めて、文化勲章を受章します。

  「建築」という言葉を生み出した人であり、西洋建築学をベースに
  しながら日本建築を見直した第一人者だったようです。

  伊東は、関東大震災の影響もあり、コンクリート建築が主流に
  なっていく中、日本が西洋風の時代だった当時、
  「仏教はインドのもの。だからこそ、建築もインドのもので
  なけねばならない」と考えて本願寺を再建したとのことです。

        【オレオと散歩「なぜ築地本願寺は『インド』なのか」より】


 法事をされていながら、本堂の見学も許可する・・・。

 ユニークな建物と共に、懐の大きさを感じました。





 築地場外市場は、かれこれ20年ぶりでしょうか。

 外国の方の多さと、その場で食べさせるタイプの店が増えたことに
 驚きました。

 それにしても、場内市場がなくなってもこの賑わい・・・。豊洲の方が
 心配になるほどでした。


チェーン店にもなっている「寿司ざんまい」の本店で、昼食を取りました。


でも、その前に「イカ焼き」「卵焼き」「イイダコ焼き」「ビール」「試食」等でお腹は満たされているはずだったのですが、とても美味しく頂きました。


 これで、12時になりました。
 午後は、新富町に戻って、メインイベント『桂小三治 独演会』
 に行きました。

 こちらは、後日アップします。