統一教会はあなたの応援鯛<゜)))彡

統一教会のカッパ物語

心の旅32 最終(56号)

2009-08-08 | 心の旅
〔日本人の無表情 5 最終〕

応援鯛は、日本人の無表情の淵源を探して旅をしたところ今までの記事が目に止まり
ました。

読者の中には堅いテーマになっているなーと思いつつもここまで読んで下さったのであ
れば、何か考えるものがあったと思うのです。

どこかの政治家が言うように、子供は青年になり次の時代を担う大切な宝です。

統一教会に限らず、教育は誰にとっても大切なテーマです。

学級崩壊や、いじめ、ニート等。そして無表情へと。

子育て真っ最中の方から、政治談議に花を咲かせる御仁、若者の愚行に暗澹たる気持ちで
この世を後にする老人、希望は統一教会の青年しかありません。(おっとまた他のブログ
へ3.8人行ってしまった)

現代社会を作っているトライアングルは家庭(愛)・教育(学校)・社会(会社)です。
当然にどかかが弱ければ全体が衰退していきます。

これまで引用して見てきた方々の主張は需要と供給での供給側の視点を訴えておりました。
これはこれで重要な主張で是非子育ての現場に生かしてほしい内容です。

さて、この森羅万象を神様がお創りになったとすれば何故この途方もない世界を創られた
のでしょうか?
統一教会では「神様の喜びのため」と一つの結論があります。
これを聞いても何だかなというところでしょうか。
この辺のいきさつは「原理講論」に記載されていますので興味をもたれた方はご購入下さ
い。2千円位から3千位で購入できます。

子供の教育でなおざりにされていた供給側の本来の姿とはどういう姿なのでしょう。
それは神様が創造された自然に囲まれた第一次産業と呼ばれる農業にあるようです。
一輪の野生の花に出会って深い心情の対話ができる子が育つならどれほど嬉しいことでし
ょうか。トマトが嫌いな子がそれを育てるお婆ちゃんの愛情と自然の愛情の凝縮したトマ
トであったことを知って美味しく食べるようになった変化はどこからくるのでしょうか。

人間は子供でも大人でも愛が育てる存在です。特に子供の時は純粋な愛なしには、心が偏
って育ってしまいます。自然は危険と恵みの両面を持っています。しかし人間はどんなに
頑張っても自然なくして生きていけません。その自然の奥深さと人間の取組の結果として
生まれるトマトのような農産物の生産に子供が関与し、それがどう流通し、どういう知恵
で店に陳列され、消費者の手に届くのか、その最初と終りを見つめる教育と、そのなかで
の労働に拍手を贈る大人がいれば自然と無表情が消えていくのではと応援鯛は考えます。
(農業に拘らなくても労働とか苦労の意味を喜びの結果で教えることが重要に思います)

お金ばかりに頼って暮らせば、享楽に流れていってしまいます。それは男女間の乱雑な愛
の関係に陥り、滅んでいく結末が待っています。

翻って、統一教会も理想通りには行っていないのは実情です。でも方向性は神様から与え
られそれに向かってあちこちにぶつかりながら進んでいるものと私は確信しております。

このような思想を持って活動を考える統一教会です。堅く考えずお近くの統一教会の門を
叩いて下さい。中には門がないところもあるかもしれませんが、中に入れば無表情ではな
い、おじさんかおばさんか、運が良ければ綺麗なお姉いさんかイケメンのお兄さんが出迎
えてくれることでしょう。自分自身も含め、多くの方、特に日本人に笑顔を取り戻してほ
しいと願う統一教会です。

心の旅31(55号)

2009-08-07 | 心の旅
〔日本人の無表情 4〕
前回の学習院大 中条省平氏を紹介しさらに自分の主張を追加するブログあった
のでそれをコピーし紹介します。

にほん民族解放戦線^o^
http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya より

******************

考えてみれば、今の都会の子どもたちは、「消費者」として生まれ、「消費者」
として成長する。

蛇口をひねれば水が出るのがあたりまえ。農作物はキレイに仕分けられてスーパ
ーに並んでるのがあたりまえ。欲しいものがあれば、親に連れられてショッピン
グセンターに行って買ってもらう…。

快適で便利で、金があれば何でも解決する、という都市空間で育つ子どもたちに
とって、「誰かに何かを供給する」という体験つまり「供給者になる体験」はなか
なかできない。

言うならば、今の都会に住む子どもたちは、生まれながらにして「消費特権階級」
である。金を払いさえすれば何でも揃い、どんなサービスも受けられる便利な空間
の中で成長して「自己を確立」する。

「消費生活の中で確立した自分」は、金さえ持っていれば、既に用意された数ある
商品やサービスの中から自分が価値を認めるものを選択できる(その選択された商
品やサービスにそれ相応の代金を払う)。

「消費」という行為に必要なのは「金」だけであって、「状況を把握する能力」、
「人の期待を読み取る能力」、「他人と話し合って協力して実現する能力」など、
社会に出て何かを誰かに「供給」しようと思ったら必ず必要になる能力は、一切求
められることはない(だから、最低限の会話ができる4歳の子供にだって買い物は
できるわけだ)。

ひとたび、何かを生産しよう、何かを第三者に提供しよう、と思ったら、ありとあ
らゆる事象を対象化して頭を使わなくてはならないし、額に汗しなくてはならない
局面もあろうし、いかに一緒に仕事をする仲間に動いてもらうか、課題をスケジュ
ール化し段取りを組まなくてはならないし、どの役割をどの人に振るのか、適性を
考えなくてはならないし、おまけにいかに活力を出してもらうか、ということまで
考え尽くさなくてはいけない。

一方、消費するだけなら、そんな苦労は一切無く、ただ対価のカネを相手に渡すだ
けである。

実際に、大人になって社会の現場に出たときには、そんな「消費者としての自分」
「お客様としての自分」をいかに振りかざしても、何の役にも立たない。だから必
然的に先輩社員に徹底的にダメ出しをされることになり、結果的にそれに耐えられ
ずに3年以内に辞める新入社員が半数…なんてことになっているのではないだろう
か。

社会に出て役に立たない「消費者としての自分」しか確立できないような状況に子供
を置いていること自体が、現在社会全体で話題になっているすべての教育問題の根本
的な原因ではないだろうか。

早急に、「生産者」としての体験を子供のうちから積ませることができるような「場」
を創っていく必要がある(識者が言っているような、道徳教育とか規範教育だけでは
まったく答えになっていない)。例えば、農業や市場や工場などの現場で実際の生産
活動に触れるような体験をさせることは、最低限必要だろう。

もっと言えば、与えられた「場」で消費活動しかできないような存在ではなく、仲間
と協力して自分たちで「場」や「課題」そのものを創っていく活動の中で子供たちに
共認力・同化能力・前進力を磨いていってもらう、そのための環境を整える必要があ
るのではないだろうか。

(コピー&ペーストは楽だな)

心の旅30(54号)

2009-08-06 | 心の旅
〔日本人の無表情 3〕

「消費社会にしがみつき未来から逃走」([評]学習院大 中条省平氏)より

今、日本の子供たちは家事を手伝う必要はない。そのかわり、消費者としての自
分を確立する。

4歳児でもコンビニで金と好きな商品を交換できる。金は持つ人の身分を問わな
い。これが金のフェアさだ。

今の子供はしばしば「これを勉強すると何の役に立つんですか」と聞く。消費者と
して自分を確立した子供には当然の問いである。消費者にとって、自分がその有用
性を理解できない商品は意味を持たないからだ。

だが、「何の役に立つか」と問う人間は、ことの有用無用について自分の価値観が
正しいと思っている。勉強によって自分の価値観そのものがゆらぐことを知らない。
幼くして全能の消費者となった立場から、今の自分の役に立たないものを退ける。

この態度を、今はやりの自己決定論、自己責任論が後押しする。勉強しなくても、
自分で決めてそのリスクの責任を負えばよい。未来の自分に目をつぶり、今の自分
の無知にしがみつく。役に立たない勉強をやらなくて何が悪い。こうして学習から
の逃走が始まる。

金による交換は、平等で、透明だ。そこに魅力がある。だが、その交換がスムーズに
行われるためには、交換の場を下支えする社会的制度や人間的資質を開発する必
要がある。この人間的資質は、教育以前には「何の役に立つか」分からないものだ。
教育の場で「何の役に立つか」と問う消費者マインドが、学習からの逃避、労働から
の逃避を原理的に支えている。教育者と子供たちが「何の役に立つか」と問いつづけ
るかぎり、潜在的な人間的資質は開発されず、消費者でしかない子供(将来の大人)
が再生産されるばかりだ。




心の旅29(53号)

2009-08-05 | 心の旅
〔日本人の無表情 2〕

私は考えます。無表情なのは神様に出会っていないからだと。
(まずは結論から。おっと他のブログへ3名行ってしまった)


日本に生まれて、親からお金を与えられて、消費することだけで生きていけ
る。生産する立場に小さい頃に立ち会わなかったことへの子育てへの警鐘と
私は考えます。

言葉を変えれば人間性に必要な「苦労」または「教育」を幼児期に欠如させて
しまった結果と思います。

小さい頃から、親の手伝いもさせず、コンビニで買い物をさせて育つと、客とし
ての、または消費者としてのみの側面と、お金を使う側面だけがその子供への
負の教育として残っていくようです。

次回は偉い先生の考えを拝借いたします。



夏と君の瞳に完敗、間違い乾杯!

心の旅28(52号)

2009-08-04 | 心の旅
〔日本人の無表情 1〕

無表情な日本人、ということがよく言われている。日本人というからには、
外国人と比べて、という意味もあるのだろう、と思われるが、無表情とい
うことは顔つきの問題だけではない。時々、充分な知能がありながら、何
をおもしろがっているのか、何に感動しているのか、何がいやなのか、ま
ったくわからない人がいるのである。

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しかし、統一教会にくると表情が豊かになる。そう、否応なしに。

時には感極まり涙と・鼻水と・よだれを流し顔はグチャグチャ。
時には笑いこけて笑い涙と鼻から、鼻毛がビヨーン。
偉い方に怒られて左頬がヒクヒクひきつったり。

顔の筋肉が休む暇がない。(誇大表現も少しあり)

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ところで、日本人の無表情、それは日本人が人生、言いかえれば生老病死
に深くコミットせず、基本的には非常に利己主義であることがいいことと
されていて、自分や家族の生老病死は大変なことで、いささかでも人格を
侵害するようなことは許さない、という意気込みだが、他人の不遇にはほ
とんど無関心であまり係わろうともしない。

もちろん世界中どこにも「人を人とも思わない」人たちがたくさんいること
も本当である。



参考文献:原点を見つめて 曽野綾子