統一教会はあなたの応援鯛<゜)))彡

統一教会のカッパ物語

統一教会と散歩 27 (83号)

2009-11-16 | 統一教会と散歩
〔一視同仁〕

誰彼の差別なく、同じように愛することを「一視同仁」というそうです。
まさに神様の定義のように思われます。
もし自分の子が能のない者だったら見捨てるのだろうか?
見捨てることはできません。
それと同じように広い心で他人にも接しなさいという意味がそこに
は込められているようです。

しかし、現実の人間社会は不平等が真理にも見えます。
平等に愛するとは不可能にも思えます。

神様がいるとは到底思えないような様相です。

神様とその到底思えないよう様相との綱引きが日常化し、私達の目、
または心の目が鈍感になり綱引きがわからなくなってしまったのでは
ないのでしょうか。

心の目を開こうとし、神様の願いを実践しようとするのが宗教者と呼
ばれるのでしょうか?

宗教者と呼ばれなくてもそのような方は結構あちこちにいるようにも
思います。

その人達は、「感謝」とか「ありがたい」という言葉を多く使います。
自分の命の不可思議を大事にし、そこでの「感謝」という言葉は神様や
先祖に対しての敬いの心・喜び賛美する心・侍(はべ)る心の表現であ
ることを自分知らず使用しているように思います。

「感謝」という言葉は苦労を乗り越えないと出てこない言葉でもあります。

昨日感謝できなかった事を今日感謝にしてみせる、今日できなかった
ことを明日は少しでも感謝にして生きる。

統一教会はそのような導きを手を師(真の父母)と仰いでおります。

                


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統一教会と散歩 26 (82号)

2009-11-14 | 統一教会と散歩
〔幼心〕

何時の日からだろう。何かしらの夢、何かしらの希望といったものが薄れていったのは。
子供の頃の無邪気さは、何かを信じている強さ。

大人になるにつれ何かと引き換えに無邪気さを失っていく。

人が何らかの目的に出発する時、その拠り所となるものは自分自身の内部にしか見出せ
ない。私は何者であるか、と自ら問うことから、人生のすべては始まる。

そうだ、それこそが自分自身であると、好ましい方向へ動き出す、それが生命力だ。

ただ、家族や会社の環境がその生命力を束縛することがある。

夢を追いかけて家族を養うことができればと、板ばさみの中で大人は生きるのだろうか。

比較的自由が利く若い頃に色々なことを経験し自分探しに折り合いをつけないと、年をとっ
てからの自分探しの旅はまわりを困惑させる。

でも、自分探しを諦めるとその人は若くして老人となる。

神様は希望が好きである。ぶつかっても前進する人が好きである。

わくわく生きる。体の細胞が高揚する感覚を何度も味わう。

自分が生きていること、存在の意味をふいに気が付くことがある。

時には強く、時には涙。

時には委ね、時には委ねられ。

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