統一教会はあなたの応援鯛<゜)))彡

統一教会のカッパ物語

統一教会と散歩 20 (76号)

2009-08-29 | 統一教会と散歩
〔神様の涙〕

地球はどこかで雨が降っている。

時々、雨は神様の涙と思うときがある。

私は、統一教会に入って、数年でついていけなくなり離れたことがある。
理由はあれもこれもといっぱいあるが、一番肝心な神様がわからなくなったからかもしれない。

現在の私も実のところ、どれほどのものかわかってはいず、このようなブログを書いているのも
おこがましい限りだ。

できの悪い子、生まれて障害のある子、病気の子、罪を犯す人、もしできるなら親は自分と代
わって罪の償いや、病気になってあげたいと思うのではないだろうか。

できの悪い私や、何の因果で病気に生まれたり、何の運命で今日生きる食事のことしか考え
られない地に生まれたのか。
神様の涙が止まる日はないように思う。

全てが悲しみではなく喜んで、感謝して人生をおくっている人々もありそこにも神様はいらっしゃ
ると思う。

でも雨は地球のどこかで必ず降っている。

あまりにも長く、あまりにも多く降った涙は海になってしまった。

宇宙からみるきれいな地球は神様の涙に溶けている。

でもその海は神様の愛(いと)おしい思いの涙の力で悲しみを癒すように新しい生命を生み出す
希望の海に変えていく。

何かに満たされる時は木の葉1枚にも神様の愛を感じ、でも次の日は笑顔が消えている。

揺れ動く魂がこの世の生なのかと。それでも、こんな私でもブログを書き続けようと思う。

神様が手を広げてあなたを待っている限りは。

統一教会と散歩 19 (75号)

2009-08-28 | 統一教会と散歩
〔カッパレストラン〕

<カッパ親父>:腹へったなー、ファミレスでなんか食うか

<カッパウェ 
 イトレス> :いらっしゃいませ! カッパ親父様

<カッパ親父>:相変わらず青い顔して美人だねー

<カッパウェ
 イトレス>  :今日のおすすめランチは、キュウリ蕎麦、キュウリの磯焼き、
        キュウリの大根巻き、キュウリ焼き芋、キュウリのてんぷら。
        飲み物は、ドリンクバーで、キュウリコーラ、キュウリコーヒー、
        キュウリオレンジがおすすめです。
        デザートにキュウリテラミスも好評です。

<カッパ親父>:なんでもキュウリをつければいってもんじゃないでしょ!
        でもみんなうまそうじゃないの。
        それじゃ、キュウリハンバーガーとキュウリおでんお願いします。

<カッパウェ
 イトレス>  : ・・・・

*****************

<カッパ親父>:うまかったなー。
         おれもこんなレストラン経営したいもんだ。
         どこの系列だ、
         「統一真の平和理想王国蒙古班環太平洋カッパホールディングス」か
         えらい長い名前だなー でも格好いいー でもあやしー。
       
         ねえねえ、カッパウェイトレスさん、ここの仕事の待遇はどうなの?

<カッパウェ
 イトレス>  :そうねー。
         バカな客の対応だけで、年収キュウリ12本ってとこかしら。

<カッパ親父>:負けた!


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統一教会と散歩 18 (74号)

2009-08-27 | 統一教会と散歩
〔統一教会と椰子の木〕

日本やアメリカ、ヨーロッパを除けば水は水筒などで持ち運ばなければ
ならないのが世界の平均的暮らし向きである。

日本で蒸し暑さのせいか仕事が終わればシャワーで汗を流すとか、猫
の額ほどの庭に飲み水を撒き、草が生えたから草取りしてねとゴロゴロ
親父の奥方がイヤミをおりまぜて催促する光景は世界的には天国の部
類に入るらしい。それが悪いのどうのとは毛頭いうつもりはない。そこに
生まれてしまったのであるからどうしようもないことである。

ただ世界の平均的な暮らしを知らないでいることは、甚だ同じ地球に住
む住人としてはやるせない気がする。特に子供たちが知らなすぎる。

砂漠で椰子(やし)の木が生きている所はオアシスという水があるとこ
ろで、地図にも載っているそうだ。何千年も変わらずそこに住む人々や
旅人の生活を潤してきた。
歴史的な人物、モーセなどの人物が喉を潤したオアシスが現在も残っ
ていると聞いたことがあります。

日本、特に東京は「東京砂漠」と揶揄される。
シャワーで浴びる水は潤沢にあるというのに皮肉な世相である。

翻って、統一教会は日本のオアシスになり得ているのだろうか?
別な宗教、信仰を持っている方かすれば、統一教会とは何、何者なのと。

統一教会の信者にも、統一教会とは何、他の宗教や信仰と何が違うのと、
明確に即答できる方は何人いるのだろう。(私自信のことでもあるし解答は
それぞれであるとも思う)

それは、若い時に一度は思う自分の存在理由の問いかけのようでもある。

一方で今年2009年10月に出版される文鮮明先生の「自叙伝」がその解答
であると私は表明することができます。10月になれば一般の書店で販売予
定です。統一教会の存在理由を確かめていただければ幸いです。

ネットで統一教会を検索すれば、誹謗・抽象、あることないこと、信者以外
の情報発信は実にひどいものです。ただそこにそれだけの理由があること
も謙虚に受け止めなければと私は思っております。

ただそれでも統一教会の信者は教会に身を寄せます。
どうしてなのでしょう。

私が勝手に思うには、神様の愛を教祖と呼ばれる文鮮明・韓鶴子夫妻の
生涯を通して知ってしまったからではと。

信者は、統一教会に来る前は、渇きを覚え、椰子の木を探していたので
はないのでしょうか?
椰子の木が親のように木陰を作り、命の水のありかを教えてくれた喜び
にただそこにいるということなのです。あちこちの教祖様を否定しません
が愛の深さが違っただけという理由ではだめでしょうか。
何度も死を超えて愛して下さったことに対する回答が統一教会の信者で
あると。

(安牧者様に感謝を捧げます)

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統一教会と散歩 17 (73号)

2009-08-26 | 統一教会と散歩
〔統一教会とピアノ 2〕

礼拝の日、朝一番に教会にきたピアノ奏者の彼は、賛美のために誰より
も早く神様に会いに来たのかもしれません。
ただそれだけで賛美の心が神様に届くように思われます。

個人的にバッハのファンである私は統一教会に入る前から宗教的に関わ
りが少しあったのかなと思ったりするのですが(すこしきどってみたか
っただけです)、宗教音楽は神様を賛美すると同時にそこに参加する人
々に霊的刺激を多く与えてくれます。

あなたが鼻歌で歌うその曲は、その原点は宗教音楽から来ている場合も
少なくありません。

G線上のアリアと呼ばれる曲も、現代でもデフォルメされヒット曲を数
多く出しているようです。

ところで、多分あなたの家の近くには神社やお寺、教会が歩いて数分と
いう距離にある方も結構多いのではないのでしょうか。それだけ神仏に
対する距離は昔の方は近かったように思います。
現代、特に戦後の教育や政治の仕組み・社会の仕組みがそれらを遠ざけ
てしまいました。

情報の洪水と言われて久しくなりました。勝ち組・負け組、プラス思考
・マイナス思考、世渡り上手・愚直な生き方。
様々な価値観の中で現代人の心を整理し力をつけてくれるのは祈りの時
間のように思います。

礼拝における賛美は表現を変えれば祈りの時間にも思います。
ピアノが奏でる賛美のメロディーにのって、何も考えず一心に神様を賛
美する時間をカラオケで鍛えたその喉でどうでしょうか?

何かそれで「ごりやく」を願うのではなく、人によっては心の垢がとれ
たり、昨日の夫婦喧嘩を反省したり、明日生きるヒントを思いつくかも
しれません。

統一教会のメロディーがあなたの心でリフレーンするのを楽しみに、ピ
アノは静かに待っています。


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統一教会と散歩 16 (72号)

2009-08-25 | 統一教会と散歩
〔統一教会とピアノ 1〕

統一教会も、他のキリスト教のように日曜の午前に礼拝を多く捧げます。

朝、一番早くやってくるのは私には見えない天使達かもしれません。
霊的な準備を捧げ、神様と真のご父母様をお待ち致します。

私に見える一番早くやって来る方は、神様と真のご父母様を賛美するピア
ノ奏者でした。

宗教とか信仰に慣れていない方にとって、神様を賛美するということの意
味はよくわからないのではと思います。

礼拝あるいは賛美という言葉のギリシャ語等の語源は、地にひれ伏し、大
地あるいはみ足に口づけすること。それほどまでに相手をあがめるという
意味があるとのことです。

新約聖書に礼拝あるいは賛美という言葉が初めて出てくるのは創世記22
章5節のいわゆる「イサク献祭」という信仰の原点ともいう物語です。

アブラハムというおじさんが神様に捧げる献祭に失敗し、モリヤの山でひと
り子のイサクを失敗の穴埋めに捧げなさいと神様から命じられた時、アブ
ラハムとイサクがそこで礼拝したと記されています。

「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と神様が言われたのに、
神様はそのイサクを捧げよと命じたのです。アブラハムとイサク親子にと
ってものすごい試練となりました。

しかし、アブラハムとイサク親子は見事この試練を乗り越え、神様の信頼
を得ることができました。

キリスト教でも統一教会でも、このような歴史的意味を踏まえ、礼拝とは、
主権者の前に絶対服従して、いただいたものすべてをお返しし、ひれ伏
すことであると教えます。

ところで、我々は、ほめられると気分が良くなるし嬉しい気持ちになる。そ
れは、自分が貴重な存在、大切な人であると認められたからである。

神様を親とする理論からは、私たちが先ではなく、神様が先に私たちを貴
重な存在、大切な存在として愛して下さり認めてくれたのである。即ち神様
が私たちを最初に賛美して下さったのである。

賛美は本来ぐるぐると神様と人間の間を回っていたのかもしれません。

                                       続く

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