統一教会はあなたの応援鯛<゜)))彡

統一教会のカッパ物語

日本応援鯛-2

2015-01-28 | 日本応援鯛
昔、音楽に無知な私がバッロック音楽を聴くと頭が良くなると聞いてバッハにのめり込んだ時期がありました。

お蔭で自惚れは強くなったようです (>ω<)

で、バッハは敬虔なプロテスタントで教会カンタータなどの宗教曲を多く創作されました。

で、私は敬虔な統一教会信者だったのか不明で、教会の音楽(聖歌)を多く歌ってきました。何かしらバッハとの共通点を感じる今日この頃であります (o^∀^o)

頭はよくなりませんでしたが、バッハの幾つかの曲が好きになりました。この田舎者の私が「バロック」だの「カンタータ」だのという言葉を使っているのは奇跡というものです。ついでにK-POPという言葉も最近覚えました。
その敬愛するバッハの曲の一つに「カンタータ第140番『目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声』BWV140」というのがあります(白い犬のお父さんが出てくるソフトバンクのCMにも採用されたそうです)。
BWV140は内容的には聖書のマタイ伝第25章1から13節をテーマにした曲となっております。

〔マタイによる福音書第25章 1から13節〕
≪そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。≫

私には堅い解説はできませんが、キリスト教に限らずどの宗教でも、また宗教を持っていない方、自戒を込めて私も、さらには「政(まつりごと)」行う方々にも必要な聖句と思う今日この頃です。

人は知らず知らず傲慢・驕慢・高慢となりやすい性質を持っています。地位・名誉・才能を持つ方だけにと思われがちなこの言葉ですが、私のように見事に地位・名誉・才能に恵まれない人間にも容赦なく当てはまる言葉です。仕事や家事など日常の生活、信仰や学業で誰もが陥りやすいこの「慢」が付く言葉の数々。
何時ものように仕事をし、何時ものように家事をし、何時ものようにお祈りをし、何時ものように机に向かう。何事もなく普段通り生きられるのが幸せと考えることもできますが、件のマタイ伝では二種類の人々を引き合いにし「思慮深い者・目覚めている者」になりなさいと説いておられます。

私のように見事に凡庸な人間には「思慮深い者」とはちょっとハードルがある言葉にも思いますが、聖書は万人に与えられた書物であります。「思慮深さ」はそういう意味では誰もが心に持ち続けなさいという努力目標の言葉なのかもしれません。

思うに「思慮深さ」はその行動に心地よい緊張感を与え、さまざまに気づきをもたらし、熱心さを醸し出し、謙虚な微笑みを与えます。単調な仕事に新鮮さを感じ、苦痛だった家事に愛おしさを覚え、涙の祈り、新しい世界を知る喜びへと人を変えてくれるかもしれません。その延長に大切な何かを見逃すのか期せず迎えることができるのか、マタイ伝では「準備」という言葉で私達に謙虚さと熱心さを教示しております。

思うに「思慮深さ」はどこからくるのでしょうか。イエス様が何時来られるかわからない中でイエス様に対する待ちわびる者達の心の温度差が思慮深さと準備に影響を与えているのではないでしょうか。対象への強い関心、雄蕊と雌蕊だけでは花粉は届きません。風またはミツバチ達が間に入ってあげないといけません、陽子と電子も付かず離れずで原子を構成するには何らかの力が介在しております。信仰の原点として絶対者との一体化が考えられますが、その強さの度合いがマタイ伝に表れているように思います。願う信仰観からより絶対者に近づきその願いに耳を傾けようとする信仰観。

傲慢・驕慢・高慢からは何も生まれず、退廃が待っております。対象への「絶えざる」関心は「妙なる」関心となって良き循環運動を引き起こしあなたにラッキーな人生を与えてくれるかもしれません。「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声」は、副題として純粋にして子供が持っている好奇心のようなアダムとエバが堕落する前の神と万物に対していた時の心へと戻りなさいと言っているように私には思えてなりません。

偉大なるヨハン・ゼバスティアン・バッハに感謝

<゜)))彡