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最古の高麗大蔵経版本が日本にある理由

2014-02-27 08:00:00 | 歴史(認識)

遣明船

世界記録遺産に指定されている海印寺の高麗大蔵経、すなわち八万大蔵経を刷った本として、韓国に現存するもののうち最も古いのは、大蔵経の経板が作られてから600年余り後に刷られた江原道月精寺所蔵本(1865年)だ。

そのほかは、いずれも20世紀に刷られた版本だ。
一言で言えば、韓国には古版本が存在しない。
ならば、「最古の八万大蔵経印刷本」はどこにあるのか。
これが最近、国立文化財研究所の調査を通じて確認された。
それは、京都にある大谷大学図書館が所蔵する高麗大蔵経だった。

 この大蔵経は587箱4995冊という膨大な分量で、高麗末の学者・李穡(イ・セク)=1328-96=の跋文(ばつぶん、本の末尾にある発行の経緯を記した文章)が記録されている。
跋文には▲1381年(ウ王7年)に大臣の廉興邦(ヨム・フンバン)=生年不詳-1388=らが制作費を出し、大蔵経を印刷した事実▲(暗殺された)恭愍王の冥福を祈るため、という刊行理由-が記されている。
また、李崇仁(イ・スンイン)が書いたほかの記録には、この大蔵経を京畿道驪州の神勒寺に奉安したという内容がある。
なぜ、この「最古の高麗大蔵経」が日本にあるのか。
倭寇が略奪したのか、それとも日帝時代に不法に持ち出されたのか

否である。
双方納得の上日本に持ち出されたのである。
以下を参照されたい。

 真実を知るためには、朝鮮初期の韓日関係史を振り返る必要がある。
大谷大学において大蔵経の調査を主導し、調査目録集に論文を掲載した朴相国(パク・サングク)韓国文化遺産研究院長は、「14-16世紀の韓日両国の関係は、善隣外交にして“大蔵経交流の歴史”だった」と語る。

 1395年(太祖4年)、倭寇(わこう)が連れ去った朝鮮人570人が送還されたことを受け、朝鮮は九州節度使の源了俊(九州探題今川了俊のこと)に対し、感謝の意として大蔵経2帙を下賜した。
この大層な宝物を手に入れることになった源了俊の反応は、「拝み読んでみまして貴国の御恩に感動したことは、まるで海に果てがないことのようでございます(拜閲仰感国恩如海之無垠)」というものだった。

 これ以降、日本は朝鮮が要求しなくとも島ごとに朝鮮人捕虜を探して送還し、粘り強く大蔵経を求め哀願した。
甚だしいケースでは、大蔵経板そのものが欲しいと申し出て、使臣が断食闘争を展開したことまであった。
世宗がこの要請を最後まで拒否すると、日本の使臣は一時、倭寇を海印寺に侵入させて大蔵経板を略奪しようという計画まで打ち立てたこともあった。

 当時の日本は室町時代で、外交使節の大部分が僧侶だったということも、こうした現象を加速した。
1556年(明宗11年)までに大蔵経の要請があった件数は100回を超え、朝鮮はこれらの要請を半分以上受け入れた。
高麗とは異なり、朝鮮は仏教を排斥した国で、ある時点から「大蔵経そのものをすべて与えてしまおう」という決定を下したわけだ

 大谷大学所蔵の大蔵経は、こうした状況の下で日本に渡ることになった。
『太宗実録』の記録を見ると、太宗14年(1414年)7月壬午条で太宗は、「日本の風俗は仏法を崇めるため、経典を持って国に帰れば尊敬の念と信仰がこの倍となる(彼日本之俗崇尚仏法、若持此経還国、則其尊信於在此)」と語り、礼曹に命じて驪興(驪州)神勒寺に所蔵されている大蔵経を全て日本に送るよう指示した。

 こうしたことが150年にわたって行われた末に、朝鮮から高麗大蔵経の本が姿を消すことになった。

だが一方、日本に渡った大蔵経は日本の仏教文化の発展に大きく貢献した。
現在日本に残っている高麗大蔵経の古版本は、大谷大学所蔵本を含め16種類ある。高麗大蔵経に対する研究も続けられ、1710年には高麗大蔵経の正確性を立証した『麗蔵対校録』が出ている。
今日、「高麗大蔵経が世界で最も優秀だ」と語ることができるのは、日本人によるこうした研究のおかげというわけだ

 上の記事は下記より参照しました。

貼り付け元  <http://temple.iza.ne.jp/blog/entry/983652/>


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