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朝鮮民族の事大主義形成の解明

2017-02-02 22:41:15 | 歴史(認識)

3国鼎立の図


加害者と被害者の立場は1000年たっても変わらないと朝鮮人は言うが、自国の1000年前がどんな国だったか確認してみる必要があるのではなかろうか。
、、という素朴な疑問から老婆心ながら歴史を紐解くことにした。
小生の知識の一つにでもなればと思う。

 朝鮮の歴史において大きなウエイトを占めるのは三国統一と朝鮮戦争であると言われているので、この項目について掘り下げていくことにする。そうすることによって朝鮮族の国民性が判明すると思われる。

 3国鼎立に至るまでの歴史

BC2世紀の初めころ  支那大陸の漢帝国(前漢)から「衛満」が半島に亡命してきて「衛氏朝鮮」を建国した。韓民族の形成史上実在したとされる最初の国家であるが、、、。

異民族である支那人によって建国されたものゆえ現朝鮮人にとっては面白くなく、「檀君神話」を作り打ち消そうとしたが、史実は曲げることはできなかった。

 BC108年漢武帝衛氏朝鮮を滅ぼした後、半島全体を支配して、「楽浪」・「真番」・「臨屯」・「玄菟」の「朝鮮四郡」を設置し、漢帝国の一部とした。

 BC37年 朝鮮史上伝説的な英雄「朱蒙」が高句麗を建国した。

 高句麗は漢帝国の支配に反発し徐々に成長していき、漢帝国の後漢王朝が衰退して支那国内が乱れていく中、漢帝国の設置した郡県をつぶし、領土を拡大した。
高句麗は最盛期には半島北部と支那東北地域の一部を支配下に置いた。

高句麗建国と同時進行で、半島西南部に高句麗の王族が「百済」を作った。

 3世紀中ごろ半島東南部の慶州に斯盧(しろ)という国ができ、4世紀あたりに新羅となった。
以上の状態を3国鼎立という

 3国統一の時代

 3国統一
西暦600頃、上図のように3国が並立していた。

新羅が660年に百済、668年に高句麗を滅ぼし半島を統一した。

新羅が半島を統一した経過は概略上記のような流れであるが、この流れの中にこそ朝鮮民族の特徴が凝縮されているので、詳しく調べてみることにする。

 当時3か国の中での力関係は「高句麗」の領土が最も大きく、しかも漢帝国に対抗してできた国であるから、軍事力が1番強かった。

6世紀末から7世紀にかけての支那大陸の最強の統一帝国である隋王朝と唐王朝の度重なる侵攻にも高句麗は敢然と立ち向かいことごとく撃破した実績がある。当時の高句麗は「東アジア最強」といっても過言ではなかった。

一方「百済」は軍事力は高句麗に劣っていたが、穀倉地帯を所有し経済力はかなりのものだった。

その環境の中、軍事力では高句麗におとり経済力は百済に遠く及ばない新羅がなぜ勝ち残ったのであろうか。

この結果に対して韓国歴史学者の孫晋泰は「高句麗によって民族統一が成し遂げられず、新羅によって民族と領土の半分的統一がなされたことは民族的にも大きな不幸である」と論じている。

理由は、この統一以後、朝鮮半島王朝の対外政策の基本的枠組みが形成されたからである。

民族的な大きな不幸という対外政策の基本的枠組みとは何であろうか。

それは

外国の巨大勢力に迎合して保身を図るという朝鮮史上とりわけ悪名の高い「事大主義」の伝統がこの統一を契機に生まれたからである。

それを解明することが小生の目的であるので、以後歴史の流れに沿ってその理由を解明することにする。

次回は::「3国統一の流れ」


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