黒田藩祖三百年祭のとき(大正10年)後列左端が四代目太田清蔵翁
初代清藏は天保五年四十八歳のとき、藩廳の諭旨を体して永納銀二百目を献上、又水害による米デン價騰貴、貧民救助のため米十五俵を寄捨す。天保八年五十一歳のとき、黒田家より松原出の禮遇「年始御禮、御参勤御往來之節松原出、御慶事の節頂戴等被仰付」の資格を賜わった。是れ太田家が格式町人となった始めである。当時藏本番ではこの栄譽を與えられた者は十一人(年寄役の職分をもって筆頭たる波多江八右衛門は別)、新参の油屋清藏はその四番目であった。家道漸く振るうことを物語るものである。
(中略)
初代清藏は隠居して名を改めて愚八と称したが、その隠居の年月は明確でない(五十七歳節もある)。家号は天保十三年、四年ごろから太田屋と称するようになった。
(写真・文出典『太田清蔵翁傳』―前記の四 太田家の祖先)