魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成の初恋 運命のひと 伊藤初代(1)

2014-09-18 13:12:41 | 論文 川端康成
運命のひと 伊藤初代

カフェ・エラン
 1919(大正8)年の秋……そのころ、一高の寮や学校からほど近い本郷元町2丁目に、小さなカフェがあって、4人の一高3年生が毎夜のようにこの店に姿を現した。一高寄宿舎の和寮十番室で、文字通り寝食をともにしていた親しい四人組であった。そのカフェの女給、「千代」と呼ばれている美しい少女に惹かれてのことであった。

 その四人とは、川端康成、三明永無(みあけえいむ)、石濱金作、鈴木彦次郎である。

 名前は川端を筆頭にあげたが、実際は、康成は彼らのなかで積極的に千代に近づいたりするわけではなかった。むしろ仲間たちの後ろにかくれるように静かに腰かけているばかりだった。
 千代は快活な少女で、康成たちが来ると、よくそのころ流行していた「沈鐘」の森の精の歌をうたった。
 それはハウプトマンの原作になる歌劇で、松井須磨子が劇中でうたう歌である。北原白秋作詞、中山晋平作曲の歌は、こういう歌詞だった。

  くるしき恋よ、花うばら
  かなしき恋よ、花うばら
  ふたりは寄りぬ、しのびかに
  ふるえて目をば見かはしぬ

 鈴木彦次郎も、石濱金作も、三明永無も一緒に声をあげてうたった。ただ、康成だけが、生来の臆病のせいか、羞恥のせいか、うたわなかった。

 その康成が、仲間の前で突然、自分は千代と結婚する、としずかに宣言したのは、それから2年たった1921(大正10)年、数え23歳(満22歳)の秋のことである。東京帝大の2年生になっていた。
 そのころエランはいったん店を閉じ、千代は岐阜にいた。

 その岐阜に、夏休暇の終りに上京するとき、出雲出身の三明永無と京都の停車場で落ち合った康成は、岐阜で汽車をおりて、一緒に千代を訪ねた。

 そのときの印象に自信をもったことから、康成はいきなり、結婚すると宣言したのである。仲間たちは驚いたが、若者らしく、康成の願望をかなえるよう協力しようという体制がととのった。
 なかでも、奥手(おくて)で、話すことの苦手な康成を励まして、この恋の成立に熱心に働いたのが三明永無である。出雲の杵築(きづき)中学出身で、僧院の育ちであるが、闊達な若者であった。
 10月8日、三明にともなわれてふたたび岐阜に千代を訪ねた康成は、ちよから「結婚」の同意を得ることができた。



伊藤初代の生い立ち

 しかしここで、カフェ・エランの内情と、千代こと、伊藤初代が岐阜にいた事情を説明しておこう。

 ――1910(明治43)年の大逆事件のとき、幸徳秋水らの特別弁護人をつとめた平出(ひらいで)修というひとがいた。彼は前年、石川啄木、平野万里、木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎たちと耽美的な雑誌『スバル』を出した同人のひとりで、その出資者でもあった。明治法律学校に学び、弁護士になった人なので特別弁護人をつとめたわけだが、文学にも造詣が深かったのである。
 幸徳秋水が獄中から平出に送った陳弁書を、石川啄木が秘かに借り出して読み、大きな感動を受けた事実も、よく知られている。

 その平出修の義理の甥にあたる平出(ひらいで)実(みのる)が、吉原の娼妓であった美貌の山田ますを請け出して、ふたりで始めた店がカフェ・エランである。平出修の縁で、文壇関係者がよく顔を出したという。谷崎潤一郎や佐藤春夫も店に来た。
 ところが平出実は、たった1年で、店の女給と出奔し、山田ますは捨てられた形になった。
 しばらく店を休んだあと、山田ますは平出修や実の思想上の仲間であった百瀬二郎に励まされて、店をつづけることになった。

 康成たちが訪れたのは、このころである。

 田村嘉勝や、菊池一夫『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』(江刺文化懇話会、一九九一・二・二七)、菅野謙『川端康成と岩谷堂』(江刺文化懇話会、1972・12・28)、及び羽鳥徹哉「愛の体験・第一部」らによると、店で「千代」と皆から呼ばれた、この娘の本名は伊藤初代(戸籍名ではハツヨ)。1906(明治39)年9月16日、伊藤忠吉を父、大塚サイを母として、福島県会津若松市川原町25番地、若松第4尋常小学校(現、城西小学校)の使丁(してい)室(用務員室)で生まれた。

 最も早い時期に調査した田村嘉勝によると、若松第四尋常小学校の沿革史、1907(明治40)年3月1日の項に、「同日ニ於イテ伊藤忠吉月俸五円、同サイ月俸四円ニテ使丁ノ任命アリ」と明記されているそうである。

 のちに康成が繰り返し描いたように、1906(明治39)年、丙午(ひのえうま)の生まれである。
 忠吉とサイはまだ入籍しておらず、ハツヨは、母方の戸主、大塚源蔵長女サイの私生子として届けられた。
 用務員室で生まれたのは、サイが臨時の使丁として時々学校の仕事を手伝っていたからだという。
 父伊藤忠吉の出身地は、岩手県江刺郡岩谷堂(現、奥州市江刺町岩谷堂)字上堰14番地である。
 だが忠吉は一度、村でS家の婿に入ったが、この結婚生活に破れて家を飛び出し、北海道および仙台を経て、会津若松に来ていたのであった。
 母サイの父は前述の大塚源蔵であるが、会津若松市博労町で雑貨商をいとなんでいた。かつては鶴ヶ城に出入りする御用商人であったという。
 3年後に大塚源蔵はふたりの仲を認め、1909年8月に結婚届けが出された。サイは伊藤忠吉の籍に入り、ハツヨは嫡出子の身分を獲得したことになる。

 田村嘉勝の調査によると、若松第4尋常小学校の沿革史、1907(明治40)年3月1日の項に、「同日ニ於イテ伊藤忠吉月俸5円、同サイ月俸4円ニテ使丁ノ任命アリ」と明記されているそうである。
 使丁とは、小使、現在の用語でいえば用務員である。
 しかし不幸にもハツヨの母サイは、1915(大正4)年、病死する。サイ行年29歳、初代10歳、妹マキ3歳(いずれも数え年)であった。
 妻サイに死なれて、父忠吉は翌年、マキひとりを連れて、故郷江刺に帰った。親の農業を手伝うことにしたのである。悄然たる帰郷であった。
 残された初代は、叔母キヱ(母サイの妹)の子の子守や使い走りをしながら学校に通った。成績はよかった。(菅野謙は、首席と書いている。)
 3年生から4年生に進級するとき、学校長から表彰されることになった。その日も初代は小さな身体に小さな子をくくりつけ、受章式に出た。その姿を見て、参列した来賓や父兄が感涙にむせんだという話が残っているそうだ。
 そのころ、祖父の大塚商店の商売が行きずまり、一家を挙げて東京へ行くことになった。初代は4年の初めで学校をやめ、祖父の一家の一員として上京した。
 一方、岩谷堂に帰っていた父忠吉の方は、1916(大正5)年になって、岩谷堂小学校の使丁として採用された。昭和5年(ママ)に老齢の故をもって退職するまで、実直にその仕事をつづけたという

お詫び
 この文章において、最も早くから伊藤初代の調査をつづけてきた田村嘉勝氏の名を落としていて、田村氏ならびに読者に、たいへんご迷惑をおかけしました。
 これらの事実を述べた田村氏の論文には、次のようなものがあります。
 「川端康成の初恋の人、若松生まれの「千代」福大生、生い立ちの秘密解く」(昭50・1・28 「福島民報」)
  「『伊豆の踊子』論」(昭50・11 「言文」福島大学国語国文学会)
  「伝記的事実の信頼性について」(平4・1 「解釈」)
 上記のように訂正し、お詫び申し上げます。(森本 穫)




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