魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

個人レッスン

2013-07-24 00:35:24 | エッセイ その他さまざま
個人レッスン
吉野 光彦


 (これは私が姫路で単身生活を送りながら、或る短大に勤め、週末は家族のいる広島に帰っていたころの物語である。)

 葉子さんは、私が広島のS大学に非常勤で出講していたころの学生であった。金曜の夕方、姫路の授業を終えると、私は新幹線に乗って広島の家に帰る。そして土曜日に2コマ、S大学の授業があるのだった。
 S大学は、地方の私立大学としては大きな学校であるから、広々とした大教室に、学生は200人以上いた。これだけの数になると、日本文学だけの講義では、とても100分はもたない。彼らを引きつける何かが必要だ。

 だから毎週私は、ライブ・コンサートをひらくようなつもりで、何か1つ新鮮な話題を用意して授業にのぞむのであった。
 それが音楽――といってもクラシックではなく、ニュー・ミュージック系列のものだったり、映画だったり、恋愛の失敗談であったりしたのは、いうまでもない。

 葉子さんは3年生のとき、私の講義に出て、いつも前の方の席にいた。
 翌年、彼女はすでによい成績で単位をとったのに、またいちばん前の席に坐っていた。つまり、単位に関係なく、同じ講義をもう1度聴くというのである。
 教師にとって、こういう学生は有難い。講義に励みが出るというものだ。
 しぜん、授業が終わると、みじかい立ち話をするようになった。講師室にも、話しにくるようになった。

 私が葉子さんの役に立ったのは、1つは就職のことである。
 そのころは就職が好調であった時代なのに、葉子さんはつづけて、2つの会社の面接に落ちて、気分が沈んでいた。私はすぐアドバイスした。
 葉子さんはそのころ、牛乳瓶(びん)の底のような、度のきつい眼鏡をかけていた。色は白いのに、そして頭脳も明晰なのに、いかにも鈍重な感じを与える。
 聞いてみると、コンタクト・レンズを持っているという。それだよ、と私は言った。建前(たてまえ)はともかく、就職試験において、容姿に恵まれた女性が断然有利であることを私はよく知っていた。

 次の週、眼鏡をはずしてコンタクトをつけた葉子さんは、驚くばかりに目元の涼しい、魅力的な女子学生に変貌していた。
 書類に貼る写真もこちらにして、面接にもコンタクトをつけてゆくのだよ、と私は教えた。その効果は覿面(てきめん)だった。
 全国的に知られている会社に彼女は楽々と合格したのである。
 ほかにも私が葉子さんに教えたのは、映画と、日本画である。
 授業で私はよく映画の話をする。たいていの場合は以前に見た映画を語るのだが、葉子さんによると、私の話す映画の物語は、小説を読んでいるように面白い、という。

 喫茶店で、もっとほかの映画の話もしてください、というようになった。そして葉子さんは自分でも映画館に通うようになった。
 幸い広島にはよい名画劇場があって、そこではそのころ、ヴィスコンティ監督の「地獄に堕ちた勇者ども」を上映していた。三島由紀夫が絶讃した、あの映画である。

 あれを見ておいで、と私は言った。
 葉子さんは私の助言に従い、映画はちゃんと最初から見た。映画を途中から見てはいけない、と私は厳命したのだ。また姿勢を正して、真剣勝負のように対峙(たいじ)して見るのだ、とも私は教えた。
 それは難解な映画だったが、全体を流れる甘美な頽廃(たいはい)的雰囲気に彼女は酔った。パンをかじりながら、その映画を2回、計6時間もつづけて見たという。
 葉子さんは映画の魔力にはまった。

 日本画も教えた。西洋画に比して、近代の日本画ははるかにレベルが高い、と私は言った。ちょうどそのころ、呉(くれ)市立美術館で「近代日本画の流れ」という大規模な展覧会がひらかれていた。葉子さんひとりを連れてゆくのは、具合が悪いので、クラスメイトをひとり連れておいでと私は言って、3人で軍港の街、呉へ行った。
 見終わって喫茶店にはいると、気に入った画家がありましたかと私はふたりに訊ねた。 横山大観と菱田(ひしだ)春草がよかった、と葉子さんは言った。
 筋がいい、と私はほめた。先入観を持たず虚心で見て、大観と春草を自分の眼で見つけたのだから、大したものである。
 まもなく広島のデパートで奥田元宋の個展があった。私の最も尊敬する、日本画の最高峰である。
 その強烈な色彩と構図に葉子さんは圧倒された。すごい、すごいを連発した。
 葉子さんはひとりで山陰の足立美術館を見に行った。大観のコレクションで知られる、地方には稀(ま)れな水準の美術館である。満足して葉子さんは帰ってきた。学生の分際で、分厚い図録も買ってきた。
 これで本物である。
 みじかい間に、葉子さんは映画と日本画に熱中するようになった。
 ひとりのインテリが誕生したのである。

 平日の夜、広島の下宿から、姫路の私のアパートへ、よく電話してくるようになった。 映画や絵画の報告が主たる内容であったが、まもなく葉子さんは、姫路ヘ1泊で遊びに行きたいと言い出した。
 さすがの私も困った。相手は現役の学生である。いくら何でも、これはまずいだろう。 そこで私は彼女のために、自分でも泊まったことのない姫路の一流ホテルを予約してやった。これなら、まあよいではないか。

 姫路の駅に降り立った葉子さんを、私はまず市立美術館に連れていった。この煉瓦(れんが)造りの美しい建物は、姫路で私か最も愛好するものの1つである。この美術館が秘蔵する酒井抱一を、私は葉子さんに見せたかった。
 レストランで夕食をとると、葉子さんは、今から先生のアパートに行く、と言い張った。いや、それはまずいよ。渋る私に、「それじゃ何のために姫路へ来たか、わからないじゃないですか」と彼女は主張した。

 そこでふたりは固く約束し、私も心の錠前(じょうまえ)をしっかり下ろして、アパートに来た。6畳ひと間と台所だけの、まことに簡素な部屋である。
 へえー、こんな部屋に住んでいるんですか、と彼女は私の本棚から眼を離さなかった。
 私はコンビニで、ハーゲンダッツのアイスクリームを買ってきて、遠来の客をもてなした。

 ……3月になり、葉子さんは卒業して東京の本社へ旅立っていった。
 東京からも葉子さんはしょっちゅう電話をかけてきた。
 映画も、日本画も、東京には何でもあった。彼女は余暇と給料のすべてを2つに注ぎ込んでいるようであった。展覧会の高価な図録を送ってくれたりもした。

 しかしどちらかというと、むしろ内向的な葉子さんは、職場の雰囲気になじめないらしかった。電話で、つらい、淋しい、を連発した。
 私は彼女の住む、茫漠たる東京の街を思い浮かべた。あの海のような大都会に、22、3歳の女の子がひとりで住むことの困難を思った。
 先生に会いたい、と彼女は言った。そして今度の秋の連休に姫路へ行く、と言った。  若い女性の惰熱というものは、一途(いちず)なものである。大いにもてあました私は、困るよ、絶対。ここは狭い街なんだからね、と強(きつ)く言った。

 秋の連休の始まる前日、外で夕食をすまして陽の落ちたころアパー卜に帰ってくると、ドアの前の洗濯機のかげに、うずくまった葉子さんの姿があった。
 来ちゃったよ。ごめんね。
 コンクリートの地面に腰をおろして、ジーンズの膝をかかえたままの姿で、私を見上げながら彼女は言った。
 驚いたことに、葉子さんの大きなボストン・バッグの中には、葡萄色の、水玉模様のパジャマまで用意されているのであった。
 ……それから幾度、葉子さんは私のアパートに訪ねて来たことだろう。そのたびごとに私はなかば困惑しながら、しかし彼女を怒ることはできないのだった。

 しかしやがて電話も少しずつ間遠になり、ほどなく新しい恋人が出来て、姫路へ来ることもなくなった。
 でもね、先生――。
葉子さんは言った。先生のことが嫌いになったわけじゃないからね。もし東京に出てくることがあったら、絶対、電話してね、きっとよ。
最後の電話で葉子さんはそう言った。

  それから1年あまり経った。
秋の終わりに、東京の学会に出た私は、ためらいがちに葉子さんに電話をかけた。翌日、葉子さんの勤めが終わったあと、新宿で逢うことになった。
 黄昏どきの喫茶店に、やつれて、その分、凄惨な、美しい大人の女に変貌した葉子さんが現れた。
 そこで葉子さんがすでに、恋人と一緒に棲み始めていることを私は知った。ごめんね、と彼女は言った。
歌舞伎町の、雑居ビルの二階。居酒屋のようなところで、ふたりは食事をし、ビールを飮んだ。
店を出るとき、私は迷った。どこかへ行こうと私か言えば、葉子さんは、うん、と言うに違いない。しかし彼女の部屋には、新しい恋人が待っているはずであった。
 葉子さんが平然と、何事もなかったような顔をして部屋へ帰れるような女だったら、私は一歩踏み出していただろう。けれども葉子さんは一本気で、それを隠せるような器用な女ではなかった。
「今日は、お帰り」と私は言った。
 葉子さんはうなずいた。

 店を出て、階段の踊り場へ来たときだった。
先生――。
 と小さく叫んで、葉子さんが倒れ込んできた。私はかろうじて踏みこたえて、その場に立つたまま、肩を抱いた。
 いい子だね、そう言ってやりたい思いをこらえて、私は軽く葉子さんの髪をなでた。
 じゃあ、さようなら。
 私がそう言うと、やにわに葉子さんは身を離し、脱兎のように階段を駆け下りた。そのまま、後ろ姿がビルの出口に消えた。

 数分たって、暗い出口に降りると、木枯らしのような冷たい風が全身を襲った。
 その凍るような夜の底を、週末の新宿の、騒然たる人々の群れが動いているのであった。
 お花、いかがですか――。
 茫然としている私に、花売りの少女が声をかけてきた。


                     『文芸・日女道』423号(2003・8)

女の園

2013-07-20 00:47:13 | エッセイ その他さまざま
 女の園
吉野 光彦


 女の園、といっても、阿部知二原作の、古い映画のことではありません。

 ……大学のようなところに勤めはじめて、もう20数年になる。
 30代の前半、さる女子大にスカウトされて、いきなり専任講師になった。

 春、4月。最初の授業が、4年生のゼミナールであった。日本近代文学の卒業論文を書く学生たちである。私のことは、「気鋭の、川端文学の研究者」と学生たちに紹介してあるらしかった。

 午後からの授業である。牢獄のような暗い廊下を歩いて、その室番号のしるされた演習室の前に立った。廊下側に窓がないから、教室の気配はわからない。ただドアに小さなのぞき窓があるので、ちょっと背伸びして中をうかがうと、とりどりの服装をした妙齢の女性たちが20人ばかり、おしゃべりをしている最中であった。
 そこで小さくひとつ呼吸して、さっとドアをあけた。

 キャーッ!

 私の姿を見た彼女たちは、いっせいに、声をかぎりに叫んだ。
 悲鳴とも、矯声ともつかぬ声に、小さな演習室はつつまれた。

 それはあたかも、孤島に群れたオットセイたちが、いっせいに、海にむかって咆哮しているような光景だった。

 それはそうだろう。「気鋭の」、つまり若い、「川端の」とくれば、読んでいなくとも「雪国」の島村のような、長身で、ちょっとニヒルな男を想像していたにちがいない。

 ところが現れたのが、まるまるとした、まだ学生のような、小さな男だったのだから、叫ぶのも無理はない。

 その叫びは、落胆、絶望、悲嘆、諦念、それにほんのわずかの興味の入った、心からの叫びであったにちがいない。

 だが私は、見かけによらず、度胸がいいのである。
 ころあいを見て、しずかに声をだした。

 「君たちは、井上陽水を知っているか」
 「知ってるうー」
 と、いっせいに答えた。世に出てから数年後、陽水のひとつの絶頂期であった。

 「では、『夢の中へ』を知ってるね?」
 「知ってるうー」
 おのおの机にしがみついて、肉体的には十分に成熟した女性たちが、しかし声音だけは高校生とちっとも変わらずに、足踏みしながら叫ぶのである。

 「じゃあ、聞くが……」
 と、音調を変えて私はたずねた。

 「この曲の、詩のテーマは、わかるかい?」
 彼女たちは、しんと静まった。

 いちばん前の左端にすわっている、瞳のきらきらする女の子を指差した。
 彼女は、つらそうに、ゆっくり首を左右にふって、「わかりません」と、悔しそうにいった。

 後ろの方に、瞳の大きい、大柄ですらりとした、明らかにグループのボスと思われる女性がいた。女優にしたいような、きわだった容姿である。

 私は、先輩から教えられていた法則を無視して、彼女を指名し、
「あなたは、どうですか?  『探しもの』 つて、何のことですか」 とたずねた。

 彼女はちょっと首をかしげ、それからまっすぐ私を見据えながらいった。

 「先生は、どう解釈されるんですか?」

 互いの視線の先が火花を散らした。うーむ、できる! ここで負けたら、この学校で、私の将来はない。

 私はおもむろにいった。

 「では、ぼくの考えをいいましょう。
 陽水の作品世界は多くの場合、日常性と非日常性をテーマとしています。『夢の中へ』は、その基本的な構造がよく現れた作品といえるでしょう」

 軽快なリズムと、ふしぎなメロディーを併せもつこの作品は、初期陽水の代表作だ。ずっとのち、斎藤由貴が歌ってふたたびヒットしたように、名曲のもつ特性をすべて含んでいる。しかし、その詩は、女学生風情(ふぜい)に理解できるようなものではない。

  探しものは何ですか
  見つけにくいものですか
  カバンの中も机の中も
  探したけれど見つからないのに
  まだまだ探す気ですか
  それよりぼくと踊りませんか
  夢の中へ 夢の中へ
  行ってみたいと思いませんか  ウフッフー、ウーウ

 私はこの詩を、ていねいに読み説いてみせた。

 現代日本の中産階級の人々を覆っている意識――よい学校に入って、よい成績で出て、よい会社に就職して、よい異性と結婚して……

 つまり、いつも、よりよい生活をめざしてあくせくしている人々の心に、この曲は呼びかけているのだ。「あなたは、何を探しているのか。それよりも、さあ、夢の世界へ入ってゆこう。現実から逃れて、夢のような私の官能の世界へ入ってゆこうじゃないか」と誘っている。日常性からの脱却、官能的世界への誘惑、それがこの曲のテーマです。

 陽水は、日本社会の構造をよく知っている。この曲の2番にある「探すのをやめたとき/見つかることもよくある話で」は、まことに鋭い観察である。じつは私たちのほんとうの幸福は、意外なところに、すぐ足もとにころがっているのに(あの、「青い鳥」のチルチルとミチルの物語のように)人々はそれに気づかない。

 まあ、そんな意味のことを、時折わざとむずかしい研究用語をもちいて解釈してみせたのである。

 ……教室の空気が変わったことに私は気づいていた。この先生、見かけによらず、やるじゃない、といった感じである。そこで私はいった。

 「川端康成を勉強してくると、こういう詩が、しぜんにわかるようになる。逆にいうと、こういう詩を理解できないようでは、川端文学はわからない。それにしても、陽水のコンサートはいいね」

 「先生、コンサートに行ったことがあるんですか?」

 「もちろん。近くに来たときは、かならず行くよ」

 そして私は、はじめて陽水のコンサートに行ったとき、どのように苦心して前から3番めの理想的な席のチケットを手に入れたかを話してみせた。それから陽水のコンサートの模様を、実況放送のように熱く語った。

 その日から、私は学生たちのアイドルになった。学内のどこかを歩いていると、「吉野せんせーい!」と、見知らぬ学生から声をかけられるようになった。

 「先生、ゼミ・コンパ、しましょう。先生の歓迎コンパよ」
 数人の学生が私の研究室のドアをノックして、そう切り出したのは、翌週の月曜日であった。

 数名の学生のうしろに、女優のような、例の学生が立って、こちらを凝視していた。彼女は実際、広島市内のアマチュア劇団で活躍する、かなりの有名人であることが、まもなく判明した。

 週末の夕暮れ、指定されたデパート前に行けば、彼女たちが手をひくように連れていってくれたのは、広島の繁華街、流川(ながれかわ)である。

 酒場といえば、私は居酒屋かバーか、スナックのような、つまり、むさくるしい貧乏な男たちが出入りするようなところしか知らない。
 団体で、店の一部を借り切って、そこでパーティーをする、などということから、これまで無縁の世界に住んできた。

 学生たちはよく飲み、かつ喰らう。マイクの前で平気で歌う。梓(あずさ)みちよの「乃木坂あたりで……」という曲や、清水健太郎の「失恋レストラン」が流行している時代であった。

 私はなかば茫然と、彼女たちの振る舞いを見て、勧められるままに飲み、食べるだけである。彼らはまた、いろいろな店をよく知っているのであった。
 かくて私は、若者たちの集う飲み屋さん、ディスコ、ロック・コンサートなど、新しい大衆文化の先端を、彼女たちから学んでいった。どっちが先生だかわからない。

 現代の大学を象徴するのが、ゼミナールであろう。
 私の場合は、専攻が近代文学だから所属学生が多いので、演習室で行うのが常であったが、少人数のゼミでは、教師の研究室で行うことがある。
 週に1コマのその時間になると、学生たちが茶菓を持ち込み、勝手に湯をわかし、珈琲やら紅茶やら、てんでに入れてくる。教師は人形のようにじっとしていて、必要な時だけ、口をひらけばいいのである。

 女子学生たちは、すでに中年女性のごとく、世話をやくのが好きであり、かつ上手である。彼女たちに取り巻かれたら、むかしの王侯貴族のように、じっと動かず、なされるがままに身をまかせているのが、尊敬される生き方である。
 かくて教師は腑抜けになり、身の回りのことはすべて他人まかせが当たり前、という異形の人格が形成されてゆく。

 ……その学校に、私より何年かあとに、40前後の、英文学の教師が転じてきた。工業大学(つまり男子学生ばかりの学校)に勤めていたということで、19世紀英国の、あまりパッとしない小詩人を専攻している彼は、この世の中に、面白いことなぞあるものか、というような陰鬱きわまりない表情をして、私の隣の研究室に入った。

 4階の研究室の窓から飛び降りるのではないかと心配したくなるほど、世界中の苦悩をひとりで背負っているような、暗澹(あんたん)たる顔つきをしていて、その顔を見るだけでこちらも憂鬱になるような男であった。

 当然ながら、彼の専攻からしても、ゼミの学生は数えるほどである。
 しかしやがて、彼の研究室で行われる小さなゼミナールの、学生たちの笑い声が壁越しに聞こえてくるようになった。

  1年後、彼の表情は生き生きとしてきた。顔を合わせると「おはようございまーす!」と、明るい表情で声をかけてくるようになった。
 さらにもう1年が過ぎて、3月の卒業式の日の夕べ、謝恩会の会場となったホテルに、彼が赤い蝶ネクタイをつけて現れたときには、同僚も学生たちも、一同ことばを失った。

 「俺たちは、芸能人じゃあないんだから」という言葉も浮かんだが、驚きを通り越して、人間の不思議に私は胸をつかれた。なるほど、人生は、生きてみなければわからない、と私は思った。

 ……あとにも先にも、あれほど大勢の女性たちにもてはやされたことはない。

 それは私の、黄金の30代の数年間の出来事であった。


『文芸・日女道』380号(2000、1)