
この写真はいいでしょう。本願寺派の寺院と大谷派の寺院との間にある小道、向こうから鐘楼が覗いています。この道が吉崎御坊跡に続きます。僕は前回も言いましたが本願寺派と大谷派を分け隔てることを良しとせず(笑)、この道を通り過ぎ、大谷派の吉崎別院の階段を上がったのでした。


京都の両本願寺といい、この吉崎別院といい、本願寺派と大谷派は見事にその規模・たたずまいが鏡を見るように二分されています。僕は浄土真宗が東西に二分されているのは、信長の苛烈な石山本願寺攻めによる徹底抵抗派と投降派の分岐に始まるとずっと思っていました。しかし、どうも違うんですね。本願寺の跡目争いに付け込んで、本願寺の勢力を弱めるために家康がもう一人の相続人のため東本願寺を作らせた、あるいは作ることを許可したのがどうも実相らしいです。俗世の権力から宗教人の矜持・信徒を守り切るドラスティックなものと思っていただけに、ちょっと肩すかしを受けたような気がしました。
脱線ついでにもう一つ。自宅近くに「定専坊」というお寺があります。毎月1日、このお寺からおまいりをいただいています。石山本願寺がおちたときにこの定専坊に梵鐘が運ばれました。大晦日に信徒ならずとも近隣の人が百八つの鐘をつきに来ます。ひびが入っているのか鐘の音は「グワ~ン」と濁音なのです。さらにもう一つ、このお寺には楠木正成の孫の「正勝」が隠棲していたらしく、お墓があります。興味を持たれましたら、信徒である(笑)私がご案内します。

閑話休題。大谷派の吉崎別院の境内をぬけて、御坊跡に向かいました。その途中にあるのが大谷派願慶寺、本願寺派吉崎寺とそれぞれに「嫁脅し肉附き面」があります。ここでもお互いに向こうをはっているのですかね。

御坊跡、どのようなところか、またそこから、どのような眺望が開けているのかワクワク感をもってこの階段を上がって行きました。2018.6.4
それにしてもこんなに有名な場所を全く知らなかった己を恥じながら代参して頂いた気分でいます(涙)