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2017年2月からこのブログを始めました

沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑨ 3月26日辺野古へ

2024-04-12 21:37:07 | 日記
10時45分、沖縄工業高専前のバス停に降りました。事前に座り込み闘争に参加するために、どこに行けばいいのか、名護からではどのバスに乗ればいいのか、等をオール沖縄会議に電話し聞いていました。


「辺野古新基地反対闘争」は一カ所だけではありません。土石を搬入するダンプカー阻止の座り込み、カヌーを使って海上からの抗議行動などがあって、集合場所が異なります。私たちはキャンプシュワブゲート前のテント村に向かっていたのでした。


沖縄工業高専前のバス停から歩いて約5分、ゲート前のテント村に着きました。テントと言っても生地張りのテントでなく、雨を凌ぐ板張り屋根の休憩所といった風です。そこに10名ほどの人がいて、前に立つ人のスピーチを聞いているところでした。


テント内に入ると、「どこから来られました?」と聞かれ「大阪からです」と答えると、「ごあいさつをお願いします」とたのまれてしまいました。座る間もありません(*^-゚)

マイクを持って
「大阪から来ましたがわたしはウチナー2世です。母は100年ほど前、13~14歳ぐらいで働くために船で大阪にやって来ました。母がたどった逆コースになりますが、私たちは船で沖縄にやって来ました」と冒頭の言葉を述べたとき、
何人もの方から「へー」と感心された反応が返ってきました。

わたしのスピーチがおわって、席に着こうとすると育子さんにもマイクが手渡されました。唐突なことで育子さんも困ったろうと思ってみていますと、そこは上新庄スタンディングで鍛えたスピーチ力?でそつなくあいさつを済ませました。(^▽^)


席に着きますと隣にすわっていた金城さんという年配の男性から
「うちなーぐち(沖縄弁)はできるのですか」と聞かれました。ウチナー2世と言ったからでしょうか、これが恥ずかしくって、収まりどころがない見栄をきってしまったものです。

11時30分、みんなは土石を積んだダンプカーの搬入口・ゲートへ移動はじめました。




12時からダンプカーがゲート内に入ります。それを阻止するゲート前座り込み闘争です。ゲートはこのテント村から北へ1㎞ぐらい先にあり、キャンプシュワブ基地の西側を走っている道を歩きます。道は500メートルぐらいの下り坂のあと、今度は500メートルぐらいの上り坂です。これは年寄りにはきつい。

ようやく現場に着きました。ゲートに整然と並ぶ無言の警備員に迎えられました。

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鹿児島出身の先輩からのコメント

2024-04-11 11:32:12 | 日記
わたし自身も不思議に思っていた「鹿児島駅」の寂れようについて、答えをいただいたかっこうになりました。以下、先輩のコメントを紹介します。
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鹿児島駅は私がいた頃は本当に賑わっていました。今は貨物駅のようになっていますよね。中学校を卒業した仲間が集団就職で関西や名古屋辺りに向かう出発駅でした。石炭の煙で煤けた列車にぎゅうぎゅう詰めで乗車する不安だらけの仲間を見送りました。だから、涙の伴う駅でした。その反対が鹿児島中央駅です。以前は鹿児島西駅と言ってました。鹿児島駅から熊本方面に向かう鹿児島本線の次の駅で指宿枕崎線の乗り換えくらいの寂しい駅でしたけど、九州新幹線の終着駅になって一気に変わってきました。その前から次第に世代交代が進んでいましたけどね。

まぁ数年前に見た鹿児島中央駅は、新幹線がドーンと駅舎の上に乗っかる感じで出来ていたのにはびっくりしましたけどね。在来線と交差するようになっていましたからね~
美味しそうな鹿児島ラーメンでシメられたのは良かったです。続編もまだまだ続きそうですので楽しみです。











井沢八郎「ああ、上野駅」を思い出しました。(働きに出かける人から言えば鹿児島駅は始発駅、上野駅は終着駅と違いはありますが)

「父ちゃん 僕がいなくなったんで母ちゃんの畑仕事も大変だろうな。
今度の休みには必ず帰るから、
そのときは父ちゃんの肩も母ちゃんの肩も、
もういやだっていうまで叩いてやるぞ、
それまで元気で待っていてくれよな」                  
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沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑧ 3月25日 今帰仁城へ、名護へ

2024-04-06 16:59:37 | 日記
沖縄での上陸を那覇でなく、本部にしたのは目的の2つ目に「辺野古新基地反対座り込み」参加があり、宿泊地を名護にし、路線バスで辺野古に向かうというものです。

25日の朝、辺野古バスターミナルに行き、そこからバスを乗り継いで辺野古に行く。これが当初の予定でした。しかし、予定を変更しました。本部港から世界遺産の景勝地「今帰仁城(ナキジングスク)」が近いので、グスクを見学したい、併せて本部半島をバスで一周したい。という思いが勝ちました。


午前9時過ぎのバスに乗り今帰仁城入り口へ。降りる前にバスの運転手さんに聞くとバス停からから1㎞ぐらい歩くとグスクに着く、と。1㎞ぐらいか、と高を括って歩き始めました。なんのなんのずっと坂道です。青息吐息、途中2回ほども休憩したでしょうか。しんどかったけどこの2回の休憩も乙なものでした。南国特有の樹林に目をやり、小鳥の囀りに耳をそばだて、なんとも心地がいいのです。








1㎞ぐらいの道のりを30分以上もかけてグスクの入り口にたどり着きました。想像以上に広大です。グスク見学は無料だと思っていたのですがグスク内に入るには資料館見学込みですが入場料がかかりました。一人600円でしたかね。






グスク内には建物は一切なく石組みを残すのみです。それでも、丘の上に築かれたこのグスクからの眺めは本部半島を見通せるのではないかと思うほど360度遮るものがない景観を楽しめます。エメラルドクリーンの海原、本州の緑より濃い樹林群、古代の沖縄の風が爽やかに流れています。
https://1drv.ms/v/s%21Ao2WPeMKzJdJgdMzgOZHNcyH4KTcUQ?e=Nr8CQk(動画です。クリックしてください)

広大な石積みグスクでしたが、ヤマトの城のような銃座がありません。これは28日に訪れた首里城もそうです。グスクは戦の城ではなく薩摩や中国の使節を遇する迎賓館のようなものでなかったか、と想像しました。






資料館での見学のあと、昼食を摂りました。わたしはソーキそば、つれあいはジーマーミ豆腐の入った沖縄そば、店の外のテーブル席でおいしく食べました。


帰りは下り坂です。老人二人がゆっくり歩いたつもりでも15分ぐらいでバス停に着きました。バス停で東京から来たという高校生と一緒になりました。彼は家族で沖縄に来たものの行きたいところがそれぞれあり、一人ここに来たと言っていました。ナップサックのようなものは持っていたか、ほぼ手ぶらです。私どもは一週間分の衣服や雨具をリュックに詰めたいかにも旅行者、若者の気楽さと老人の慎重さの差異でしょうか。

バスに乗って彼は名護の十字路というバス停で降りて、私たちは終点のバスターミナルまで行きました。もう午後3時は回っていたのでホテルに向かいました。ホテルは「ユガフイン モトブ」です。ここも宿泊費が少々高いのですが、次の日に辺野古に行くにあたって、このターミナルから至近距離にあり決めたホテルでした。

至近距離にありながら道に迷いました。わたしのスマホのカバーはブック型で磁石が留め具です。そのため、Google Mapが示す方向は正確ではありません。分かっていながら地図を読み間違えていました。随分回り道をしたようです。その時小さな子どもとそのお父さんが家の前に立っていました。
「ユガフインホテルはどっちの方へ行けばいいですか」と聞きますと、
「送ってあげましょう」と車でホテル前まで送ってくれたのでした。この親切さに喜びましたが、このようなことは今回の旅行で何回も経験したことでした。ウチナーンチュは優しい。


ホテルにチェックインし、部屋で荷物を下ろし、名護の夕日を見に浜辺に出ました。山城博治さんが捕まっていた警察裏の海岸で見た夕日に比べ、空は薄曇りですが気分はずっと今日の方がいい。明日はいよいよ辺野古に行きます。


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沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑦ 沖縄・本部の地を踏む

2024-04-05 19:19:28 | 日記
いつこのことを書こうかと思いながら船旅の最後に記すことなりました。このフェリーに自衛官の団体が乗っていたのです。

ヘビースモーカーのわたしは頻繁に喫煙室を利用していました。そこで迷彩服の人たちと出会ったのです。最初は自衛官と意識しないで、趣味の悪い服を着ている若者だなあ、と思っていたのですが、そのような服を着ている人と廊下でよくすれ違うのであれっと思っていたのでした。




フェリーロビーでは「本部」と張り紙が掲示されていて、最初それを見たとき、沖縄の「もとぶ」のことだと思っていました。あとで分かりました。自衛官たちの本部だったのです。24日朝でも「自衛官の皆様、食事の用意ができましたのでレストランにお越しください」と船内放送が入っていました。一般乗客と乗り合わせるのにあの迷彩服着用はなんとかなりませんかね。市民に慣れさせるのが目的でしょうか。穏やかな旅路、平和な気分を削ぐものです。

与論島を出て1時間もしないうちに島影が見えてきました。


沖縄本島の北端でしょう。旅のひとつの目的を達しようとしています。午後5時過ぎ、フェリーは本島北西部と伊江島の間を通り本部港に着岸しようとしています。「船でやって来た」という感慨となんだかあっけない気持ちがない交ぜになっています。

https://1drv.ms/v/s%21Ao2WPeMKzJdJgdMoD7rYa6kxNdLgcw?e=PI3RTw(動画です。クリックしてください)

この日の宿泊は本部港に近い「マリアナ リゾート モトブ」というホテルです。予約は船内からとりました。鹿児島からの出航も天候次第、出航しても予定日に着く確実性がないことから最終日の24日に予約をしました。最初はロビーの案内所で「本部で安くって快適なホテルはありませんか」と尋ねたのですが「私たちは本部で下船したことがなくわかりかねます」と言われました。下船したことがない、ヘーッ、そんなもんかと乗務員さんの勤務内容を知ることになりました。それでスマホを使って予約をしたのです。ロビーではwi-fiがつかえます。

沖縄・本部の地を踏みました。本土と沖縄を結ぶ本部港、本部港は閑散としています。乗船ロビーも出口は開いていても入り口はしまっています。食堂がない、土産屋もない、何にもない。




裏道を通って国道に出ました。道を間違えながらホテルに着きました。鹿児島のホテルが6200円、この日のホテルは13500円。




リッチですが足を伸ばせるお風呂に入りましょう。手足を伸ばせるベッドで寝ましょう。しかし問題は夕食です。ホテルの人に聞いた食事処は電話しても満席で断られました。ホテルと港の間を走る国道際にローソンがありました。ホテルはリッチで食事はコンビニ弁当か、と思ってコンビニに入りますとここは沖縄、なんと郷土料理コンビニ版が豊富においてあります。トラック運転手さんの需要があるのでしょう。私たちは沖縄そばとゴーヤチャンプルのどんぶりを買ってホテルで食べました。


窓の外は東シナ海に沈もうとする夕日。至福の時です。



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沖縄旅行 2024年3月22日~29日⑥ 「鹿児島航路23日~24日」後半

2024-04-04 18:08:25 | 日記
徳之島を意識させるのは二人の人物です。一人はわたしの高校時代からの友人です。わたしは高校1年の二学期から山岳部に入部しました。入部を誘ったのがその友人で、彼は中学生時代から山登りをしていて、高校生で既にひげもじゃで、その風貌と相まって、押しも押されぬ山男でした。当然2年生で山岳部の部長になり私たちヘタレを山登りに誘導してくれたのでした。わたしにとって山岳部に入部してなかったら、無味乾燥な高校時代を送ったでしょう。

彼はわたしの社会観にも大きな影響を与え、今もそのような関係が続いています。そして彼の人間性確立に欠かせなかったお母さん、お母さんの出身地が徳之島なのです。

もう一人は、全日建連帯労組関西生コン支部の委員長だった武 建一さんです。全港湾もそうですが関西生コンも組合運動の最前線は右翼・暴力団との対峙がよくよくあります。もう随分と前になりますが、武 建一委員長も暴力団に拉致されて、一升の酒を口の中にねじ込まれ三日三晩、車のトランクの中に閉じ込められていたという事件がありました。しかし武 建一さんはそれに屈せず関西生コンを大阪にとどろく労働組合へと成長させました。

その武さんと1995年8月、日中労働者交流協会訪中団としてご一緒しました。10日間の訪中旅行でしたが、重慶での表敬訪問を終えてホテルでくつろいでいたとき、武さんにこんなことを聞いたのです。
「武さんのその不屈の精神はどこからきたのですか」実に不遜な質問でしたが武さんは、わたしの顔を見て「わたしは徳之島の生まれ、育ちです。徳之島は薩摩、琉球の二重支配を受けていました。『こんちくしょう』という抵抗精神の島なんです」と言われました。

わたしは武さんの言葉に納得しつつ、徳之島のおかれた歴史状況を知ることになりました。沖縄・琉球を受難だけで語ることなかれ、と言われているようで次の言葉が出てきませんでした。



https://1drv.ms/v/s%21Ao2WPeMKzJdJgdMmRJ4pv7W_qamhxQ?e=mOGgd6(動画です、クリックしてください)
3月24日午前9時13分、フェリーはゆっくりと徳之島・亀徳港に入港しようとしています。空を雲が覆っていて日差しはないものの景色が明るい、南国です。風はやや温かく、やさしい。ここが徳之島かと深呼吸しました。フェリーが着岸後、しばらくしてから結構大勢の人が降りていきます。その中になんのスポーツか交流試合でもするのか、桟橋ではトレーニングウエアを着た子どもたちが横断幕を掲げています。






このように書いていたらいつ沖縄に着くのやら(笑)先を急ぎます。

午前11時52分、沖永良部・和泊港に近づいています。徳之島も沖永良部もこれから向かう与論島も海から眺めると大海に浮かべた浮き輪のように見えます。珊瑚礁が隆起してできた島だからでしょうか。そうすると心配になってくるのが「水」です。高い山もなく雨水を蓄えてくれる山林が乏しい中で、どうしているんだろうか、ということです。琉球弧は台風銀座でもあります。また、亜熱帯に属する気候帯、それで水量はまかなえているのでしょうか。




沖永良部出身の友人に泰山さんがいます。1989年教育合同結成、全労協結成によって知った組合活動家です。争議あるところに泰山あり、といわれた人で全国金属のオルグ山原さんとの対比で「戦時の泰山、平時の山原」とも言われていました(笑)山原さんは全労協結成とほぼ同時に「ゼネラルユニオン」という主に英会話学校など外国人労働者の組合を結成されました。口八丁手八丁、博識な人でゼネラルユニオンの活動を軌道にのせ、外国人に委員長の座をバトンし、2年前に亡くなられました。佳人薄命、です。


午後3時、与論島が見えてきました。「与論島、南の風、風力3、995mb」と天気図作成でよく耳にする島の名前ですが、「これが与論島か」と感慨しきりです。このフェリーは今までに4島に寄港してきましたが、それは客の需要だけでなく、物流の大きな役割を果たしていることがよくわかりました。積み下ろしのコンテナの量がすごいのです。港湾労働者のみなさんの動きは機敏ですがそれでも時間がかかります。沖縄到着は予定時刻を大幅に送れました。しかし、わたしは納得です。

さあ、沖縄まであと2時間。


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