10時45分、沖縄工業高専前のバス停に降りました。事前に座り込み闘争に参加するために、どこに行けばいいのか、名護からではどのバスに乗ればいいのか、等をオール沖縄会議に電話し聞いていました。

「辺野古新基地反対闘争」は一カ所だけではありません。土石を搬入するダンプカー阻止の座り込み、カヌーを使って海上からの抗議行動などがあって、集合場所が異なります。私たちはキャンプシュワブゲート前のテント村に向かっていたのでした。

沖縄工業高専前のバス停から歩いて約5分、ゲート前のテント村に着きました。テントと言っても生地張りのテントでなく、雨を凌ぐ板張り屋根の休憩所といった風です。そこに10名ほどの人がいて、前に立つ人のスピーチを聞いているところでした。

テント内に入ると、「どこから来られました?」と聞かれ「大阪からです」と答えると、「ごあいさつをお願いします」とたのまれてしまいました。座る間もありません(*^-゚)
マイクを持って
「大阪から来ましたがわたしはウチナー2世です。母は100年ほど前、13~14歳ぐらいで働くために船で大阪にやって来ました。母がたどった逆コースになりますが、私たちは船で沖縄にやって来ました」と冒頭の言葉を述べたとき、
何人もの方から「へー」と感心された反応が返ってきました。
わたしのスピーチがおわって、席に着こうとすると育子さんにもマイクが手渡されました。唐突なことで育子さんも困ったろうと思ってみていますと、そこは上新庄スタンディングで鍛えたスピーチ力?でそつなくあいさつを済ませました。(^▽^)

席に着きますと隣にすわっていた金城さんという年配の男性から
「うちなーぐち(沖縄弁)はできるのですか」と聞かれました。ウチナー2世と言ったからでしょうか、これが恥ずかしくって、収まりどころがない見栄をきってしまったものです。
11時30分、みんなは土石を積んだダンプカーの搬入口・ゲートへ移動はじめました。


12時からダンプカーがゲート内に入ります。それを阻止するゲート前座り込み闘争です。ゲートはこのテント村から北へ1㎞ぐらい先にあり、キャンプシュワブ基地の西側を走っている道を歩きます。道は500メートルぐらいの下り坂のあと、今度は500メートルぐらいの上り坂です。これは年寄りにはきつい。
ようやく現場に着きました。ゲートに整然と並ぶ無言の警備員に迎えられました。


「辺野古新基地反対闘争」は一カ所だけではありません。土石を搬入するダンプカー阻止の座り込み、カヌーを使って海上からの抗議行動などがあって、集合場所が異なります。私たちはキャンプシュワブゲート前のテント村に向かっていたのでした。

沖縄工業高専前のバス停から歩いて約5分、ゲート前のテント村に着きました。テントと言っても生地張りのテントでなく、雨を凌ぐ板張り屋根の休憩所といった風です。そこに10名ほどの人がいて、前に立つ人のスピーチを聞いているところでした。

テント内に入ると、「どこから来られました?」と聞かれ「大阪からです」と答えると、「ごあいさつをお願いします」とたのまれてしまいました。座る間もありません(*^-゚)
マイクを持って
「大阪から来ましたがわたしはウチナー2世です。母は100年ほど前、13~14歳ぐらいで働くために船で大阪にやって来ました。母がたどった逆コースになりますが、私たちは船で沖縄にやって来ました」と冒頭の言葉を述べたとき、
何人もの方から「へー」と感心された反応が返ってきました。
わたしのスピーチがおわって、席に着こうとすると育子さんにもマイクが手渡されました。唐突なことで育子さんも困ったろうと思ってみていますと、そこは上新庄スタンディングで鍛えたスピーチ力?でそつなくあいさつを済ませました。(^▽^)

席に着きますと隣にすわっていた金城さんという年配の男性から
「うちなーぐち(沖縄弁)はできるのですか」と聞かれました。ウチナー2世と言ったからでしょうか、これが恥ずかしくって、収まりどころがない見栄をきってしまったものです。
11時30分、みんなは土石を積んだダンプカーの搬入口・ゲートへ移動はじめました。


12時からダンプカーがゲート内に入ります。それを阻止するゲート前座り込み闘争です。ゲートはこのテント村から北へ1㎞ぐらい先にあり、キャンプシュワブ基地の西側を走っている道を歩きます。道は500メートルぐらいの下り坂のあと、今度は500メートルぐらいの上り坂です。これは年寄りにはきつい。
ようやく現場に着きました。ゲートに整然と並ぶ無言の警備員に迎えられました。
